ソビエト連邦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
- ソビエト社会主義共和国連邦
- Союз Советских Социалистических Республик
-
←
←
←
←1922年 - 1991年 ↓ 国旗 国章 - 国の標語 : Пролетарии всех стран, соединяйтесь!
(ロシア語: 万国の労働者よ、団結せよ!) - 国歌 : ソビエト連邦国歌 (1944-1991)[1]
-
公用語 なし[2] 首都 モスクワ 通貨 ソビエト・ルーブル 時間帯 UTC +2~+13 (DST: 無し) ccTLD .SU7 -
先代 次代 ロシアSFSR
ザカフカースSFSR
ウクライナSRR
白ロシアSSRロシア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
カザフスタン
ウズベキスタン
トルクメニスタン
キルギス
タジキスタン
ソビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、略称:ソビエト連邦(ソビエトれんぽう)、ソ連(ソれん))は、1922年に設立された世界最初の社会主義国である。
アメリカ合衆国と並ぶ人造国家(非自然発生的国家)の1つで、超大国の一つだった。1991年に連邦は解消され構成国は独立した。
首都はモスクワ。国旗の赤は革命を、交差した槌と鎌はそれぞれ労働者のシンボルと農民のシンボルであり労働者と農民の団結を意味し、その上の五芒星は五大陸の労働者の団結を意味している。
目次 |
[編集] 国名
正式名称は、ロシア語で Сою́з Сове́тских Социалисти́ческих Респу́блик(Sojúz Sovétskikh Sotsyalistícheskikh Respúblik; サユース・サヴィェーツキフ・サツィアリスチーチェスキフ・リスプーブリク)。略称 СССР(SSSR; エス・エス・エス・エール)。通称、Сове́тский Сою́з(Sovétskij Sojúz; サヴィェーツキー・サユース)。
英語表記は Union of Soviet Socialist Republics。通称USSR。英語圏では Soviet Union と呼ぶことが多かった。
日本語表記は、ソビエト社会主義共和国連邦。通称、ソビエト連邦(「ソビエト」は「ソヴィエト」「ソヴェト」とも)。略称はソ連、または単にソヴィエト。第二次世界大戦前は「ソ同盟」と訳されることが多かった。ソビエトとはロシア語で「評議会」の意。固有名詞(地名)を含まない唯一の国名だった(ただし、連邦を構成する諸共和国名には地名が入る)。略称として「ソ連邦」という場合もある。
英語圏以外の非共産圏においても一般的には旧国名のロシア(に相当する各言語の単語)と呼ばれることが多く、日本はソ連、ソビエトという呼称が一般的に定着した稀有な事例である(一部では俗に「労農ロシヤ」などとも呼ばれた)。また、中国語を使用する漢字文化圏においても「蘇聯」と呼ばれる。
[編集] 歴史
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
[編集] ロシア革命
詳細はロシア革命を参照
ペトログラードのデモに端を発する1917年の2月革命後、漸進的な改革を志向する臨時政府が成立していたが、第一次世界大戦でのドイツ軍との戦線は既に破綻しており国内の政治的混乱にも収拾の目処は付いていなかった。
同年8月にラーヴル・コルニーロフ将軍による反乱が失敗した後、ボリシェヴィキに対する支持が高まった。そこでボリシェヴィキは武装蜂起の方針を決め、10月下旬に権力奪取を成功させた。その後の列強による干渉戦争や内戦にも勝利して権力を確立した。ボリシェヴィキは1919年に共産党と改称した。
[編集] 国家成立
1922年に行われた全連邦ソビエト大会で国家樹立が宣言され、ソビエト社会主義共和国連邦が成立した。しかしその僅か2年後の1924年1月にレーニンは死去する。
レーニンの死後、独裁的権力を握ったヨシフ・スターリンは政敵であるトロツキーの国外追放(その後トロツキーは亡命先のメキシコで、スターリンが送り込んだ刺客により暗殺された)を皮切りに、反対派を徹底的に粛清して、自らを頂点とした一国社会主義路線を確立した。
1928年から行われた第一次五ヶ年計画の中核に置かれたコルホーズが代表する、強引な農業集団化に伴う「富農」絶滅や飢饉によって死亡した人数は、推計によって最大約700万人に達する可能性もあると言われている。
無理な農業集団化の強行により、1932年~1933年には大飢饉が起こり、500万人とも1,000万人とも言われる餓死者が出た。 特にウクライナにおける飢餓は甚だしく、400万人から700万人の餓死者が出た。2006年にウクライナ政府はこの飢餓をウクライナ人に対するジェノサイドと認定している。この「拙速な集団化政策」はウクライナ人弾圧の為に意図してなされたものであると言う説も有力である。
1930年代に大恐慌により多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けずに高い経済成長を達成したが、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働(実質的な奴隷制度)に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分された。
スターリン時代の大粛清時(ピークは1936年から1938年)には裁判を経ない処刑や強制収容所での過酷な労働等によって、一説には1,200万人以上の人が粛清されたとされる。なお、大粛清による犠牲者数には諸説があるが、当時行われた正式な報告によると、1930年代に「反革命罪」で死刑判決を受けたものは約72万人とされる(但し、過酷な取調べ・尋問の過程で死亡した者や、有罪判決を受けて劣悪な環境下で服役中に死亡した者の人数については正確な統計が残されていないため、その人数を合わせれば犠牲者数は増大するであろう)。
[編集] 第二次世界大戦
政権を掌握したヨシフ・スターリンは、ポーランドやルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国を社会主義化し、自国の衛星国として、第一次世界大戦後にその勢力を急速に強めていたアメリカやその同盟国であるイギリスなどの「帝国主義」国との緩衝地帯にする計画を持っていた。
しかし1930年代に入ると、ドイツに「共産主義打倒」を掲げたアドルフ・ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が政権に就き、同じくポーランドやチェコスロバキアなどのドイツ支配圏の東ヨーロッパ諸国への東方拡大を狙い始めた。その後両者は東ヨーロッパ諸国の支配権を巡って激突することとなる。
