日本軍
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日本軍(にっぽんぐん、にほんぐん)とは広義には日本が有する軍隊のこと、狭義には第二次世界大戦で敗戦するまでの日本、すなわち大日本帝国が保持していた軍隊(大日本帝国陸軍と大日本帝国海軍の両軍)を指し、後者の場合は現在旧日本軍、または旧軍と略称される。さらに国軍、皇軍(こうぐん)、皇御軍(すめらみいくさ)、帝国軍、帝国陸海軍、大日本軍などの呼称もある。ここでは旧日本軍について主に記述する。
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[編集] 組織
以下は1937年(昭和12年)頃の、日中戦争勃発以前の平時に於ける日本軍の組織である。
天皇の統帥の下に陸軍と海軍があり、それぞれ陸軍大臣と海軍大臣が軍事行政について天皇を輔弼した。陸軍の軍・師団の司令官、海軍の連合艦隊・艦隊・鎮守府の司令長官は、天皇に直隷して部隊を指揮統率した。空軍は編制せず、陸海軍にそれぞれ航空隊があった。
陸軍は、内地が東部、中部、西部に区分されてそれぞれの地域に防衛司令部が設置され、また内地に14個師団と北海道に1個師団が配備されていた。朝鮮には朝鮮軍司令部と2個師団が配備され、台湾では台湾軍司令部と台湾守備隊が置かれた。関東州・満州には関東軍司令部と関東軍守備隊、内地、朝鮮には第一航空軍が設置されていた。
海軍は、平時の編制ではまず艦船を現役艦と予備艦に分け、現役艦を以って第1艦隊と第2艦隊から構成される連合艦隊、または警備艦として鎮守府に所属した。
当初は、徴兵告諭の「海陸二軍ヲ備ヘ」など海軍を先に表記することもあったが、後世は陸海軍を併記する場合は陸軍を先に表記することが通常となった。
- 天皇
[編集] 管区
大日本帝国はその領土・領海を管区で区分し、軍事上の地方行政区として管区別に部隊が配備された。内地は東部、中部、西部の3つの区域に別けられ、それぞれに防衛司令部が設置された。また北海道を含む全国を14に区分した師管区にそれぞれに師団司令部が置かれ、師管区の下を全国を51の連隊区に区分してそれぞれ連隊区司令部が置かれた。
海域も領海を海軍区によって区分して、そこに軍港・要港を置いた。軍港が横須賀とされた第1海軍区、呉とされた第2海軍区、佐世保とされた第3海軍区、舞鶴とされた第4海軍区に分けて、これをさらに陸上区画と海上区画に分けた。各海軍区は軍港の鎮守府が管轄して要港は警備府が置かれた。
[編集] 歴史
[編集] 創設
日本では江戸時代後期に蘭学の興隆によりヨーロッパの軍制が部分的に紹介され、1853年(嘉永6年)の黒船来航などで対外的脅威により、江戸幕府や諸藩では西洋式軍隊の創設を開始する。幕府はフランス式陸軍を採用し、軍事顧問を招いて装備の導入や軍隊(幕府歩兵隊)の編成を行い、長州藩、薩摩藩、佐賀藩でも軍制改革が行われた。江戸時代の幕藩体制においては軍事に従事するのは武士階級のみであったが、長州藩で設立された奇兵隊などは、農民や町民などが混成した民兵部隊であった。1867年(慶応3年)の大政奉還、王政復古により江戸幕府は消滅して薩摩、長州の軍事力を中核とする明治新政府が成立し、旧幕府軍と戊辰戦争で戦った。
幕府により行われた西洋式軍隊創設は明治新政府に引き継がれた。新政府は富国強兵を国策に掲げ、1871年(明治4年)2月には長州藩出身の大村益次郎の指揮で天皇の親衛を名目に薩摩、長州、土佐藩の兵からなるフランス式兵制の御親兵10,000人を創設し、常備軍として廃藩置県を行うための軍事的実力を確保した。
1871年4月の設立当初は鎮台制と呼ばれる組織体系の下、士族反乱である佐賀の乱や西南戦争など内乱鎮圧を主たる任務とした。徴兵制度の施行に伴い国民軍としての体裁を整えていった。その後陸軍は師団制に移行。海外において外国軍隊との戦争を行いうる軍制に移行した。設立の基礎が明治維新時の薩長軍であったために永らく藩閥支配が払拭できず、陸軍では長州藩、海軍では薩摩藩の出身者が要職を固めた。1872年に陸軍省が兵部省から分離し、1878年には参謀本部が独立する。新政府は廃藩置県や廃刀令で武士階級を事実上消滅させた後、1873年に徴兵令を施行する。陸軍卿には奇兵隊出身の山県有朋が就任する。山県は普仏戦争(1870年)でプロイセンが勝利した事をうけ、フランス式の軍制からドイツ式への転換を行った。海軍は当初から英国の海軍制度に倣って編成された。
陸海軍共に初期の仮想敵国はロシアであったが、日露戦争後は陸軍はロシア革命後のソ連を、海軍はアメリカを仮想敵国と見なして軍備をすすめた。明治期においては兵器類は英国などから購入していたが、日露戦争頃から次第に国産化がすすみ、太平洋戦争頃までには大艦巨砲主義を追求した戦艦大和、武蔵に代表される艦艇、軽量戦闘機を追求した海軍零式艦上戦闘機に代表される航空機など、欧米に比肩しうる高性能の兵器を開発・装備した。しかし、一方で明治時代後期に採用された三八式歩兵銃を第二次世界大戦の終結まで使用するなど、兵器の配備についてはアンバランスさが目立った。
また、ミッドウェー海戦以降、反攻に転じた米軍に対して、キスカ島撤退作戦など撤退が成功した例を除いて、物量において劣勢な各地の陸海軍部隊は、アッツ島の戦いでの玉砕以降、降伏を拒否して、最後は万歳突撃を行って玉砕を遂げる部隊が続出した。
[編集] 軍事機構の問題
[編集] 政戦略の不一致
