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東京大空襲 - Wikipedia

東京大空襲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真
空襲前(左)と空襲後(右)の航空写真
焦土と化した東京
焦土と化した東京

東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦アメリカ軍により行われた東京に対する一連の大規模な空襲

東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きい1945年(昭和20年)3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲である。

目次

[編集] 空襲の経緯

[編集] 1945年3月10日以前の空襲

空襲を行ったB-29戦略爆撃機
空襲を行ったB-29戦略爆撃機

1942年4月18日にアメリカ軍によるドーリットル空襲が行われ、東京にも初の空襲があった。1944年7月、サイパン島などマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土に対する空襲の基地となった。同年11月24日軍需工場である北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機工場に対する初の戦略爆撃による空襲が行われた。それ以降、空襲が続き、1945年1月27日には有楽町銀座地区が標的になり、有楽町駅は民間人の死体であふれた。

この頃の爆撃はレーダー照準を用いた高高度精密爆撃であったが、爆撃失敗も多かったため、後に夜間低空爆撃へと変化していった。

[編集] 3月10日の空襲

焼けこげた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上と言われている。(石川光陽撮影)
焼けこげた遺体の山。死者・行方不明者は8万人(民間の調査では10万人)以上と言われている。(石川光陽撮影)
母親と思われる遺体は子供を背負って逃げていたため、背中は焦げていない(石川光陽撮影)
母親と思われる遺体は子供を背負って逃げていたため、背中は焦げていない(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)
鎮火後の街の風景(石川光陽撮影)

3月10日の大空襲は、日本の中小企業が軍需産業の生産拠点となっているとして、町工場が立ち並ぶ下町市街地とそこに生活する市民そのものを攻撃対象に行なわれた低高度夜間爆撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。

1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオにて放送中の軍歌を中断して警戒警報発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、9日から10日に日付が変わった直後(午前0時8分頃)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、午前0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも爆撃が開始された。午前0時20分には浅草地区でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れた。

東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、多くの爆弾投下機から殆どの機銃弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この形は日本家屋の瓦屋根を突き破って家の中に入り中身を散布するためで、縦にまっすぐ落ちるよう空中で体勢を制御するために吹流しのようなものを付けた。そしてこれらをまとめて一つの束にし、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼んだ。投下後空中で散弾のように分散するものである。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。午前2時37分、アメリカ軍機は退去し、空襲警報は解除される。

当夜は低気圧の通過に伴って強い北西の季節風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。

  • もともと精度の悪い警戒用レーダーのアンテナを風が揺らしたため、ますます精度が悪化していた。これにより、確実な編隊の捕捉と敵の企図の把握が出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。また、敵機はウインドウを大量に散布するなどした。
  • 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して、発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。狙い撃ちの攻撃で、着弾は高高度爆撃よりはるかに精密になった。後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川周辺まで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった)。
  • 折からの北西の季節風空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。

これら複数の要因が重なり被害が拡大した。

この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、ドイツロンドンを空襲した際に不発弾として回収された物を参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。

火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識では有り得ない程の規模であるため、火災旋風が至る所で発生し、橋や建物に炎がのように流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。

3月10日日露戦争奉天会戦勝利の記念日であり、陸軍記念日となっていた。日本の戦争継続の気力を削ぐため、敢えてこの記念日が選ばれたとも言う向きもある。(ただし、アメリカ側の資料では陸軍記念日を意識していたことは確認出来ていない。)

3月12日には名古屋大空襲が、3月13-14日に大阪大空襲が、それぞれ実行され多数の死傷者を出している。

[編集] 被害

警視庁の調査での被害数は以下の通り。

  • 死亡:8万3793人
  • 負傷者:4万918人
  • 被災者:100万8005人
  • 被災家屋:26万8358戸
空襲をうける東京市街(1945年5月25日のもの。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線と東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる)
空襲をうける東京市街(1945年5月25日のもの。画面中央は現在の東京女学館・日赤医療センター付近、画面下から画面右上に伸びるのは渋谷川、画面下に山手線東横線の交差と思しきものが見えることから広尾上空と推定される。なお、北方向は写真左側となる)

