特殊潜航艇によるシドニー港攻撃
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特殊潜航艇によるシドニー港攻撃とは、太平洋戦争中の1942年、大日本帝国海軍の潜水艦がオーストラリアのシドニー港停泊中のオーストラリア海軍艦船を攻撃したこと。マダガスカルの戦いと連動した攻撃でイギリス連邦間の通商破壊を目的した攻撃。
参加した潜水艦は伊21、伊22、伊24、伊27、伊29の5隻で、伊22、伊24、伊27の3隻が特殊潜航艇甲標的を搭載した。計画ではもう1隻伊28も参加する予定であったが、同艦は1942年5月17日アメリカ海軍潜水艦タウトグの雷撃で沈没した。
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[編集] 部隊
使われた特殊潜航艇は基本的には真珠湾攻撃で使われた甲標的と同型のもので、少し改良が施されていた。主要目は以下の通りである。
[編集] 経過
伊21、伊29は4月27日に、伊22、伊24、伊27は5月18日朝にトラック諸島チューク島を出港した。出港当日の夕方、伊24搭載艇が爆発事故を起こし乗員が死傷したため、同艦はトラック諸島に引き返し、乗員を伴中尉らと交替させて再度出港した。
5月30日、特殊潜航艇を搭載した潜水艦伊22、伊24、伊27の3隻はシドニー沖に到着した。31日16時21分、伊22搭載艇が発進。続いて28分に伊27搭載艇が、40分に伊24搭載艇が発進した。
伊27搭載艇はシドニー港入り口で防潜網に絡まり、21時30分ごろ自爆した。
次に伊24搭載艇が港内に向かい、侵入に成功した。伊24搭載艇は港内に在泊していた重巡洋艦シカゴを発見し魚雷を発射した。魚雷は2本ともはずれ、そのうち1本は岸壁に係留されていた宿泊艦クッタブルの艦底を通過して岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死した。伊24搭載艇は脱出に成功したものの行方不明となっていたが、2006年11月26日にオーストラリアの民放局が、地元のダイバーによってシドニー沿岸数キロ沖の海底で沈没した船を発見したと報じた。映像からは魚雷管などが確認できたため、特殊潜航艇ではないかとの見方が浮上してオーストラリア政府が確認に乗り出し、12月1日、キャンベル環境・自然文化遺産相によって旧日本海軍の特殊潜航艇と確認と発表された。[1]。
最後に伊22搭載艇が港内に侵入したが、このときには警戒が厳しくなっていた。伊22搭載艇は爆雷攻撃を受け結局自爆した。魚雷は未発射であった。
特殊潜航艇を発進させた潜水艦は6月3日まで帰投を待っていた。
[編集] 攻撃後
自爆した2隻の特殊潜航艇は6月4日、5日に引き上げられ、9日に英国海軍から派遣されていたシドニー要港司令官ジェラード・ミュアヘッド=グールド海軍少将(Rear Admiral Gerard Muirhead-Gould, 1889-1945)は乗員4名(松尾大尉・中馬大尉・大森一曹・都竹二曹)の海軍葬を行った。戦死した4人の遺骨は中立国であるポルトガル領東アフリカのロレンソ・マルケスで日本側に引き渡され、第一次日英交換船の鎌倉丸によって、10月9日に遺族らが待ち受ける横浜港に到着した。翌1943年3月27日に、特殊潜航艇の乗員は二階級特進した。
戦時中に敵国である大日本帝国の海軍軍人に鄭重な礼を尽くすことには、オーストラリア国民の一部から批判があったが、装甲の薄い小型の特殊潜航艇で港内深くまで潜入し、敵に発見されるや投降することなしに自沈する松尾大尉らの勇敢さに対し、英国海軍のグールド少将は海軍葬で礼を尽くし、葬儀のあとラジオで演説し、毅然として豪州国民に訴えた。その弔辞の一部が今も伝わっている。
「このような鋼鉄の棺桶で出撃するためには、最高度の勇気が必要であるに違いない。これらの人たちは最高の愛国者であった。我々のうちの幾人が、これらの人たちが払った犠牲の千分の一のそれを払う覚悟をしているだろうか」[1]
また、この時点では日豪戦争が始まって半年しか経過しておらず、第一次世界大戦時のインド洋と地中海に於ける英国海軍とオーストラリア海軍への日本海軍による協力に対する返礼の意味もあったと考えられるが、より直接的には日本軍に捕らえられていたオーストラリア人捕虜の待遇改善を期待した行為でもある。
引き上げられた特殊潜航艇は、戦時オーストラリア国民の危機意識を高め、戦時募金を募る目的でオーストラリア国内4,000キロを巡回展示されたあと、1943年4月28日にオーストラリアの首都キャンベラのオーストラリア戦争記念館(Australian War Memorial)に落ち着いた。屋外に展示されていた間は、様々ないたずらや破壊行為の標的にされたが、中でも1966年に現地の学生らによって黄色のペンキを塗りつけられた事件が悪名高い。これは当時流行していたビートルズ(The Beatles)の「イエロー・サブマリン」("Yellow Submarine")にかこつけた洒落とのことである。1980年代に同記念館の館内に展示・保存されて以降は大きな事件はない。現在ではシドニー湾への侵入経路や戦死した乗員に関する詳しい説明パネルが付されているが、暗い館内では読みづらい。写真撮影や手に触れることも可能である。
海上自衛隊の練習艦隊がシドニー港に寄港する際には隊員が慰霊を行うのが通例である。
[編集] 外部リンク
- http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/toku-matuo.htm
- http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/toku-ban.htm
- http://www.asahi-net.or.jp/~UN3K-MN/toku-asibe.htm
[編集] 関連項目