ドイツ民主共和国
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- ドイツ民主共和国
- Deutsche Demokratische Republik
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← 1949年 - 1990年 → 国旗 国章 - 国歌 : 廃墟からの復活
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公用語 ドイツ語 首都 東ベルリン[1] 通貨 東ドイツマルク -
- ^ 正式には「ベルリン、ドイツ民主共和国の首都(Berlin, Hauptstadt der Deutschen Demokratischen Republik / Berlin, Hauptstadt der DDR)」とされた
- ^ 国家元首は長らく国家評議会議長が務めたが、東西ドイツ再統一直前に憲法が改正され、人民議会議長が国家元首扱いとなった。最後の国家評議会議長は1989年から1990年まで在職したマンフレート・ゲルラッハである。
ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、独:Deutsche Demokratische Republik (DDR)、通称東ドイツ (Ostdeutschland)※)は、第二次世界大戦後の1949年に、ドイツのソビエト連邦占領地域に建国された国家。ドイツ西部から南部に掛けてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年にドイツ連邦共和国に吸収される形で消滅した。
※ 稀に英語訳であるGerman Democratic Republic (GDR) 表記を用いている書籍もある。
目次 |
[編集] 概要
ドイツ民主共和国は、反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党(SED)が独裁政党として指導権を有していた。同党以外の政党も一応存在が許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。ソ連軍が駐屯する東西冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソ連の衛星国であった。
また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などは無いに等しかった。シュタージは職場や家庭内に非公式協力員(IM)を配置し相互監視の網を張り巡らせた。
経済では第二次世界大戦の被害と、ソ連による賠償の取り立てを乗り越え、中・東欧の社会主義諸国でも最も発展し、女性の社会進出(人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人は女性であった)や電化製品の普及が進んだ「社会主義の優等生」とも呼ばれていた。
1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、ガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。なお、1987年には死刑を廃止した。
1970年代以降は公共投資が進み、日本の鹿島建設などの進出により、東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツに大きく水を開けられ、消費資材などの供給が少なく(例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった)、重化学工業生産が優先されていた。
[編集] 歴史
第二次世界大戦を経て、ドイツは米・英・仏・ソの四か国による占領下に置かれた。しかし、戦後の冷戦構造が固定化されていく中で、この四か国の協調は困難になっていった。1948年より、米・英・仏の占領地域による通貨改革を皮切りに、経済・政治両面における分断国家形成の動きが見られ、ソ連側もベルリン封鎖で対抗するが、東西ドイツ分断は決定的となった。1949年9月のドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国を受け、翌10月にドイツ民主共和国(東ドイツ)の建国が宣言された。
