三式戦闘機
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三式戦闘機(さんしきせんとうき)は第二次世界大戦において用いられた日本陸軍の戦闘機で、紀元2603年(1943年)制式採用により三式戦闘機と称した。開発・製造は川崎、設計は土井武夫、形式番号はキ61で愛称は飛燕である。この通称は軍の制定の名称ではなく、国民に親しみを持たせるためにつけられたもので、昭和20年(1945年)に入って活躍を報じた新聞紙上で一般に知られるようになった。(なお雷電や烈風といった海軍戦闘機の場合は、これが制式名称である。(試作の場合は試製とか仮称と接頭した。)※参照『軍用機の命名規則 (日本)』)。現地部隊では試作時代からのキ番号でキのロクイチ、ロクイチ戦などと呼ぶのが普通だった。連合軍のコードネームは『Tony』。Tonyとは、アメリカではイタリア系移民の典型的な名前とされ、当初、本機をイタリアのマッキMC.202戦闘機のコピーと誤認したことと、Threeの頭文字に因んで名づけられた。
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[編集] 概要
日本では少ない液冷エンジン(ハ40 ダイムラーベンツ社のDB601のライセンスエンジン)搭載の戦闘機の一つ(太平洋戦争に参加した日本軍戦闘機の中では唯一)である。日本機らしからぬデザインから「和製メッサーシュミット」とも呼ばれた。エンジンと後に搭載されるMG151機関砲以外は全くの別設計で、古い海外の記事などではそのシルエットから安易にコピー扱いされたりもしたが、Bf109とは、左右一体型の主翼と胴体の接合法、ラジエター配置、主脚構造など大きく異なり、むしろ内部構造的には共通点が少ない程である。またドゥーリットル爆撃隊の本土初空襲の際、偶然飛行していたキ61が見慣れぬシルエットゆえに敵機と誤認され、海軍機から銃撃を受けたりした。逆に、大戦末期にB-29爆撃機の護衛にP-51戦闘機が初めて飛来した際、これをシルエットが似ている本機と誤認して不用意に接近し、撃墜された日本戦闘機が少なからずあったとも言われる。
1941年12月に初飛行した試作機は、最高速度は時速591kmを記録、総合評価で優秀と判定され、ただちに採用が決定した。しかし、先行して試作され、不採用となったキ60の時もそうであったように DB601はドイツ製のオリジナルを審査部で扱っていたときも水冷エンジンに対する不慣れから、整備員泣かせであった。これは同じく液冷エンジンのアツタを採用していた海軍の彗星でもそうであったが、同じDB601のライセンス生産エンジンであっても、本機に採用された川崎ハ-四〇系のほうは量産開始後、主に排気タービン用にニッケルを確保する目的で、陸軍からニッケルを材料から外す決定が下された為、[1]部品強度が落ち、状況はさらに劣悪であり(その為、ライセンス取得にあたってBMWやユンカース製の発動機を推奨する声も陸軍内外にあったが同じ水冷でもコンパクトで供給実績のあるDB600シリーズが採用された。ちなみに本国ドイツであっても高性能のDB600シリーズの供給には手間取り、ユモなど他エンジンも平行して生産され、DB系エンジンは主力機であるメッサーシュミットBf109などに優先的に振り向けられる状況であった)、キ61の制式化にはなお紆余曲折が予想された。
それでも、当時の陸軍戦闘機は、アメリカと戦うにはあまりに非力な九七式戦闘機が主力で、急遽採用された一式戦闘機も二個戦隊がやっとであった。南方進攻作戦においては一式戦が空戦性能と搭乗員の錬度の高さで予想以上に健闘し制空権を手にした。しかし連合軍の新鋭機の投入もあり、それと互角以上に戦い圧倒するのには後継戦闘機の登場が急務となった。大きな期待を担ったキ61は1942年には量産開始し、2個戦隊を編成して、ニューギニア戦線に送られることとなったが、先陣として空路前線へ飛び立った68戦隊と78戦隊の三式戦は、エンジン故障や航法ミスなどにより前線到着前に3割以上の機体が失われた。