しかし1939年、それまで敵対していたドイツと独ソ不可侵条約を結び、同年のドイツのポーランド侵攻の際にはポーランドの東半分(ガリツィアなど)を占領した。またバルト三国に圧力をかけ、ソ連軍の通過と親ソ政権の樹立を要求し、その回答を待たずに3国に進駐した。さらに親ソ政権を組織し、反ソ連派を粛清、或いは収容所送りにして、ついにこれを併合した。同時にソ連はルーマニアにベッサラビアを割譲するように圧力をかけ、1940年6月にはソ連軍がベッサラビアと北ブコビナに進駐し、領土を割譲させた。さらに隣国のフィンランドを冬戦争により侵略してカレリア地方を併合した。
1941年6月に独ソ戦いわゆる「大祖国戦争」が開始され、その結果ソ連は連合国側として第二次世界大戦に参戦した。ドイツ軍の猛攻とスターリンによる無理な作戦の遂行がたたり、開戦後まもなく首都モスクワに数十kmに迫られた他、レニングラード攻防戦やクルスクの戦い等により軍民併せて数百万人の死傷者を出したものの、日ソ中立条約による日本軍の不参戦やイギリス軍やアメリカ軍などによる西部戦線における攻勢、アメリカなどによる軍事物資提供による後方支援のお陰もあり、最終的にドイツの首都であるベルリンを陥落させ勝利した。
その際にソビエト軍は、「ベルリン入城は英米連合国揃って行う」との密約[要出典]を無視したばかりか、ベルリン陥落後もドイツ領内侵攻を続けたためアメリカを慌てさせた。ソビエト軍はドイツの兵士や市民が降伏、投降した後でも多数の市民の殺害や婦女暴行など傍若無人の乱暴な振る舞いを続けるため、ソビエト軍を恐れたドイツ軍は防衛地域を放棄して反転西進しアメリカ軍に降伏するようにした。これによりソビエト軍はドイツの東側を難なく占領することが出来、その後の東西ドイツ分割を招くこととなった。
なお、独ソ戦の開始以前に日ソ中立条約を結んでおり、大戦中を通じ交戦状態になかった日本(大日本帝国)に対しては、連合国首脳によるヤルタ会議における密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって不可侵条約を一方的に破棄し、日本に宣戦を布告をし千島列島や南樺太、満州国(現在の中華人民共和国東北部)、朝鮮半島北部に侵攻した。
この際にソビエト軍は、自国の占領地を少しでも増やす目的から日本軍の降伏による停戦さえ無視し侵攻を続け、多くの捕虜を自国内に連行し、劣悪な状況下でインフラ整備等の労働力として酷使した為、その多くが死に至り、生き残った者達に対しても、日本への帰国後に共産革命を起こさせるべく共産主義教育をおこなった(シベリア抑留)。これらの国際法を無視した行為とその後の対応が後の北方領土問題、シベリア抑留問題の原因となった。
第二次世界大戦の勝利によりソ連はドイツ、ポーランド、チェコスロバキアからそれぞれ領土を獲得し、西方へ大きく領土を拡大した。 又、開戦前に併合したエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国への支配、ルーマニアから獲得したベッサラビア(現在のモルドバ)の領有を復活させた。更にこれらの新領土から多くの住民を追放あるいはシベリアなどに強制移住させ、代わりにロシア人を移住させた。 また、極東では日本の領土であった南樺太及び千島列島を占領し、領有を宣言した。 さらに、日本が旧満州に持っていた各種権益のうち、関東州の旅順・大連の両港の租借権や旧東清鉄道(南満州鉄道の一部)の管理権の継承を中華民国に認めさせた。
[編集] 冷戦の開始
戦後ソ連はドイツの支配からソ連の支配圏とした東ヨーロッパ諸国の反対派を粛清し、スターリン主義的な社会主義政権を導入しこれらをソ連の衛星国とした。ワルシャワ条約機構などにおける東側諸国のリーダーとして、アメリカ合衆国をリーダーとする資本主義(西側諸国)陣営に対抗した。
1953年に死去したスターリンの死後新たな指導者となったニキータ・フルシチョフはスターリン批判を行い、その行過ぎた全体主義的独裁の政策を大幅に緩めた。しかしソ連が極端な警察国家、監視国家であることには変わりなかった。彼は食料生産に力を注ぎ一時的には大きな成功を収めるものの、あまりにも急な農業生産の拡大により農地の非栄養化、砂漠化が進み、結局はソ連は食料を海外から輸入しなければならなくなった。
なお、東欧のソ連衛星国ではスターリン批判以降しばしば改革共産主義運動や反体制運動が発生したが、ソ連はこれらの運動のいくつかに対しては武力介入し、これを鎮圧し、反対派を殺害・処刑・投獄した(ハンガリー動乱、プラハの春など)他、有形無形の圧力をかけ収拾させた。
また、第二次世界大戦から崩壊までの間を通じて、アメリカとの間では直接戦争こそ生じなかったものの、ベルリン封鎖などの有形無形の敵対行動や朝鮮戦争やベトナム戦争などの世界各地での代理戦争という形で冷戦と呼ばれる対立関係が形成された。特に限りない軍拡と、核兵器の開発競争は世界を核戦争の危機に晒すものだった(1962年のキューバ危機など)。その開発競争が如何に杜撰であったかは、後年のチェルノブイリ原発事故の経緯が物語っている。原子炉構造に問題があったにもかかわらず当初は運転ミスと断じられ、プリピャチ市民は放射線の恐怖を殆ど知らずに日常の日と変わらずに日光浴や散歩をする人さえいた。
1960年代に入りフルシチョフ体制が安定するとアメリカとの関係は多少改善が進んだ。しかし社会主義の純化を進めており、フルシチョフの改革路線に懐疑的であった毛沢東率いる中華人民共和国との関係は国境地帯における軍事衝突(ダマンスキー島事件)や北京のソ連大使館襲撃事件が起こるなど逆に悪化した(中ソ対立)。
[編集] 国力の衰退
その後1964年に、農業政策の失敗と西側諸国に対しての寛容的な政策を理由に失脚させられたフルシチョフに代わり、強硬派のレオニード・ブレジネフが指導者となると国内問題を放置することが多くなり、官僚の世襲化など体制の腐敗が進み、食料や燃料、生活必需品の供給が滞るようになり、国民の多くは耐乏生活を強いられるようになっていった。また、これに合わせるように東側諸国全体の経済が次第に沈滞していった。
1979年にブレジネフは、隣国のアフガニスタンに成立した共産主義政権を支える為にアフガニスタン侵攻を行ったものの、結果的にイスラム諸国および西側諸国による猛反発を受け、翌年に行われたモスクワオリンピックの大量ボイコットを招くことになった。この侵攻は1989年まで続き、国際社会からの孤立を招いただけでなく、莫大な戦費を10年間の長きに渡り浪費することや多くの戦死者を出すことによって、ただでさえ沈滞していた経済をますます圧迫する結果になった。
また、アメリカのロナルド・レーガン政権はソ連を「悪の帝国」と名指しで批判して軍拡競争を行い、傾きかけていたソ連経済は完全に破綻し国内では深刻なインフレや闇経済が蔓延する結果となった。
