コンゴ動乱
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コンゴ動乱(コンゴどうらん、1960年 - 1965年)は、1960年にコンゴ民主共和国がベルギーから独立した後に、ベルギーがカタンガ州の分離独立を工作し、その結果発生した起きた内乱である。民族問題に加え、豊富な地下資源の利権、東西対立もからみ複雑な展開のなか、カタンガの白人傭兵部隊と、国際連合軍が戦闘をおこなった。
ソ連の計画では、コンゴで抵抗している人達や部族やコンゴで活動をしている共産主義者に多額の軍事援助をし、革命を起こして独立後は共産主義国化する予定であったという。また、キューバからも政府側にチェ・ゲバラ率いるゲリラ部隊が、軍事支援のため派遣されていた。
1963年の国連軍の制圧によりカタンガの分離・独立の終了宣言で一応の終了をみるが、1965年、アメリカ合衆国の援助下にモブツ・セセ・セコの独裁政権が樹立するまで不安定な状態が続いた。
[編集] 年表
1960年 6月30日 |
コンゴがベルギーから独立、民族主義的政権樹立。 大統領はジョセフ・カサブブ (Joseph Kasavubu;1917年 - 1969年:親西側)、 首相はパトリス・ルムンバ (Patrice E.Lumumba:1925年 - 1961年:親東側) である。 |
7月6日 | コンゴ国軍内でベルギー人将校に対してコンゴ人兵士暴動。 |
7月10日 | 白人保護を名目にベルギー軍派遣。 |
7月11日 | カタンガ州(現シャバ州)が分離独立を宣言 |
7月14日 | 国連軍の派遣決定 |
8月4日 - 7日 | カタンガ州で「カタンガ憲法」制定。 モイーズ・チョンベ(Moise Tshombe:1919年 - 1969年:親西側)が大統領に就任。 |
8月6日 | 南カサイ鉱山国、分離・独立を宣言。 |
8月12日 | 国連事務総長ハマーショルドがカタンガ訪問。 ベルギー軍撤退、国連軍の派遣とカタンガ問題への不干渉を約束。 |
8月25日 | ソビエト連邦の援助をうけたコンゴ国軍が南カサイ鉱山国を攻略。 |
9月1日 | ベルギー軍の撤退完了したが、カタンガの軍隊(カタンガ憲兵隊)にベルギー軍人600人が残留。 |
9月14日 | コンゴ陸軍のモブツ・セセ・セコのクーデター、ソビエトとの関係断絶。ルムンバを拘束。 |
12月12日 | スタンレーヴィル州でルムンバ派のアントワーヌ・ギゼンガ新政府樹立宣言。 |
1961年 1月 |
ルムンバ派政権「北部カタンガ共和国」を吸収。 |
1月17日 - 18日 | ルムンバ暗殺される。 |
2月21日 | 国連ルムンバ派政権を支持。 |
7月16日 | カタンガ派以外の勢力結集「アドウラ政府」が成立。 |
8月28日 | 国連軍、外国人傭兵の逮捕・追放のための作戦開始 |
9月 | 国連軍とカタンガ軍衝突、フーガ・マジステールを持つカタンガ軍優勢。 |
9月16日 | 調停にむかう国連事務総長ダグ・ハマーショルドが乗ったチャーター機が墜落、ハマーショルド死亡。 |
11月 | スウェーデン、国連軍にサーブJ29テュナン、5機を派遣。 |
12月 | 国連軍カタンガ攻撃。 |
12月21日 | アメリカの調停でカタンガ独立を放棄する宣言をおこない停戦。 しかしチョンベはカタンガの実質的独立を継続。 |
1962年 12月4日 |
アドウラ政府が停戦協定を破棄、北カタンガに進攻。 |
1963年 1月14日 |
国連軍の攻勢により、カタンガ政府、カタンガ分離・独立の終了を宣言、チョンベはスペインに亡命。 |
1964年 6月 |
国連軍が撤退。その後、ルムンバ派(共産勢力)がゲリラ戦を展開し、一時は国土の半分を制圧する。 アメリカの手でコンゴ政府に復帰したチョンベに鎮圧される。 |
1965年 | モブツ再度のクーデター、アメリカの援助下にモブツの独裁政権が樹立 |