形式的には複数政党制が採られたが、実際はドイツ社会主義統一党(SED)の一党独裁体制であり、計画経済の下で1951年より第一次五カ年計画が開始された。計画実施の為に中央集権化が図られ、連邦主義的な州は廃止されて14の県(Bezirk)へと再編された。
1953年3月、ソ連のスターリンが死去したことは、東ドイツ指導部を動揺させた。また、抑圧的な政府の姿勢に反発して東ベルリン労働者のデモが起こっており、これを契機として東ドイツ各地で市民が反ソ暴動を起こした(六月十七日事件)が、ソ連軍の介入によって弾圧され、6000人以上が逮捕された。
無謀な計画経済・農業集団化は、東ドイツ経済を麻痺させていった。東ドイツの将来に絶望した人々は、唯一境界が開かれていたベルリンを経由して西ドイツへ逃亡して行った。こうして、青年層、知識人、熟練労働者などの流出が深刻化したため、政府は1961年8月に西ベルリンとの境界を完全に封鎖、この境界にはやがてベルリンの壁と呼ばれる壁が建設され、東西冷戦の象徴となった。
しかし、1980年代後半になると、西ドイツとの余りの経済的格差、市民的自由に対する格差に国民の不満が高まり始めた。1989年9月の総選挙の不正が明らかになり、国民は政府への不信感を強めていった。さらに一連の東欧革命により他の中東欧の共産主義国が次々と民主化すると、オーストリアとの国境を開放したハンガリーなどを経由して国民が西ドイツへ大量脱出した(汎ヨーロッパ・ピクニック)。1989年10月9日、南部の都市ライプツィヒでの反政府運動「月曜デモ」に際して、当局は弾圧を回避しその直後にはホーネッカーが失脚した。こうして東ドイツ政府は市民運動に屈し、ついに1989年11月9日、ベルリンの壁の開放に踏み切らざるを得なくなった。翌1990年には、初めての自由選挙で西ドイツとの統一を主張する勢力が勝利を収め、7月には通貨統合、そして10月3日にはドイツ連邦共和国に吸収される形でドイツ民主共和国は消滅し、東西に分れていたドイツは41年ぶりに統一された。
[編集] 政治
共産主義思想 国際組織 人物 出来事 |
ドイツ民主共和国は、典型的なソ連型社会主義による一党独裁型の政治体制を採っていた。
国会にあたる人民議会 (Volkskammer) があり、そこから選出される国家評議会議長が国家元首であった。また内閣に相当する機関として閣僚評議会が置かれ、閣僚評議会議長が首相に当たる。ただし、「民主共和国」の名とは裏腹に、議会はおよそ民主的とは言えない選挙方法で選ばれたものであり、また国政の実権は他の社会主義国と同様支配政党であるSEDの書記長が握っていた。
[編集] 政党と選挙
[編集] 政党
ドイツ民主共和国では、5つの政党が存在し、5つの政党で「国民戦線」を形成していた。しかしドイツ社会主義統一党以外の政党は同党の指導を認めた上で存在する衛星政党であり、「複数政党制」という建前を維持するための飾り物的存在であった。ヘゲモニー政党制の典型例である。
- ドイツ社会主義統一党 (SED) -支配政党
- ドイツキリスト教民主同盟(CDU(DDR)) - 旧西ドイツのドイツキリスト教民主同盟(CDU)とは別政党
- ドイツ自由民主党 (LDPD) - 旧西ドイツの自由民主党 (FDP) とは別政党
- ドイツ国民民主党(国家民主党)
- ドイツ農民民主党(民主農民党)
東西ドイツ統一後、上記の政党のうちSEDは民主社会党(PDS、現在の左翼党)と改名して存続し、キリスト教民主同盟・農民民主党は西側のキリスト教民主同盟と合同、ドイツ自由民主党(LDPD)・国家民主党は西側の自由民主党(FDP)と合同している。
[編集] 選挙
人民議会の選挙は、予め決められた議席配分リストに対して賛成の場合はそのまま無記入で投票、反対の場合は「反対」の欄に印を書く、と言う物であった。無記名投票ではあったが、反対の時のみ書かなければいけなかったため、すぐに誰が反対したのか分かるようになっていた。選挙の投票率は常に99%に近く、そのうちの賛成率も99%以上であった。棄権率、反対率は大都市になるほど高くなった。都市では投票の相互監視が比較的薄いからである。1981年からは棄権率、反対率は東ベルリンが最高である(ベルリンは表向き4カ国管理となっているために、相互の国会に直接議員を送ることが出来なかった。東ドイツは1981年よりその慣習を破って人民議会の直接選挙を行った)。