[編集] ペレストロイカ
1982年に死去したブレジネフの後継者となったユーリ・アンドロポフと、アンドロポフの死後に後継者となったコンスタンティン・チェルネンコは、相次いで指導者の座に就いたものの、共に就任後間もなく闘病生活に入りそのまま病死したため、経済問題を中心とした内政のみならず、外交やアフガニスタン問題についてさえも具体的な政策を殆ど実行に移せなかった。
しかしその後、この両名の時代においてますます深刻化した経済的危機を打開するべく、1985年3月に登場したミハイル・ゴルバチョフの指揮下でペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)が進められた。
これにより、長きに渡った一党独裁体制下で腐敗した政治体制の改革が進み、1990年にはこれまでの一党独裁制にかわって複数政党制と大統領制が導入された。しかし、情報公開や報道規制の緩和は長年抑えられていた民族感情を刺激し、ソ連邦を構成していた各共和国では急速に分離独立の動きが強まっていく。
[編集] 冷戦終結
また、これらのゴルバチョフが推進するソビエト連邦における改革と衛星国に対する支配の緩和を受けて、1989年から1990年にかけて東ドイツやハンガリー、ポーランドやチェコスロバキアなどの衛星国が相次いで民主化を達成した。その殆どは事実上の無血革命であったが、ルーマニアでは一時的に体制派と改革派の間で戦闘状態となり、長年独裁体制を強いてきたニコラエ・チャウシェスクが改革派による即席裁判で死刑となりその結果民主化が達成された。
なお、ソビエト連邦は冷戦初期に起きたハンガリー動乱やプラハの春の時と違い、これらの衛星国における改革に対して殆ど介入しなかったばかりか、これらの政府による国民に対する武力行使に対しては明確に嫌悪感を示した。
ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により冷戦状態は事実上崩壊し、これらの動きを受けて1989年12月に地中海のマルタでゴルバチョフとアメリカ大統領のジョージ・H・W・ブッシュが会談し、正式に冷戦の終結を宣言した(マルタ会談)。
[編集] 崩壊
そして1991年3月17日には連邦維持の賛否を問う国民投票が行われ、投票者の約76%が連邦維持に賛成票を投じることとなった(バルト三国の様に独立志向が強い共和国では投票はボイコットされた)。その後新連邦条約に基づき連邦を構成する各共和国への大幅な権限委譲と連邦の再編が行われる予定だった。
しかし、それらの改革路線がソ連崩壊に結びつくことを危惧したゲンナジー・ヤナーエフやウラジーミル・クリュチコフらの保守派によって8月にクーデター(ソ連8月クーデター)が発生し、ゴルバチョフを軟禁し改革路線を元に戻そうとしたものの、ボリス・エリツィンら改革派がこれに抵抗し、さらに軍や国民の多く、さらにアメリカやフランス、日本やイギリスなどの主要国もクーデターを支持しなかったことから完全に失敗に終わる。
クーデターの失敗によってクーデターに賛同した保守派が失脚したことにより国家組織が崩壊、ゴルバチョフはクーデター後にソ連共産党書記長を引責辞任し、議会はバルト三国独立を承認した。さらに同年12月のベロヴェーシ合意においてロシア、ウクライナ、ベラルーシ共和国が独立して独立国家共同体(CIS)を創設、残る諸国もそれにならいCISに加入し、この年の12月25日にソビエト連邦は完全に解体した。
[編集] 地理
ソビエト連邦 |
---|
思想 最高指導者 場所 組織 |
ソビエト社会主義共和国連邦は当時において世界一の広さを誇った国であった。西はノルウェー、フィンランド、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、南はトルコ、イラン、アフガニスタン、モンゴル、中華民国(1949年以降は中華人民共和国)、北朝鮮(1948年以降)、日本と接していた。全域で寒波の影響が非常に強力なため、冬季は北極海に面したところや内陸部を中心に、とてつもなく厳寒である。
長い国境のうちにはいくつかの領土問題を抱えており、1960年代には軍事紛争(中華人民共和国との間におけるダマンスキー島事件)になったケースもある。海を隔てた隣国の1つである日本とは北方領土問題を持っており、この問題はロシアになった現在も続いており解決されていない。またフィンランドにもカレリア地域の問題が残されている。
[編集] 構成国
加盟年 | 国名 | ソ連解体後 | 備考 |
---|---|---|---|
1922年 | ウクライナ社会主義ソビエト共和国 | ウクライナ | |
白ロシア・ソビエト社会主義共和国 | ベラルーシ | ||
ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国 | 1936年連邦解散 | ||
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 | ロシア | ||
1924年 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国 | ウズベキスタン | |
トルクメン・ソビエト社会主義共和国 | トルクメニスタン | ||
1929年 | タジク・ソビエト社会主義共和国 | タジキスタン | ウズベクから分割 |
1936年 | アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国 | アゼルバイジャン | ザカフカースを解散 |
アルメニア・ソビエト社会主義共和国 | アルメニア | ||
グルジア・ソビエト社会主義共和国 | グルジア | ||
カザフ・ソビエト社会主義共和国 | カザフスタン | ロシアから分割 | |
キルギス・ソビエト社会主義共和国 | キルギスタン | ||
1940年 | カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国 | ロシアの一部とフィンランドの一部を合併。1956年ロシアの自治共和国に降格。 | |
エストニア・ソビエト社会主義共和国 | エストニア | ||
モルダビア・ソビエト社会主義共和国 | モルドバ | ||
ラトビア・ソビエト社会主義共和国 | ラトビア | ||
リトアニア・ソビエト社会主義共和国 | リトアニア |
なお、構成共和国には、ソビエト連邦から離脱する自由が憲法で認められていた。しかし、連邦離脱の手続きを定めた法律はなく、ソビエト連邦の末期にミハエル・ゴルバチョフが定めた連邦離脱法は、極めてハードルの高いものであった。このためバルト三国は連邦離脱法を無視し、1990年に独立することになる。
また、国際連合(国連)にはソビエト連邦そのものとは別枠でウクライナ、白ロシア(現・ベラルーシ)が独自に加盟していた。
