第二次世界大戦
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第二次世界大戦 | |
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戦争:第二次世界大戦 | |
年月日:1939年9月1日から1945年9月2日 | |
場所:主にヨーロッパ・アジア太平洋 | |
結果:連合国の勝利 | |
交戦勢力 | |
連合国 イギリス 中華民国 アメリカ合衆国 オーストラリア ニュージーランド カナダ オランダ フランス ソビエト連邦 など |
枢軸国 ドイツ 日本 イタリア王国 フィンランド ハンガリー王国 ルーマニア王国 ブルガリア王国 タイ王国 満州国 など |
指揮官 | |
ヨシフ・スターリン フランクリン・D・ルーズベルト ウィンストン・チャーチル 蒋介石 シャルル・ド・ゴール |
アドルフ・ヒトラー 東条英機 ベニート・ムッソリーニ ホルティ・ミクローシュ イオン・アントネスク ピブン |
損害 | |
死者 軍人1700万人 民間人3300万人 (諸説あり) |
死者 軍人800万人 民間人400万人 (諸説あり) |
第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん World War II)は、1939年から1945年にかけて連合国と枢軸国の二つの陣営で行われた人類史上二度目の世界大戦。主な戦場はヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線の二つ。両陣営合わせて、数千万人の死者を出す人類史上最大の戦争となった。戦争は連合国の勝利で終わった。第二次大戦ともいい、今日の日本では単に「戦後」といった場合、第二次世界大戦(太平洋戦争)より後を指すことが多い。
目次 |
[編集] 概要
大日本帝国、ナチス・ドイツ、イタリア王国などによって構成される枢軸国と、イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国などが構成する連合国の間の世界規模の戦争。ヨーロッパでは、1939年9月1日早朝(CEST)、ナチスドイツのポーランド侵攻、及びイギリス・フランスがドイツのこの行為に対して宣戦布告したことより始まった。アジアおよび太平洋では1937年7月7日の蘆溝橋事件から日中間が戦争状態になっていたが、1941年12月8日(JST)に日本が当時アメリカの自治領であったハワイの真珠湾を攻撃したこと並びにイギリス領マレーのコタ・バルに対する上陸作戦により日本とアメリカ合衆国が参戦した。
初期は枢軸国側が優勢に駒を進め、ドイツ軍が一時的にヨーロッパ大陸諸国を占領。1940年6月にはパリを占領、フランスを降伏させた。1941年に独ソ不可侵条約を一方的に破棄、ウクライナなどに侵入し、独ソ戦が始まった。日本は当初、阿部信行内閣において、ドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとし大戦への不介入方針を掲げたが、阿部内閣総辞職後、松岡洋右らの親独派が中心となって日独伊三国軍事同盟を結んだことによって完全に枢軸国側に立つことになった。つづいて日ソ中立条約によってソ連も含めた四国同盟を模索したが、独ソ戦の開始によってその構想は画餅に帰し、ソ連は連合国側に立って参戦することとなった。1941年12月に、日本がアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争が勃発。1942年中盤までは、欧州・太平洋両戦線共に枢軸国が有利であったが、以降は連合国側が優勢に転じ、1943年1月にスターリングラードでドイツ第6軍が降伏し、9月にアメリカ・イギリスの連合軍が北アフリカに上陸したことでイタリアが降伏。1945年5月にアメリカ・ソ連・イギリス軍のベルリン占領などによりドイツが降伏。同年8月には日本の長崎・広島にアメリカによって原子爆弾が投下され、更にはヤルタ会談に基づき、ソ連が日ソ中立条約を破棄・参戦したことで日本が降伏。日本の降伏をもって第二次世界大戦は終結した。
[編集] 参戦国
枢軸国の中核となったのはナチス・ドイツ、大日本帝国、イタリア王国の3か国、連合国の中核となったのはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国の5か国である。大戦末期には当時世界に存在した国家の大部分が連合国側に立って参戦した。詳細は第二次世界大戦の参戦国を参照のこと。
[編集] 背景
詳細は第二次世界大戦の背景を参照
[編集] ヴェルサイユ体制と世界恐慌
ヨーロッパでは、1919年に第一次世界大戦のドイツに関する講和条約であるヴェルサイユ条約が締結され、ヴェルサイユ体制が成立した。ドイツやオーストリアは講和条約において領土の一部を喪失し、その領域は民族自決主義のもとで誕生したポーランド、チェコスロヴァキア、リトアニアなどの領土に組み込まれた。しかしこれらの領域には多数のドイツ系住民が居住しており、少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民の処遇の問題は新たな民族紛争の火種となる可能性を持っていた。また、ドイツはヴェルサイユ条約において巨額の戦争賠償を課せられた。1922年フランスが賠償金支払いを要求してルール占領を強行したことにより、ドイツでは社会不安が引き起こされ、ハイパーインフレーションが発生した。
アメリカ合衆国は、1920年代にはイギリスに代わって世界最大の工業国としての地位を確立し、第一次世界大戦後の好景気を謳歌していた。しかし1929年、アメリカ経済は生産過剰に陥り、それに先立つ農業不況の慢性化や合理化による雇用抑制と複合して株価が大暴落、ヨーロッパに飛び火して世界恐慌へと発展した。世界恐慌に対する対応として、英仏両国はブロック経済体制を築き、アメリカはニューディール政策を打ち出してこれを乗り越えようとした。しかし、広大な植民地市場や豊富な資源を持たないドイツやイタリアではこのような解決策を取ることはできなかった。両国の国民は絶望感と被害者意識をつのらせ、ファシズム、ナチズムの運動が勢力を得る下地が形作られた[1]。
[編集] ファシズムの台頭
ファシズムの政治体制が最初に形成されたのはイタリアにおいてである。イタリアでは第一次世界大戦直後に経済が悪化し政情不安に陥っていたが、1922年、ファシスト党を率いるベニート・ムッソリーニがローマ進軍を行い、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の協力もあって権力を獲得した。世界恐慌の苦境に際しては、ムッソリーニは1935年のエチオピア侵略に打開策を求め、それが元となってイタリアは1937年に国際連盟を脱退した。
ドイツでは1933年、ヴェルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握した。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服した。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはヴェルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはヴェルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させた。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結んだ。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆく。
日本は米英との協調外交を指向していたが、満洲および内モンゴルの支配権を巡り次第に対立するようになる。日本は昭和金融恐慌以後の苦境からの脱出を図り、円ブロックを形成・拡大するために大陸進出を推進しようとした。1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟を脱退した。満州事変後、中国と日本とは一旦は停戦協定を結ぶものの、1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争が勃発した。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていった。
[編集] 宥和政策とポーランド問題
英仏では、ナチス・ドイツの軍備拡張政策に対して、第一次世界大戦で受けた膨大な損害の反動から国民は平和の継続を求め、また圧力を強めつつあった共産主義およびソビエト連邦にドイツが対抗することを期待して、宥和政策を取ることに終始していた。ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求した。1938年3月、手始めにドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合した。
次いでヒトラーは、チェコスロヴァキアのズデーテン地方に狙いを定めた。英仏との間ではヒトラーによる強引ともいえる要求と、戦争を避けようとする宥和政策との間で駆け引きが続けられた。1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネヴィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協した。チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とした。
しかしヒトラーの要求はこれにとどまらず、1938年10月にはヴェルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に手をつけた。英仏にとってミュンヘン会談が妥協の限界であり、ヒトラーにとってはミュンヘン会談での成功は更なる要求への一歩でしかなかった。ミュンヘン会談の合意を反故にされた英仏はここに至り、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになる。1939年、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、反共のナチス・ドイツとは相容れないであろうソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結した。ポーランド回廊に関する要求を頑として拒否し続けるポーランド政府に対して、ヒトラーは武力による問題解決を決断、1939年9月1日、ドイツ軍へポーランドへの進攻を指示した。9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告、ここに第二次世界大戦が勃発した[2]。
[編集] 経過(欧州・北アフリカ)
欧州・北アフリカにおける大戦の経緯は、1939年にドイツがポーランドへ侵攻したことにはじまる。1940年にはドイツが北欧侵攻や日独伊三国軍事同盟で勢いが増していき、1941年には日本とアメリカが参戦してドイツの戦況に影響を与えた。1942年にはドイツやイタリアの枢軸国の勢いが徐々に収まっていき、1943年には連合国が優勢になり、ヨーロッパの枢軸国が衰退した。1944年には連合国の勢いが更に増し、1945年には追い込まれたヒトラーが自殺し、ヨーロッパの枢軸国が次々と降伏して欧州・北アフリカにおける戦争は終結した。
[編集] 1939年
9月1日の早朝に、ドイツ陸軍の戦車と機械化部隊、戦闘機、急降下爆撃機などを主体とする機動部隊約150万人と5個軍によるポーランドに対する侵攻(ポーランド侵攻)が行われ[3]、これを受けてイギリスとフランスは、2週間前に結んだポーランドとの相互援助条約に基づき9月3日にドイツに宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することとなった。
これに先立つ8月23日にドイツとソビエト連邦は独ソ不可侵条約を結んでおり、この際の密約に基づいて9月17日にはソビエト連邦軍もポーランドを東方から侵攻したが、ポーランドとの相互援助条約が存在するにもかかわらず、ソビエト連邦によるポーランド侵攻に対してフランスとイギリスは宣戦布告には至っていない。これに味をしめたソビエト連邦は続いてポーランドと同じく隣国になるフィンランドに侵略を開始した(冬戦争)。この行為により、ソビエト連邦は国際連盟から除名処分となる。
総兵力こそ100万を超えるものの、戦争の準備が全くできておらず、近代的な軍備にも乏しく小型戦車と騎兵隊を中心としたポーランド陸軍は、ドイツの急降下爆撃機と戦車部隊の連携による電撃戦により殲滅された。国際連盟管理下の自由都市であるダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦のシュレースヴィッヒ・ホルシュタインによる砲撃と陸軍の奇襲で陥落し、開戦から1か月にも満たない9月27日には首都ワルシャワも陥落。ポーランド政府はフランスのパリに亡命した。また、ドイツ軍のポーランド侵攻直後から、ドイツ軍の占領地域に在住するユダヤ人のゲットーへの強制収容が始まった。 同様にソ連軍によるポーランドの占領地域でもカティンの森事件で25,000人のポーランド人が殺害されたのを始め、1939年から1941年にかけて180万人ものポーランド市民が殺害されるか国外追放された。
フランスとイギリスはドイツに宣戦布告したものの、その軍隊をポーランド方面に進めることはせず、この年の間、西部戦線に大きな戦闘はおこらなかったこと(まやかし戦争)もあり、イギリス国民の間には、「クリスマスまでには停戦だろう」と言う、根拠の無い期待が広まっていた。また、ヒトラーは戦前宥和政策に終始しており、反共産主義という点で一致していたイギリスとフランスが本気で宣戦布告してくるとは想定していなかった。
11月8日にはミュンヘンのビヤホール「ビュルガー・ブロイケラー」で、ドイツ軍内部の反ヒトラー派によるヒトラー暗殺を狙った爆破事件が起きるが、ヒトラーは早めに演説を切り上げたため難を逃れた。なお、その後も数度にわたりヒトラー暗殺計画が実行されるものの、ヒトラーは全て間一髪で難を逃れることになる。
[編集] 1940年
この年の4月に、ドイツは中立国であったデンマークとノルウェーを突如侵攻し(北欧侵攻)まもなく占領した。しかし、この作戦遂行を通じて、海軍国でもある両国に比べ脆弱なドイツ海軍は多数の艦艇を失った。
同時期にソ連はレニングラード防衛を理由に隣国のフィンランドを侵略して冬戦争を引き起こし、フィンランドはカレリア地方をソ連に割譲してソビエト連邦と講和した。
また、ソ連はバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答をまたずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織して反ソ分子を逮捕・虐殺・シベリア収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。
西部戦線では長い沈黙の後、5月前半に急遽ドイツ軍が強力な軍隊を持たないが戦略的に重要なベルギーやオランダ、ルクセンブルグといったいわゆるベネルクス諸国に侵攻(オランダにおける戦い)、相次いで制圧し、国を追われたベルギー政府およびレオポルド3世国王をはじめとする王室はイギリスに亡命。5月28日にドイツと休戦条約を結んだ。また、5月15日に降伏したオランダ政府も同じく王室ともどもロンドンに亡命した。
まもなくフランスとの国境へ迫ったドイツ軍は、外国からの侵略を防ぐ楯となるものとしてフランス軍民から大きな期待を持たれていたフランス国境に築かれた巨大要塞・マジノ線を迂回し、アルデンヌ地方の森を突破してフランス東部を電撃戦にて瞬く間に制圧した(ナチス・ドイツのフランス侵攻)。
ドイツ軍の破竹の進撃を受けて大西洋沿岸に追い詰められたフランス・イギリス軍を救うためにイギリスはダイナモ作戦を展開し、6月4日には34万人の英仏軍救出作戦を完了した。この際にヒトラーが、救出作戦の妨害に戦車部隊を投入しなかったために、イギリス軍は結果的に3万人ほどの捕虜と多くの兵器を廃棄したものの精鋭部隊を救出することができた。イギリスのウィンストン・チャーチル首相は後に出版された回想録の中で、この撤退作戦の成功を「第二次世界大戦中で最も成功した作戦であった」と記述した。
その後ドイツ軍は首都であるパリを目指す。敗色が濃厚なフランス軍は散発的な抵抗しか出来ず、6月10日には首都のパリを全面的に放棄した。このため、14日には戦禍を受けておらずほぼ無傷のパリにドイツ軍は入城した。その後の22日、フランス軍はパリ近郊のコンピエーニュの森においてドイツ軍への降伏文書に調印した。[4]なお、その生涯でほとんど国外へ出ることがなかったヒトラーが自らパリへ赴き、パリ市内を自ら視察し即日帰国した。その後、ドイツによるフランス全土に対する占領が始まった直後に、講和派のフィリップ・ペタン元帥率いる政権ヴィシー政権が樹立される。
このような動きに対し、フランスの敗戦後にロンドンに亡命した元国防次官兼陸軍次官のシャルル・ド・ゴールが「自由フランス国民委員会」を組織する傍ら、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と親独的中立政権であるヴィシー政権への抵抗を国民に呼びかけ、イギリスやアメリカなどの連合国の協力を取り付けてフランス国内のレジスタンスを支援した。[5]
また、ドイツによる対フランス戦の末期の7月10日、枢軸国の一員でドイツの盟友であるイタリアも、この勝利に相乗りせんとばかりに正式にイギリスとフランスに対し宣戦布告をした。そして、北アフリカではリビアからエジプトへ、バルカン半島ではアルバニアからギリシャへ侵攻を開始したが、参戦の準備がきちんとなされないまま性急に参戦したことなどから、どちらも反撃にあい逆に侵攻されてしまった。
また、7月にはイギリス海軍H部隊がフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビールに停泊中のフランス海軍の艦船を、ドイツ側の戦力になることを防ぐことを目的に攻撃し大きな被害を与えた(カタパルト作戦)。この時期のフランス領アルジェリアのフランス海軍の艦船はヴィシー政権の指揮下にあったものの、ドイツ軍に対し積極的に協力する姿勢を見せていなかった。それにも拘らず、連合国軍が攻撃を行って多数の艦船を破壊し多数の死傷者を出したために、親独派のヴィシー政権のみならず、ド・ゴール率いる自由フランスでさえイギリスとアメリカの首脳に対し猛烈な抗議を行った。また、イギリス軍と自由フランス軍は9月に西アフリカのダカール攻略作戦(メナス作戦)を行ったがこれは失敗に終わった。
ヨーロッパ大陸から連合国軍を追い出し勢いをつけたドイツは、当面の最大の敵であるイギリス本土への上陸を目指し、7月頃よりイギリス本土上陸作戦である「アシカ作戦」の前哨戦として始まった対イギリス航空戦「バトル・オブ・ブリテン」が行われる。なお、この頃イギリス政府は、ドイツ軍の上陸と占領に備え、王室と政府をカナダへ撤退する準備を開始するとともに、ドイツ軍による市街地爆撃の激化に対応し学童疎開を本格化させる。