人民議会における議席配分は常に一定され、政党のほかに労働組合や職能団体などに配分されていた。当然社会主義統一党 (SED)が最大勢力になるように配分されている。また各団体はSEDの影響下にあった。
- 社会主義統一党 127議席
- キリスト教民主同盟 52議席
- 自由民主党 52議席
- 国家民主党 52議席
- 民主農民党 52議席
- 自由ドイツ労働総同盟 68議席
- 自由ドイツ青年団 40議席
- ドイツ民主婦人連盟 35議席
- ドイツ文化連盟 22議席
- 計 500議席
[編集] 民主化後の選挙
1989年秋に大規模な民主化運動が発生し、ホーネッカー体制が崩壊すると、社会主義統一党は国家に対する支配性を放棄して社会主義統一党/民主社会党 (SPD/PDS) と改称した。そして、1990年3月18日には東ドイツ国家史上最初(そして最後)の自由選挙が実施された。この際、西ドイツからの政治家の応援演説や資金提供が容認されたため、社会主義体制下の衛星政党からの脱却に成功したドイツキリスト教民主同盟やドイツ自由民主党の保守・中道政党は西ドイツの同系統の政党から強い支援を受けた。また、1946年に社会主義統一党へと事実上強制吸収されたドイツ社会民主党も元党員も加わる形で再建され、1972年に東西ドイツ基本条約を締結して東ドイツ国民から強く信頼されていたヴィリー・ブラント元首相などが西ドイツ側の社会民主党から支援に駆けつけた。また、民主化運動の中心勢力も独自のグループを結成し、社会主義統一党/民主社会党などとともに選挙に臨んだ。
選挙の事前予想では緩やかな国家統一を主張する社会民主党が優位だったが、首相でもある西ドイツのキリスト教民主同盟党首ヘルムート・コールは精力的に東ドイツ全土を遊説し、東ドイツマルクから西ドイツマルクへの交換レートなどで東ドイツ国民に配慮した公約を行った。これが成功してキリスト教民主同盟が社会民主党を抑えて第一党となり、西ドイツと同様に自由民主党の連立参加を受け、党首のロタール・デメジエールが首相に就任した。一方、社会主義統一党/民主社会党は大きく議席を減らし、「東ドイツにとどまり、この国を民主化する」事を唱えた民主化勢力も伸び悩んだ。これにより、東ドイツは事実上独立国家としての存続を放棄し、西ドイツに主導権を預けた急進的なドイツ統一への道を進んだ。
[編集] 主な政治家
[編集] 歴代国家元首
- ヴィルヘルム・ピーク(注1):1949年 - 1960年
- ヴァルター・ウルブリヒト(注2):1960年 - 1973年
- フリードリヒ・エーベルト(注3):1973年
- ヴィリー・シュトフ:1973年 - 1976年
- エーリッヒ・ホーネッカー(注4):1976年 - 1989年
- エゴン・クレンツ:1989年
- マンフレート・ゲルラッハ(注5):1989年 - 1990年
- ザビーネ・ベルクマン=ポール(注6):1990年
- 注1:ヴィルヘルム・ピークは、「大統領(Staatspräsident)」、それ以降は「国家評議会議長(Staatsratsvorsitzender)」。
- 注2:ヴァルター・ウルブリヒトは、社会主義統一党(SED)書記長兼任(1949年10月~71年4月)。
- 注3:フリードリヒ・エーベルトは、国家評議会議長代理。
- 注4:エーリッヒ・ホーネッカーは、SED書記長兼任(1971年4月~89年10月)。
- 注5:マンフレート・ゲルラッハ(ドイツ自由民主党出身)の評議会議長在任は、1990年の自由選挙実施時まで。
- 注6:ザビーネ・ベルクマン=ポールは、人民議会議長・暫定国家元首を自由選挙実施後から再統一時まで務めた。
[編集] その他
- オットー・グローテヴォール - 初代首相。東地区のドイツ社会民主党出身。
- ギュンター・シャボウスキー - ベルリンの壁崩壊の直接のきっかけを作ったSED政治局員。政府報道官。
- エーリッヒ・ミールケ - ベルリンの壁崩壊直前まで32年間にわたりシュタージのトップ(国家保安省長官)を務めた。SED政治局員候補。
- マルゴット・ホーネッカー - エーリッヒの妻。保健相を務め、エーリッヒの後継者候補と目されていた。
- ロタール・デメジエール - キリスト教民主同盟党首。1990年の自由選挙から再統一による国家消滅まで、最後の東ドイツ首相。再統一後は自党を西側の党へ吸収合併させ、コール政権へ入閣したが、1991年、シュタージの協力者だった経歴が発覚して失脚。