[編集] 代表的な都市
- アンガルスク
- スターリングラード(現ヴォルゴグラード)
- イルクーツク
- ウファ
- ウラジオストク
- スヴェルドロフスク(現エカテリンブルク)
- オムスク
- カザン
- キーロフ
- クラスノヤルスク
- フルンゼ(現ビシュケク)
- クイビシェフ(現サマーラ)
- モスクワ
- レニングラード(現サンクトペテルブルグ)
- タイシェト
- タシュケント
- チェリャビンスク
- チタ
- チュメニ
- トビリシ
- ブラゴヴェシチェンスク
- ナホトカ
- ゴーリキイ(現ニジニ・ノヴゴロド)
- ノヴォシビルスク
- ハバロフスク
- ペルミ
- ロストフ
[編集] 政治
[編集] 一党独裁制
間接代表制を拒否し、労働者の組織「ソビエト」(協議会、評議会)が各職場の最下位単位から最高議決単位(最高ソビエト)まで組織されることで国家が構成されていた。
但し、ソビエト制度が有効に機能した期間は殆ど無いに等しく、ソビエトの最小単位から最高単位まで全てに浸透した私的組織(非・国家組織)であるソビエト連邦共産党が全てのソビエトを支配しており、一党独裁制の国家となっていた(但し、ロシア革命直後のレーニン時代初期とゴルバチョフ時代に複数政党制であった)。党による国家の各単位把握及びその二重権力体制はしばしば「党-国家体制」と呼ばれている。
この民主集中制と計画経済を基礎とするいわゆるソ連型社会主義と呼ばれる体制は、党官僚による抑圧的な体制であり、言論などの表現や集会、結社の自由は事実上なかった。このため、カール・マルクスが唱えた社会主義の理想とは大きくかけ離れ、一般の労働者・農民にとっては支配者がロマノフ朝の皇帝から共産党に代わっただけで、政治的には何の解放もされていない体制となってしまっていた。そのため実質的最高指導者である書記長は「赤色皇帝」とも呼ばれる。
特に、スターリン時代は粛清によって、多くの人々が殺害され、スターリン主義のもと、社会主義・共産主義は抑圧的な体制とイコールになってしまった。スターリンの没後も国家反逆罪等で逮捕又は亡命を強いられた人は増え続け、ソビエト連邦解体までの70年間に6,200万人以上に及ぶ人々が粛清された。これらは現行のロシア政府が1997年に認めた公式データであり、粛清の全容を部分的にしか公開していない。この中には日本人抑留者や亡命日本人も含まれているが、日本政府は謝罪や賠償を現行のロシア政府に求めようとはしていない。
なお、スターリン時代からゴルバチョフが大統領制を導入するまで、国家元首はソビエト最高会議幹部会議長であったが、実権はソビエト連邦共産党の書記長にあった。なお書記長と最高会議幹部会議長を兼任した者もいる。
[編集] 歴代指導者
詳細はソビエト連邦の指導者の一覧を参照
- ウラジーミル・レーニン (1917-1924)
- ヨシフ・スターリン (1924-1953)
- ゲオルギー・マレンコフ (1953)
- ニキータ・フルシチョフ (1953-1964)
- レオニード・ブレジネフ (1964-1982)
- ユーリ・アンドロポフ (1982-1984)
- コンスタンティン・チェルネンコ (1984-1985)
- ミハイル・ゴルバチョフ (1985-1991)
[編集] 外交関係
詳細はソビエト連邦の外交関係を参照
外交関係では、社会主義国(東側)陣営の盟主としてアメリカ合衆国を筆頭とする資本主義国(西側)と対決(冷戦)していた。
成立当初は孤立したが、独ソ戦で侵攻してきたドイツを撃退・打倒した第二次世界大戦後に、東ドイツやチェコスロバキア、ブルガリアなどの東ヨーロッパ諸国を衛星国とし、東アジア(中華人民共和国やベトナム、北朝鮮など)、中南米(キューバやチリ、ニカラグアなど)、アフリカ(アンゴラやリビア、コンゴなど)などでも「民族解放」や「反帝国主義」を唱える社会主義独裁政権の成立を後援し、アメリカや西ドイツ、イギリスやフランスなどの西ヨーロッパ諸国、日本などの資本主義国と対峙した。
[編集] 対社会主義陣営
[編集] 中華人民共和国との関係
ソビエト連邦の支援により、蒋介石率いる中国国民党との国共内戦に勝利した中国共産党によって1949年に成立した中華人民共和国とは当初協力関係にあったが、1950年代後半より両国の指導層による相手国への非難の応酬や大使館乱入事件が起きるなど徐々に関係が悪化した。
1960年代の後半には領土問題による軍事衝突(ダマンスキー島事件などの中ソ国境紛争)や指導層の思想的な相違の問題から中ソ対立が表面化した。両国間のこの様な対立関係は、その後中華人民共和国における内乱である文化大革命が終結する1970年代後半まで続くことになる。
その様な中で、ソ連を牽制しようとしたアメリカが1970年代に入り急速に中華人民共和国に近づき、国交を結び、その後アメリカの同盟国である日本も中華人民共和国と国交を結んだが、独裁体制を敷きソ連と対峙していた毛沢東の死去と文化大革命の終焉によりソ連と中華人民共和国の関係も改善された。
[編集] 対資本主義陣営
[編集] 日本との関係
ロシア時代に日露戦争で戦い完敗した日本(大日本帝国)とは、ソビエト連邦成立後も満州国との国境などで度々軍事的衝突を起こしていた。その後第二次世界大戦中の1941年4月に日ソ中立条約が締結されたものの、ヤルタ会議において連合国間で結ばれた密約を元に、1945年8月にこれを一方的に破り日本に対して参戦し、その上日本が降伏した後も侵略を続け北方領土などの多くの日本の固有の領土を違法に占拠した。その上多くの日本人捕虜を戦後長い間拘留し強制労働に処し、その多くを死に追いやった。この件に関してはロシア政府は近年ようやくシベリア強制労働の被害者・遺族に対して謝罪と賠償を始めつつある。
その後、1956年に日ソ共同宣言を出して国交を回復したものの、日本がアメリカの同盟国であることや北方領土問題が解決されなかったために関係改善は進展しないまま推移。冷戦終結、ソ連崩壊を経た現在でも日本と事実上の後継国家となったロシアの間には正式な平和条約の締結が成されていない。
なお、冷戦の最中には日本社会党などの左翼政党や、ベトナム戦争に反対するべ平連などの左翼的な反戦・市民運動組織に対し、資金援助や情報の提供、武器の供与など有形無形の指示・援助を行い保守勢力に揺さぶりをかけたことが判明している。また、ソ連国家保安委員会(KGB)などが中心となり大使館員などに偽装した多くのスパイを政府内部や自衛隊などに送り込み、ラストボロフ事件などの数々の事件を起こした。
このような様々な活動を行った結果、与党である自由民主党の国会議員をはじめとする保守勢力における共産主義者や左翼への警戒心を増大させ、「反共産主義」を掲げる統一協会とその関連団体である勝共連合と接近し、岸信介など多くの有力な自由民主党議員が統一協会と協力関係を結ぶ一因となったと言う意見も多い。その一方で、自由民主党の国会議員にも様々な工作を仕掛けただけでなく、これらの中には自主的にソ連とのパイプを利用して利権を貪る者がいた。その様な中で、ソ連の樺太侵攻を描いた映画『氷雪の門』が製作された際には、日ソ関係の悪化を恐れた自由民主党と外務省が映画の製作者側に圧力をかけ、公開中止に追い込むという事態を招いている。
