四式戦闘機
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キ84 四式戦闘機「疾風」
四式戦闘機(よんしきせんとうき)は、第二次世界大戦時の日本陸軍の戦闘機である。試作名称はキ84、愛称・呼称は疾風(はやて)、四式戦。開発・製造は中島飛行機。連合軍のコードネームは『Frank』。
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[編集] 概要
九七式戦闘機、一式戦闘機「隼」、二式単座戦闘機「鍾馗」と続いた、小山悌技師設計による中島製戦闘機の集大成とも言える機体で、全体的に保守的な設計ながらよくまとまっており、速度、武装、運動性のバランスの取れた高性能機だった。624km/hという最高速度は日本の実用戦闘機の中では最速であった(キ84-I乙試作機が試験飛行の際に660km/hを記録したとされ、米軍のテストでも680km/h代後半を記録している)。四式重爆撃機と共に「大東亜決戦機」として重点生産機に指定され、生産機数は基準孔方式の採用など量産にも配慮した設計から、日本製戦闘機としては零式艦上戦闘機、一式戦闘機「隼」に次ぐ約3,500機に及んだ。
大戦中に陸軍から期待され、対戦した米軍からも「日本最良戦闘機」と評価されたが、搭載した新型エンジンのハ四五(海軍名「誉」)の不調やガソリンの品質低下、交換部品の不良、不足、整備力の低下などにより稼働率が非常に低く、また、設計どおりの性能を出すのが難しかったため、大戦後半に登場した日本陸海軍機の多くと同様、評価の分かれる機体である。
[編集] 開発経過
1941年12月にキ44(後の二式単戦「鍾馗」)の発展型として中島飛行機に開発指示がなされた。最高速度680km/h以上、20mm機関砲2門、12.7mm機関砲2門を装備する、防空・制空・襲撃等、あらゆる任務に使用可能な万能戦闘機として要求された。当初はキ44の2,000馬力級エンジン搭載型(キ44-3。計画のみという説と、少数機試作されたとの説がある)をベースに翼面積を増やして着陸を容易にし、燃料搭載量を増して航続距離を伸ばし、強力なエンジンにより速度、上昇力の向上を狙ったものになる予定であった。
しかし、キ84は最初から広大な太平洋戦域で運用される事が決まっていた為、更なる航続距離の伸長が求められ、燃料搭載量の増加と共に翼面荷重を計画値の155kg/m²に収める為に翼面積の拡大を余儀なくされ、2,700kg程度と目されていた全備重量は3,000kgを優に越える見通しとなり、それに対応して翼面積を増やすとまた重量が増加するという悪循環に陥り、特に主翼の設計は難航したようである。さらに、前線からの要求で防弾、防火装備、武装の強化なども必須となり、これも重量が増加する一因となった。
結局主翼面積は計画値の17.4m²から最終的に21m²となり、全備重量が自重になってしまう程だったが、紆余曲折を経てようやくキ84の設計はまとまり、1943年3月に試作一号機が完成。試験飛行は1~3号機までは比較的順調に進み、好成績を収めたが、量産型のハ四五を搭載した4~7号機ではエンジンやプロペラのトラブルに悩まされ、特にエンジンに関しては試験期間中最後まで解決しなかったと伝えられる。
問題を抱えながらも、一刻も早い実用化と生産体制の整備を目的に、それまでの増加試作機は10機以内という方針を転換し審査と試作を併行して進めた結果、100機を越える増加試作機が製造された後、キ84は1944年4月、四式戦闘機(愛称「疾風」(はやて))として制式採用され、中島飛行機製作所太田工場、宇都宮工場で生産が開始された。
[編集] 技術的特徴
[編集] 機体設計