[編集] 外交政策
他の東ヨーロッパの社会主義国同様、ワルシャワ条約機構に属していた。DDRの軍隊である国家人民軍の人数は約9万人で、約26万人の在独ソ連軍の3分の1ほどに過ぎなかったが、「棍棒で鍛えられた」とも表現されるその錬度の高さはワルシャワ条約機構軍一と言われ、同軍の武器庫、弾薬庫の鍵は、叛乱を恐れ必ず在独ソ連軍の将校が管理したとも噂された。T-72その他の同軍の兵器はソ連仕様よりも武装や装甲が大幅にスペックダウンされており実際にソ連側にとっての叛乱防止の意図があったと見られている。
「東ドイツは国土の約4分の1が在独ソ連軍の基地や演習場で占められていた」、「東ドイツは約26万人(東欧革命より少し以前の陸軍のみの兵力と思われる)の在独ソ連軍に支払う思いやり予算の重圧で自然崩壊した」等の言説は、現在では西側マスコミによるプロパガンダだったというのが通説となっている。
1973年、西ドイツと同時に国際連合に加盟。なお、ドイツ民主共和国はナチス・ドイツと戦ってきた反ファシズムによって樹立された政権であり、ベルリンの壁の崩壊まで第2次世界大戦によるナチス・ドイツの侵略戦争やホロコーストに対する責任を負う立場にないとしていた。
[編集] 地方制度
当初は5つの州(Land) が置かれた連邦制で、旧西ドイツの連邦参議院にあたる参議院 (Landeskammer) も存在したが、1952年以降は14のBezirk(日本語では「県」と訳される、東ベルリンは除く)に再編されて参議院は廃止され、中央集権化が進められた。
- ドレスデン県(Bezirk Dresden、県都はドレスデン)
- カール=マルクス=シュタット県(Bezirk Karl-Marx-Stadt、県都はカール=マルクス=シュタット)
- ライプツィヒ県(Bezirk Leipzig、県都はライプツィヒ)
- ゲーラ県(Bezirk Gera、県都はゲーラ)
- エアフルト県(Bezirk Erfurt、県都はエアフルト)
- ズール県(Bezirk Suhl、県都はズール)
- ハレ県(Bezirk Halle、県都はハレ)
- マクデブルク県(Bezirk Magdeburg、県都はマクデブルク)
- コトブス県(Bezirk Cottbus、県都はコトブス)
- ポツダム県(Bezirk Potsdam、県都はポツダム)
- フランクフルト県(Bezirk Frankfurt (Oder)、県都はフランクフルト・アン・デア・オーダー)
- ノイブランデンブルク県(Bezirk Neubrandenburg、県都はノイブランデンブルク)
- シュヴェリーン県(Bezirk Schwerin、県都はシュヴェリーン)
- ロストック県(Bezirk Rostock、県都はロストック)
1990年7月23日に人民議会によって州の復活が決定し、以下の5州が設置された。この5州を新5州、東ドイツ5州という。
上記5州は、ドイツ基本法23条に基づいてドイツ連邦共和国に加入した。
[編集] 経済
ここでは、東ドイツを5つの地域(北部・中部・東ベルリン・南部・南西部)に分けて論じる。
[編集] 北部
ロストック県、シュヴェリーン県、ノイブランデンブルク県といった北部は農業地域であった。また、バルト海に面するロストック県では水産業も盛んだった。工業部門では、港湾都市ロストックで造船業がみられた。ロストックは、ソ連、東欧に輸出するための最も重要な貿易港でもあった。また、シュヴェリーンやノイブランデンブルクで金属加工、軽工業が発展していた。
[編集] 中部
マクデブルク県、ポツダム県、フランクフルト・アン・デア・オーダー県、コットブス県でも、農業が盛んであった。また、コットブス周辺は褐炭の最大生産地域であり、同県のエネルギー産業は東ドイツのエネルギー生産の約4割を支えていた。そのほか、アイゼンヒュッテンシュタットの鉄鋼コンビナートや、マクデブルクの機械製造工業などが発展していた。
[編集] 東ベルリン
工業、通信、サービス業などが盛んであった。シーメンスやAEGを受け継いで、電気・電子産業も発展した。
[編集] 南部
ドレスデン県、カール・マルクス・シュタット県、ライプツィヒ県、ハレ県といった南部は、東ドイツにおける工業地域であった。ハレ県では化学産業が盛んで、東ドイツにおける生産全体の4割程度を支えた。カール・マルクス・シュタット県では繊維産業が盛んで、東ドイツ全体の5割強を支えた。また、同県のツヴィッカウはトラバント(東ドイツの自動車)の生産で知られた。