[編集] アメリカとの関係
社会主義国陣営の盟主として、資本主義国の事実上の盟主となっていたアメリカ合衆国とは「冷戦」という形で対立し、1950年代における朝鮮戦争や1960年代におけるベトナム戦争など、代理戦争という間接的な形で軍事的対立をしていたが、全面的な核戦争に対する恐怖が双方の抑止力となったこともあり、直接的かつ全面的な軍事的対立はなかった。
しかしベルリン封鎖やキューバ危機などでは全面的な軍事的対立の一歩手前まで行った他、U-2撃墜事件における領空侵犯を行ったアメリカ軍機の撃墜など、限定的な軍事的対立があったのも事実である。
また、この様な対立関係にあったにもかかわらず、冷戦下においても正式な国交が途絶えることはなく、双方の首都に対する民間機の乗り入れが行われていた。しかし、大韓航空機撃墜事件やソ連のアフガニスタン侵攻などの事件があった際には、「制裁措置」として民間機の乗り入れが時限的に制限されたり、スパイ事件などが明るみになり、一方の外交官がペルソナ・ノン・グラータとして国外追放になると、それに対する「報復措置」として、もう一方の国の外交官を同じ容疑で国外追放するなど、茶番じみた外交的駆け引きが行われていた。
[編集] 外国渡航禁止
外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。これはソ連社会、および東側社会主義体制の閉鎖性の象徴として西側資本主義陣営からの攻撃材料となった。さらに、旅行者は外国から帰国すると必ずといっていい程諜報部から尋問を受けるので本人にはその意思が無くても外国で見たことを洗いざらい喋らねばならず、結果的にスパイをしてしまうというケースが多かった。
また、西側諸国人との交際や結婚は多くの障害があり、幅広く指定された「国益に直接関係する者」や「国家機密に関わる者」の婚姻は禁じられていた。それでも結婚は可能であったが(石井紘基のナターシャ夫人など)、その時点でソ連社会での出世の道は途絶えた上、今度は配偶者の母国に出国するためのパスポート発給に長い年月を要した。これは西側資本主義国に限らず、衛星国人との結婚でさえも当局からさまざまな妨害を受けたと言われている。なお、外国航路を運行する船舶や外国で演奏旅行をする楽団などには、乗務員や楽団員の亡命を阻止し、外国における言論を監視するために必ず共産党の政治将校が同行していた。それでもスポーツ大会や演奏会などでの亡命は個人・集団を問わずに絶えなかった。運良く移住できた場合でも、移住先の国家や社会からは「ソ連のスパイ」という疑念を持たれる事が多く、決して安住の地とは言えなかった。
例外として、1950年代までのユダヤ人のイスラエル出国がある。ソ連政府はパレスチナでのイスラエル建国(1948年)を支持し、戦争からの復興途上にある自国からユダヤ人を平和的に減らせるこの移住政策を積極的に推進した。しかし、イスラエルがアメリカの強い支援を受け、対抗したアラブ諸国がソ連との関係を深めると、このユダヤ人移住も徐々に減っていった。1967年の第三次中東戦争で両国の国交は断絶し、以後、冷戦の終結まで集団出国はほとんど行われなかった。
もう一つ、ソ連政府の意に添わない人間に対する国外追放があった。国家の安定や社会主義体制の発展に害となり、かつ国外での知名度が高いために国内での粛清や拘禁が困難な場合には、対象者の市民権やパスポートを奪い、西側諸国に強制追放した。これによりレフ・トロツキーやアレクサンドル・ソルジェニーツィンはソ連から出国したが、追放者の帰国を認めない点では、外国渡航禁止と同一の発想に立った政策であった。
[編集] 軍事
詳細はソビエト連邦軍を参照
[編集] 強力な軍事力
アメリカを筆頭とする西側諸国への対抗上、核兵器や核兵器を搭載可能な超音速爆撃機、大陸間弾道ミサイルや大陸間弾道ミサイルを搭載可能な原子力潜水艦、超音速戦闘機や戦車などを配備し、強力な軍事力を保持していた。
しかし、こうした強力な軍事力の維持は軍事費の増大をもたらし、その分インフラや流通システムなどの整備に遅れをきたし、結果的に国民経済を疲弊させた。また、1979年から10年続いたアフガニスタン侵攻は泥沼化し、何の成果もなく失敗。多大な戦費や人命を失っただけでなく、ソビエト連邦の威信をも低下させた。また、大韓航空機撃墜事件のような民間機撃墜事件を引き起こすなど、共産主義的な官僚主義と非人道的さが西側諸国の反発を買った。
[編集] 軍事支援
また、ワルシャワ条約機構の中心国となり、東ヨーロッパ諸国に基地を置き、ハンガリー動乱やプラハの春など衛星国での改革運動を武力鎮圧し、ワルシャワ条約機構加盟国のみならず、北朝鮮や中華人民共和国、キューバや北ベトナムなど、世界中の反米的な社会主義、共産主義国に対して小銃から爆撃機にいたるまで各種の武器を輸出した。現在でも第三世界にはソ連製の武器が大量に流通している。
それだけでなく、軍事技術をこれらの国に輸出した他、将校などを派遣して軍事訓練を行ないこれらの国における軍事技術の向上に寄与し、その中には、モスクワのパトリス・ルムンバ名称民族友好大学や各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれている。
なお、朝鮮戦争やベトナム戦争などの代理戦争の際には、友好国側を積極的に支援しただけでなく、朝鮮戦争においては当時の指導者のヨシフ・スターリンが、北朝鮮の金日成に対して事実上開戦を指示したと言われる。
また、冷戦期間を通じて、日本やアメリカ、ヨーロッパ諸国などの西側諸国や、南アメリカやアジア、アフリカ諸国の非社会主義政権国における社会主義政党や反政府勢力、非合法団体やテロ組織を含む反社会勢力、反戦運動団体(その多くが事実上の反米運動であった)に対する支援を行い、その中には上記と同じく各種軍施設などにおけるスパイやテロリストの養成や資金供与、武器の供与なども含まれていた。
ロシア・ソ連の軍服も参照
[編集] 科学技術
航空宇宙技術では、アメリカとの対抗上、国の威信をかけた開発が行われた(宇宙開発競争)。人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げ成功、ユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行の成功、宇宙ステーション「ミール」の長期間に渡る運用の成功などの宇宙開発の他、世界初の原子力発電所オブニンスクを建設するなど、ソ連は人類の巨大科学に偉大な足跡を残している。現代のロケット工学や宇宙開発の基礎はソ連のコンスタンチン・E・ツィオルコフスキーが築いたものである。