疾風は2000馬力級戦闘機としては極めて小型、軽量に設計されている。機体外形寸法は1000馬力級戦闘機と全く変わらず、プロペラの直径を犠牲にしてまで一式戦(キ43)と同程度のスペースで運用可能なことにこだわったようである。
基本的に一式戦(キ43)、二式単戦(キ44)の延長線上にあり、機軸と前縁が直交し後縁が前進する主翼や、水平尾翼より後方にある垂直尾翼、蝶形フラップ、前後で分割する胴体など、中島製戦闘機の特徴を有している(ただし、蝶形フラップは、円弧の一部を切り落としてあり、一見そうは見えない)。ただし、一式戦や二式単戦がエンジンの後方から急速に絞られた胴体を採用しているのに対し、四式戦ではここでの乱流発生を警戒して零戦に類似した徐々に細く絞った胴体形状を採用しているのが特徴。生産性に配慮しているのも特徴で、一式戦や二式単戦と比較して生産時間が2/3ほどに減少している。
生産性を除くと四式戦の機体設計は従来の一式戦や二式単戦とあまり変わり映えのしないものであったが、九七戦や一式戦では軽く設定されていた操縦系統が意図的に重く設定されている。
従来の軽い操縦系統は急旋回を行えるためその際にかかる荷重に対応して機体強度を高くしなければならず、強度確保のために機体重量が増加し、結果として飛行性能が低下するという悪循環が起きていた。そこで、急旋回を不可能とすることで機体強度を低く設定して機体の軽量化を図り、速度や上昇力の向上につなげるという意図の元に重い操縦系統が採用されている(逆説的だが軽量化される分だけ旋回性能も向上する)。これは陸軍から中島飛行機のテストパイロットに転出した吉沢鶴寿の意見を取り入れたものと思われる。以下に機体設計時に吉沢が述べた意見を記す。
- 「そこで私は翼桁を太くするより操縦桿を重くして欲しいといった。エルロンは軽目でもいいが、昇降舵と方向舵は重目でなければいけないというのが私の考え。それというのもキ27(九七戦)から日本人は舵の軽いのに慣れてきた。その方が器用に扱え、空中戦もこなせるからであった。ところが、キ43クラスになると操縦桿を思わず引っぱりすぎて空中分解を起こすケースも出てきた。これを避けるには翼桁を太くすればよいかもしれないが、それでは機体が大きく重くなる。これに対し、アメリカ、イギリス、ドイツのは実に舵が重い。どんなに引っ張っても、われわれ日本人の力では効かないぐらい重い。これはひとつにはスティックの長さが違うこともある。日本のは長い。当然、レシオが異なってくるわけで、この点を改めたいと思っていたわけだ」[1]
このため四式戦では急旋回を多用する従来の空戦法を行い難くなり、四式戦に適応した一撃離脱の空戦法を用いなければ本来の能力を活かせなくなった。そのため、太平洋戦争初期からのベテランの搭乗員からは「いざというときに敵弾を回避できない気がする」「座敷のような広い主翼のついた、押しても引いてもびくともしない戦闘機」とか、「何をしてもできるが、何をしても大したことがない戦闘機」と不評を投じる向きもあった。搭乗員によっては四式戦より大戦末期に登場した五式戦を高く評価することがあるのは、エンジンの信頼性の他、パワーアップされた三式戦改といえる旋回性能を極限まで発揮できる機体であったからとも言える。しかし、高高度での操縦性や速度、防御の点で本機の右にでる機体はなく、まさに「大東亜戦争決戦機」であった。
[編集] エンジン
搭載エンジンであるハ四五(海軍名「誉」)はハ二五/ハ一一五(海軍名「栄」)の18気筒版であり、当時欧米に水を空けられていたエンジン技術の格差を埋めるべく、ハ二五と殆ど同じ前面面積で約2倍の出力を目指した新世代エンジンであった。やや無理な小型化が行われたためエンジン各部の余裕が少なく、「芸術品」と評されるほど繊細な部分があったとされる。このため大戦末期の量産時には、初期故障の頻発の上に、未熟な徴用工員を動員しての無理な大量生産、更には、量産数を維持させる為の監督官からの指示が原因による品質低下等が起こり、額面通りの性能が発揮できないものが多発した。この事態に陸海軍や中島飛行機が手をこまねいていたわけではなく、可能な限りの対策が取られている。なお、1944年に海軍に納められた誉のベンチテストの結果が、カタログ値より数割低かったという証言があるが、その反面で同時期にフィリピンで米軍に捕獲され、好評価を得た機体のエンジンは完全な量産品であった。