ドイツ空軍の爆撃機による昼夜を問わない連日の爆撃に、ウィンストン・チャーチル首相に率いられたイギリス空軍とイギリス国民は国家を挙げて必死に抵抗し、スピットファイアやホーカー ハリケーンなどの戦闘機や、当時本格的な実用化がなされたばかりのレーダーなどを駆使し、当時世界最強といわれたものの、護衛戦闘機の航続距離が短いために、爆撃機に対する十分な護衛ができないドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、あわせてドイツ空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングが被害の大きい昼間の爆撃も中止するなど、事実上イギリスが勝利を収める。
[編集] 1941年
イギリス軍は自らの植民地であるイベリア半島先端のジブラルタルと、北アフリカのエジプトにあるアレキサンドリアを東西の拠点とし、クレタ島やキプロスなど地中海[6]を確保して枢軸国軍に対する侵攻を企画していた。このような動きに対してドイツ軍は、イギリス軍との戦いに劣勢であったイタリア軍の支援のために、ユーゴスラヴィアやブルガリアなどのバルカン半島(バルカン半島の戦い)諸国やギリシアなどエーゲ海島嶼部に相次いで侵攻するとともに、クレタ島の戦いにおいてイギリス軍に勝利し、同島を制圧した。ジブラルタルへの攻撃をドイツは計画したが中立国であったスペインはこれを認めようとはしなかった。[7]
その後、1940年9月にイタリア軍は北アフリカにおける連合軍諸国の影響力の低下に乗じてリビアからエジプトへ侵攻したが、イギリス軍に撃退され逆にリビアに攻め込まれてしまった。これに対しドイツのエルヴィン・ロンメル陸軍大将率いる「ドイツアフリカ軍団」を投入して2月にトリポリに上陸する。その後は北アフリカのイギリス、フランスの植民地に対し次々に侵攻(クルセーダー作戦)し、イタリア軍も指揮下に置きつつイギリス軍を破りトブルク要塞を包囲しつつエジプト国境に迫った。
6月22日には、ドイツ軍が1939年8月に独ソ不可侵条約を結んでいたソビエト連邦に対して、突如バルバロッサ作戦と呼ばれる対ソビエト連邦侵攻作戦を開始し、ここに独ソ戦が始まった。ドイツ軍は300万近い兵士を事前に移動させ、航空機による偵察を念入りに行なうなど準備を進めていたにも拘らず、独裁者であるヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦はこの攻撃をまったく予想せず、侵攻に備えていなかったために前線は混乱した。ソ連軍(赤軍)は敗走を重ね、それに乗じてドイツ軍は瞬く間にソビエト領内を進軍して行った。ソ連のポーランド侵攻、フィンランド侵攻などの行動により、距離をおいていた連合国側は独ソ戦の始まりによってソ連を連合国の側に受け入れることを決定し、武器供与法にしたがって膨大な物資の援助が始まる。
これに先立ちドイツは、日本に対して東方での対ソ戦を行うよう強く働きかけるものの、ノモンハンの戦いにおける事実上の敗北以来対ソ戦に対して慎重である上、資源確保に比重を置いた日本政府および軍部は、南方・太平洋方面への進出の決意を固め、対ソ参戦計画を破棄する。この頃、日本に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報により日本が対ソ戦を展開しないことを知ったソ連は、4月に日本との間で日ソ中立条約を結び、その結果、日本軍とその傘下の満州国軍に対抗するために極東に置いた軍の一部を対ドイツ戦に振り分けることができ、これがその後の対ドイツ戦に大きな影響を与えることとなった。
しかし、情報部からドイツ軍の国境部における動きに対する警告が繰り返されたにもかかわらず、スターリンはこれらの情報はドイツとソ連が戦争の口火を切ることを目指したイギリスから意図的に流された誤情報であると考えて、直接的にドイツ軍の侵攻に備えることをしなかった。そのために年末までの間にソ連軍は一方的な敗北を重ねドイツ軍に首都・モスクワの近郊にまで迫られてしまう。
また、この年の現地時間12月7日に起きた真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦し(大東亜戦争の勃発)、それを受けて12月11日にドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、事実上の同盟国であるイギリスなどの働きかけを受けて、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦した。
日本と中国(国民党および中国共産党)の戦いである支那事変以外は平静を保っていたアジア太平洋地域においても、イギリスやオランダ、アメリカなどの列強を巻き込んだ戦いが始まり、ヨーロッパ戦線にも5大国の一端を担うアメリカが参戦したことにより、名実ともに世界大戦となった。なお、これに先がける8月にはアメリカとイギリスが大西洋憲章を発表していた。
[編集] 1942年
この頃ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司令官率いるUボートがイギリスとアメリカを結ぶ海上輸送網の切断をねらい、北大西洋付近を中心に多くの連合国の艦船を沈めた他、アメリカ合衆国やカナダの大西洋沿岸やカリブ海沿岸、インド洋のアフリカ沿岸にまで度々その姿を見せ連合国の艦船に攻撃を加えるなど大きな脅威を与えた。しかし、その後アメリカ、イギリス両海軍が航空機や艦艇によるUボート対策を強化したために、逆に多くのUボートが沈められることとなり、その勢いは急速に削がれることとなる。
また、前年始まった対ソ戦線(東部戦線)では総崩れとなったソ連軍を相手に怒涛の進撃を見せていたものの、自身が想像していなかったほどの勝利により戦線が伸びきったことや、例年より早い冬将軍の到来もあり、前線における補給に問題が続出したドイツ軍を中心とする枢軸国軍は、ブラウ作戦中の6月に起こったヴォルガ川西岸に広がるスターリングラード[8]を巡るスターリングラード攻防戦で、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者(と4万人を超える民間人の死者)を出す壮絶な地上戦を行った結果、地の利と数に勝るソビエト軍に対し歴史的な敗北を喫する。
この大敗北の余波もあり、対ソビエト戦線において、ソビエト連邦の首都のモスクワの直前まで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を始めることになる。またこの頃、北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が快進撃を続けていたものの、7月から行われたエル・アラメインの戦いにおけるイギリス軍などの連合軍に対する敗北など、北アフリカ戦線においての形勢も徐々に逆転しつつあった。
これらの各方面における相次ぐ敗北により、同盟国としてイタリア軍はいるものの頼りなく、事実上一国のみでヨーロッパ戦線において連合諸国軍と戦うドイツは自らの攻勢の限界を見ることとなり、この頃より、対ソビエト戦や北アフリカ戦での連合国軍に対するドイツの勢いが徐々に収まってゆく。
また、この年の7月から、1933年の選挙での勝利による政権取得以降、国民の支持を元にユダヤ人迫害政策を進めていたナチス党率いるドイツ政府による、ポーランドやユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキアなどのドイツ軍の占領域内のユダヤ人ゲットー住民に対する、アウシュヴィッツ=ビルケナウやトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所への移送と、ガス室などを使った大量殺戮が始まるなど、ドイツ政府によるユダヤ人絶滅計画である「ホロコースト」の実行が本格化することになる。
ドイツ政府によるユダヤ人への大量殺戮は、ドイツの敗色が濃くなりドイツ全土が連合国に占領される直前の1945年初頭まで継続的に行われた。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人(他にもシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障害者や政治犯など数万人も含まれる)の死者は数百万人にわたると言われている。
[編集] 1943年
この頃ドイツ軍は、二次ルジェフの戦い以降、ソ連軍に対し完全に劣勢に陥っていた東部前線のクルスクを巡る戦いにおいて持てる予備兵力の大半を使い果たし敗北を喫した。前年からの相次ぐ敗北により装備も兵力も消耗し切り完全に疲弊したドイツ軍は、東部戦線ではこの後二度と攻勢に廻ることはなかった。[9]
連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピア戦争の結果植民地としたエチオピアを含む北アフリカでの戦いにも敗北し、連合軍に対して完全に劣勢に立たされたイタリアでは、元駐イギリス大使で、指導者のベニート・ムッソリーニと関係の深かった王党派のディーノ・グランディ伯爵が、7月24日に行われた大評議会において、連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及した。この動きに対しムッソリーニの義理の息子でもあるガレアッツォ・チアーノ外務大臣ら多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、孤立無援となったムッソリーニは失脚、同日憲兵隊に逮捕され即座に投獄された。
逮捕されたムッソリーニの後任として、国王エマヌエーレ3世に任命されたピエトロ・バドリオ元帥率いる新政権は9月8日に連合軍に対して休戦し、直ちにイタリア軍は連合国軍に合流した。しかし、逮捕された後に新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソホテルに幽閉されたムッソリーニは、同月12日にヒトラー直々の任命により救出に駆けつけたナチス親衛隊のオットー・スコルツェニー大佐が率いる特殊部隊によって救出された。その後、かつての盟友であったヒトラーの保護下に降ったムッソリーニは、まだ連合軍の侵攻を受けていなかった北イタリア地域でナチス・ドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国(サロ政権)」の樹立を宣言し、同地域は直ちにドイツの支配下に入ることとなった。
このイタリアにおける戦いと、その後のヨーロッパ戦線における戦いでは、アメリカ陸軍の日系アメリカ人部隊である第442連隊戦闘団が、アメリカ軍内における深刻な人種差別を跳ね除け、死傷率314%という大きな犠牲を出しながらもアメリカの陸軍部隊史上最多の勲章を受けるなど歴史に残る大きな活躍を残しており、この事は戦後の日系アメリカ人の地位向上に大きく貢献する結果を生んだ。
またドイツ軍とイギリス、アメリカ、自由フランス軍などの連合国軍が対峙していた北アフリカ戦線では、この頃より勢いを失ったドイツ軍に対して連合軍が主導権を握る。また、フランスの降伏以降自由フランスを指揮していたシャルル・ド・ゴールは、ヴィシー政権側につかずに残存していたフランス軍を率い、イギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍と協調しつつ、アルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心に対独抗戦を指導した。
この様に連合国がヨーロッパ戦線において完全に優勢になったことを受け、この年には、カサブランカとカイロ、テヘランにて、イギリス、アメリカ、自由フランス、中華民国、ソビエト連邦などの連合国各国の首脳による、今後の戦争の方針と戦後の枢軸国の処理が話し合われる会議が相次いで行われた。
[編集] 1944年
この年の4月にソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。ポーランドのワルシャワでは1944年8月にソ連軍の呼びかけによりレジスタンスポーランド国内軍やワルシャワ市民が蜂起するワルシャワ蜂起が起こったが、亡命政府系の武装蜂起であったためにソ連軍が救援せず、約20万人が死亡して蜂起は失敗に終わった。
一方で、すでにイタリアへの上陸を成功させたものの、フランスへの再上陸による西部戦線の構築をきっかけとした本格的な反攻のチャンスを伺っていた連合国軍は、この年の6月6日に、アメリカ陸軍のドワイト・アイゼンハウアー将軍指揮の元、ドイツ軍に占領されている西ヨーロッパ戦線の中核である北フランスのノルマンディー地方に対して、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンディー上陸作戦)を行い、多数の死傷者を出す激戦の末見事に上陸を成功させた結果、1940年6月のダンケルクからの撤退以降約4年ぶりに西部戦線(フランス戦線)が再び構築された。この上陸とほぼ同時にイタリアではローマが解放された。
連合軍は、フランスへの再上陸を果たした後はレジスタンスの協力を受け進軍を続け、8月には1940年以降ロンドンにあったフランスの亡命政権「自由フランス」の指導者であったシャルル・ド・ゴール将軍率いる自由フランス軍とレジスタンスを先頭にパリが解放された。なお、この際にドイツ軍はパリを戦禍から守るべくほぼ無傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物だけでなく、パリの市街地そのものが大きな被害を受けることはなかった。その後にドイツ軍はなし崩し的に敗退を続け、まもなくフランス全土が解放された。連合軍によってフランス全土が解放されたことにより親独的中立のヴィシー政権は崩壊し、ヴィシー政権の指導者であったフィリップ・ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわゆる「対独協力者」の多くが死刑になったり国外に逃亡した。
ノルマンディー上陸作戦と連動して、東部戦線でもソビエト連邦軍によるバグラチオン作戦が行われ、この戦いにおいて虚を突かれたドイツ中央軍集団は崩壊し、勢いをつけたソビエト連邦軍はドイツとの国境付近まで迫った。敗北を重ねるドイツでは、ヒトラーを暗殺して連合軍との講和を企む声が日ごとに増し、7月20日には、予備軍司令部参謀長のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵らを中心にした反乱グループによるヒトラー爆殺計画が実行されたが失敗した。度重なる暗殺計画の発覚に疑心に苛まれたヒトラーは、反乱グループとその関係者約4000人を処刑させた他、アフリカ戦線の指揮官で陸軍元帥でもあるエルヴィン・ロンメルを暗殺グループの一員と疑い自殺に追い込んだ。[10]
ノルマンディーではドイツ軍の必至の防戦によりなんとか連合軍の進出を食い止めていたが、7月25日のコブラ作戦でついに戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。 ファレーズ包囲戦と同じ頃、8月10日にはパリ解放、8月16日には南フランスへ連合軍が上陸している(ドラグーン作戦)。
連合軍は敗走するドイツ軍を追い続けていたが、あまりの急進撃であったため補給が追いつかず、9月には停止してしまった。この時、一撃でドイツを降伏に追い込むべくイギリス軍のモントゴメリー元帥は9月17日にオランダでマーケット・ガーデン作戦を実行するが、情報の軽視とドイツ軍の急速な立ち直りにより失敗してしまう。
この後の12月、ドイツ軍はベルギーのアルデンヌ地方の森林地帯を舞台としたバルジの戦いで西部戦線において最後の反攻を試みる。ドイツ軍は、連合国軍に比べ圧倒的に少ない戦力ながらも、綿密に計画された反攻計画が功を奏し、突然の反撃にパニックに陥った連合軍を一時的に押し戻した。しかし、その後体勢を立て直した連合国軍の反撃に遭い後退を余儀なくされるなど、ドイツ軍は東西から攻勢を受け、次第に撤退を余儀なくされる。
10月9日、スターリンとチャーチルはモスクワにおいて、バルカン半島における影響力について協議した。両者間では、ルーマニアにおいてソ連が90%、ブルガリアにおいてソ連が75%の影響力を行使する他、ハンガリーとユーゴスラビアは影響力は半々、ギリシャではイギリス・アメリカが90%とした。[11]
またこの頃、度重なる敗北で完全に劣勢に陥ったドイツ軍は、かねてから開発中であった世界初ジェット戦闘機であるメッサーシュミットMe262や、同じく世界初の飛行爆弾であるV1飛行爆弾と、次いで超音速で飛行する世界初の弾道ミサイルであるV2ロケットを実用化させ、イギリスおよびヨーロッパ大陸へ次々と上陸してくる連合軍に対し使用したものの、圧倒的な物量を元にすでにヨーロッパ大陸内に深く入り込んだ連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
この頃から戦後の世界経済体制の中心となる金融機構について7月にアメリカ・ニューハンプシャー州のブレトン・ウッズで45か国が参加した会議が行われ、ここでイギリス側のケインズが提案した清算同盟案と、アメリカ側のホワイトが提案した通貨基金案がぶつかりあった。当時のイギリスは戦争によって沢山の海外資産が無くなっていた上に、33億ポンドの債務を抱えていたため清算同盟案を提案したケインズの案に利益を見出していた。しかし戦後アメリカの案に基づいたブレトン・ウッズ協定が結ばれることとなる。
[編集] 1945年
この年に入り、1939年9月のドイツ軍による侵略以降ドイツによる支配下に置かれていたポーランドは、ソビエト軍の侵攻によりその全域がドイツ軍の支配からソビエト軍の支配下に入り、1月27日にはソビエト軍がポーランド内のアウシュビッツにあるユダヤ人強制収容所を占拠した。さらにアメリカやイギリスなどの連合国軍がオーストリアやドイツ領内に進むにつれ、その他の多数のユダヤ人や政治犯などの強制収容所も開放されてゆき、多くの収容者とおびただしい数の死体が発見され、ドイツが国民の支持、または黙認を元にその国力を総動員して行われたユダヤ人絶滅計画とその実行過程の全貌が世界中に向けて明らかになる。
その後、ライン川を突破されたドイツ軍は、3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量を前に失敗する。この作戦により兵力となりうる軍をほぼ失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者たりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、アルベルト・シュペーア軍需相はこれを聞き入れずほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーは体調を崩し、定期的に行っていたラジオ放送による演説も止めベルリンの地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。