また、航空機でもミコヤン・グレビッチ設計局(ミグ)、イリューシン設計局、ツポレフ設計局などによって独創的な機構を持つ戦闘機・爆撃機・輸送機や旅客機が製造され、現在でも各国で使用されている。第二次世界大戦中にT-34を開発し、連合国だけでなく、ドイツ戦車にも大きな影響を与えた。また、世界最初の空挺部隊を創設したのも軍事における革命を発案提唱したのもソ連軍である。さらにステルス理論を確立した他、テトリスなどのコンピュータゲームも開発した。
しかし、一方ではそれが軍事費とともに国家の経済を疲弊させたほか、航空宇宙技術や重工業を優先するあまりに消費財の製造が後回しにされ、民衆を苦しめる結果になった。また、チェルノブイリ原発事故に見られるように人命や健康、自然環境の保護などへの意識が低いまま原子力開発や工場の建設などが行われた。このため、地域によっては土壌や河川に深刻な放射能汚染が発生し、多くの人が健康被害を受けることになった。
また、末期になると進んでいたはずの原子力技術や航空宇宙技術でもアメリカのそれに対して10年単位で見劣りするようになり、軍用の製品や技術を東芝や日立などの日本のメーカーから導入することもあった。半導体・集積回路技術でも大幅に後れを取り、西側のようにデジタルコンピュータの急速な進歩と普及を、硬直した当局が原因でついになし得なかったことも、いわゆるハイテク分野で決定的に立ち後れた原因だった(但し、V.M.GlushkovらによってOGASが提唱されていた)。
なお、これらの先進技術、特に宇宙開発や原子力開発は外国人立ち入り禁止の閉鎖都市で行われ、これらの都市は地図に記載されなかった。
[編集] 経済
詳細はソビエト連邦の経済を参照
[編集] 計画経済
詳細は計画経済を参照
経済面では計画経済体制がしかれ、農民の集団化が図られた(集団農場)。1930年代に世界恐慌で資本主義国が軒並み不況に苦しむ中、ソ連はその影響を受けずに非常に高い経済成長を達成したため、世界各国に大きな影響を与えた。しかし、その経済成長は政治犯や思想犯を中心とした強制労働に支えられ、その富は共産党の上層部に集中して配分されていた実態がその後明らかになった。ジョン・ケネス・ガルブレイスは「資本主義諸国が1930年代に大恐慌と不況にあえいでいたとき、ソ連の社会主義経済は躍進に躍進を続け、アメリカに次ぐ世界第二の工業国になった。そして完全雇用と社会保障をやってのけた。」としながらも1970年代には崩壊し始めたと総括している。実際、1960年代以降は計画経済の破綻が決定的なものとなり、消費財の不足などで国民の生活は窮乏した。
また、流通の整備が遅れたため、農製品の生産が十分にあったとしても、それが消費者の手元に届けられるまでに腐敗してしまうという体たらくであった。その為に闇市場のような闇経済や汚職が蔓延し、その様な中で共産貴族がはびこるという結果になった。そもそも計画経済を他の産業と比べて自然に左右され、成果が保障されない第一次産業にも導入したのは大きな間違いであったといえる。毛沢東が大躍進政策で生態系や、経済の常識をまるで無視した増産計画で大失敗をしたのもこれに起因している。
[編集] 消費財の流通
東西対立の世界構造の中で、軍事に高い技術と莫大な資金が投じられる一方、冷蔵庫や洗濯機などの国民生活に必要な電化製品や、石鹸や洗剤、シャンプーなどの一般消費財の開発と生産、物流の整備は疎かにされ、西側諸国に比べ技術、品質ともに比べ物にならない電化製品でさえ、入手するために数年待たなければいけないというような惨憺たる状態であった。
殆どの電化製品や自動車の技術は、西側諸国の技術より10年以上遅れていたといわれている上、その多くがフィアットやパッカードなどの西側の企業と提携し、旧型製品の技術供与を受けたものであった。
[編集] 貿易
上記のように、電化製品や消費財、工作機械や自動車などの技術や品質が西側諸国のそれに対して決定的に劣っていたことから、西側諸国に対しての輸出は、農産物や魚介類などの第一次産品や、原油や天然ガスなどのエネルギー資源が主であった。また、通貨のルーブル自体が、国外で通貨としての価値が低かったこともあり、エネルギー資源の貿易がある国を除いては、西側諸国との貿易収支はおおむね赤字であったか非常に少ないものであった。
それに反して衛星国や社会主義国との間の貿易は、それらの多くの国の外貨が乏しかったことや、ココムなどの貿易規制により西側諸国からの貿易品目が制限されていたことから、一次産品やエネルギー資源はもとより、西側諸国では相手にされなかった電化製品や消費財、工作機械から自動車、航空機などの軍事物資に至るまでが輸出された。また、その多くが事実上の援助品として、バーター貿易など無償に近い形で供給された。
[編集] 輸入消費財
なお、西側諸国の電化製品や化粧品、衣類などの消費財の輸入、流通は原則禁止されていたものの、モスクワなどの大都市のみに設けられた「グム」などの外貨専用の高級デパートで入手することが可能であった。しかし、実際にそれらを購入することができるのは外国人か共産党の上層部とその家族だけであった。そのため、マールボロのタバコやリーバイスのジーンズなど多くの西側製品が闇ルートで流通していた。
[編集] 交通
国民の自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていただけでなく、国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があったこともあり、国内外の交通に対する需要は非常に限られていた。鉄道網は、長距離や近距離を問わず軍事転用が容易なことから比較的整備が進んでいたが、西側諸国と違い個人所有の自動車の数が限られていたことから、高速道路やレンタカーなどの自動車インフラは貧弱なままであった。
外国への個人的理由での渡航は、亡命と外貨流出を防ぐということを主な理由に原則的に禁止されており、国交がある国であろうがなかろうが、当局の許可がない限り渡航は不可能であった。また許可が下りた場合でも様々な制限があり、個人単位の自由な旅行は不可能であった。しかしながら、国力と友好関係を誇示することを目的に、国外への航空機や船舶による定期便は比較的整備されていた。
[編集] 航空
[編集] アエロフロート
広大な国土は主に航空機によって結ばれていた。なお、国内の航空路線網は唯一にして最大の航空会社である国営のアエロフロート・ソビエト航空によって運行されており、長距離国際線や、航空機によってのみアクセスが可能な僻地や、舗装された滑走路が整備されていない地方空港への運行が可能なように、大型ジェット機からターボプロップ機、小型複葉機まで様々な機材を運行していた。
[編集] 国際線