[編集] 南西部
エアフルト県、ゲーラ県、ズール県も東ドイツにおける工業地域であった。エアフルトとイエナにおける電子・光学産業や、アイゼナハの自動車産業が発展した。
[編集] 文化
音楽・演劇・スポーツなどでは、「西ドイツを大きくリードする目覚しい成果が挙げられた」とされている。
[編集] 音楽
音楽ではドレスデン国立歌劇場管弦楽団、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの伝統あるオーケストラが活動し、クルト・ザンデルリング、オトマール・スウィトナー、ヘルベルト・ケーゲル、クルト・マズアといった指揮者や演奏家が活躍していた。なお、クラウス・テンシュテットは東ドイツでの活動に疑問を感じ、1971年に西側に亡命している。
作曲家では、ナチス時代にアメリカに亡命していたハンス・アイスラーやパウル・デッサウが戦後に帰国し、楽壇の中心的存在として活動した。
しかし、東ドイツ出身の作曲家ヨルク・ヘルヘットは、「何年に十二音技法が解禁、何年にはシュトックハウゼンが解禁などという謎のルールに縛られた奇妙な文化政策」であったことを告白している。
[編集] 文学
ナチスドイツに抵抗した文学者たちの中で、アンナ・ゼーガース、アルノルト・ツヴァイクやベルトルト・ブレヒトは東ドイツで活動を続けた。また、クリスタ・ヴォルフは「引き裂かれた空」で、ベルリンの壁のできる前後の時代の東ドイツの生活を描いた。
[編集] スポーツ
[編集] オリンピック
詳細はドイツ民主共和国のスポーツを参照
スポーツでは、他の社会主義国同様国家の威信をかけた強化策が取られ、陸上競技や水泳競技などはオリンピックなどでも輝かしい成績を残した。特に1970年代後半から80年代に掛けてはアメリカを抑えて世界第2位の金メダル大国となった。
ただし、その陰には組織的なドーピングが存在し、シュタージによるスポーツ関係者の監視や協力要員化が行われた。統一後にこれらの問題が噴出し、競技水準の低下が起こった。
[編集] 祝祭日
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Neujahr | |
3月8日 | 国際女性デー | Tag der Frau | |
移動祝日 | 聖金曜日 | Karfreitag | |
移動祝日 | 復活祭 | Ostersonntag | |
移動祝日 | Easter Monday | Ostermontag | |
5月1日 | メーデー | Tag der Arbeit | |
移動祝日 | 父の日/主の昇天 | Vatertag / Christi Himmelfahrt | 復活祭後の第五日曜日後の木曜日 |
移動祝日 | 聖霊降臨 | Pfingstmontag | 復活祭から50日後 |
10月7日 | 共和国の日 | Tag der Republik | 建国記念日 |
12月25日 | クリスマス | 1. Weihnachtsfeiertag | |
12月26日 | ボクシング・デー | 2. Weihnachtsfeiertag |
[編集] 関連項目
- ドイツ民主共和国憲法
- ドイツ民主共和国のスポーツ
- サッカー東ドイツ代表
- プロパガンダ
- インターフルク(東ドイツの国営航空)
- トラバント(東ドイツの大衆用自動車)
- MZモトラッド (オートバイ。旧称DKW)
- 共和国宮殿(東ドイツの議会・ホール建築)
- 消滅した政権一覧
- アンペルマン
- グッバイ、レーニン!(映画)
- 善き人のためのソナタ(映画)
- ザントマン(砂男)
- オスタルギー(旧東ドイツ国民が社会主義時代の過去へ寄せる郷愁を意味する造語)
- 思いやり予算
[編集] 参考文献
- Hannes Bahrmann/Christoph Links: Chronik der Wende. Die Ereignisse in der DDR zwischen 7.Oktober 1989 und 18.März 1990, Berlin:Links, 1999, ISBN: 3-86153-187-9.
- 山田徹『東ドイツ・体制崩壊の政治過程』日本評論社、1994年
- 仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年