度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い敗走を重ねるドイツ軍は、東のソビエト軍と西のイギリス、アメリカ軍の両方から挟み撃ちにあい、4月16日から17日にかけて、正面のゼーロウ高地以外の南北の防衛線を大幅に突破された。また、同時期にはソビエト軍に首都であるベルリンに迫られ、4月後半に入ると完全に包囲されるまでに陥った(詳細はベルリンの戦い参照)。このような状況下でドイツ軍は、武器らしい武器すら持たないヒトラー・ユーゲントなどの少年兵や老人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。
このような絶望的な状況の中、次期総統の座を狙うマルティン・ボルマンにそそのかされたヘルマン・ゲーリングは4月23日にヒトラーに指導権を要求し、その結果ヒトラーが激怒しゲーリングは失脚。その上でヒトラーはオーベルザルツブルグの警察指揮官にゲーリング逮捕を命令するが、まもなくゲーリングが連合軍に投降したため果たされなかった。
開戦前からヒトラーの同胞であり、イタリアの降伏後はヒトラーによる好意でドイツによる傀儡政権の首領となっていたムッソリーニは、ドイツ軍とともにドイツ国内に向けて逃亡中にイタリア国内でパルチザンによって捕えられた。その後4月28日にパルチザンによって愛人のクラレッタ・ペタッチとともに処刑され、その死体はミラノ中心部の広場で逆さ吊りで晒された。
同胞のムッソリーニが無残にも処刑された上に、長年共にいた側近の多くが降伏、もしくは国内外に逃亡し追い詰められたヒトラーは、ムッソリーニのように死体を見世物にされたり、死体が宿敵のスターリンの手に渡ることを恐れて、4月30日にベルリンの地下壕内で前日に結婚したエヴァ・ブラウンとともにピストル自殺し(毒薬を飲んでとの説もある)、死体は遺言に沿って焼却処分にされた。ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にカール・デーニッツ海軍元帥を、首相にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定した。
その後、一部地域を除き首都ベルリンのほぼ全てがソ連軍によって占領された。ベルリン占領下の女性の多くがソ連兵により強姦され、数多くの女性が自決した。ある医師の推定では、ベルリンでレイプされた10万の女性のうち、その結果死亡した人が1万前後、その多くは自殺だった(「ベルリン陥落1945」アントニー・ビーヴァー著白水杜)。(東プロイセン、ポンメルン、シュレージェンでの被害者140万人の死亡率は、ずっと高かったと推定される。全体ではすくなくとも200万のドイツ女性がレイプされたと推定され、繰り返し被害を受けた人も、過半数とまでいかなくても、かなりの数に上ると推定される(同上より)。)
その他のドイツの国土の多くも連合軍の手に渡り、もはやドイツ軍の兵力も指揮系統も完全に破綻したことから、5月7日にヒトラーの遺言に基づきヒトラーの跡を継いで指導者となったデーニッツ海軍元帥がソ連を除く連合国に無条件降伏し、アルフレート・ヨードル上級大将がアイゼンハウアーの司令部に赴いてデーニッツ政府代表として降伏文書に署名した。翌8日にはソ連に対しても無条件降伏し、同日ベルリン市内のカールスホルスト (Karlshorst) の工兵学校におけるソ連軍に対する降伏式で陸軍代表ヴィルヘルム・カイテル元帥、海軍代表ハンス=ゲオルク・フリーデブルク提督 (Hans-Georg von Friedeburg)、空軍代表ハンス・ユルゲン・シュツムプフ上級大将 (Hans-Jürgen Stumpff) による降伏文書への調印がなされ、ここにヨーロッパでの戦争は終結した。
ヨーロッパ戦線の終結に伴い、同年2月に行われたヤルタ会談に次いで、7月17日からは日本の終戦と日本降伏後の処理を話し合うためのポツダム会談が、イギリスのウィンストン・チャーチル首相[12]と、4月12日のルーズベルト大統領の急死にともない副大統領から昇格・就任したアメリカのハリー・S・トルーマン大統領、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン首相出席のもと行われる。そしてこの会談で日本に対し無条件降伏を勧告するポツダム宣言の発表と、ドイツの戦後分割統治が取り決められたポツダム協定の締結が行われた。
[編集] 経過(アジア・太平洋)
アジア・太平洋における大戦の経緯については、1941年に日本がイギリス領マレー半島とアメリカのハワイなどを攻撃したことにはじまる。1942年前半までは日本が破竹の勢いで勝ち進み予定以上の早さで、必要な戦略物資の確保を達成した。しかし、肝心の蘭印での油田獲得ではオランダの油井の破壊工作から、その後の日本軍を賄うだけの油量が産出できなくなった。米豪遮断の珊瑚海海戦で戦略目標を達成できず、東京空襲から決意されたミッドウェー海戦では電子戦に破れ空母部隊が半減した。やがてガダルカナルで消耗戦を強いられ、1943年には日本がアジアの国々を集めて大東亜会議を開いて大東亜共栄圏の結束を誇示したが、この年から米軍の通商破壊が始まった、1944年に入り米海軍の本格的な通商破壊作戦により商船隊はほぼ全滅し、日本本土は戦略物資の欠乏が目立ちはじめた。比島沖海戦で連合艦隊は壊滅し、前線の島々は孤立した。米軍はヨーロッパ戦線が一息ついたことから、本格的反攻を開始する。1945年には米軍の本土空襲が本格化し軍需産業と国民の戦意を打ち砕いた。さらに、沖縄が陥落し、政治的理由でアメリカが日本の広島・長崎に原子爆弾を投下し、ソ連が参戦したことにより、天皇の意思により同年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して終戦したが、ソ連軍の攻撃は続いた。9月2日、アメリカ海軍の戦艦ミズーリの艦上で降伏文書の調印が行われ、日本は正式に降伏した。
[編集] 日本の参戦
日本は当初、ヨーロッパ大戦に不介入の方針をとっていたが、1940年、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで近衛文麿内閣は日独伊三国同盟を締結した。これに対しアメリカは通商条約の破棄など強硬な方策を採った。その上、南部仏印進駐によってアメリカから石油禁輸を招くにいたった。アメリカ・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論もあったが、張鼓峰とノモンハン事件での敗北を受けて北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルや中華民国の蒋介石らによるアメリカの参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトが激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして太平洋戦争(日本政府はこの戦争を大東亜戦争と呼称した)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。 真珠湾攻撃をルーズベルトが「卑劣な奇襲。」と呼んだ事で孤立主義に傾倒していたアメリカ合衆国の国民感情は大きく動き、アメリカ、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。
[編集] 1941年
1940年6月のフランスのドイツに対する降伏と、その後の親独政権であるヴィシー政権の成立を受け、1940年9月以降行なわれてきた日本軍による仏印進駐への対抗措置として、この年の7月以降イギリスやアメリカ、オランダなどにより日本に対して段階的に行われてきた石油や鉄の禁輸や日本資産の凍結を契機に、日本とそれらの後に連合国となる諸国との関係は緊迫の一途をたどって行った。
11月26日にアメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐アメリカ大使に手渡されたハル・ノートの内容を受け、日米間の交渉は完全に決裂し、12月1日に行われた御前会議において、事実上軍部に牛耳られていた日本政府はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国に対するの開戦を決意した。なお、日本政府がハル・ノートの内容に憤慨し、野村吉三郎大使に対してアメリカ政府との交渉の打ち切りを通告していたことを、アメリカ政府は暗号解読によって知っていたといわれている。
その後、12月8日に同日行なわれたタイ国国境に近いイギリス領マレー半島のコタバルへの陸軍部隊の上陸と、日本海軍によって行なわれたハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する真珠湾攻撃、二日後のイギリス海軍艦隊に対するマレー沖海戦などの連合軍に対する戦いで日本海軍は大勝利を収めた。なお、これらの作戦は、これに先立つ11月6日に、海軍軍令部総長の永野修身と同じく陸軍参謀総長の杉山元により上奏された対連合軍軍事作戦である「海軍作戦計画ノ大要」の内容にほぼ沿った形で行われた。しかし、イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告は、駐アメリカ大使館による暗号文の書き起こしとタイプ遅延などのために外務省の指令時間より1時間近く遅れたため、英米への攻撃が「宣戦布告なしのだまし討ちである」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝されることとなった(なお、1939年9月のドイツとソビエト連邦によるポーランドへの攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったにも関わらず、このように喧伝されることはなかった。さらに言えば戦時国際法では期限のない最後通牒を事実上の宣戦布告とみなすことができるとするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点でこれは宣戦布告に等しいとみなす考えもある。最後通牒の項も参照されたし)。
日本海軍は、真珠湾を起点にするアメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたものの、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備の破壊を徹底的に行わなかったことや、全てのアメリカ海軍の航空母艦が真珠湾外に出ており、航空母艦とその艦載機を1隻も破壊できなかったことが後の戦況に大きな影響を及ぼすことになる。
また、当時日本海軍は、短期間の間に勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめとする連合軍と停戦に持ち込むことを画策していたため、負担が大きい割には戦略的意味が薄いと考えられていたハワイ諸島に対する上陸作戦は考えていなかった。また、真珠湾攻撃の成功後、日本海軍の潜水艦約10隻を使用して、サンフランシスコやサンディエゴなどアメリカ西海岸の都市部に対して一斉砲撃を行う計画もあったものの、真珠湾攻撃によりアメリカ西海岸部の警戒が強化されたこともあり、この案が実行に移されることはなかった。
しかしその様な中で、フランクリン・D・ルーズヴェルト大統領以下のアメリカ政府首脳陣は、ハワイ諸島だけでなく本土西海岸に対する日本海軍の上陸作戦を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退計画の策定やハワイ諸島で流通されているドル紙幣を専用のものに変更するなど、日本軍にハワイ諸島が占領され資産などが日本軍の手に渡った際の対策を早急に策定していた[要出典]。また、アメリカ政府首脳陣及び軍の首脳部においては、日本海軍の空母を含む連合艦隊によるアメリカ本土空襲と、それに続くアメリカ本土への侵攻計画は当時その可能性が高いと分析されており、戦争開始直後、ルーズベルト大統領は日本軍によるアメリカ本土への上陸を危惧し、陸軍上層部に上陸時での阻止を打診するものの、陸軍上層部は「大規模な日本軍の上陸は避けられない」として日本軍を上陸後ロッキー山脈で、もしそれに失敗した場合は中西部のシカゴで阻止することを検討していた(なお、真珠湾攻撃後数週間の間、アメリカ西海岸では日本軍の上陸を伝える誤報が陸軍当局に度々報告されていた)[要出典]。
一方、真珠湾攻撃の2日後に行われたマレー沖海戦において、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍は、日本海軍航空機(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時最新鋭艦であった戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に失った。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦争戦術に大きな影響を与えることとなる。なお、後に当時のイギリス首相のウィンストン・チャーチルは、このことが「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
この後日本軍は、連合軍の拠点(植民地)であるマレー半島[13]、フィリピン[14]、ボルネオ(現カリマンタン)島[15]、ジャワ島とスマトラ島[16]などにおいてイギリス軍・アメリカ軍・オランダ軍などの連合軍に対し圧倒的に優勢に戦局を進め、日本陸軍も瞬く間にイギリス領であったシンガポールやマレー半島全域、同じくイギリス領の香港、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピンの重要拠点を奪取した。しかし日本軍は、中立国であるポルトガルが植民地として統治していたが、オーストラリア攻略の経由地となる可能性を持った東ティモールと、香港に隣接し、中国大陸への足がかりとなるマカオについては、中立国の植民地であることを理由に侵攻を行わなかった。[17]
真珠湾攻撃やマレー沖海戦などにより、日本がアメリカやイギリス、オランダなどの連合国との間に開戦したことを受けて12月11日に日本の同盟国のドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告したことで、これまでヨーロッパ戦線においても虎視眈々と参戦の機会を窺っていたアメリカが連合軍の一員として正式に参戦し、これにより名実ともに世界大戦となった。
これに先立ち日本軍は、中国戦線において北京や上海などの主要都市を占領し、中国国民党の蒋介石総統率いる中華民国政府の首府である南京をも陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首府を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した反日抵抗戦を展開した。日本軍は、豊富な軍需物資の援助を受け、地の利もある国民党軍の組織的な攻撃に足止めを受けた他、また中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦争を駆使し、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、各地で寸断され泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満州帝国[18]や中華民国南京国民政府[19]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
また、アジア・太平洋地域においては1941年12月8日(日本時間)から日本が降伏文書に調印したまでの1945年9月2日までの戦争を大東亜戦争(当時の日本政府による呼び方)若しくは、太平洋戦争(当時の連合国による呼び方)と呼ばれる。
[編集] 1942年
前年12月の日本と連合諸国との開戦後も、東南アジアにおける唯一の独立国であるタイ王国は中立を吹聴していたが、日本の圧力などにより12月21日に日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となったことで、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに対して宣戦布告した。
2月には、開戦以来連戦連勝を続ける日本海軍の伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸沿岸部のカリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊のエルウッドにある製油所を砲撃し製油所の施設を破壊した。続いて同6月にはオレゴン州にあるアメリカ海軍の基地を砲撃し被害を出したこともあり、アメリカ合衆国は本土への日本軍の本格的な上陸に備えたものの、短期決着による早期和平を意図していた日本海軍はアメリカ本土に向けて本格的に進軍する意図はなかった。しかし、これらのアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍のアメリカ本土上陸に対するアメリカ合衆国政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。まもなく山下奉文大将率いる日本陸軍がイギリス領マラヤに上陸し、2月15日にイギリスの東南アジアにおける最大の拠点であるシンガポールが陥落する。また、3月に行われたバタビア沖海戦でも連合国海軍に圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領した。また、この頃、日本海軍はアメリカの植民地であったフィリピンを制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官であったダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月中にイギリス領ビルマの首都であるラングーンを占領し、日本は連戦連勝の破竹の勢いであった。
同月には、当時イギリスの植民地であったビルマ(現在はミャンマー)方面に展開する日本陸軍に後方協力する形で、海軍の航空母艦を中心とした機動艦隊がインド洋に進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[20]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。これによりイギリスの東方艦隊は航空戦力に大打撃を受けて、日本海軍の機動部隊に対する反撃ができず、当時植民地下に置いていたアフリカ東岸のケニアのキリンディニまで撤退することになる。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[21]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。
この頃イギリス軍は、友邦フランスの植民地であったものの敵対するヴィシー政権側に付いたため、日本海軍の基地になる危険性のあったアフリカ東岸のマダガスカル島を南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇ディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