ハ四五は高品質の100オクタンガソリンの使用を前提に設計されたが、対外情勢の悪化に伴い入手が困難となったため、91オクタンガソリンに水メタノール噴射を行うことで100オクタンガソリンと同様の効果を得られる様に設計変更された。この水メタノール噴射の調整が難しく、ハ四五の不調原因の一つとなっている(海軍の局地戦闘機雷電においても同様の不調が発生している)。因みに「陸軍は87オクタンガソリンが精々で実態はそれ以下」とする説もあるが、本土だけでなく南方に展開していた実戦部隊の記録には最低限の需要を満たす程度の91オクタンガソリンは安定的に供給されていたことが記されており、87オクタンガソリンで飛んだという証言も「後方で実用機を転用した練習機に使えるかどうか試してみた」とか「実戦でも使えないか試験的に入れて飛行してみた」という記述がほとんどである。つまり、陸海軍を問わず、練習機を除く実用機には91オクタンガソリンが使用されていたことになる。しかし、飛行第四七戦隊で整備指揮隊長を務めていた刈谷正意は自著で「これ自身も果たして充分にその性能を発揮していたか疑わしい」と述べており、「燃料の性能が額面割れ」していた可能性も全く無いとは言えない。
[編集] プロペラ
エンジンと並んで四式戦の不調の元凶となったのがプロペラで、零戦や一式戦に使われていた米国「ハミルトン」式の油圧式可変ピッチプロペラではピッチ変更角度が足りず性能不足とされ、仏の「ラチェ」式を独自に改良した電動可変ピッチ機構を採用した。当初ピッチ変動速度が遅く戦闘機には不向きとされたが、日本国際航空工業で構造が改善され(毎秒1.2度→13.2度)戦闘機への搭載となった。しかし、今度は変節速度が早過ぎてハンチングやエンジンの過回転といった問題が発生し、最終的には電動機の電力を半減して動作速度を落とす(毎秒13.2度→6.6度)事で解決された。疾風に採用されたプロペラは直径3.05mの四翅タイプで、2,000馬力クラスの諸外国の戦闘機が採用した3.6~4.0mに比べるといかにも小さく、上昇力や最高速度の発揮を難しくしたと言われている。同時期に海軍の「紫電/紫電改」に採用されたドイツ「VDM系」のプロペラが直径3.3m、同じ中島製の「彩雲」が3.6mを採用したことから、機体を小型にまとめようとするあまり、小径のプロペラを採用したことを悔やむ意見も後年多く出されているが、速度変化の激しい戦闘機に加速で有利な小径プロペラを選択するのは不合理なことではない。
[編集] 武装と防弾
陸軍単発戦闘機としては初めて計画段階から20mm機関砲の装備が要求された機体で、当時の陸軍戦闘機の中では三式戦一型丙/丁、三式戦二型などと並んで最も火力の大きい戦闘機だった。しかし、世界的な趨勢からみるとやや軽武装であるのは否めず、開発の比較的初期段階から武装強化型の乙型や丙型の開発が始まっている。防弾装備については開発途中で装備することになり、全ての燃料タンクを防弾ゴムを張ったセルフシーリング式とし、操縦席の風防前面に65mm厚の防弾ガラス、頭当てと操縦席後方に12mm厚の防弾鋼板(それぞれ70mm、13mmとする資料もある)が装備されている。
[編集] 最高速度と発動機の運転制限
