海軍甲事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
海軍甲事件(かいぐんこうじけん)とは、1943年(昭和18年)4月18日に起こった連合艦隊司令長官 山本五十六海軍大将機撃墜事件のことを指す。日本軍の暗号がアメリカ海軍情報局に解読され、待ち伏せを受けたことから発生した。
目次 |
[編集] 参加兵力
- 日本:一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機(内3機戦闘前に引きかえす。零戦隊第二小隊の三番機を務めた柳谷飛兵長は元々6機だったと主張している。)
- アメリカ:P-38戦闘機18機(内2機途中で引きかえす)
[編集] 戦闘前の状況
日本海軍は1943年4月7日から「い」号作戦を実行し、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国艦隊に攻撃を加えた。 この作戦が一応成功し、山本長官自らショートランド島方面に視察と激励に行くことになった。 4月13日前線の各基地に4月18日の分単位の視察計画が暗号電報で通知された。 米軍はこの暗号電報を直ちに解読し、山本機撃墜計画を立案し、当日に実行した。
[編集] 戦闘の推移
- 5時25分 P-38戦闘機18機、ガダルカナル島ヘンダーソン基地出撃。7時35分にブーゲンビル上空に到着予定。
- 6時05分 一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機9機、ニューブリテン島ラバウル東飛行場出撃。
- 7時33分 P-38戦闘機16機(出撃後2機故障帰還)、V字編隊の一式陸上攻撃機2機、零式艦上戦闘機6機をブーゲンビル島上空で発見、攻撃開始。
- 7時50分頃 山本長官搭乗の1番機被弾、モイラ岬のジャングルに墜落。宇垣纏参謀長搭乗の2番機も被弾炎上し海上に不時着。
[編集] 被害
- 日本:一式陸上攻撃機2機撃墜。1番機に搭乗していた山本長官以下11名は全員戦死。2番機に搭乗していた宇垣参謀長ら3名は負傷したが救助された。なお、日本人として戦後墜落現場を初めて訪れた阿川弘之は長官機が撃墜された後も、山本五十六長官の遺体に蛆がなく綺麗だった事などから、しばらく存命していたか、同乗していた軍医長が何がしかの処置をしたのではないか?と著書『山本五十六』の中で述べている(しかし、命中した機銃弾の口径から弾があたっていれば即死と考えられる)。また、地上から収容にあたった歩兵23連隊の蜷川軍医の検死調書によると遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。山本長官の戦死は全軍の士気に大きな影響を与える事が予想されたため、関係者には箝口令が敷かれた。遺骨が東京に到着した5月21日に戦死の事実が公表され、6月5日に国葬された。因みに、当時の首相だった東條英機は、山本が戦死したとの一報を受け、「君逝き みにしむ責の 重きかな されどやみなん 勝てやむへき」と詠んだ。
- アメリカ:P-38戦闘機1機撃墜。
[編集] 情報戦
米国は暗号を解読して山本機を撃墜した事を日本海軍に知られたくなかった。撃墜の翌日、サンフランシスコ放送は山本長官の名前を出すことなく、撃墜の事実のみを簡単に報じた。米軍は山本機撃墜の翌日に、ブーゲンビル島のカヒリ飛行場を空爆し、山本機への攻撃を一帯への攻撃の一部であるかのように見せた。 逆に日本海軍は二週間前に暗号表を更新しており、暗号が解読されたという見解を取らず、その後の日本海軍の連敗へとつながった。