第一段作戦の終了後、日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを遮断しオーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。これを阻止しようとする連合軍との間でソロモン諸島の戦い、ニューギニアの戦いが開始され、この地域で日本は戦争資源を消耗してゆくことになる。
1942年5月に行われた珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合軍の空母機動部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力となって戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は空母レキシントンを失ったが、日本軍も空母祥鳳を失い、翔鶴も損傷した。この結果、日本軍は海路からのポートモレスビー攻略作戦を中止した。日本軍は陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、山脈越えの作戦は補給が途絶え失敗する。
4月、空母ホーネットから発進したB-25によるドーリットル空襲に衝撃を受けた海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するためミッドウェー島攻略を決定する。その後6月に行われたミッドウェー海戦において、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失う大敗を喫する(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。艦船の喪失だけではなく、多くの艦載機と熟練パイロットを失ったこの敗北は太平洋戦争のターニングポイントとなった。ミッドウェー海戦後、日本海軍の保有する正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった。対するアメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている。この敗北によって、日本海軍機動部隊の命運は決していたといえよう。なお、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするために、この海戦における事実をひた隠しにする。
また、アメリカ海軍機による日本本土への初空襲に対して、9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機である零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲し、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。なお、アメリカ政府は、相次ぐ敗北に意気消沈する国民に対する精神的ダメージを与えないために、この爆撃があった事実をひた隠しにする。これに先立つ5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
ミッドウェー海戦により、日本軍の圧倒的優位にあった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は日本海軍の予想より早く反攻作戦を開始することとなる。8月にアメリカ海軍は日本海軍に対する初の本格的な反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸し、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。しかし、日本軍が輸送船を攻撃しなかったため、ガダルカナル島での戦況に大きな影響はなかった。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的にではあるが太平洋戦線における稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗してしまったことと補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出ることができなかった。それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底して通商破壊作戦を実行。日本軍の物資や資源輸送を封じ込めた。ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、国力に劣る日本は次第に守勢に回ることとなる。
[編集] 1943年
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては取り返しのつかない損害であった。これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。
4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[22]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。しかし、この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
5月には前年の6月より日本軍が占領していたアリューシャン列島のアッツ島に米軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表において初めて「玉砕」という言葉が用いられた。その後、7月にソロモン諸島で行われたコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃により米艦隊に勝利するが、その頃になるとソロモン諸島での体勢は決していたため、戦況にはほとんど影響を与えなかった。また、ニューギニア島では日本軍とアメリカ、オーストラリア中心とした連合軍との激しい戦いが続いていたが、8月頃より少しずつ日本軍の退勢となり、物資補給に困難が出てきた。この年の暮れごろには、日本軍にとって同方面最大のラバウル基地は孤立化し始める。戦力を整えた米軍はこの年の後半からいよいと反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月には南太平洋のマキン島とタラワ島における戦いで日本軍守備隊が全滅し、同島がアメリカ軍に占領されることになる。
同月に日本の東条英機首相は、満州国やタイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示しようとするが、実態は東条首相の独擅場に過ぎなかった。この年の年末になると、開戦当初の相次ぐ敗北から完全に態勢を立て直し、圧倒的な戦力を持つに至ったアメリカ軍に加え、ヨーロッパ戦線でドイツ軍に対して攻勢に転じ戦線の展開に余裕が出てきたイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍などの数カ国からなる連合軍と、中国戦線の膠着状態を打開できないまま、太平洋戦線においてさしたる味方もなく1国で戦う上、開戦当初の相次ぐ勝利のために予想しなかったほど戦線が延びたことで兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍の力関係は一気に連合国有利へと傾いていった。
[編集] 1944年
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字通り壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。
陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島とグアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機の武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。太平洋上の最重要地点であるサイパンを失った打撃は大きく、攻勢のための布石は完全に無力と化した。この段階で日本の勝利の可能性はなくなったといってよい。
これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、当時の日本の工業力では完成は夢のまた夢であった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。
各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職し、小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。
この頃日本は、昨年末からの相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失っていたものの、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。 レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍はなすすべもなく敗走した。
[編集] 1945年
前年のフィリピンレイテ島やミンドロ島における戦いに勝利を収め、1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要所であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。[23]
前年末から、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったアメリカ軍のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍はB-29を撃墜するための新型ジェット戦闘機「橘花」などの迎撃機の開発を進めることになるが実用化には至らず、既存の戦闘機で体当たり戦法などを用い必死に抵抗したが、高高度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。 3月10日には大規模な無差別爆撃である東京大空襲が行われ、10万人もの尊い命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が在マリアナ空軍総司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、横浜、大阪、名古屋、福岡、富山、徳島、熊本など、東北地方と北海道を除く多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭では、製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。また、日本本土近海の制海権を完全に手中に収めたアメリカ軍は、度々空母機動部隊を日本沿岸に派遣し、艦載機による各地への空襲や機銃掃射を行った。
また、この一連の爆撃に先立ち、2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した(米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った数少ない地上戦の1つ)。最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。 迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策法を編み出していた米軍に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。
この頃満州国は日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたためにソ連の間とは戦闘状態にならず開戦以来平静が続いたが、この年に入ると、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたものの、集結すると即座に日本軍に対しての攻撃を開始し、同時に他の勢力も一斉に蜂起しイギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。 その後、5月7日には唯一の同盟国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、このような状況に陥ったにもかかわらず、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返す。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に期待してポツダム宣言を黙殺する態度に出た。このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の一般市民にも甚大な惨禍をもたらすことになった。もしポツダム宣言をすぐに受け入れていれば広島・長崎への原爆投下はなかった可能性が高いといわれている。
その頃、アメリカ軍やイギリス軍を中心とした連合軍は次に沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島への上陸作戦を行う。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、沖縄戦の支援のために沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も4月7日に撃沈され、残るは燃料にも事欠いたわずかな空母や戦艦のみとなり、ここに日本海軍が誇った連合艦隊は完全に壊滅した。
この頃には、日本軍の制空権や制海権の完全な喪失に伴い、日本近海に迫るようになった連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与えるなど、日本陸海軍も必死の反撃を行うものの、戦争経済に関する大局観を当初から欠いている上、既に1国のみで孤独な戦いを続ける日本の降伏はもはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、日本軍の軍民を結集した強固な反撃により双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画の実行はされることがなかった。
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。
その直後に、1941年4月より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、締結後5年後の1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本が事実上占領していた満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできないままに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。また、このソビエト参戦による満州と南樺太などで行われた戦いで日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した上に、満州・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)、満州から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされる、などして日本は多大な被害を被った。
このような事態にいたってもなお日本軍部指導層は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明に宮内庁などを襲撃する事件(宮城事件)を起こしたり、鈴木首相の私邸を襲ったりしたものの、玉音放送の後には、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり停戦連絡機を破壊したりして抵抗した他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日には連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令によりソ連軍は8月末に至るまで南樺太・千島・満州国への攻撃を継続した。そのような中で8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。
また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は日本への逃命を図るも、侵攻してきたソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着し、8月30日には後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着し、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスやオランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席[24]の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
[編集] 戦時下の人々の暮らし
[編集] 日本
日本にあっては戦争に反対する自由と言論は政府によってすべて弾圧された。人々は戦争が始まると「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」等という国家総力戦のスローガンを掲げ、ピリピリとした空気のなか質素な生活を送った。物価統制がなされあらゆるものが代替され窮乏生活を余儀なくされた。ガソリンが足りないため町には木炭自動車が走り、贅沢はもちろん電気を浪費するためパーマネントも禁止となった。
敗戦の色が濃くなってきて空襲が始まると人々の暮らしはますます質素になっていき、配給制度が実施されることとなった。また熟練工が戦場に動員されることによって、代わりに学生が工場に動員され兵器を作ったり戦場にも駆り出された。子供の遊びにまでも戦争の影響があらわれ、戦意発揚の意図のもと戦争を題材にした紙芝居、玩具などが出回った他、空き地では戦争ごっこが定番の遊びになった。教科書にも戦争関連の問題が載るようになった。
[編集] ドイツ
未曾有の総力戦となった第一次世界大戦において、ドイツ帝国は最終的に生活が困窮した国民による革命を招き、敗北した。ヒトラーはその教訓から、戦争中盤までは国民の生活をある程度考慮していた。しかし、スターリングラードの戦いでドイツ軍が大敗すると、宣伝大臣ゲッベルスによる有名な「総力戦布告演説」[1]を行なわれ、政府による完全な統制経済・総力戦体制が開始された。そのため、軍需大臣アルベルト・シュペーアの尽力もあり、1944年には、英米軍による激しい戦略爆撃を受けながらもドイツの兵器生産はピークに達する。 一方で国民の生活は苦しさを増し、また連合軍の無差別爆撃により多くの死傷者を出した。 ドイツ軍の敗色が濃くなると、残虐なソ連軍から逃れるために西部へと避難するドイツ人が続出した。 ベルリンの戦いの頃には、少年や老人までもが義勇兵として武器を取り戦った。