死者数は遺体が早期に引き取られた者は含まれておらず、他に行方不明者も数万人規模で存在することから、実際にはより多い。民間団体や新聞社の調査では死亡・行方不明者は10万人以上と言われる。東京の3分の1以上の面積(約41km²)が焼失した。

なお、アメリカ軍の損害は撃墜・墜落12機、撃破42機であった。

ちなみにアメリカ軍は関東大震災1923年)を徹底的に検証し、木造住宅が密集する東京の下町が火災被害に遭いやすいことをつきとめそこを攻撃目標とした。そのため関東大震災と東京大空襲の被害地域が重なっていることは偶然ではない。

[編集] 5月25日の空襲

3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。3月10日に次いで被害の大きかったのは5月25日で、470機が来襲し、それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。 また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している。

3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また、多摩地区立川八王子なども空襲の被害を受けている。その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

[編集] 大規模な実験

この東京大空襲を始めるに当たって、アメリカ軍は大規模な実験を行った。日本家屋を模した家を並べて燃やし、どうすればこの家に大きな被害を与えられるかを模索した。家が燃えるところを兵士達は石の箱状の建物の中から、のぞき穴で見守った。この家は室内まで精巧に作ってあり、特にこだわったのはで、日系人の多いハワイからわざわざ取り寄せたという。これらの実験によってクラスター焼夷弾も開発され、本物の日本家屋に大きな被害を与えた。

[編集] 日本軍による迎撃

防空戦に出撃した機体の一つ三式戦闘機「飛燕」
防空戦に出撃した機体の一つ三式戦闘機「飛燕」

アメリカイギリスに比べて日本軍はまともなレーダー施設を持たなかったため、事前に空襲を察知する事が出来ず、なお性能に劣る日本機ではB-29の高度まで上昇するのに時間を要するため(零戦21型では1万mまで上昇するのに1時間を要した)迎撃は極めて困難だった。B-29の防弾タンクは頑強で、日本機の機銃が多少当たった程度では撃墜する事は難しく、B-29の優れた迎撃システムと訓練された編隊飛行により接近すら困難だった。11月24日の東京空襲では銃器を外し軽くした機体でB-29に体当たり攻撃を決行し1機を撃墜している。陸軍航空部隊は、対B-29体当たりを行うため震天制空隊を結成し、「空の特攻」を各地の空襲で敢行した。3月10日の大空襲では、東京近郊の飛行場に配備されていた夜間戦闘機隊が迎撃に向かい、猛火による猛烈な上昇気流と煙により飛行が困難を極める中で、陸軍の高射砲部隊と合わせて12機を撃墜、42機を撃破する戦果を挙げた。[1]上記の要因に加え、パイロットの質が低下し、夜間飛行ができる技量を持ったパイロットが僅かしかいなかった事も迎撃を困難にさせた。5月25日に464機のB-29が来襲した際は、26機撃墜、86機撃破と本土空襲の中で最も大きな損害を与えた。[2]

[編集] 米軍にとっての空襲

東京大空襲を指揮したカーチス・E・ルメイ少将
東京大空襲を指揮したカーチス・E・ルメイ少将

1944年11月24日にヘイウッド・S・ハンセル准将の指揮により始められた日本本土空襲は、軍需工場、製油所などの目標地点のみ攻撃するピンポイント攻撃であった。なぜならハンセルはかつて日本軍が中国で行った無差別爆撃に対して非人道的だという感情を抱いていたからであった。しかし思わしい効果が上がらなかったため、翌年の1945年1月21日にカーチス・E・ルメイ少将と交代した。「軍需工場の労働者の家や使用する道路鉄道を破壊することが効果的だ。」というヘンリー・H・アーノルド大将の意を受けたルメイは、大規模な無差別攻撃を立案、その手始めに東京を選んだ。 ただし、かなりのリスクを背負っていた。それは、

  1. 燃料節約のためB-29は編隊を組まないで、単独飛行にしたこと。コースを外れる危険性があった。
  2. 低高度(高度7千~8千ft,)からの焼夷弾を投下する。日本上空の強い風を避け、目標を絞りやすいが、対空砲火や日本の戦闘機の標的になりやすい。
  3. 爆撃の効果を上げるために搭乗員を減らしてまで、焼夷弾や燃料の搭載量を増やした。迎撃に遭遇しても反撃できなかった。