次いで、船で輸送した機材も到着し、数の上では陣容を整えたもののエンジンや冷却系統には常にトラブルが付きまとい、稼働率は低かった。初陣は1943年(昭和18年)7月、ニューギニア方面の飛行第68.78戦隊による邀撃戦と艦船護衛であったが、機材の消耗が進み、その年の8月には、両戦隊合わせて6機にまで減少した。その後も戦力の回復に努めつつ戦闘を続けたが、1944年3月頃には戦力回復は絶望的な状況となり、1944年7月に両戦隊とも解隊した。フィリピン作戦では、飛行第17、18、19戦隊が対艦船攻撃に参加したが、搭乗員、整備員とも未熟で、結果は芳しいものではなかった。[2]
その後も、改良を重ねつつ、各地に展開した三式戦であったが相変わらず水冷エンジンの不調に悩まされ稼働率は低いままで、P-38のパイロットからは、隼よりはいくぶん速いがP-38ほどではなく、むしろ隼ほどの運動性を持たないために組みし易いと評価される一方、降下速度が速く、上空からの攻撃を受けたり、下方離脱で取り逃がすことがあったとの証言もある。(航空ファン・文林堂刊。・米国陸海軍航空兵との対談記事)
日本本土防空戦になると、飛行第18.55.56.244戦隊が主として昼間来襲する敵機の迎撃にあたり連合国の新鋭戦闘機との交戦で消耗も多かった。 四式戦闘機等には及ばないものの、当時の日本軍戦闘機の中では比較的優れた高高度特性を持つ三式戦(試作時に高度10,000mで523km/hの速度記録あり)は、武装の全部(もしくは一部)と装甲板を取り外して軽量化する事で、高度8,000m以上の高空を飛行するB-29に対して迎撃戦が可能な数少ない機体(陸軍の主力の隼や、海軍の主力であった零戦では困難)として、相応の戦果は収めた様である。 特に、調布飛行場を本拠とした首都防衛戦闘機隊の飛行第244戦隊が、体当たり戦術を併用して、B29を相当数撃墜した事で、この機種に対する評価が、 戦後はかなり高くなった傾向がある。艦船に対する一般的な特攻と違って操縦士には脱出して生還する事が求められていたとは言え、運動性の悪化する高空にて、相対速度が大きく(艦船に比較して)小形のB29に体当たりする事は、かなり困難であったと予測され、その効果の程は疑問視されるが、前述の244戦隊では戦隊長自ら実際に体当りを実行し(しかも生還している)、戦果を挙げている。また、体当たりではなく、通常の射撃でB-29を撃墜した例も少なくない(20mmを機首に搭載しているので、重爆迎撃にはもってこいだったと評する元搭乗員もいる)。対戦闘機戦に於いても有利な条件であれば、少数機で倍以上のF6Fと渡り合って撃退したという事例もある。
惜しむらくは、結果論ではあるが、その後の空冷ハ-112-Ⅱ換装後の(=五式戦闘機)活躍を見るにつけ、キ-61の機体設計の優秀さは、証明されており当初から水冷にこだわらず金星(ハ-102/ハ-112)系列のエンジン搭載していればと、痛感させられる。[3]ただしあくまでキ-61は液冷エンジンがあってこその設計であり、水冷エンジンの製作遅延と、たまたま余剰の空冷エンジンがあり(百司偵において、逆に機体の製造が遅延していたため)、それに換装してからの性能向上は、偶然の産物であった。(航空情報他の出版社である酣燈社の青木日出雄編集長の言によれば「たまたまふたつくっつけたら良いものが出来た」)むしろ胴体より径の太いエンジンを取り付けるためにかなり苦労しており、土井は補機類の位置を変更する事無くキ-61の胴体にハ-112-Ⅱを搭載できたのは天佑であったとしている。[4]こうした、急場しのぎとも言える方策が結果としてバランスのとれた機体を生み出した事は、原設計の優れていたこともさることながら想定を超えた出来事であった。
[編集] 技術的特徴
設計コンセプトは、重戦、軽戦にこだわらない万能戦闘機。(陸軍からの開発指示があった時点では軽戦と分類されていたものの、川崎ではこの分類に囚われない戦闘機を目指し、そのため「中戦」[5]と呼ばれた。)旋回性能を良くするには、翼面荷重ではなく翼幅荷重を稼ぐのが得策という信念(翼面荷重を低くすれば旋回半径が小さくなり、翼幅荷重を小さくすれば旋回率が高くなる傾向にある。川崎では、旋回半径を小さくすると旋回時に速度が低下するとして、速度を維持して旋回するために旋回率を高めたほうが、強い戦闘機になると判断した)の下に高アスペクト比の主翼を採用し、独特のスマートな容姿となった。また、液冷エンジンを搭載したおかげで、機体表面の空気の流れがスムーズで胴体断面が縦長になったこともあって、3舵のバランスは素晴らしいと評されている。