[編集] イギリス
[編集] アメリカ
[編集] 影響
[編集] 概要
第二次世界大戦の結果、ファシスト・イタリアが倒れ、ドイツと日本が降伏した。犠牲者数は世界でおよそ6,000万人と言われる。主要参戦国における死亡者数の概数は、ソ連2,000万人(軍人1,300万人・市民700万人)、中国1,350万人(350万人・1,000万人)、ドイツ730万人(350万人・380万人)、ポーランド540万人(12万人・530万人)、フランス60万人(25万人・36万人)、イギリスおよびイギリス連邦50万人(45万人・6万人)、日本210万人(170万人・38万人)、アメリカ40万人(40万人・0.17万人)、イタリア40万人(33万人・8万人)と推定されている。
敗戦国となった日本、ドイツ、イタリアの3国にはアメリカ軍を中心とする戦勝国の軍隊が進駐した。敗戦国への処遇は第一次世界大戦の戦後処理の反省に基づいたものとなった。第一次世界大戦の戦後処理では、敗戦国ドイツの軍備解体が不徹底であったため、ドイツは再度第二次世界大戦を挑むことができた。しかし第二次世界大戦の戦後処理では敗戦国の軍備は徹底して解体され、敗戦国が他国に対して再度侵略行為を行うことは不可能となった。一方で、敗戦国への戦争賠償の要求よりも経済の再建が重視された。西ヨーロッパではマーシャル・プランが実施され、日本ではGHQによる政治経済体制の再構築が行われた。戦後、敗戦国は経済的には復興したが、軍事力においては限られた影響力しか持たない状態が続いている。
ドイツ東部を含む東ヨーロッパにはソ連軍が進駐した。ソ連は東ヨーロッパで戦前の政治指導者を粛清・追放し、代わって親ソ連の共産主義政権を樹立させた。中国でも中国共産党が国共内戦に勝利し、世界はアメリカ・西ヨーロッパ・日本を中心とする資本主義陣営と、ソビエト・東ヨーロッパ・中国を中心とする共産主義陣営とに再編された。この政治体制はヤルタ会談から名前を取ってヤルタ体制とも呼ばれる。そしてその後も二つの陣営は1990年代に至るまで冷戦と呼ばれる対立を続けた。
第二次世界大戦の直接の原因となったドイツ東部国境外におけるドイツ系住民の処遇の問題は、最終的解決を見た。問題となっていた諸地域からドイツ系住民の大部分が追放されたことによってである。ドイツはヴェルサイユ条約で喪失した領土に加えて、中世以来の領土であった東プロイセンやシュレジエンなどを喪失し、ドイツとポーランドとの国境はオーデル・ナイセ線に確定した。
戦勝国となったアメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中国はその後核兵器を装備するなど、軍事力においても列強であり続けた。この5か国を安全保障理事会の常任理事国として1945年10月24日、国際連合が創設された。国際連合は、勧告以上の具体的な執行力を持たず指導力の乏しかった国際連盟に代わって、経済、人権、医療、環境などから軍事、戦争に至るまで、複数の国にまたがる問題を解決・仲介する機関として、国際政治に関わっていくことになる。
だが戦勝国も国力の疲弊にみまわれた。東南アジアでは、日本が占領した植民地をアメリカ、イギリス、フランス、オランダが奪回し、宗主国の地位を回復したが、一方で、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、本国での植民地支配への批判の高まりといった状況が生じ、疲弊した宗主国にとって植民地帝国の維持は困難となった。その後1960年代までの間に、多くの植民地が独立を果たした。
[編集] 戦争裁判
第一次世界大戦の戦後処理では敗戦国の戦争指導者の責任追及はうやむやにされたが、第二次世界大戦の戦後処理では、国際軍事裁判所条例に基づき、ドイツに関してはニュルンベルク裁判が、日本に関しては極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。ドイツではナチスの党員、協力者、関係者らが厳しく裁かれ、ホロコーストや捕虜虐待など人道に対する罪によって刑罰を下された。日本では戦争開始や南京大虐殺などの罪によって、東条英機らが戦犯として罪を追及された。
この裁判では、連合軍の行為については審理対象となっていないため、戦勝国側が敗戦国側に対して戦時中行なった国際法違反の戦争犯罪―原爆投下、ドレスデン大空襲、ハンブルク大空襲、東京大空襲・大阪大空襲、ソビエト連邦のドイツのベルリンでの残虐行為や、中立条約を結んでいた日本や満州国に対する侵略・略奪行為、その他捕虜の虐待、虐殺など―についての責任追及は全く行われていない。また、大戦初期における、ソ連によるポーランド、フィンランドに対しての侵略も不問とされている。[25]また、東欧諸国からの民族ドイツ人の追放やドイツ兵や日本兵のシベリア抑留など戦後の事例について、戦勝国側の加害責任を訴える声も大きいものの、同じく不問とされている。
また東京裁判においては、投獄されていた岸信介がアメリカとの政治取引で釈放される一方、上官命令でやむをえず捕虜虐待を行った兵士が処刑されたりするなど、概して裁判が杜撰であった点は否めない。さらに人道罪という事後法によって裁くなど、原理的な疑義も指摘されている。
これらの連合軍の残虐な行為が全く裁かれなかったことを戦勝国のエゴとして否定とする意見が日本では根強い。また、日本に対する戦争裁判を罪刑法定主義や法の不遡及が十分でなかったことなどを理由として否定する意見もある。罪刑法定主義や法の不遡及を守りながら戦争責任を裁けるのか、あるいは裁くべきなのか、またその判決が世界に受け入れられるのか、人道罪を否定した場合虐殺など戦争犯罪を止めることができるのか、など難問は多い。
[編集] ヨーロッパ
マーシャルプランへの不参加をソ連が表明して、更に参加を希望していたチェコスロバキアなどの東欧諸国に圧力をかけて不参加を強要させた。9月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、西側に対抗する姿勢をとった。これによりヨーロッパの分裂が決定的になった。
ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカは、その同盟国を巻き込む形でその後1980年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこととなり、後に成立した中華人民共和国やインド、パキスタンなどがこれに続いた。
[編集] ヨーロッパ全域
- 二度の世界大戦の原因の一つとして挙げられるのが、ザールラント(ドイツ領、戦間期は、自由市)及びアルザス・ロレーヌ[26]で産出される石炭及び鉄鉱石をめぐっての争いであった。そのため、石炭、鉄鉱石を共同管理することによって、戦争を回避する目的で、1951年に、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。
- 1958年にベネルクス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、イタリア、西ドイツ、フランスが欧州経済共同体 (ECC) 、欧州原子力共同体 (EURATOM) が結成され、1967年に拡大、発展する形で、EEC、ECSC、EURATOMと欧州共同体 (EC) に統合した。
- ECは、1973年に、デンマーク、イギリス、アイルランド、1981年に、ギリシャ、1986年には、スペインとポルトガルが加盟し、12か国体制へ発展した。
- ECは、1993年11月1日のマーストリヒト条約欧州連合(EU)に発展した。2007年1月1日には、旧東欧圏であるルーマニアとブルガリアが加盟し、27か国体制へと発展を遂げた(詳細は、欧州連合を参照のこと)。
[編集] ドイツ
ヨーロッパのみならず世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングやヨアヒム・フォン・リッベントロップ、ヴィルヘルム・カイテルなどのナチス首脳部の一部は、連合軍による戦争裁判であるニュルンベルク裁判によって裁かれることになった。
その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担したと考えられる芸術家や実業家なども罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。
- 領土の喪失
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- 第一次世界大戦後も領有していた東プロイセンや、ナチス政権が回復した旧ドイツ帝国の領土であるダンツィヒやポーランド回廊など、オーデル・ナイセ線以東の広大なドイツ領を喪失した。
- ナチス政権がミュンヘン会談によりチェコスロバキアから獲得していたドイツ人居住地域のズデーテン地方はチェコスロバキアに返還された。
- これらの地域からドイツ人は追放され、大量のドイツ避難民が移動する中で多くの死者が出た(ドイツ人追放)。
- この他、大戦中にドイツが併合した地域[27]は、フランス(アルザス・ロレーヌ)・デンマーク(シュレスウィヒ・ホルスタイン)・ベルギー・ルクセンブルクの諸国にそれぞれ返還された。
- 西部のザールラントは自由州として分離され、フランスの管理下に置かれたが、その後、1957年に住民投票で西ドイツに復帰した。
- ナチス政権が併合したオーストリアはドイツの被占領地域から分離され、1955年のオーストリア国家条約でドイツとの合併は永久に禁止された。
- 東西分割
- 高官の国外逃亡と責任逃避
- 終戦直前にアドルフ・アイヒマンなどの多くのドイツ政府高官が、自らの身を守るためにドイツ国内外のナチス支持者[29]やバチカンの助けを受けスペインやアルゼンチン、チリなどの友好国に逃亡し、そのまま姿を消した。その一部はその後イスラエルの情報機関であるモサドや、「ナチ・ハンター」として知られるサイモン・ヴィーゼンタールなどの手で居場所を突き止められ、逮捕された後にイスラエル政府などによって裁判にかけられたものの、残る多くは現在に至るまで逃げおおせ、姿を消したままである。
- 賠償
- ソ連は戦争により被った膨大な被害に対する賠償として、ドイツ東部における自国占領地帯で工業施設の解体・移送を行なった。このことが東ドイツの発展を阻害し東西ドイツの経済格差を生み出す要因となった。また、ダイムラー・ベンツやクルップ、メッサーシュミットなど、ドイツの戦争遂行に加担し、強制労働に駆り出されたユダヤ人を利用した企業は、膨大な賠償金の支払いを課せられることになった。
[編集] オーストリア
- 1938年にドイツによって併合(合邦)されたドイツとは分断され、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4か国によりオーストリア全土が分割占領された。
- これとは別に、首都のウィーンもドイツのベルリンと同じく上記の4か国により分割占領された。
- ただし、ドイツとは異なり、ナチスによる併合により消滅していた中央政府が復活し、第二共和制が発足して、文民統治を維持した。
- その後、冷戦の激化にもかかわらずオーストリア政府は国家統一の維持に成功し、1955年のオーストリア国家条約により主権を回復した。[30]
- ドイツへの併合に協力し、その後オーストリア・ナチス党の指導者になった。[31]アルトゥル・ザイス=インクヴァルトは、連合軍による戦争裁判・ニュルンベルグ裁判で裁かれ死刑になった。
- 冷戦終結後、国家分断の危険から遠ざかるにつれて第2次大戦以前にドイツに併合され、多くのオーストリア人がそのままドイツ軍の一員として戦争行為に加担したことに対する戦争責任について問い直す動きが見られた。
[編集] ギリシャ
1942年から内戦状態になり(ギリシャ内戦)、終戦後はイギリスとソ連の秘密協定によって西側の勢力下に置かれようとしていた。その後はアメリカ合衆国の支援の下、軍事独裁政権が成立、国王が亡命、1974年にキプロスでのクーデターが失敗し、その余波で軍事政権が崩壊、国民投票によって君主制が廃止、共和制に移行した。冷戦期には北大西洋条約機構に加盟した。
[編集] イタリア
- 領土の喪失
-
- 第一次世界大戦で獲得した「未回収のイタリア」のうち、トリエステは国連管理下の自由市となった。
- その後、1954年にトリエステ自由市の半分以上を占めるイストリア半島をユーゴスラビア(現在はスロベニアとクロアチア ――この時にリエカ(フィウメ)を獲得――)に割譲し、トリエステ市を含む北西部がイタリアに復帰した。
- エーゲ海東部のドデカネーズ諸島をギリシアに割譲した。
- 参戦前の1939年に宣言したアルバニア併合が無効とされ、アルバニアの独立が完全に回復された。
- 戦争中にイギリス軍に占領されたトリポリ、キレナイカ[32]、ソマリランド[33]等のアフリカ植民地を放棄し、これらの地域はイギリスの委任統治領になった。
- 共和制移行
[編集] フィンランド
大戦中にソビエト連邦の侵略を受ける冬戦争に対抗するためにドイツの協力を仰いだために敗戦国扱いを受け、侵略者であるソビエト連邦から戦争犯罪に問われることになった。ドイツの支援を仰いだことはフィンランドにとってはやむを得ないことであった。フィンランドには何の落ち度もなかったのにも関わらず、ソ連の不当な攻撃が敵の敵は味方と言う感情にフィンランドを貶めたのである。フィンランドが継続戦争においてナチスを頼った時にはすでに手遅れであった。フィンランドに味方する近隣諸国はいなかった。スウェーデンを除き北欧はナチスの旗の下にあった。スウェーデンは中立を守りきったがフィンランドにはそれが不可能であった。それでもフィンランドは自己の生存権のため、ドイツのレニングラード包囲戦には深く加わらず、ドイツの敗戦時には、国内からナチス・ドイツの勢力を自ら追い払ったのである。ソ連は勝利国として、フィンランドに対し、制裁と戦争法廷による戦争犯罪の追求を行ったが、フィンランド人にとっては、不当な制裁であり、ソ連と戦ったマンネルヘイム将軍らは国家の英雄とたたえられている。しかしソ連は戦後も勝利国としてフィンランドへの干渉を強めて行くこととなる。
[編集] イギリス
イギリスは第二次世界大戦を通じて約十一億ポンドの海外資産をすべて失い、戦争が始まったとき七億六千万ポンドであった対外債務は、終戦時、三十三億ポンドに膨れ上がった[34]こともあり、イギリス経済は疲弊してしまった。追い打ちを掛けるかのように日本の敗戦からの二日後の8月17日、アメリカ合衆国はレンドリース法を停止し対英援助を打ち切った。窮地に陥ったイギリス政府は戦後復興のために、1945年12月英米金融協定を調印したがこれにより大英帝国内部の特恵関税制度が否定され、経済面から大英帝国の崩壊が始まった。イギリス経済の疲弊により植民地を維持することが困難になり、また、各地の独立運動も相俟って、大英帝国は崩壊した。そして、ミャンマーなどを除く元植民地の多くはその後もイギリス連邦の一員としてイギリスとの絆を保っている。
- 日本の敗戦によりシンガポール、マレー半島や香港などの日本の占領下に置かれた植民地がイギリスの手に戻り、前記の2地域は1960年代に至るまで、香港は1997年に至るまでイギリスの植民地であった。
- インドは戦後もイギリスによる統治がしばらく続いたものの、独立運動の激化により1947年8月15日にインドは独立した。
- 敗戦国のイタリアがトリポリ、キレナイカ(共に現在のリビア)、ソマリランド(現在のソマリア)等のアフリカの植民地を放棄し、これらの地域はその後しばらくの間イギリスの委任統治領になった。
[編集] フランス
- ドイツの事実上の傀儡政権であるヴィシー政権は崩壊し、首班のフィリップ・ペタン元帥は逮捕され死刑判決を受けたもののその後政権を担った自由フランスの指導者であるド・ゴールにより終身刑に減刑された。また、ココ・シャネルなど多くの対独協力者が断罪され、投獄されたり死刑となった。
- モロッコやアルジェリアなどのアフリカの植民地を回復したものの、戦後のフランスの国力低下に伴いそのほとんどが独立することになる。
- 本土がドイツに占領された後より、事実上日本の影響下にあったフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に独立運動指導者のホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言したものの、植民地支配の復活を狙うフランスとの間に第一次インドシナ戦争が起こり、これは後のベトナム戦争につながることになる。
[編集] ソビエト
- ヨーロッパ地域
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- ドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。
- 開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。
- 上記の新領土内の非ロシア人の住民を追放して、ロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。
- 進駐したソ連軍の軍事的な恫喝により、東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ共産政権を樹立し、衛星国とし影響下においた。
- チェコスロヴァキアではソ連支配に対する抵抗が強かったが、非共産党系の政治家を暗殺、処刑するなどして共産党が政権を手に入れた後、ソ連型社会主義をモデルにした国家政策が急速に進められた。ハンガリーでは、1956年にソ連支配に抵抗するハンガリー動乱が勃発したが、ソ連はソ連軍などワルシャワ条約機構軍を介入して圧殺した。
- 極東地域
- バルト三国
- ロシア革命後に独立を果たしたエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国は独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍が一方的に進駐し、その圧力の下で、1940年にソビエト連邦に強制的に併合された。その後はナチス・ドイツの占領下に入るなどしたものの、大戦終了後に再度独立することなくソビエト連邦に併合され、追放・処刑された三国の住民の代わりに、多くのロシア人が流入し居住することになる。エストニア、ラトビアの国境も変更され、ソ連の一共和国になった。再度の独立は冷戦後の1991年まで待つことになり、エストニア、ラトビアはロシアと国境問題を抱えることになった。
[編集] ポーランド
1939年にソ連に占領された東部地域は回復されず、そのままソ連領[35]に編入された。その代償として、ポーランド回廊をドイツから回復した上、オドラ川(オーデル川)およびニセ川(ナイセ川)以東の旧ドイツ領やダンツィヒ自由市(現在のグダニスク)を併合し、ポーランド領土は大きく西方へ移動した。失った東部領は新たに得た西部領の2倍に及び、東部領から追われたポーランド人が旧ドイツ領から追放されたドイツ人のかわりに西部領に住み着く人口の大移動が起こった。 その後、この新たなドイツ=ポーランド国境(オーデル・ナイセ線)の承認が、戦後に成立した西ドイツ政府の大きな政治課題となった。