国家が国防方針を策定する場合には国家戦略と軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を政戦略の一致と言う。大正・昭和に入ると、旧日本軍の統帥権の独立を巡って軍部が政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。
1889年に制定された大日本帝国憲法第11条にある「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という文言は統帥権、すなわち軍事作戦に関する命令・実行の権限が行政・司法・立法から独立していることを保障したものとする憲法解釈が次第に行われるようになる。これは立憲君主制に基づいた、陸軍は陸軍大臣の輔弼(ほひつ)、海軍は海軍大臣の輔翼(ほよく)責任のもと政府と陸軍省・海軍省の統制下にあり、統帥大権も統治大権と同じく大臣の補弼責任の下にあり、決して統帥大権の独立を保障するものではないという解釈に反し、総理大臣や議会が軍事に干渉することは出来ず、政治と軍事が対等の地位に定められることになった。
これは満州事変や日中戦争で軍が政府の方針を無視して独走し、それを政府が追認するという事態が生じた。また昭和期に入って軍部大臣現役武官制が復活したことによって、軍部が陸海軍大臣を推薦しなければ内閣が組織できなくなり、軍部の政治権力の強化に利用されることにもなった。
この統帥システムはプロシアの軍制を模範として考案されたものであり、軍隊が政治指導者の政治的意図で利用されることや、作戦行動の秘密を保全する目的があった。しかし、実際には大日本帝国憲法の統帥権の独立は政略不一致をもたらす大きな要因となった[1]。
[編集] 統合運用の障害
統合運用とは軍種間で脅威認識や国防方針を一致させ、平時においては共同の作戦計画準備や訓練を行うことによって、統合化を行ったうえで運用する方式である。大日本帝国憲法第11条での陸海軍の並立の規定は、歴史的な陸海軍の政治対立もあって、この統合運用体制の確立を阻害する一因となった。
明治初期には兵部卿が陸海軍の軍令と軍政を一元的に統括していたが、1872年に軍隊の巨大化に伴って軍政機関が陸軍省と海軍省に分けられた。1878年には軍令機関の参謀本部が設置されて三元化する。1886年に陸海軍統合軍令機関である統合参謀本部が設置されることが決定したが、後に陸軍参謀本部と海軍参謀本部に再び軍令機関が二元化した[2]。1903年には海軍の軍令機関である軍令部が設置され、その後に陸海の軍令・軍政の統一的な統制を行う機関は1945年の敗戦まで整備されることはなかった[1]。この統合運用の体制の不備は陸海軍の国防思想の不整合、作戦行動における不和、時には陸海軍の内部対立までをも生み出し、旧日本軍の統合運用を決定的に困難なものにした。
[編集] 旧日本軍関連年表
[編集] 明治期
- 1870(明治 3年)兵制統一布告(海軍はイギリス式、陸軍はフランス式と定める)
- 1871(明治 4年)薩摩長州土佐からの献兵による御親兵が編成される
- 1873(明治 6年)徴兵令の布告
- 1874(明治 7月)佐賀の乱、台湾出兵
- 1875(明治 8年)江華島事件
- 1876(明治 9年)熊本神風連の乱・秋月の乱・萩の乱
- 1877(明治10年)西南戦争
- 1882(明治15年)軍人勅諭発布
- 1888(明治21年)陸軍参謀本部条例・海軍軍令部条例・師団司令部条例公布
- 1889(明治22年)大日本帝国憲法発布
- 1893(明治26年)戦時大本営条例を公布
- 1894(明治27年)日清戦争
- 1895(明治28年)日本軍、下関条約にもとづき台湾を接収
- 1899(明治32年)義和団事変
- 1900(明治33年)軍部大臣現役武官制を確立、北清事変
- 1904(明治37年)日露戦争(明治38年終結)
[編集] 大正期
- 1913(大正 2年)軍部大臣を予備役・後備役・退役将官からの登用が可能となる
- 1914(大正 3年)シーメンス事件、第一次世界大戦
- 1918(大正 7年)シベリア出兵、第一次世界大戦終結
- 1919(大正 8年)関東軍司令部条例公布
- 1920(大正 9年)尼港事件
- 1921(大正11年)ワシントン軍縮会議
- 1923(大正12年)甘粕事件
- 1925(大正14年)シベリア出兵終了、宇垣軍縮
[編集] 昭和期
- 1927(昭和 2年)
- 1928(昭和 3年)
- 1930(昭和 5年)
- 1931(昭和 6年)
- 1932(昭和 7年)
- 1934(昭和 9年)ワシントン海軍軍縮条約破棄
- 1936(昭和11年)
- 1937(昭和12年)
- 1938(昭和13年)
- 1939(昭和14年)ノモンハン事件
- 1940(昭和15年)仏印進駐
- 1941(昭和16年)
- 1942(昭和17年)ミッドウェー海戦
- 1943(昭和18年)
- 1944(昭和19年)
- 1945(昭和20年)
- 1946(昭和21年)
[編集] 陸海軍共通の特務機関
詳細は特務機関を参照
[編集] 脚注
[編集] 参考文献
- 防衛庁防衛研修所戦史部 『戦史叢書 陸海軍年表 付兵語・用語の解説』(朝雲新聞社、昭和55年)
- 防衛法学会 『新訂 世界の国防制度』(第一法規出版、平成3年)
- 黒川雄三 『近代日本の軍事戦略概史』(芙蓉書房出版、2003年)