機体の分割を減らして、強度と軽量化の両立を図ったのも特長で、胴体はエンジン架から尾翼直前まで一体構造、主翼も左右一体となっている。[6]そのためにエンジン周りの整備性が犠牲となっている。
運動性に関しては低速旋回性能はいいが、高速で舵が重いという、日本機としては普通の評価。川崎はより高速で旋回できたほうが強い戦闘機になると判断し、そのため旋回率を高めるべく設計したのだが、米国機との比較では必ずしも目的は達成できていなかった事になる。むしろ旋回半径が小さいという米国機に対する長所をそぐ事になり、米国戦闘機との対戦での相性を悪くする結果となった。また機体重量に比べ、ハ-40ではやや非力なため、水平加速や上昇力は低く、この面でも他の日本製戦闘機に比べて米国機との相性を悪くしてしまった。 なお、液冷エンジン装備機は空冷エンジン機に比べて空気抵抗が小さく、重量が大きくなる為、水平速度と急降下速度で勝り、上昇速度と加速性に劣るのは一般的に見られる傾向である。
ハ-40は、DB601をコピーする際、戦略物資の使用制限のため、陸軍からの指示もあってクランクシャフトの材料からニッケルを外さざるを得ず、強度不足から、よく折損事故を起こした。工作精度もオリジナルに比べれば、許容公差で1~2桁ほど妥協しており、ベアリングの破損など、工作不良に起因する故障も多発した。
エンジンと並んで三式戦の2大欠陥になったのがラジエターで、胴体下に冷却液のラジエターとオイルクーラーが同居しているため、離陸時の風量調整操作が難しく、よくオーバーヒートした。また、オイル配管をエンジンから遠い機体下面まで取り回したせいで、配管の各所からオイル漏れが生じ、これも本機の欠点となった。
飛燕に限ったことではないがエンジンの整備性の悪さに関しては、整備取扱書の難解さも原因のひとつとして挙げられてくる。説明文は硬い文体で難しい漢字や文言を多用しており、写真や図版も専門用語の羅列で、整備員の多くには難しすぎたのだという。一方で連合軍の整備書はマニュアル化され、わかりやすい図版やイラストをも多用し整備経験が浅くとも、ある程度は理解できるよう工夫されていた。 陸士55期で飛燕に搭乗し、戦後航空幕僚長にまでなった竹田五郎のキ-61の印象は、離陸の時に前が見えない事と上昇速度が遅い事であったという。一方巷間いわれている、エンジンについてはオイル漏れとか、故障が多いとか評判は悪かったが自分の乗機についての不都合は感じなかったと証言している。[7]
[編集] 派生型
- 三式戦 I 型甲
- 最初の量産型で、ホ-103(12.7mm)が不足していたため、12.7mm×2+7.7mm×2の武装を持つ。
- 三式戦 I 型乙
- I 型甲の武装を12.7mm×4に強化した型。
- 三式戦 I 型丙
- 翼内銃をドイツから輸入したマウザー砲(MG151/20)に換装し、20mm×2+12.7mm×2の重武装にした型。重量増加により、性能は幾分低下したが、総合戦闘力は向上した。主翼から砲身が飛び出しているのが外見の特徴。
- 三式戦 I 型丁
- 輸入マウザー砲を消費した後も20mm砲の搭載が望まれたため、国産のホ-5を搭載し、20mm×2+12.7mm×2とした型。ホ-5は、三式戦の主翼に収まらなかったため、機首に装備することとなり、それに伴って機首の延長、重心合わせのバラスト搭載などで、性能は更に低下、特に運動性と上昇力の劣化が著しく、三式戦各型中、最低性能にて最多生産型となった。プロペラとの同調機構などから技術的に困難とされていた大口径機関砲の胴体内装備を成し遂げた事は評価に値するが、それ以外に見るべき点は全くない。そもそも I 型丁は II 型の開発遅延を補う為の暫定措置として開発されたものであり、本来であれば中つなぎ以上のものではなかったとされる。
- キ61 II 型