同じく国際線もアエロフロートによってのみ運行されていたが、ソビエト国民の海外渡航や国外からの旅行者のソビエト国内における移動に大幅な制限があるにもかかわらず、国力と友好関係を誇示することを目的に、西側の主要国や東欧の衛星国、キューバやアンゴラ、北朝鮮などの友好国をはじめとする世界各国に乗り入れを行っていた。しかし、その目的から完全に採算度外視で運行していた上、そのサービスは西側諸国のものには遠く及ばなかったことから、西側諸国の多くでは格安な料金と劣悪なサービスでのみ知られていた。
また、海外からは多くの友好国の航空会社がモスクワなどの大都市を中心に乗り入れていたほか、日本やアメリカ、ドイツなどの西側諸国からも、日本航空やパンアメリカン航空、ルフトハンザ・ドイツ航空などの航空会社が乗り入れていた。なお、日本との間は日本航空とアエロフロートが東京(羽田空港、成田空港)、新潟(新潟空港)とモスクワ、ハバロフスク、イルクーツクとの間に定期便を運行していた。
[編集] 鉄道
シベリア鉄道を代表とする鉄道網によって各都市が結ばれていた他、衛星国を中心とした近隣諸国に国際列車も運行されていた。なお、モスクワやレニングラード(現:サンクトペテルブルク)などのいくつかの大都市には地下鉄網が整備されており、社会主義建設の成功を誇示する目的で、駅構内は宮殿のような豪華な装飾が施されていた。
[編集] 自動車
個人による自動車の所有だけでなく、自分の在住している地域以外への遠距離移動が事実上限られていたこともあり、西側諸国で行われていたような高速道路による国民の移動は一般的なものではなかった。なお、大都市の市街地にはバス路線網が張り巡らせられていた。
[編集] 言論・報道
[編集] 報道管制
上記のように外国の放送の傍受が禁止されていた上、テレビやラジオ、新聞などのマスコミによる報道は完全に共産党の管制下に置かれ、国家や党にとってマイナスとなる報道は一切流れることはなかった。このような規制は外国の事件や、チェルノブイリ事故や大韓航空機撃墜事件のような国際的に影響がある事件に対してだけでなく、国内の政治、経済的な事件も、党幹部の粛清や地下鉄事故、炭鉱事故のような事件に至るまで、それが国家や党に対してマイナスの影響を与えると判断されたものは殆ど報道されることがなかったか、もし報道されても国家や党に対して有利な内容になるよう歪曲されていた。そのため、西側の国でオリンピックなどがあると、そこで初めて真実を知ったソ連の選手や関係者がそのまま亡命希望するケースが頻発した。
また、共産党書記長などの党の要人が死去した際には、党による正式発表に先立ち、テレビやラジオが通常の番組を急遽停止し、クラシック音楽もしくは第二次世界大戦戦史などの歴史の映像に切り替わり、クレムリンなどの要所に掲揚されている国旗が半旗になるのが慣わしであった。このため、国民(と西側の報道機関)の多くは、テレビやラジオの番組が変更され、要所に掲揚されている国旗が半旗になる度に、どの要人が死去したかを推測しあっていたと言われている。
西側諸国の報道機関の特派員は基本的に国内を自由に取材、報道することは禁じられており、事前に申請が必要であったがその多くは却下され、たとえ許されたとしても取材先の人選や日程は全てお膳立てされたものに沿わなければならなかった。また、モスクワオリンピックなどの国際的イベントや、西側諸国の首脳陣の公式訪問が行われる際にソ連を訪れた報道陣に対しては、この様なお膳立てされた取材スケジュールが必ず提供された。
また、西側諸国の報道機関で働くソビエト人従業員も自主的に選択することは許されず、当局から宛てがわれた者を受け入れるのみとされ、その多くが西側諸国の報道機関やその特派員の行動を当局に報告する義務を負っていた。
[編集] 「クレムリノロジー」
党の要人が失脚した(もしくは粛清された)際にはその事実が即座に政府より正式発表されることはまれで、このため西側諸国の情報機関員や報道機関の特派員は、メーデーなどをはじめとする記念日のパレードの際にクレムリンの赤の広場の台の上に並ぶ要人の立ち位置の変化を観測し、失脚などによる党中央における要人の序列の変化を推測し、これを「クレムリノロジー」と呼んでいた。
[編集] プロパガンダ
ソビエト連邦のプロパガンダは現代の手法を先駆けるものであり、ソ連は世界初の宣伝国家と呼ばれる(en:Peter KenezのThe Birth of the Propaganda State;Soviet Methods of Mass Mobilization 1985)。映画ではレーニンの「すべての芸術の中で、もっとも重要なものは映画である」との考えから世界初の国立映画学校がつくられ、エイゼンシュテインがモンタージュを編み出したことにより、当時としては極めて斬新なものになり、その精巧さは各国の著名な映画人や後にナチス・ドイツの宣伝相となるヨーゼフ・ゲッベルスを絶賛させた。宣伝映画を地方上映できるよう、移動可能な映写設備として映画館を備えた列車・船舶・航空機が製造・活用された(例:マクシム・ゴーリキー号)。看板やポスターではロシア・アヴァンギャルドから発展した力強い構図・強烈なインパクトのフォトモンタージュが生まれ、これは世界各国でしきりに使われた。
特にバベルの塔にも例えられる世界最大最高層の超巨大建築物を目指したソビエト・パレスは後世の建築家だけでなく、形態的にはイタリアやドイツ、日本などの建築に大きな影響を与えた。日本でもソビエト・パレスの計画を見て丹下健三が建築家を目指すに至った。当時世界一高い建造物であったオスタンキノ・タワーも完成させた。スターリンはモスクワをニューヨークのような摩天楼にするため、スターリン様式の建物を多く建設した。ソ連のプロパガンダはイワン・パヴロフやレフ・ヴィゴツキーなどの心理学者の理論に基づいていた点で先駆的だった。他にもブラウン管を使ったテレビを世界で初めて発案した専門家もおり、テレビの研究も活発だった。
[編集] 宗教
[編集] 弾圧
ロシア革命によって無神論を奉じるソビエト連邦が成立すると、ロシアの国教であったロシア正教会は多数の聖堂や修道院が閉鎖され、財産が没収された。後に世界遺産となるソロヴェツキー諸島の修道院群は強制収容所に転用された。
また、聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され致命した。初代の京都主教を務めた事のあるアンドロニク・ニコリスキイ大主教は生き埋めの上で銃殺されるという特異な致命で知られる。当初は無神論を標榜するボリシェヴィキに対して強硬な反発を示していたモスクワ総主教ティーホン(チーホン)であったが、想像以上に苛烈な弾圧が教会に対して行われていく情勢に対して現実的姿勢に転換し、ソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ多数の亡命者も出た。