四式戦闘機の最高速度は、審査主任の岩橋少佐が高度5,000mで記録した624km/hが広く知られている。同じ試作機の別の記録では、640km/hというのもある。また、船橋中尉が試作四号機により、高度6,120mにて631km/hを記録している。これらの記録は、いずれも集合排気管を装備した初期試作機のもので、量産型と同じ単排気管に改造した機体では、乙型試作機が福生の審査部において、高度6,000mで660km/hを記録した。
米軍は、フィリピン戦線で捕獲した四式戦闘機1446号機(昭和19年12月に製造された量産機)を使い、戦後の1946年4月2日から5月10日にかけて、ペンシルバニアのミドルタウン航空兵站部(Middletown Air Depot)で性能テストを行った。140オクタンの燃料と高性能点火プラグを使用した四式戦闘機は、戦闘時の重量を再現したと考えられる重量7,490ポンド(3,397キログラム)の状態で、高度2万フィート(6,096m)において時速427マイル(687km/h)をマークした。これは同高度におけるP-51D-25-NAおよびP-47D-35-RAの最高速度よりも、それぞれ時速3マイルおよび時速22マイルも優速であった(P-51Dの最高速度703 km/hは高度7,620 mにおけるものである)。[2]。
昭和18年7月1日と10日の2回、福生飛行場で行われた飛行実験機材によれば、供試機体キ84 第三号機、発動機ハ四五特とある。中島飛行機の技術報告書によると、ハ四五特は離昇2,000馬力のハ四五(海軍名「誉」二一型)より先行して開発されていた離昇1,800馬力の海軍名「誉」一一型と同じになっている。つまり四式戦闘機の初期試作機が搭載していたハ四五特は「誉」一一型とほとんどおなじものということである。なお、ハ四五特と離昇出力2,000馬力のハ四五の性能差は、不具合への対策による運転制限によるものである。この運転制限はキ84の操縦参考書にも「ハ四五特と同等の水準に運転制限を行う」と明記されている。なお、昭和19年末になっても、ほぼ同一エンジンの紫電改の操縦参考書において「制限解除の見通しが立ちつつある」と述べられていることから、かなりの長期間運転制限が行われていたのは確かである(関連で艦上戦闘機「烈風」の審査時に、中島側は発動機不良の原因について、「誉の出力が一番出ていない時期だった」と述べており、この頃、海軍でベンチテストした際の性能低下の結果とも一致する)。
[編集] 実戦
四式戦を最初に装備した実戦部隊は1944年3月から編成を開始した飛行第二十二戦隊で、当初はフィリピン戦線に投入される予定だったが、P-51Bを始めとする多数の米軍機の登場により、旧式の一式戦「隼」や二式単戦「鍾馗」では苦戦を強いられていた大陸戦線に投入された。中国戦線に進出した二十二戦隊やその機材を引き継いだ飛行第八十五戦隊と飛行第二十五戦隊はP-51を相手に善戦し、一時的にではあるが中国上空の制空権を回復する活躍をしている。
大陸戦線では実戦部隊の操縦員からも高い評価を受けた四式戦だが、台湾沖航空戦においてほぼ奇襲された状況、しかも圧倒的な数的劣勢下で運動性と上昇力に優れたF6Fに立ち向かった飛行第十一戦隊の四式戦に対する評価は芳しくないものであった。「試作型はともかく量産型の四式戦は無理な増産のため性能が低下しており、P-51どころかF6Fにも全く太刀打ちできなかった」という戦後の評価は主にこの飛行第十一戦隊の報告に基づいている。
しかし、台湾沖航空戦とは比較にならないほど多数の四式戦部隊が投入されたフィリピン戦では、大陸や台湾同様数的に優勢なP-38を主力とする米陸軍航空隊とほぼ互角の戦いを演じ、一時的とはいえレイテ湾の制空権確保に成功している。この代償として多くの犠牲を払っていたとは言え、ようやく四式戦の存在に気が付いた米軍も「速度と上昇力に優れ、運動性も高く、被弾にも強い」と評価している。「量産型の四式戦は満足に飛べないものすら珍しくない」という説もあるが、飛行第四十七戦隊の様に十分な予備部品と適切な整備を施すことで四式戦を使いこなしている部隊があるだけではなく、本土より遙かに条件が劣悪なフィリピンにおける四式戦の稼動率は三式戦はおろか一式戦よりも高かったという記録も残されている。