- 武装は三式戦 I 型丁と同様とし、発動機はハ-140(離昇出力1400馬力)に換装、主翼および垂直尾翼を増積した型。発動機の不調と生産遅延により8機で打ち切り。
- 三式戦 II 型(キ61 II 改)
- キ61 II は失敗したが三式戦の性能向上は必要であるため、キ61 II の胴体に I 型丁の主翼をつけ、発動機をハ-140に換装した型。発動機不調で大幅な性能向上は果たせなかったが、高度10,000mで編隊飛行が可能なことと爆撃機の攻撃に適するという評価を受け正式採用される。しかし31機のII型が完成した後エンジンの生産を追い越して374機分の機体が完成しこれに対し発動機生産遅延にて僅か99基のエンジンしか受領できなかった。このうち三分の一が被爆により破壊され残りの機体は、エンジン架と重心等の改造を施し、空冷発動機ハ-112を装着して五式戦闘機となった。ただし、全面的に五式戦闘機に移行したのではなく、並行してごく少数のⅢ型と称する水滴形の風防としたタイプが存在する。このタイプは生産数の少ない本形式の中でもさらに少なく、実戦配備された(第五六戦隊)ものの、写真はほとんど残っていない。
[編集] 生産機数
生産機数は各型合わせて3159機で内275機がキ-100となったため、実数は2884機であった。
[編集] 諸元
正式名称 | 三式戦闘機一型乙 | 三式戦闘機二型 |
試作名称 | キ61Ⅰ乙 | キ61Ⅱ改 |
全幅 | 12.00m | 12.00m |
全長 | 8.74m | 9.1565m |
全高 | 3.70m | 3.75m |
翼面積 | 20m² | 20m² |
翼面荷重 | 156.5 kg/m² | 191.25 kg/m² |
自重 | 2,570kg | 2,855kg |
正規全備重量 | 3,130kg | 3,825kg |
発動機 | ハ四〇(離昇1,175馬力) | ハ一四〇(離昇1,500馬力) |
最高速度 | 580km/h(高度5,000m) | 610km/h(高度6,000m) |
上昇力 | 5,000mまで5分31秒 | 5,000mまで5分00秒 |
航続距離 | 1,800km(正規) | 1,600km(正規) |
武装 | 胴体12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発)、 翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発) |
胴体20mm機関砲2門(携行弾数各120発)、 翼内12.7mm機関砲2門(携行弾数各250発) |
爆装 | 100kg~250kg爆弾2発 | 250kg爆弾2発 |
出典:日本の戦闘機・陸軍編[8]、航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編[9]
[編集] 参考文献
- ^ 渡辺洋二 『液冷戦闘機 飛燕 日独合体の銀翼』 文春文庫、2006年、156、157頁。
- ^ 碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年、147、195、196頁。
- ^ 秋本実・著 「日本の戦闘機・陸軍編」 1961年、出版協同社、58頁。
- ^ 光人社『軍用機メカ・シリーズ2 飛燕&五式戦/九九双軽』
- ^ 碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年、74頁。
- ^ 碇義朗 『戦闘機 飛燕』 廣済堂〈Kosaido Books〉、1977年、101頁。
- ^ 航空情報1972年10月号「戦闘機W.W.Ⅱ2」青木日出雄編㈱酣燈社、136頁。
- ^ 秋本実・著 「日本の戦闘機・陸軍編」 1961年、出版協同社、116頁。
- ^ 松葉稔 作図・解説『航空機の原点 精密図面を読む10 日本陸軍戦闘機編』2006年、酣燈社、101、107頁。
[編集] 関連項目
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