また、国連の総会のポーランドの代表権問題が生じ、当時はソ連が支持するルブリン政権とアメリカ・イギリスが支持する亡命政権の二重権力状態にあった。その後に亡命政権の閣僚の三分の一を入れ、連合政権を作る事で妥協が図られた。その後、ソ連の強い軍事的な影響力の元に共産主義系の勢力が政府の実権を握り、亡命政権系の政治家は逮捕されたり亡命に追いやられた。
[編集] チェコスロバキア
- ナチス・ドイツにより解体状態だった国家が再建され、ズデーテン地方も回復した。なお、この際に起こったドイツ人住民の集団追放はその後の西ドイツとの関係に影を落とした。
- ドイツの保護国だったスロバキアはチェコと一体となった共和国に復帰した。ハンガリーに奪われた南部の領土は回復したが、一部はソビエト領(現在のウクライナ)として併合された。
- 当初、共産党系と非共産党系の閣僚を含む政府が成立したが、ソ連軍の圧力の下、非共産党系の政治家は次々と暗殺、処刑あるいは辞任に追い込まれて、1948年に事実上の共産党の単独政権が成立し、その後、ソ連型社会主義をモデルにした国家政策が急速に進められた。
[編集] ハンガリー
第一次世界大戦後に失ったチェコスロバキア(ブラチスラバを含む)やユーゴスラビア[36]のハンガリー人居住地域を併合したが、敗戦により無効とされ、第一次大戦後の国境線まで後退した。ヤルタ会談におけるチャーチルとスターリンの秘密協定に基づいて、ソ連の勢力圏とされハンガリー社会主義労働者党の一党独裁によるハンガリー人民共和国が成立し、ソ連の衛星国となった。
[編集] ユーゴスラビア
[編集] ポルトガル
- 中立国であったにもかかわらず、軍事的、政治的圧力を受け事実上連合国の基地として使用されていたアゾレス諸島と、同じく事実上日本に占領されていた植民地の東ティモールは両軍の撤退により回復された。
- また、大戦中を通じその地位が保全されたマカオとインドのゴアも、引き続き植民地として統治していくこととなった。
[編集] アルバニア
- 1939年にイタリア(ムッソリーニ政権)が強行した併合が取り消され、独立を回復した。
- ユーゴスラビアと同様、パルティザン闘争によって自国領土の大半を解放したアルバニア共産党(1948年からアルバニア労働党)によるアルバニア人民共和国が成立し、王制が廃止されてエンヴェル・ホッジャが指導する社会主義政権が成立した。
- その後、ユーゴスラビアとの関係が悪化して1948年に国交を断絶し、ソ連との関係を深めた。また、ギリシャ内戦で敗れた共産主義ゲリラのギリシャ民主軍(EDS)に出撃拠点を提供し、その敗退後はメンバーの亡命を受け入れた。
[編集] スイス
大戦中は、中立を維持していたスイスだが、スイスの中立にも負の側面があったことを否定することができない。1点目は、ホロコーストから逃れたユダヤ人の亡命問題と財産の返還の問題である。2点目は、ナチス略奪金塊問題である。
- 大戦中に30万人に近い亡命者を受け入れた。スイスの人口に比較すればかなりの人数の亡命者を受け入れた形であるが、他方で、「救命ボートは満員だ」として、ユダヤ人の入国を認めなかった。その人数は亡命が認められた数が21858人であったのに対して24000人が断られた。
- 大戦中にドイツは、中立国を中心に各国と金塊の取引を行ったが、その約8割はスイスとの取引であった。問題は、金塊の出所であり、すでに1941年の段階で、占領下においたベルギーからの略奪品であろうという情報が広まっていたにもかかわらず、スイスは1943年までドイツの金を受け取り、スイスフランと交換していた。事実上、スイス中央銀行は略奪金塊の「洗浄装置」の役割を果たしていた。[37]
この他にもスイス領の町をドイツ領の町と間違えられたためにスイスの一般市民がアメリカの爆撃機により誤爆されたことが挙げられる。この誤爆では、死者40人、負傷者多数を出したという。
[編集] バチカン
大戦中はバチカンは中立を維持していた。しかし大戦勃発直前に教皇に登位したピウス12世はナチスのホロコーストを黙認したと非難されることがある。イスラエルはピウス12世はユダヤ人を保護したとして評価しているが、「教皇がナチスを非難していればホロコーストの犠牲者は少なくなったはず」との声も根強い。さらにピウス12世は死後ヨハネ・パウロ2世によって列福されたことが、さらに波紋を呼んでいる。また、大戦終結時に多くのナチス党員がドイツから逃亡するのに対して、バチカンが有形無形の援助を行ったとの証言がある。
[編集] スウェーデン
スウェーデンは、ナチス・ドイツのチェコスロバキア併合を目の当たりにした頃から危機意識を強め、スウェーデン社会民主労働党政権の元で大規模な軍備の増強を行っていた。すでにスウェーデンは、ナチスの台頭によって開戦は避けられぬものと考えていた。1939年にナチスは、スウェーデンとデンマーク、ノルウェーに対し不可侵条約を申し入れたがスウェーデンとノルウェーは拒否する。[38]1940年、ナチス・ドイツが不可侵条約を破棄し北欧に宣戦布告(北欧侵攻)するとスウェーデンは他国への援助を一切拒否し、武装中立を貫いた。しかし戦後、スウェーデンの中立は利己的なものとして非難されている。開戦期には、枢軸国寄り、後期は連合国寄りである。もっとも単なる中立ではなく、両者に対する和平交渉仲介も行った。
- 武装中立政策を取っていたものの、第一次世界大戦時と同様義勇軍を組織していた。なお、戦火に見舞われた近隣のデンマークやノルウェー、フィンランドのレジスタンスを匿うと同時にユダヤ人を保護したことはその後大きな賞賛を受けた。
- 武装中立化においてスウェーデンは、50万人の国民軍を形成することに費やした。これによってナチスの侵攻を食い止めることを前提とするものであった。しかしスウェーデン政府は、上記の通り、ナチスに対する義勇軍を黙認し、デンマーク、ノルウェー、フィンランドに対するレジスタンスの保護及び支援を行い、ナチス・ドイツの敗勢以後は連合国との連係を強め、最終的には連合軍の勝利に貢献した。ただしこの中立は、初期にはナチスに譲歩し、後期は連合国の要求に応じるなど中立性に欠けるものとして、戦後、国内外から非難された。
- 大戦期にスウェーデン政府は外交交渉を頻繁に行った。対戦初期、ナチス・ドイツの侵攻に対し、ナチスと面識のある元探検家スヴェン・ヘディンをドイツへ派遣し、直接ヒトラーからスウェーデン侵攻の意図が無いことを確認させることに成功した。大戦末期には大日本帝国と連合国に対するスウェーデン外務省仲介による和平交渉も行っている。また、スウェーデン王家の一族であるスウェーデン赤十字社副総裁フォルケ・ベルナドッテを通じて、ヒムラーと和平交渉も行っている。さらにフィンランド救済のためにソ連との和平交渉仲介も行われたが、結果的にスウェーデンの和平交渉はすべて失敗に終わった。1944年にはラウル・ワレンバーグによるユダヤ人救出も行われた。
- スウェーデンの軍備拡大は必ずしも対ナチス・ドイツを対象としたものではなかった。中立を宣言した様にナチスに対し敵愾心を持っていた訳ではなかった。戦争開始時点では、ソ連のフィンランドに対する圧力に重点がかかっており外交にもそれが優先されていた。ソ芬戦争においては、ナチスの支援の元、フィンランドとの軍事同盟が構想されていた。しかしソ連の抗議によって破談する。ナチス・ドイツが北欧侵攻を開始したことでスウェーデンは中立を余儀なくされたのである。[39]しかし大戦後は、伝統的な武装中立に回帰し、対ソ連への外交戦争が開始されるのである(ノルディックバランス)。スウェーデンの外交戦略はすでにナチス・ドイツではなく、戦後の東西冷戦に向けられていたのである。
[編集] デンマーク
ナチス・ドイツによる侵攻を経験したデンマークは戦後、中立政策から、集団安全保障に安全保障の方針を切り替えることになった。そのときにはスウェーデンの外相ウンデーンの提唱したスカンジナビア軍事同盟に共鳴したが。スウェーデンが設立の意志がないないことがわかると、北大西洋条約機構に加盟した。しかし、これはデンマークの安全保障を補完するものであり、対米追随を意味するものではなかった。デンマークの安全保障はいわゆるノルディックバランスと呼ばれるものである。
ナチス・ドイツ占領中アメリカの保護下にあったグリーンランドは返還された。またアイスランドは独立した。
[編集] ノルウェー
ナチスドイツの侵攻を受けたノルウェーは従来安全保障を英国に依存していたが、第2次世界大戦後はアメリカに依存するようになった。北大西洋条約機構にも加盟し、西側諸国の一員になった。しかし、ソ連を刺激しないように国内に米軍基地をおかず、さらに非核政策をとるなど他の北欧諸国同様、ノルディックバランスと呼ばれる中立政策を志向した。
ナチスドイツ占領中、ヒトラーが「ノルウェー人は純粋なアーリア人種である」と唱えたため、「レーベンスボルン政策」がとられ、多くのノルウェー人女性とドイツ人SS将校との間の混血児が生まれた。ノルウェー政府はそれに対し隔離政策など迫害政策をとった。後にノルウェー政府はこの政策を「過ちである」と謝罪賠償した。
[編集] 東アジア
東アジアでは、国内の対立を抗日という同一目標により抑えていた中国大陸の中国国民党と中国共産党の両勢力は、再び内戦状態(国共内戦)となり、アメリカが政府内の共産主義シンパの策動を受け中国国民党への支援を縮小したこともあり、ソビエトの支援を受けた中国共産党勢力が最終的に勝利した。その後中国共産党は1949年に北京を首都とした中華人民共和国を建国し、中国国民党は台湾島に逃れることとなる。
一方朝鮮半島では、植民地支配を放棄し撤退した日本に替わり、38度線を境に南をアメリカやイギリスをはじめとする連合国が、北をソ連が統治することになり、その後それぞれ「大韓民国」と「北朝鮮」として独立を果たす。しかし、ソ連のスターリンから承認を受けた金日成率いる北朝鮮軍が1950年に突如、大韓民国に侵略を開始。ここに朝鮮戦争が勃発することになる。なお、開戦後50年以上経った現在も南北朝鮮の間の戦争は公式には終結しておらず、大韓民国側に立つ国連軍と北朝鮮との間での一時的な休戦状態が続いている。
[編集] 日本
日本は「アジアの列強植民地の解放」という名目で、当時欧米列強諸国の植民地であったマレー半島やシンガポール、中国大陸などアジアのほぼ全域に進出、欧米列強諸国の植民地政府を廃止し占領、軍政下においた。また、占領地のなかのいくつかの地域については、日本に友好的な指導者を後押して独立させた。
戦争当初の目的として資源確保のためにこれらの地を占領した日本にとってそれまでの宗主国の持っていたような資源・資産面など対植民地での優位な状態を保つことが出来ず、これらの地においては軍政の名において当初の目的以上に搾取することを余儀なくされ、各地に人的・資源的に過酷な状態を招いた。
なかでも、第二次世界大戦以前から統治・戦争状態が長かった後に戦勝国となる中華民国に代わり現在中国大陸を統治する中華人民共和国や、現在中華民国の統治下にある台湾を別として大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国といった当時、併合した国や保護下においた地域にその後できた三国との間に対しては遺恨を残すことになり、これらの国の国内事情も絡んで、朝鮮民主主義人民共和国以外では戦時賠償問題が解決済みであるにもかかわらず、現在もそれに纏わる問題で日本側が非難されることが多く、中華人民共和国、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国では激しい反日教育が行われている。又、大韓民国では日本統治時代の親日派の子孫の財産を没収する親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法や日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法の制定など、反日的政策が実行されている。 [40]
- 領土の喪失
-
- 日清戦争以後に獲得した海外領土を全て失うこととなり、関東州租借地を中華民国(中国、以下同)に返還した。
- 韓国併合以降の朝鮮半島の実効支配を喪失し、アメリカ・ソ連軍両軍による分割占領状態になった。これが1948年以降の南北分断、そして1950年の朝鮮戦争につながっていく。
- 委任統治後に併合を宣言していた南洋諸島の実効支配を喪失し、アメリカによる信託統治に移行した。
- 沖縄戦によりアメリカ軍に占領されていた沖縄島をはじめとする琉球諸島(大東島・沖大東島を含む)や先島諸島(尖閣諸島を含む)は日本の潜在的主権を維持したままアメリカ軍政下に入った。一時は奄美諸島もアメリカの施政権の下におかれたが、1972年までに全ての地域が日本に復帰した。
- 小笠原諸島・火山列島・南鳥島・沖ノ鳥島もアメリカの施政権下に入った。これらの地域では一部の欧米系住民以外の民間人居住を認めなかったが、1968年に日本に復帰した。
- 南樺太・千島列島の実効支配を喪失し、ソ連による統治が開始された。ただし、日本政府は法的にはこの地域の帰属を未確定と主張している。また、日本政府は千島列島南部の国後島・択捉島について、日露和親条約により平和的手段で領有が確定していた固有の領土と主張し、北海道の属島である歯舞群島・色丹島とともに支配を続けるソ連に対して返還を強く求めることになった(北方領土問題)。
- 連合国による占領
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- 敗戦後直ちにイギリス、アメリカ、フランス、ソ連などを中心とした連合国諸国による占領が開始され、司令部となる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に置かれた。
- GHQによる大規模な国家改造によって、大日本帝国の国家体制(国体)は壊滅させられ、新たに連合国(特にアメリカ)の庇護の下での国家体制が構築された(戦後レジーム)。
- その際駐留したアメリカ軍兵士を中心とした連合国軍の兵士による日本人女性への強姦、殺人、略奪事件が多発するも、この蛮行は現在も不問とされている。その強姦によって生まれた混血児を収容する為に、岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜の努力によりエリザベス・サンダースホームが出来る。そしてGHQはアメリカ軍兵士の性行為の相手をする慰安婦を日本において募集している。このように戦後の戦争裁判で正義として登場した国家がその裁判で断罪した内容と同じ行為を占領地において実際に行っているということは、戦勝国の自己正当化の記録としても興味深い。
- なお、この当時連合国諸国による分割統治計画があったが、分割されたのは旧大日本帝国領土の朝鮮半島で、南北をそれぞれ北朝鮮と韓国として分割独立させた。現在の日本国の国境区分は基本的にはアメリカを中心とした占領となった(傀儡政権)。イギリス、アメリカ、中華民国、フランスなどのいわゆる西側諸国が現在の日本列島と韓国を、そして共産主義国のソ連によって旧大日本帝国の領土であった北朝鮮が分割占領されたわけである。
- 戦犯問題
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- 勝者である連合軍によって多くの日本の軍人や政治家、民間人が戦犯として裁かれることとなり、その罪状内容により主にA級戦犯とB・C級戦犯の3種に別けられ、日本国内だけでなく日本以外のアジア各地で裁判が行われ多くが処刑された。勝者が敗者を裁くという構図のもと、きちんとした証拠も弁護人も不十分なまま、ずさんな手続きにより処罰・処刑が行なわれたと言われる(私怨による密告だけを元に処刑されたものがほとんどとする意見もある)。
- 極東国際軍事裁判についても、戦犯指定のあやふやさや証拠不十分、裁判中の度重なる通訳のミスや恣意的な裁判進行など、その内容は稚拙であったとする後年の指摘がある。
- 満州国瓦解時にソ連軍により約60万人もの日本軍将兵が捕虜となり、違法にソ連領土内で強制労働させられその多くが栄養失調や凍死で死亡した。
- 戦時賠償・抑留問題
- 皇室制度
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- 天皇制を維持するか否か(国体問題)は、連合国占領軍の大きな課題であったが、長年の間多くの国民の支持を受け続けていた天皇制を廃止すると逆に占領統治上の障害が生じるとして、ソビエト連邦やアメリカ軍内の一部の共産主義シンパ及び共和制至上主義者の反発を退け、北東アジアにおける共産主義の伸張を食い止める目的もあり、天皇制は維持されることに決定され、昭和天皇の戦争責任も追及されずに終わった。
- 上記の決定に伴い、昭和天皇は統帥権の放棄を行うなど戦前に儀礼的に就いていた全ての地位から退き、新たに「国民の象徴」という地位を持つことになった。
- 天皇制こそ維持されたものの、その成り立ちから貴族制度を持たず、華族制度の持つ利点を理解し得ないアメリカの指導により華族制度が廃止され、また、直系の皇族以外は皇族としての地位を失う(臣籍降下)ことになった。
- 1910年の日韓併合と同時に日本の王公族となった李王家の継承者である李垠は、これに合せて臣籍降下され事実上李王家は廃絶された。その後大韓民国が設立された後も李承晩大統領の妨害などもあり王位に戻ることはなかった。
- 新憲法
- 連合国軍最高司令官総司令部のマッカーサー総司令官の指示、決裁の元、アメリカ人がその大勢を占める総司令部の民政局長であるコートニー・ホイットニーらの手によって新憲法の草案が作成された。それを基に日本政府案が作られ、帝国議会での審議を経て、1946年11月3日に「日本国憲法」として公布された。
- アメリカはこれ以前にも影響下に置いた中南米の国々に、アメリカにとって有利な内容を含む憲法[43]を半ば強要したことがあり、日本国憲法の制定もこれに習ったものだと考えられる。日本国憲法が軍隊廃止条項をもつことから、冷戦時代は日米間の軍事協力に不都合なものとなり、冷戦後には国連などによる国際協力体制で軍事力の行使を含む平和維持活動を求められた際に問題となっている。冷戦時代より、この憲法が日本を不当に押さえ込む「押し付け憲法」と考え、改憲により「自主憲法」に変えようという主張・勢力が成立当初から存在したが、近年では自由民主党や民主党などの議員を中心にその動きが盛んである。反対に日本社会党などの左翼政党はこれを軍備放棄の政策として歓迎(日本共産党は1960年代まで自主軍備や天皇制反対の立場から憲法改正を主張)。以後、「憲法改正論議」が冷戦時代を通じて議論されることとなる。
[編集] 満州国
- 満州国は1945年8月のソ連軍の侵攻後に、事実上の宗主国である日本が連合国に降伏したため瓦解し、その後、中国東北部の支配権はソ連の占領を経て中華民国に返還された。
- 皇帝である愛新覚羅溥儀は8月に退位し、その後日本へ逃亡する途中に侵攻してきたソ連軍に一緒に行動していた側近・閣僚とともに捕らえられ、その後1950年に中華民国の国民党政府ではなく、ソ連と友好的関係にあった中華人民共和国の中国共産党政府に引き渡され戦犯として服役した。
- なお、皇室の一部は戦後日本に逃れたものの、溥儀の退位と逮捕、その弟である愛新覚羅溥傑などの主要皇族の逮捕に伴い皇室も事実上消滅した。
[編集] 中華民国
- 清代以来日本が租借していた関東州を全て回収し、崩壊した満州国に代わり満州全土での主権を回復した。ただし、同盟国であるソ連の要請により、旅順・大連両港や旧東清鉄道の租借権が改めて貸与された。