その後も沖縄戦や本土防空戦にも投入されたが、フィリピン戦において多くの操縦者を失ったため大きな戦果を挙げることは出来ず、フィリピン攻防戦末期(米軍のリンガエン湾上陸後)や沖縄戦(菊水作戦)においては、四式戦で編成された特攻隊も数多く出撃している。
戦時中に日本陸軍は中国戦線で捕獲したP-51をテストしているが、当時の日本機との比較において、唯一四式戦のみがP-51よりも優速であったという結果が出ている。戦後、米軍が高性能点火プラグに取り替え、さらに、高オクタンガソリンを使用しての計測において最高速度687km/hを記録、模擬空戦においても運動性と上昇力を活かして優秀な成績を残したことから「最新鋭米軍機とも互角に戦える最優秀日本戦闘機」と評され、第二次世界大戦の傑作戦闘機の一つに数えられる場合もある。
[編集] 現存機
米軍がテストに使用し、その後復元された四式戦が知覧特攻記念会館に展示されている。なお、この保存機は当初飛行可能であり、昭和48年の里帰り当時は華麗な飛行でファンの目を楽しませた。その後嵐山美術館で展示される事となるが、部品の盗難などが相次ぎ、飛行不能となった。機体を日本へ譲渡したドン・ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いており、その後も復元を行ったマロニー博物館では、他の機体数機(世界唯一現存する雷電を含む)との交換で良いので還して欲しいとコメントしている(現時点ならまだ動態復元が可能であるという理由から)。
なお、飛行不能となった経緯については、野外展示だったため「展示がずさんなため部品の盗難にあった」、「機体の腐食やエンジンの破損が進み飛行不可能な状態となった」、「輸送のために機体をガスで切断した」などと言われているが殆どが正確とは言えない。盗難に会ったのは事実であるが、それは元々機体から容易にはずせない部品を強引に取ったというものであり、容易に取れる部品に関しては初めからはずして展示されていた。機体やエンジンに関しては、嵐山美術館閉館に伴い南紀白浜での海岸そばでの展示の為に腐食が悪化した零戦六三型と同じ理由である。機体分割に関しては、正規の方法で分解されている機体を、それと知らないまま言われているものである。
[編集] 諸元
正式名称 | 四式戦闘機一型甲 |
試作名称 | キ84-一甲 |
全幅 | 11.24m |
全長 | 9.92m |
全高 | 3.38m |
翼面積 | 21m² |
翼面荷重 | 185.24 kg/m² |
自重 | 2,698kg |
正規全備重量 | 3,890kg |
発動機 | ハ四五-二一型(離昇1,825馬力) |
最高速度 | 624km/h(高度6,000m) |
上昇力 | 5,000mまで6分26秒 |
航続距離 | 2,500km(増槽あり)/1,400km(正規) |
武装 | 翼内20mm機関砲×2(携行弾数各120発)、 胴体12.7mm機関砲×2(携行弾数各250発) |
爆装 | 30kg~250kg爆弾2発 |
注:飛行性能は初期試作機の数値。
[編集] 発展型
- 四式戦闘機一型甲(キ84-I甲)
- 翼内にホ-5 20mm機関砲2門、機首にホ-103 12.7mm機関砲2門を装備した対戦闘機戦重視の基本型。生産されたほとんどの機体はこの型式。携行弾数は20mm機関砲が1門につき150発、12.7mm機関砲は1挺につき350発であった。
- 四式戦闘機一型乙(キ84-I乙)
