ヤルタ会談
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ヤルタ会談(ヤルタかいだん)は、1945年2月にソ連クリミア半島のヤルタで行われた、F.ルーズベルト(アメリカ)・チャーチル(イギリス)・スターリン(ソ連)による首脳会談。
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[編集] 概要
連合国の主要3カ国首脳の会談が行われた結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。
併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定も締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、これがその後も日本とソ連(現在のロシア)両国の間の長年の懸案となった、いわゆる「北方領土問題」の原因となった。
[編集] 常任理事国
また、その後正式に発足した国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国(後の国際連合常任理事国メンバー)の拒否権を認めたのもこの会談であった。
[編集] ポーランド問題
ヤルタ会談の半分以上の日程は、このポーランド問題について話し合われた。
第二次世界大戦中、ポーランドは西半分をドイツに、東半分をソ連に、それぞれ分割占領されていた。しかし、ドイツが独ソ不可侵条約を破って、東半分に進軍し、ポーランド全域を占領した。その後、アメリカの支援を受けたソ連は、軍を立て直して、再び東半分をドイツから奪還し、ルブリンで、ポーランド国民解放委員会(後のルブリン共産党政権、ルブリンは地名)を樹立した。
ソ連は、さらに西へ軍を進め、首都ワルシャワに迫ったとき、モスクワ放送で、国内軍(ポーランドの市民で作る、反ナチス勢力)に蜂起を呼びかけた(ワルシャワ蜂起)。国内軍は、ソ連からの支援を信じて蜂起し、ワルシャワを占領するが、国内軍の蜂起後、ソ連は進軍を停止し、国内軍を支援しなかった。国内軍に、ソ連からの支援がないことを知ったヒトラーは、ワルシャワの徹底的破壊を指示し、国内軍は壊滅した。この戦闘で、ワルシャワ市内の8割の建物が破壊され、15万人以上の死者を出したといわれる。
このとき、アメリカとイギリスは、ソ連に国内軍への支援を要求したが、当時のソ連指導者スターリンはこれを無視した。当時、ロンドンにポーランドから亡命していた指導者たちで作る、亡命政権が存在し、イギリスは、亡命政権をポーランドの正式な政権として、承認していた。しかし、カティンの森で、ソ連軍に連行されたポーランドの将兵の死体が、大量に発見される(カティンの森事件)と、イギリスは赤十字に調査を依頼した。これにより、イギリスとソ連の関係が悪化し、また、イギリスの承認する亡命政権とソ連は関係を断絶した。ソ連は各国に、ポーランドの正式な政権は、ロンドンの亡命政権ではなく、ルブリン共産党政権だと認めさせるために、ルブリン共産党政権に、ポーランドの実質的な統治をさせたいと考え、そのために邪魔となる恐れがあった国内軍を意図的に壊滅させたとみられる。
ヤルタ会談では、ロンドンの亡命政権と、ルブリン共産党政権のどちらが正式な政府かを巡って、イギリスとソ連が対立し、平行線をたどった。ポーランドは地理的な問題から、ソ連にとっても、イギリスにとっても重要な国であった。ソ連にとっては、隣国であり、ドイツのソ連侵攻の拠点になったことから、安全上の問題で、重要だった。一方、イギリスにとっては、首相のチャーチルが、社会主義の拡大を懸念していたため、共産党政権を認めることはできなかった。結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポーランドの国自体を、西へ移動させることで決着した。
ところが、スターリンは選挙のために戻ってきたロンドン亡命政権の指導者を逮捕し裁判にかけた。これにより、ポーランドはルブリン共産党政権によって統治されること、また社会主義国となることが決定的となった。後のアメリカ大統領、トルーマンはこのことを知って激怒し、米ソの対立が深まっていった。
[編集] ドイツ問題
ドイツは現在のオーデル・ナイセ線以東にあるシレジア、ポメラニア、東プロイセンの領土をすべて失い、これらの領土はポーランド領となることが決定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の四分の一にあたり、ドイツにとってはプロイセンの故地である東プロイセンを含めた広大な領土を失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。
なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西へずれ、若干の領土縮小につながった。また、ガリチア等旧西部領に居住するポーランド人は、そのままソ連領へ編入される結果となった。
一方、戦後ドイツの処遇について、東側陣営と西側陣営で共同管理することが決められた。
[編集] 極東密約(ヤルタ協定)
主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定。ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。ヤルタ協定では、ドイツ降伏の2~3ヵ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた。
ヤルタ協定に従って、ドイツ降伏3ヵ月後にソ連は日本に宣戦布告。戦争を終結させる勢力の実も実り ポツダム宣言受諾・有条件降伏を決めた。
[編集] その他の国について
この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談で決定していた台湾の中国への返還を改めて確認した。また、ここでいう中国とは蒋介石の率いる中国国民党であり、当時はソ連も国民党を中国の正式な政権として支持していた。また、朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。
[編集] 批判
本会談の意義は、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国の立場からみた領土や戦後イニシアティブといった、戦後世界の枠組みに関する利害調整の場であったという批判が多い。中でも、領土に関するさまざまな取決めについては、関連当事者抜きで決定されている事項ばかりで、本会談の決定により、中・東欧の政治体制、外交問題等、戦後世界に非常に広範で多岐にわたる影響を及ぼしている。
アメリカにとって、ドイツ敗戦後も長く続くことが予想された太平洋戦争(大東亜戦争)での自国の損失を抑えるため、まだ日本と日ソ中立条約を結んでいたソ連に条約破棄・対日参戦させることに比重を置いた会談であった。ソ連参戦後間もなく日本が降伏したため、日本降伏後のソ連の戦果(日本のポツダム宣言受諾までは2日間しかない)に日本の領土を与えるという、結果としてソ連に非常に有利な内容になった。
2005年5月、世界における自由と民主化の拡大を意図しているアメリカのブッシュ大統領は、対独戦勝60周年記念式典への出席のためのヨーロッパ歴訪中、訪問先のラトビアで冷戦下のヨーロッパをめぐる歴史認識に関する演説を行い、ヤルタ協定を東欧諸国における圧制を生むなどした諸悪の根源と非難している。またヨーロッパの分割を認めたことに、アメリカも一定の責任を持っているとの認識を示した。
また、ヤルタ協定は、当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法の条文[要出典]に違反している為、ソ連・ロシアによる南樺太及び千島列島を侵略・占領は法的根拠が無いとする多くの主張が日本以外にもある。更に、連合国自らが領土拡張の意図を否定したカイロ宣言と矛盾することも批判を招いている。
[編集] 冷戦
この会談以後の戦後体制をしばしばヤルタ体制と呼び、この会談以降、アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が開始されたと言われている。
[編集] 関連作品
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ヤルタ協定 - 東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室