というもので、「猛将」と呼ばれたルメイも流石ばかりは、一睡もせずに攻撃隊の返事を待っていたという。

またルメイの「低く飛べ」と言う命令に兵士が「危ないですよ」と言うと、ルメイは葉巻を真っ二つに噛み切って「なんでもいいから低く飛ぶんだ」言ったという。しかし空襲時の東京を空から一定の時間おきにスケッチするため、高度1万mに留まっていた飛行機もあった。基地に帰った後、ルメイはそのスケッチを満足げに受け取った。

「この空襲が成功すれば戦争は間もなく終結する。これは天皇すら予想できぬ。」「我々は日本降伏を促する手段として火災しかなかったのである。」とルメイ自身証言している。

[編集] その後

[編集] 戦争犯罪

これ以降も、日本側の産業基盤を破壊し、また戦意を挫くため、全国各地で空襲が行なわれ、その結果多くの一般市民が犠牲となった。建前では軍施設や軍需産業に対する攻撃であるが、実際には多数の民間人(非戦闘員)が犠牲になっており、戦争犯罪ではないかとの指摘も強い。しかし日本政府は、サンフランシスコ平和条約により賠償請求権を放棄している。

戦後1964年(昭和39年)に日本政府は、日本本土爆撃を含む対日無差別爆撃を指揮したルメイに対し、航空自衛隊の育成に貢献したとの理由で勲一等旭日章を授与した。これには授与当時は遺族や反戦左翼から、近年では戦勝国政府に対する極端な擦り寄りではないかと言う右翼からの批判の声もある。が、真珠湾空襲に大きく関わった当時参議院議員・元航空幕僚長源田実は当時この勲章授与を賞賛した。なお、源田はこれに先立ち米国からリージョン・オブ・メリット勲章の叙勲を受けている。これをもって日米両国が真珠湾攻撃日本本土空襲の責任者を相互免責し、日米同盟の強化を図ったとする見方がある。

ルメイは後年、「自分たちが負けていたら、自分は戦犯として裁かれていた」と述べている。ルメイの前任者ハンセル少将は高高度からの軍事目標への精密爆撃にこだわった故に解任されている。無差別戦略爆撃は、原爆投下も含めてアメリカ大統領たちの選択であったと言ってよい。もっとも、同じアメリカ軍内でもチェスター・W・ニミッツ元帥などはルメイをあからさまに批判しており評価は分かれている。

[編集] 記録

3月10日の空襲の惨状は、警視総監より撮影の任務を受けた、警視庁石川光陽によって、僅か33枚の写真に残された(上の画像参照)。それらは戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から引き渡すよう命令が下るが、石川はこれを拒否し自宅の庭に埋めて保管したという。この33枚の写真は、東京大空襲の悲惨さを伝える大切な資料となっている(石川自身、本当はこのような写真は撮りたくないと言っていた)。なお、石川はほかにも1942年ドーリットル空襲から1945年5月25日の空襲まで記録写真を撮影しており、東京の空襲全体では撮影枚数は600枚を越える。

[編集] 慰霊

戦災により亡くなられた方々の碑、台東区浅草七丁目一番
戦災により亡くなられた方々の碑、台東区浅草七丁目一番

身元不明の犠牲者の遺骨は関東大震災の犠牲者を祀る震災慰霊堂に合わせて納められ、現在は東京都慰霊堂になっている。慰霊堂では毎年3月10日に追悼行事が行われているほか、隣接する東京都復興記念館に関東大震災及び東京大空襲についての展示がある。東京都1990年(平成2年)、空襲犠牲者を追悼し平和を願うことを目的として、3月10日を「東京都平和の日」とすることを条例で定めた。一連の空襲による正確な犠牲者数は不明である。東京都では墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置し、遺族などからの申し出により判明した分の犠牲者名簿(1942-1945年の空襲犠牲者)を納めている。