- フランスから広州湾租借地の返還を受けたが、イギリス領や同国租借地を含む香港はイギリス支配に復帰した。なお、マカオは中立国のポルトガル領であったことのみならず、租借地や戦争で奪い取った地でないこともあり、ポルトガル領のままとなった。
- 日清戦争で失った台湾島を日本から回復し、台湾島の住民も当初はこれを歓迎した。しかし、当時国共内戦を戦っていた中国国民党による過度な大陸への物資輸出と大陸からのインフレ波及により、台湾経済は混乱した。また、中国国民党は日本人に代わる特権階級として振舞い、台湾島住民の排斥と腐敗が横行した。中華民国政府による急速な中国化政策の推進は、台湾島住民との間に緊張を高めた。こうして1947年に二・二八事件が発生した。
- 上記のように、終戦以降連合国および戦勝国としての正式な地位は、日中戦争から長い間日本軍に対しての戦いを続けていた中国国民党の蒋介石率いる中華民国にあった。しかし戦後4年経った1949年に、ソビエト連邦の支援の下国共内戦に勝利した中国共産党が北京に中華人民共和国を樹立し、敗北した国民党は中国大陸から台湾島に遷都した。その後冷戦下で東西両陣営による政治的駆け引きが行われた末に中華民国が1971年に国際連合から追放されたことで、戦後20年以上の時を経て、戦勝国と国際連合の常任理事国としての地位を終戦時には国家として存在していなかった「中華人民共和国」が引き継いだ。
[編集] 東南アジア
東南アジア地域では日本軍を排斥した欧米各国が植民地に対する支配の回復をはかったが、様々な要因[44]により、大戦後に多くの東南アジアの植民地は独立を果たした。
[編集] タイ
第二次世界大戦以前より独立国であったタイ王国は、日本軍との一悶着の末、枢軸側として参戦したが、その裏では在米タイ公使館のセーニー・プラーモートがピブン政権と絶縁し東南アジア向けの反日放送を行ったり、ピブン内閣の実力者プリーディー・パノムヨンらが在日大使館を中心に日本内外に広範なスパイ網を構築し、情報提供によって米軍の日本本土空襲を支援するなど、連合軍側への鞍替えに向けた活動も行っていた。これはいわゆる「自由タイ」抗日運動として知られている[45]。自由タイはタイ国内ではピブーンによって半ば公認された活動となっていき、日本の敗戦の色が濃くなると、また日本と結んだ条約で内政が悪化するとピブーンは1943年首都を日本軍の影響が少なく、陸軍の部隊のあるペッチャブーンに移転する計画を秘密裏に画策、民族主義的な思想の持ち主であったルワン・ウィチットは1943年10月30日外相を解任され、代わりに自由タイのメンバーとして知られていたディレークが外相に任命された[46]。1945年8月16日、プリーディーが摂政の立場で「対英・対米への宣戦布告は無効であった」との宣言が出された[47]。こうしたタイの二重外交は戦後、アメリカの政策と相まって成功しアメリカはタイを敗戦国とすることを避けた。
一方で、イギリスはほとんど敗戦国として処理したといえる。イギリスは終戦時、速やかに平和条約を結ぶことは拒否[48]、さらに米を賠償させた上で翌年の1946年1月1日にようやく平和条約を結ぶことを許した[49]。また、タイ王国は戦時中に回復したフランス領インドシナの一部、イギリス領マレーおよびビルマの旧タイ領土を再びフランス、イギリスに取られた形となった。しかしながら、連合諸国による本格占領とこれに乗じた植民地化を免れ、続いて独立国としての立場を堅持することになった。
[編集] フランス領インドシナ
日本から独立が与えられていたフランス領インドシナ(ベトナム)では、日本の降伏直後に、ベトナム独立同盟会(ベトミン)がインドシナ共産党の主導下で八月革命を引き起こし、ベトナム帝国からの権力争奪闘争を各地で展開した。その後、9月2日に、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の建国を宣言した。
ところが、旧植民地の再支配を謀るフランスは独立を認めず、9月末にはサイゴンの支配権を奪取したことで、ベトミンと武力衝突した。その後、ベトミンはフランスとの交渉による解決を試み、1946年3月にはフランス連合内での独立が認められた。だが、フランスはベトナムが統一国家として独立することを拒否し、コーチシナ共和国の樹立などベトナムの分離工作を行なった。これにより、越仏双方が抱く意見の相違は解決されず、同年12月にハノイで越仏両軍が衝突したことで、第一次インドシナ戦争が勃発した。
[編集] オランダ領東インド
オランダ領東インド (インドネシア)では、日本の軍政に協力していた独立派が日本の降伏直後にスカルノを大統領とするインドネシア共和国の独立を宣言し、オランダとの独立戦争に突入した(インドネシア独立戦争)。
この戦争には、元日本軍将兵、約2000名が義勇兵として独立軍に参加している。インドネシアの国営英雄墓地では、その戦争により戦死した約1000名の日本軍将兵が埋葬され、6人の日本人が独立名誉勲章(ナラリア勲章)を受章した。この戦争の結果、1949年12月のハーグ円卓会議により、オランダは正式にインドネシア独立を承認した(ハーグ協定)。
なお、インドネシア政府は、オランダが日本国との平和条約(サンフランシスコ条約)締結時に、日本のオランダ領東インドに対する軍事侵攻に対して「被害者」の立場をとり、その後、賠償責任の枠を超えて日本に個人賠償を請求したことに対して、「(オランダは、侵攻してきた日本に対し被害者ぶるが)インドネシアに対しての植民地支配には何の反省もしていない」として強く批判している。
[編集] イギリス領マラヤ
イギリスはマレー半島に居住する各民族に平等の権利を与え、シンガポールを除く海峡植民地とイギリス領マラヤ諸州からなる「マラヤ連合案」を提示した。華僑とインド系住人はこれに賛成したが、マレー人には不評で、その結果、ダトー・オンを党首とする形で、統一マレー国民組織 (UMNO) が結成された。
イギリスは、1946年に発足したマラヤ連合との間で1947年にマレー人の特権を認める連邦協定を結び、1948年にマラヤ連邦が発足した。しかし華僑はこれに不満で、同年主として華僑からなるマラヤ共産党の武装蜂起が始まった。だが、マラヤ共産党の弾圧、その後各民族系政党が集まった(UMNO、マレーシア・インド人会議 (MIC)、マレーシア華人協会 (MCA))アライアンスの結成と独立の準備は着々と進んでいった。1955年7月の総選挙で圧倒的な勝利を収め(52議席中51議席をアライアンスが占めた)、1957年8月31日にマラヤ連邦はマレーシアとして完全独立を果たした(詳細は、統一マレー国民組織を参照)。
一方、シンガポールは戦後イギリスの直轄植民地となり、その後は自治国となり完全独立をめざすこととなった。サラワクと北ボルネオ(現在のサバ州)も戦後イギリスの直轄植民地となり、段階的に自治の供与が始まった。多大な石油資源を持つブルネイは保護領のままで、その独立は1980年代まで持ち越されることになった。
[編集] アメリカ領フィリピン
戦前、独立に向けての準備が進められていたが、日本の占領よって日本の傀儡政権が誕生する。終戦後に再びアメリカの統治下に戻され、その後1946年7月4日にマニュエル・ロハスを初代大統領にフィリピン共和国として独立を果たした。しかしアメリカ軍基地が国内に残され、多くのアメリカ資本が居座るなどアメリカの影響は残され、事実上アメリカの植民地状態が継続されたたままであった。
[編集] 南アジア
[編集] イギリス領インド
イギリスは戦後もしばらくの間はインドを統治し続けたが、大戦によりイギリスの国力は疲弊し、大英帝国を維持することが出来なくなった[50]。
また、マハトマ・ガンディーやジャワハルラール・ネルーらインド国民会議派が指導する独立運動の激化並びにヒンズー教徒とイスラム教徒との間の宗教対立にイギリス政府は耐え切れなくなったことも相俟って、アトリーは1947年2月20日、インドから1948年6月までに撤退することを決断し、ルイス・マウントバッテンを最後のインド総督として派遣した[51]。
マウントバッテンはネルー達に、ヒンズー教徒が多いインドとイスラム教徒が多い東西パキスタンに分割独立する案を受諾させ、また藩王国が印パに所属する過程が円滑に進むように、イギリス連邦に加盟することまでも受諾させる事に成功した[52]。そして、アトリーが当初宣言した予定より1年早い1947年8月15日、イギリス領インドは、ヒンズー教徒が多いインドと、イスラム教徒が多い、パキスタンに分割独立した(東パキスタンを構成するバングラデシュは1971年、パキスタンより独立した)。
しかしこの様なイギリスの都合に合わせ性急に行われた分割独立が、その後のインドとパキスタン両国の間における対立を引き起こし、その後も両国は対立を続けることになる。
[編集] オーストラリア・ニュージーランド
イギリスの植民地である両国は安全保障をシンガポールを拠点とするイギリス軍に依存していたが、マレー作戦およびシンガポール陥落以後に、オーストラリアが日本軍にダーウィン空爆やシドニー湾攻撃などの被害を蒙ったことを受け、安全保障のパートナーを宗主国の英国からアメリカに変更。ANZUSが成立する。
[編集] 中東・北アフリカ
[編集] イスラエル
1917年のバルフォア宣言に従えば、パレスチナは、ユダヤ人の独立国家が建設される予定であった。しかし、イギリスの三枚舌外交の帰結は、オスマン帝国領をイギリスとフランスで分割したサイクス・ピコ協定に従う結果となり、パレスチナは、イギリスの委任統治領となった。
1929年に始まった第5アリヤ(パレスチナへのユダヤ人の移住)は、雨垂れ式であったが、ヒトラーが権力の座についたことで、1933年から36年の4年間で、164,267人のユダヤ人が合法的に移住した[53]。その結果、パレスチナにおけるユダヤ人人口は、40万人に達した。そのことが、土着していたアラブ人との対立を招く結果となった。
ホロコーストとアトリー政権の親ユダヤ政策が、パレスチナの混迷をさらに招く形となった。1945年8月、トルーマンは、アトリーに書簡を送り、ホロコーストで生き残ったユダヤ人10万人のパレスチナ移住許可を求めた。
イギリスは、フランスとは異なり[54]、パレスチナの委任統治を継続したが、パレスチナの治安情勢の悪化とエクソダス号事件によって、委任統治を放棄することを検討しだした。
1948年5月16日、イスラエルは、独立を宣言。同時に、第一次中東戦争が勃発した。イスラエルは、国連決議よりも割り当てられた領域よりも広い領域の確保に成功するとともに、この戦争がパレスチナ難民問題を生み出す契機となった。
[編集] サウジアラビア
イギリスの後援で造られたヒジャーズ王国を滅ぼして、アラビア半島を統一した国家であり、この国の石油資源は、1933年に設立された石油会社を介してアメリカの資本の支配下にあった。
[編集] ヨルダン
1950年まではトランスヨルダンという国名であって、1946年に独立したものの、外交・軍事の実権はイギリスにあり、イスラエルと同時期にイギリス・フランスの委任統治領として成立した国家であったが、1950年に占領していたヨルダン川西岸を自国領にすると宣言し、その後国名をヨルダンと変えた。
[編集] イラク
イラク王国はイギリスの委任統治領から1932年に独立したものの、国内でのイギリス軍の移動の自由が認められイギリスによる石油資源の支配が行われているなど外交・軍事の実権はイギリスにあった。これに対しアラブ民族主義者はイギリスからの独立を企てドイツに接近した。国内は乱れ、1941年3月末にはついにアラブ民族主義者の軍幹部が決起し親英派の国王側近が追い出される事態となった(1941年イラク政変)。
しかしイラクでの利権喪失とイラクの石油が枢軸国の手に落ちることを恐れたイギリスは軍を侵攻させ、1か月余りの後に再びイラクを占領した(イギリス・イラク戦争)。以後、第二次大戦後までイラクはイギリス軍の占領下に置かれ、ヴィシー政権支配下のシリアへの侵攻と、イラク同様にドイツ側に落ちる恐れのあったイランへの侵攻はイラクから行われた。
第二次大戦後もイラクは英米の同盟国として振舞い、ソ連を封じ込めるバグダッド条約機構の一員となるものの、1958年にアラブ民族主義の青年将校によるクーデターが勃発し共和国が誕生し、王室は滅ぼされた。
[編集] イラン
詳細はイラン進駐 (1941年)を参照
第二次世界大戦中、米英からソ連に対する軍事物資援助のルートになっていたことで、北半分にソ連軍、南半分にイギリス軍が進駐していた。しかし終戦後、ソ連軍がなかなか撤退する気配を見せなかったので、イラン政府が1946年1月にソ連軍の撤退を求めて国連安全保障理事会に提訴した。その後翌年にソ連軍は撤退した。しかしこの結果、アゼルバイジャンの地方政権が半年後に崩壊してしまう契機となった。[55]
[編集] レバノン
第一次世界大戦終了後、サイクス・ピコ協定により、シリアとレバノンはフランスの、ヨルダンとパレスチナはイギリスの委任統治領となった。だが、第二次大戦中、本国フランスがナチス・ドイツに占領されたこともあり、独立の準備が進んでいたシリアやレバノンは、フランスからの独立を模索することとなる。
ビシャラ・アル・フーリーが中心となり、1943年にフランスからの独立を達成し、自由経済政策を推進し、レバノンは経済的な繁栄を誇った。しかし、1948年、ユダヤ人の手により、イスラエルが建国されると同時に勃発した第一次中東戦争により、アラブ側は敗退を余儀なくされ、10万人規模のパレスチナ難民がレバノンに流入した。このことが、レバノンの各宗派間のバランスの上に成り立っていた政治運営を困難にさせた面は否定できない。
また、各宗派間の対立が周辺諸国(シリア、イラン、イスラエル)の介入を招き寄せる結果となり、現在の混迷の原因もこの大戦に起因している。
[編集] トルコ
1946年8月にソ連が黒海から地中海を通る要衝であるボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の管理をトルコに要求したために、一時的にソ連との対立が激化した。しかしその後にはソ連が要求を取り下げたので米ソ対立は緩和していった。[56]
[編集] エジプト
エジプトもイスラエルと同様にイギリスの委任統治領にあり、1922年にイギリス側の一方的独立宣言と1936年イギリス・エジプト条約により形式的に独立に近づいていたが、スエズ運河一帯にはイギリス軍が駐留し、元来エジプト領だったスーダンの統治をめぐってイギリスに従属的立場に置かれていた。
しかし、1956年ガマール・アブドゥン=ナーセルはスエズ運河の国有化を宣言、英仏イスラエルの三カ国はナセルの行為に反発し、第二次中東戦争が勃発した。米ソ両大国の英仏イスラエルに対する反発により、エジプトはスエズ運河の国有化に成功しアラブ地域の盟主の地位を確立した。
[編集] 南北アメリカ
その全てが連合国、もしくは中立国であった中南米諸国は、ブラジルなどいくつかの国が連合国の一員としてヨーロッパ戦線に派兵を行ったが、その本土が直接戦争による被害を受けることはほとんどなかった。
戦後においては、共産主義思想の浸透を懸念したアメリカが、ただ「反共産主義的である」という理由だけでチリやキューバ、ブラジル、ドミニカ共和国、中米など多くの軍事独裁政権に対し経済的、政治的な援助を行った(PBSUCCESS作戦、チリ・クーデター、コンドル作戦)。それだけではなく、そもそもこうした政権の成立の過程にもアメリカ合衆国による介入がある場合が殆どだった。その結果、冷戦の終結によってアメリカがこれらの軍事独裁政権に対する援助を中止した1990年代初頭までの長きに渡って(1959年に起きたキューバ革命によって社会主義政権になったキューバを除いた)ほとんどの中南米諸国の国民は、腐敗した軍事独裁政権下で不安定な政治と富の独占、そしてそれがもたらす貧困にあえぐこととなる。
[編集] アメリカ合衆国
戦中、国家主導の軍事増産が経済回復をもたらし、景気刺激政策が定着していった。しかしミリタリー・ケインジアン・エコノミーというようにきわめて軍事色が強くなった。同じ時期に軍や官僚機構と癒着し、1950年代に「軍産複合体」と批判されるような構造を作り出すこととなった。
- 日本占領
-
- 日本の占領を連合軍の中で中心的に行い、アメリカにとって有益となる占領政策を行った。連合軍による日本占領の終了後もアメリカ軍基地を数多く残し、また、政財界に大きな影響力を堅持するなど日本を実質的な影響下におくことに成功した。
- イタリア上陸時にアメリカ軍がマフィアを使ったように、暴力団を占領下における左翼勢力を押さえ込むための暴力装置として活用し、そのことによって暴力団に大きな資金が転がり込み、勢力を飛躍的に伸ばす結果を生んだ。
- 日本領土である沖縄や小笠原諸島、奄美諸島をアメリカ軍の施政権下に置いた。
- 撤退した日本軍に代わり朝鮮半島の南部を占領した。大韓民国の独立後も朝鮮戦争期を経て現在に至るまで同地域にアメリカ軍基地を残したままである。
- フィリピン統治
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- 日本の場合と異なりこちらは左派色の強い抗日ゲリラがアメリカの支配にも抵抗するがアメリカはこれを激しく弾圧する。
- 戦前から植民地として統治していたフィリピンにおいても日本と同じくアメリカ軍基地を残した他、多くの権益を残し政財界に対し大きな影響力を残した。
- 太平洋諸島統治
- マフィアとの協力
- 連合国軍のイタリア上陸時における、イタリア系マフィアの現地協力組織による連合軍に対する情報提供や後方支援の他、アメリカ国内の港湾地域における対スパイ活動と引き換えに、アメリカ当局が当時アメリカ国内に収監されていたイタリア系マフィアの指導者の多くを減刑、もしくは釈放したことにより、戦後それらの組織がアメリカ国内で大きな力を持つことになった。
[編集] 新たに登場した兵器・戦術・技術
第一次世界大戦は工業力と人口が国力を左右したが、第二次世界大戦はそこに科学技術の差が明確に加わることとなった。戦争遂行のために資金・科学力が投入され、多くのものが長足の進歩を遂げた。
- 兵器
- 電子兵器(レーダー、近接信管)やミサイル、ジェット機、4輪駆動車、核兵器などの技術が新たに登場した。電子兵器と4輪駆動車を除く3つは大戦の後期に登場したこともあって戦局に大きな影響を与えることはなかったが、レーダーは大戦初期のバトル・オブ・ブリテンあたりから本格的に登場し、その優劣が戦局を大きく左右した。また、アメリカやドイツ、日本などがこぞって開発を行った核兵器(原子爆弾)の完成とその利用は、日本の降伏を早めるなど大きな影響を与え、その影響は冷戦時代を通じ現代にも大きなものとなっている。なお、大戦中期に暗号解読と弾道計算のためにコンピュータが生み出された。
- 第一次世界大戦時に本格的な実用化が進んだ航空機は、大戦直前に実用化された日本の零式艦上戦闘機やドイツのメッサーシュミットBf109のような近代的な全金属製戦闘機だけでなく、川西航空機九七式飛行艇のような飛行艇や、アブロ ランカスターやボーイングB-29などの大型爆撃機、大型グライダー、ジェット機など、さまざまな形で戦場に導入された。これらの航空機において導入されたさまざま技術は、戦後も軍用だけでなく民間でもさかんに使用されることになった。