1931年にはスターリンの命令によって救世主ハリストス大聖堂が爆破されたが、独ソ戦におけるドイツの侵攻に対して国民の士気を鼓舞する必要に駆られたスターリンは、それまでの物理的破壊を伴った正教会への迫害を方向転換して教会活動の一定の復興を認め、1925年に総主教ティーホンが永眠して以降、空位となっていたモスクワ総主教の選出を認めた。この際にそれまで禁止されていた教会関連の出版物が極めて限定されたものではあったものの認められ、1918年から閉鎖されていたモスクワ神学アカデミーは再開を許可された。
だがスターリンの死後、フルシチョフは再度、ロシア正教会への統制を強化。緩やかかつ細々とした回復基調にあったロシア正教会は再度打撃を蒙り、教会数は半分以下に減少。以降、ソ連崩壊に至るまでロシア正教会の教勢が回復する事は無かった。
[編集] その他の宗教
広大な国土の中でも、中央アジア地域ではイスラム教が大きな勢力を持っていたが、ソビエト連邦の成立とともにロシア正教など他の宗教とともに弾圧されることとなった。しかし人々の心の中の信仰心までは抑えることができず、他の宗教と同じくソ連崩壊後は教勢が回復した。またソ連国内における布教活動自体は許されることはなかったものの、日本の創価学会とは外交的見地から友好関係を保っていた[要出典]。
[編集] 文化
[編集] 芸術
言論・表現の自由がなかったため、文学者の中には亡命を余儀なくされるものや、ノーベル文学賞受賞のボリス・パステルナークのように受賞辞退を余儀なくされるもの、同じくノーベル文学賞受賞の ソルジェニーツィンのように国外追放されるものがいるなど、文化人にとっては受難が相次いだ。
革命直後のソ連ではウラジミール・レーニンが革命的な前衛芸術を奨励したため、抽象芸術や構成主義が生まれ、ロシア・アヴァンギャルドは共産党のいわば公認芸術となっていた。当時のソ連は世界初の電子音楽機器テルミンが作られ、モンタージュ理論が生まれるなど前衛芸術のメッカと化しており、外国から不遇だった多くの前衛芸術家がソビエト連邦の建設に参加した。例えば、前述したソビエト・パレスの計画にはル・コルビュジエ、ヴァルター・グロピウス、エーリヒ・メンデルスゾーン、オーギュスト・ペレ、ハンス・ペルツィヒといった新進気鋭のモダニズム建築家たちが関わった。レーニン自身もダダイストだったという学説も出ている(塚原史『言葉のアヴァンギャルド』)。また、フセヴォロド・メイエルホリドがアジ・プロ演劇手法の確立、古典の斬新的解釈に基づく演出、コメディア・デラルテ、サーカスなどの動きと機械的イメージを組み合わせた身体訓練法「ビオメハニカ」Biomechanicsの提唱などを次々と行い1920年代におけるソビエト・ロシア演劇はもとより20世紀前半の国際演劇に大きな影響を与えた(スターリン政権期にはスタニスラフスキー・システムがあった)。
スターリン政権下の1932年に行われたソ連共産党中央委員会にて「社会主義リアリズム」の方針が提唱されて以降は、1930年代前半のうちに文学や彫刻、絵画などあらゆる芸術分野の作家大会で公式に採用されるに至り、これにそぐわぬものは制限され、次第に衰退することを余儀なくされた。
一方でバレエなどのロシアの伝統的な芸術は政府の後援の元高い水準を維持し、クラシック音楽でも、当局による制限を受けながらショスタコーヴィチらが作品を残し、ムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィルハーモニー交響楽団などが名演奏を残している。
[編集] ソ連を描いたもしくは題材にした映画
- 戦艦ポチョムキン(1925年、ソ連)
- 僕の村は戦場だった(1962年、ソ連)
- モスクワは涙を信じない(1979年、ソ連)
- ロッキー4(1985年、アメリカ)
- レッド・オクトーバーを追え!(1988年、アメリカ)
- レッドブル(1988年、アメリカ)
- スターリングラード(2001年、アメリカ)
- ククーシュカ ラップランドの妖精(2002年、ロシア)
- K-19(2002年、アメリカ)
[編集] ソ連を描いたもしくは題材にしたアニメ
- ウサビッチ(日本)
[編集] 外来文化
西側諸国で人気のあったロックンロールやヘヴィメタル、ジャズなどの音楽や、ハリウッド映画などの大衆文化は、「商業的で、退廃を招く幼稚なもの」として原則的に禁止され、わずかに北ヨーロッパ諸国や西ドイツなどのポピュラー音楽や、衛星国や日本、イタリアなどの芸術的要素の高い映画のみが上映を許されていた。また、外国のラジオ放送を傍受することも禁止されていた。
[編集] スポーツ
詳細はソビエト連邦のスポーツを参照
[編集] ステート・アマチュア
スポーツでは国の威信をかけた強化策がとられ、いわゆるステート・アマチュアと呼ばれる国家の選手育成プログラムによって育成させられた選手が、オリンピックで数多くの栄冠を手にしている。特にアイスホッケーやバレーボール、バスケットボール、ホッケーなどの強豪国として知られオリンピックのメダル獲得数で常にアメリカや東ドイツなどと首位を競う存在であった。しかし崩壊後にそれらの選手の多くが違法ドーピングなどによる薬漬け状態であったことが当事者の告白により明らかになった。また、革命直後から教育に力を入れていたことから教育レベルが高く、チェスや数学オリンピックでも強豪国として知られた。
なお、共産主義というシステム上、全てのスポーツが国家の管理下におけるアマチュアスポーツであると言う位置づけであり、よって資本主義諸国のようなプロスポーツ及びプロ選手は存在しなかった。
[編集] モスクワオリンピック
1980年に、ソビエト連邦の歴史上唯一の夏季オリンピックであるモスクワオリンピックが行われた。
冷戦下ということもあり、国の総力を挙げてオリンピックの成功を目指したものの、前年に行われたアフガニスタン侵攻に対する抗議という名目で、日本や西ドイツ、アメリカなどがボイコットを行い事実上失敗に終わった。しかし、これ以降ソビエト連邦の崩壊までの間夏期、冬季ともにオリンピックが再び行われることはなかった。
そして、次回1984年開催されたロサンゼルスオリンピックでは、1983年のアメリカ軍によるグレナダ侵攻への抗議という名目で、ソビエト連邦と東ドイツのメダル王国をはじめ、東側諸国の多くがボイコットした。
[編集] 関連項目
- ロシア・ソビエト社会主義共和国
- クレムリン
- 一党独裁制
- 日本共産党
- 中国共産党
- 全体主義
- 大粛清
- 共産貴族
- 計画経済
- コルホーズ
- ソフホーズ
- ピオネール
- 極東共和国
- チェカ
- ソ連国家保安委員会(KGB)
- 第三インターナショナル(コミンテルン)
- コミンフォルム(コミンテルンの後継組織)
- モスクワオリンピック
- モスクワ放送
- ロシア・アヴァンギャルド
- ニュー・ロシア・アヴァンギャルド
- 社会主義リアリズム
- 宇宙開発
- 宇宙ステーションミール
- スプートニク計画
- ボストーク
- ソユーズ
- ソ連の有人月旅行計画
- グラスノスチ
- ソビエト連邦科学アカデミー
- つるふさの法則
[編集] 外部リンク