[編集] 空襲を免れた地区

東京の市街地でも空襲を免れた区域がある。

  • 丸の内付近では東京府庁(東京都庁)と東京駅が空襲を受けたが、空襲を免れた区域も多い。これは占領後の軍施設に使用する予定の第一生命館や明治生命館などがあった為と言う。
  • 築地付近が空襲を受けなかったのは、アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院があったからだとも言われる。
  • 中央区佃島月島地区も戦火を免れ、現在も戦前からの古い木造長屋が残っている。3月10日の下町空襲で甚大な被害を受けた旧・深川区(現在の江東区)とは晴海運河を挟んで明暗が分かれた形となった。
  • 墨田区京島地区・甚大な被害を被った墨田区中央部の中で奇跡的に延焼を免れた一帯。空襲以前にも関東大震災の際にも延焼を免れ、ほぼ大正初期の路地構成や建物の面影を今に残す、下町一帯の中では希有な地域である。但し「生き残った」ことにより、自動車も通れない明治大正期の極狭路地が迷路のように走る同地帯は、現在では防災面で深刻な地域として懸念されている。
  • ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近も空襲は受けていない。
  • 神田には救世軍本営があるため被害を受けなかったとも言われるが定かではない。また神保町古書店街の蔵書の消失を恐れた為という俗説もあるが、アメリカ軍はドレスデン爆撃など文化財の破壊を意識せず(むしろ好んで)行っていることから信憑性は低い。なお日本正教会ニコライ堂(東京復活大聖堂)およびその関連施設も空襲を免れ現代に残っている。遺体の収容場所が足りなくなった事による本郷の町会の要請により、大聖堂には一時的に遺体が収容された[3]
  • 皇居(宮城)は対象から外されていたが、5月25日の空襲では類焼により明治宮殿明治憲法の発布式が行われた建物)が炎上した。このため、松平恒雄宮内大臣が責任を取って辞任している。

[編集] 空襲により犠牲になった著名人

[編集] 東京大空襲訴訟

大空襲から62年が経過した2007年3月9日、「東京空襲犠牲者遺族会」の被災者・犠牲者の遺族112人(平均年齢74歳)が、日本政府に対して謝罪および総額12億3200万円の損害賠償を求めて東京地方裁判所に集団提訴した。空襲による民間の被害者が集団となって国に責任を問うのは初めて。目的は、旧軍人・軍属に比べ民間人の補償が行なわれていないことに対し、「東京空襲が国際法違反の無差別じゅうたん爆撃であったことを裁判所に認めさせ、戦争を開始した政府の責任を追及する」ことである。[1](東京大空襲訴訟)。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • A・C・グレイリング『大空襲と原爆は本当に必要だったのか』鈴木主税/浅岡政子訳、河出書房新社、2007年2月、ISBN 978-4-309-22460-2
    • A. C. Grayling, "Among The Dead Cities: The History and Moral Legacy of the WWII Bombing of Civilians in Germany and Japan," Walker & Company, March 20, 2007 ISBN 0802715656
  • 早乙女勝元『図説 東京大空襲(ふくろうの本)』河出書房新社、2003年8月、ISBN 4-309-76033-3
  • 東京都編集『東京都戦災誌』明元社、2005年8月、ISBN 4-902622-04-1
    東京大空襲の記録を網羅した唯一の公式資料。
  • 平塚柾緒編著『米軍が記録した日本空襲』草思社、1995年6月、ISBN 4-7942-0610-0
  • 村上義人『手拭いの旗 暁の風に翻る』福音館書店〈福音館日曜日文庫〉、1977年7月、ISBN 4-8340-0549-6
    開成高校の学徒隊として遭遇した著者の被災状況を記録。開戦前夜から敗戦―講和までの日本の状況も記した自伝。
  • 山本茂男他著『B29対陸軍戦闘隊――陸軍防空戦闘隊の記録(新版)』今日の話題社、1985年11月、ISBN 4-87565-304-2
    本土防空作戦に従事した旧陸軍の航空関係者による回想録集。

[編集] 脚注

  1. ^ 『本土防空戦』渡辺洋二・著
  2. ^ 第二時大戦に於けるアメリカ陸軍航空軍戦闘日誌
  3. ^ 高井寿雄『ギリシア正教入門』教文館(1980)

[編集] 外部リンク

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