- また、アメリカのダグラスDC-3やボーイングB-17に代表されるような、量産工場での大量生産を前提として設計された大型航空機の出現による機動性の向上は、ロジスティクス(兵站)をはじめ戦場における距離の概念を大きく変えることになった。また、ジープなどの本格的な4輪駆動車の導入やバイクやサイドカーの導入など、地上においても機動性に重点をおいた兵器が数々登場し、その技術は広く民間にも浸透している。
- 戦術
- 戦車やそれを補佐する急降下爆撃機を中心にした電撃戦(ドイツ)、航空母艦やその艦載機による機動部隊を中心とした海上作戦(日本)、ボーイングB-29やB-17のような4発エンジンを持った大型爆撃機による都市部への無差別爆撃(アメリカ、イギリス)や、V1やV2などの弾道ミサイルによる攻撃(ドイツ)、非戦闘民に対する核兵器の使用(アメリカ)などは、第二次世界大戦中だけでなくその後の戦争戦術にも大きな影響を与えた。
- 技術・代用品の開発・製造
- 絹に替わるものとしてナイロンが生まれたように、天然ゴムにかわる合成ゴムの開発製造、人造石油の開発・製造などが行われた。
[編集] 評価
[編集] 帝国主義の終焉と植民地解放
第二次世界大戦は帝国主義が極限に達したことで勃発したが、結果としては帝国主義を終焉させ植民地解放をすすめる契機となった。
イギリス、オランダ、フランス、アメリカなどの連合国によって長年植民地とされていたアジアの各国は、緒戦における日本軍の勝利に伴う占領により一時的に宗主国の支配下から切り離されることとなった。これにより非白人国が白人国の旧宗主国に対し勝利を収めたことを、植民地にされていた各国の国民が直接目にすることとなった。このことは被植民地の国民にとって、旧宗主国ひいては白人に対しての劣等感を払拭する大きな力となったと、後に中華民国総統となった李登輝やマレーシアの首相となったマハティール・ビン・モハマドやインドネシアのスカルノ大統領などの当時の被植民地の後の指導者が述べている。また、敗北した日本軍の武器が戦後の権力の空白時に独立運動を進める現地の運動家の手に渡ったことなどから、その後の独立運動にとって大きな影響があったとされる。以上の諸点から、日本がアジア各国の植民地解放を促進したとする見解がある。ただし遺棄兵器については、イギリスやオランダ、アメリカなど連合軍側の兵器も独立運動に多数流出している。
また連合国の勝利に依り、大日本帝國が崩壊し、日本の植民地であった朝鮮や、その他諸国が独立した。
なお、この戦争において戦場とならなかったサハラ以南のアフリカ諸国の独立運動がアジア地域の独立運動から遅れたことは、この戦争の存在と大きく関係しているという意見もあるが、それは単にサブサハラ地区の経済・社会発展がアジア地域よりも大きく遅れていたに過ぎない、という反論もある。
東ヨーロッパにおいては戦勝国であるソビエト連邦がこの地域のほとんどを占領し、バルト三国などを併合し、ポーランド、ドイツ、ルーマニアなどから領土を獲得すると共に、ポーランド、チェコスロバキア、東ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどに親ソ共産主義政権を樹立させた。その後冷戦下においてこれらの国を「衛星国」という名の新たな植民地として支配することになった。
[編集] 大戦と民衆
第一次世界大戦に始まった国家総力戦により、一般民衆はそれまで以上に戦争とかかわることとなった。第二次世界大戦では、戦場の拡大による市街地戦闘の増大や航空機による戦略爆撃、無差別爆撃。ドイツによるホロコーストなどの一民族に対する大量虐殺、日本による中国での大規模な破壊・略奪・虐殺を行った「三光作戦[57]」(燼滅作戦)など、戦争により空前絶後の被害を受けた。さらに、侵略者に対してパルチザン・レジスタンスとしてゲリラ的に蜂起することを余儀なくされ、民衆自身が戦争当事者として戦争に引きずり出された。
また、動員期間が長くなったため、婦女子の産業および軍事への進出が第一次世界大戦時よりも進んでいた。しかしこのことが多くの国において参政権を含む女性の権利獲得に大きな役割を果たした面もある。また原子爆弾や焼夷弾などの大量破壊兵器の登場は多くの民衆を戦闘に巻き込んだために彼らの反戦意識を向上させ、大戦後の反戦運動や反核運動へ繋がっていった。
[編集] 『よい戦争』
特に1970年代以降のアメリカでは、ベトナム戦争との対比で、第二次世界大戦を「よい」戦争(good war)とみる風潮が広まった。「民主主義対ファシズム」の単純な構図でアメリカが前者を守る正義を行ったとみる。この動きを多数の大衆インタビューにより、スタッズ・ターケルは『よい戦争 (The Good War)』[2]としてまとめた。この本はその後ピューリッツァー賞を受賞した。
しかし、戦後の冷戦構造の中でアメリカは、上記のソビエト連邦の動きに対抗するべく「反共産主義的」であるとの理由だけで、チリやボリビアなどの中南米諸国や、韓国、フィリピン、南ベトナムなどのアジア諸国のファシズム的な軍事独裁政権を支援した。そのためにこれらの国は長きに渡り混乱と貧困の中に置かれた。日本の占領過程では暴力団を手先として使ったり、東條内閣の商工大臣であった岸信介や中国大陸で海軍の威を借りて現地人に対する略奪行為を指揮していた児玉誉士夫などを、一度は戦犯容疑者としながら従順で利用価値があるとみるや釈放し復権させるなど、影響圏に収めた国々で自らの利益を優先した行動をとった。
[編集] 民主主義と戦争
大戦中「民主主義の武器庫」を自称していたアメリカは、それとは裏腹に深刻な人種差別を抱えていた。人手不足から被差別人種であるアフリカ系アメリカ人(黒人)も従軍することになったが、大戦中に将官になったものが1人もなく、大半の兵は後方支援業務に就かされる[58]など差別は解消されなかった。[59]参戦によっても差別構造が変わらなかったのは、主に暗号担当兵として多くが参戦したネイティブ・アメリカン(先住民)[60]も同様であった。
また、根強い黄禍論に基づいて繰り広げられた日系人に対する差別は、対日戦の開戦後に強行された日系人の強制収容により一層酷くなった。この問題は第二次世界大戦におけるアメリカの汚点の一つであり、問題解決には戦後数十年もの時間を要し、日系アメリカ人については1988年の「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)、日系ペルー人に至っては1999年まで待たなければならなかった。また、現在でもこれらの大戦時の日系人への差別行為の歴史については、アメリカ史の触れられたくない部分として、アメリカ社会では語ろうとする事さえタブー視される事が珍しくない。
一方で第442連隊戦闘団などの日系アメリカ人部隊の果敢な戦いぶりは、戦後日系アメリカ人に対する見方を大きく変える原動力となったが、あくまで印象が変わったという程度であり、現在においても、非公式な場での差別発言やアメリカ政府が日本政府に要求する態度にアメリカから見た日本というもののみかたが現れている。
また、敗戦国である日本に対しては、大戦において戦争を指導するどころか、参加したことが無い戦後生まれが多数を占める現在においても、「謝罪と賠償は相続される」との観点(この論理からは、日本は、未来永劫謝罪と賠償をしなければならないとされている)から[要出典]、大戦当時は国家として存在すらしていなかった中華人民共和国や大韓民国によって謝罪と賠償を求めるロビー活動が、日本国内や当該国内のみならず、日本の最大の輸出先であるがゆえに、日本に対して大きな影響力を持つアメリカ国内においても活発であり、またそれに金銭面の誘惑から同調、加担するアメリカの議員も多い。
[編集] 脚注
- ^ 油井大三郎・古田元夫著、『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』 中央公論社 1998年 p.191
- ^ ここでは第二次世界大戦の背景として基本的な要因のみをあげる。より詳しくは第二次世界大戦の背景を参照のこと。
- ^ なお、この時ドイツによる事前の宣戦布告は行われなかった。
- ^ この調印に際してドイツ軍は第一次世界大戦時に当時のドイツ軍が連合軍に対する降伏文書に調印した食堂車を特別に調印場所として用意した。
- ^ 法的にはペタン率いるヴィシー政府は合法的な正統政府であり、ド・ゴールの自由フランスは、新政府の方針に反旗を翻し脱走した陸軍将校ド・ゴールによる非合法的な亡命政府ともいえる。
- ^ イギリスのウィンストン・チャーチル首相は地中海のことを「ヨーロッパの下腹」と呼んだ。
- ^ また、アフリカ前線においては、北アフリカをはじめとするアフリカ全域に広大な植民地を持つフランスが降伏したことに伴い、北アフリカにあるフランスの植民地であるアルジェリアとチュニジア、モロッコ、東アフリカ沿岸のマダガスカル島などがヴィシー政権の管理下となった。
- ^ 現在のヴォルゴグラード。
- ^ この年は連合軍による地中海及び北アフリカ方面への全面攻勢の年であり、東部戦線でソ連軍によるクルスクの戦いが行われているとき、一方でイギリス軍とアメリカ軍をはじめとする連合国軍は、イタリア本土の前哨であるシチリア島上陸作戦(ハスキー作戦)を開始し、パルチザンやシシリー・マフィアなどの反ファシスト勢力の協力を得てシチリア島を占領し、次いでイタリア本土への上陸も開始されイタリア戦線がここに開かれた。
- ^ なお、陸軍の英雄であるロンメルの死の真相は公にされず、戦傷によるものと発表され祖国の英雄として盛大な国葬が営まれた。
- ^ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.104-105、およびウィンストン・チャーチル著、佐藤亮一訳、『第二次世界大戦』第四巻第19章(河出書房新社)
- ^ 会談途中に選挙で政権が労働党に交代し、クレメント・アトリーと交代する。
- ^ 当時はイギリスの植民地。
- ^ 当時はアメリカの植民地。
- ^ 当時はイギリスとオランダの植民地
- ^ オランダの植民地。
- ^ しかし後にポルトガル政府の暗黙の元、両地を事実上の統治下においた。
- ^ 1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした日本の事実上の傀儡政権。
- ^ 1938年に日本の協力の元に汪兆銘を首班として設立された政権。
- ^ 現在のスリランカ
- ^ 正式にはドイツ占領下のフランス。
- ^ 戦死後海軍元帥となる。
- ^ 日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および駐留フランス軍を武力によって解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたために連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。
- ^ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。
- ^ カティンの森事件については1992年にロシア政府が謝罪した。
- ^ 普仏戦争でのフランスの敗戦でドイツ領に併合、第一次世界大戦後、フランス領に復帰する。
- ^ その多くが第一次世界大戦までの旧ドイツ帝国領だった。
- ^ アメリカ・イギリス・フランス管理エリアとソ連管理エリア。
- ^ 一部の西ドイツの政府高官もその逃亡に有形無形の援助を行った。
- ^ 永世中立国宣言、ドイツとの合邦を永久に禁止した。
- ^ さらにドイツの外務大臣にも就任した。
- ^ 共に現在のリビア。
- ^ 現在のソマリア。
- ^ 中西輝政『大英帝国衰亡史』、PHP研究所、1997年 ISBN4-569-55476-8
- ^ 現在はリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ。
- ^ 現在のセルビアのボイボディナ自治州などが範囲。
- ^ 森田安一『物語 スイスの歴史』(中公新書、2000)pp.241-243
- ^ デンマークは受諾した。
- ^ フィンランドへの義勇軍は、ナチスではなくソ連に向けられていた。
- ^ 南京大虐殺を巡っての論争や、歴史認識問題、歴史教科書問題、慰安婦問題などがある。
- ^ 戦争末期の満州を巡る戦いで捕虜とされた日本兵が長くシベリアに抑留され、強制労働に服し、多くは死亡した。
- ^ 沖縄を始めとする各地にアメリカ軍の基地が存在しており、騒音問題やアメリカ軍人による日本人女性への強姦などアメリカ兵による犯罪が多発していることもあり、返還が議論されている。
- ^ 軍隊の非保有、法律制定に対するアメリカ大使の同意権など。
- ^ 宗主国の国力の疲弊とそれに伴い直接支配がもはや利益を齎さないと判断され放棄された、日本軍占領下での独立意識の鼓舞による独立運動の激化、日本軍統治下で創設された対日協力軍の独立軍への転化、戦前から独立が予定されていた、本国で人道上の理由により植民地支配への批判が高まったなどがある。
- ^ これらの活動については日本語書籍では市川健二郎著『自由タイの指導者達 日本占領下のタイの抗日運動』勁草書房、1987年 ISBN 4326350733 や同氏による論文等を参照。タイ語では ดร.วิชิตวงศ์ ณ ป้อมเพชร: ตำนานเสรีไทย เริงไชย พุทธาโร บรรณาธิการ, กรุงเทพฯ: แสนด่าว, 2546 ISBN 9749590651 が自由タイに関する古典的著作とされている。
- ^ คณะรัฐมนตรีคณะที่ ๑๐: ๗ มีนาคม ๒๔๘๕ - ๑ สิงหาคม ๒๔๘๗ - สำนักเลขาธิการคณะรัฐมนตรี
- ^ 赤木攻『タイ政治ガイドブック』Meechai and Ars Legal Consultants CI.,LTD.、1994年、p258
- ^ Terwiel B.J.: Thailand's Political History, Bangkok: River Books, 2005, p.279, ISBN 9749863089
- ^ 村嶋英治著『現在アジアの肖像9 ピブーン 独立タイ王国の立憲革命』岩波書店、1996年、p.245、 ISBN 4000048643
- ^ 長崎暢子「第9章 ガンディー時代」p.422 辛島昇編『南アジア史』(山川出版社 2004年)、英領インドが成立して以来、対英負債を抱えてきたのは常にインドである。(省略)だが、第二次世界大戦は長い間の債務関係を一挙に逆転させ、今度はイギリスが、1945年に13億ポンドという膨大な負債をインドに対して持つ債務国となった
- ^ Ibid. p.422
- ^ Ibid. p.422-423
- ^ ウリ・ラーナン他著、滝川義人訳『イスラエル現代史』p.87
- ^ 1943年に、レバノンとシリアは独立を達成した。
- ^ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.207-210
- ^ 油井大三郎・古田元夫著、「世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ」(中央公論社 1998年)pp.212-213
- ^ これは日本語として不自然な漢語由来の名称であるから作戦自体が中華民国及び中国共産党のプロパガンダであるとする主張もある。
- ^ 実際の戦闘に参加したものは5%に過ぎなかった。
- ^ アメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人に対する法的な差別の解消は、1960年代に活発化した公民権運動とそれの結果による公民権法の成立を経なければならなかった。ただし、現実の差別解消はその後数十年経った現在もなお完全に実現されたとは言い難く法の下では平等であっても社会的な生活階層に占める人種割合や下位の社会階層から抜け出る事が人種により差が残る等世俗慣習として差別は以前として残っている。アメリカ政府はアメリカは自由で平等な国であるので、差別は国内には存在しないとしている。
- ^ ナバホ族の難解な言語をそのまま暗号としてを用いた。コードトーカー参照
[編集] 参考文献
- 総記
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- 福田和也『第二次大戦とは何だったのか?』筑摩書房 2003年 ISBN 4-480-85773-7
- 油井大三郎・古井元夫 『世界の歴史28 第二次世界大戦から米ソ対立へ』中央公論社 1998年 ISBN 4-12-403428-8
- 防衛庁防衛研究所戦史部編 『戦史叢書』 朝雲新聞社 1980年
- J.M.ロバーツ 『世界の歴史9 第二次世界大戦と戦後の世界』 五百旗頭真訳 創元社 2003年 ISBN 4-422-20249-9
- 軍事史学会編 『第二次世界大戦 発生と拡大』 錦正社 1990年
- 回顧録
-
- ウィンストン チャーチル「第二次大戦回顧録」毎日新聞社(翻訳)毎日新聞社 ISBN 4-1220-3864-2
- 産経新聞「ルーズベルト秘録」取材班 「ルーズベルト秘録」扶桑社 2000年 ISBN 4-594-03015-7
- ロベール・ギラン「アジア特電 1937~1985―過激なる極東」矢島翠(翻訳)毎日新聞社1986年
- 田久保忠衛「戦略家ニクソン」中央公論社1996年 ISBN 4-12-101309-3
- 春名幹男「秘密のファイル CIAの対日工作」新潮社 2003年 ISBN 4-7641-0454-7
- ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」 勁文社 / 角川文庫 2000年 ISBN 4-04-247103-X
- 立作太郎「平時国際法論」(日本評論社)
- 川上忠雄「第二次世界大戦論」(風媒社) ISBN 4-8331-0207-2
- ズビグネフ・ブレジンスキー 「大いなる失敗―20世紀における共産主義の誕生と終焉」 伊藤憲一訳 飛鳥新社 1989年
- 各国史
-
- 武田龍夫 『物語 北欧の歴史』 中公新書 1993年 ISBN 4-12-101131-7
- 萩原宜之 『ラーマンとマハティール』 岩波書店 1996年
- 森田安一 『物語 スイスの歴史』 中公新書 2000年 ISBN 4-12-101546-0
- ウリ・ラーナン他著 滝川義人訳 『イスラエル現代史』明石書店 2004年 ISBN 4-7503-1862-0
- 堀口松城 『レバノンの歴史』 明石書店 2005年 ISBN 4-7503-2231-8
- 辛島昇編 『南アジア史』 山川出版社 2004年 ISBN 4-634-41370-1
- 中西輝政 『大英帝国衰亡史』 PHP研究所 1997年 ISBN 4-569-55746-8
[編集] 関連項目
- 第二次世界大戦の背景
- 第二次世界大戦の参戦国
- 第二次世界大戦の会談・会議
- 第二次世界大戦に関連する人物の一覧
- 第二次世界大戦を題材とした作品一覧
- 第二次世界大戦に関する映画の一覧
- 日本のユダヤ人
- フー・ファイター
- 竹槍事件
- ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム - 厭戦化工作 存否について争いあり
- 日本国との平和条約
- 終戦記念日
- 対日戦勝記念日
- 光復節
- 解放記念日
- ヨーロッパ戦勝記念日
- 朝鮮戦争
- 中国残留日本人孤児
- 中国山西省日本軍残留問題
[編集] 外部リンク