- 甲型の翼内砲はそのままに機首の12.7mm機関砲を20mm機関砲に換装した対爆撃機戦重視の武装強化型。製造番号3001以降がこの型と言われるが、生産数は不明。乙型試作機は試験飛行において660km/hを記録したとされる。
- キ84-I丙
- 乙型の機首20mm機関砲はそのままに翼内の20mm機関砲をホ-155 30mm機関砲に換装した武装強化型。試作のみ。
- キ84-I丁
- 乙型の操縦席後方に20mm上向き砲(海軍の斜銃と同じもの)1門を追加した夜間戦闘機型。試作のみ。
- キ84-II
- 機体の一部を木製化したもの。計画のみ。
- キ84-III
- 排気タービン搭載を追加装備した高高度型。計画のみ。
- キ84-IV
- 発動機を高高度性能に優れたハ四五-四四型に換装した高高度戦闘機型。計画のみ。
- キ84サ号(サ号機とも)
- ハ45の水噴射を酸素噴射に変更し、高高度における性能向上を図った型。上昇力が向上し、高度9,000mでの速度が50km/h増したといわれる。テスト中に終戦を迎えた。
- キ106
- 1944年、アルミ合金の不足から、機体の大半を木製化したもの。重心の変化により機首が延長され、フラップは蝶型ではないスプリット式に変更された。17%もの重量増加のため上昇力・速力が低下。また組み立てに使う接着剤に問題があり、試験中に主翼下面外板が剥離・脱落するトラブルも発生した。立川に加え呉羽紡績や、王子航空(製紙の軍用転換工場)においても試作され、合計10機が完成した。訓練用としての使用も考えられたが、強度不足や構造が量産向きでない問題から、生産は中止された。終戦後、米本国に1機が送られ調査された。。[3]
- キ113
- アルミ合金の不足から、機体の大半を鋼製化したもの。中島飛行機で試作一号機体が完成しエンジン未着装の状態で終戦を迎えた。やはり重量増加や工程増加による生産性の悪さに加え、鋼材も不足したため生産の見込みがたたず、失敗作となった。
- キ116
- 満州飛行機での転換生産型。発動機を信頼性の高い三菱ハ112-II(公称1,500馬力)に換装。プロペラも3翅とし、全長が重心調整のため20cm長くなり翼面荷重は制式機より25kg程度減少したこともあり、速度がやや低下したが、飛行特性も向上したといわれる。かつ、エンジン他での1000kg重量減で試験飛行の結果は良好であった。1945年8月ソ連侵攻を前に機体・設計図とも自らの手で処分された。[4]。
- キ117
- 発動機を大馬力のハ四四-一三型(離昇2,400馬力)に換装した性能向上型。主翼を1.5m²広げ高高度性能の向上を図った。設計中に終戦。キ84-Nとも称した。[5]
[編集] コードネームの由来
本機に付けられた連合軍コードネーム「フランク」は、フィリピンで鹵獲した機体をテストしたチームの長、フランク・マッコイ米陸軍大佐が、この恐るべき敵機に自らの名を呈上したものだと伝えられる。
この逸話は、英語文献[6]によれば、コードネームを付与する部門の責任者であったフランク・マッコイ米陸軍少佐が、自分の名前を有力な戦闘機に付けたいと願い、一旦「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」(Mitsubushi Army Type 0 Single-seat Twin-engine Fighter;架空の機体)に与えられていた自分の名を取り上げて四式戦闘機に割り当てた、ということになっている。「三菱陸軍零式単座双発戦闘機」には代わりにハリー(Harry)という名が与えられたという。
[編集] 参考文献
- 歴史群像『太平洋戦史シリーズ46 四式戦闘機 疾風』学習研究社、2004年、ISBN 4056035741
- 軍用機メカ・シリーズ第7巻『疾風/九七重爆/二式大艇』光人社 1993年 ISBN 4-7698-0637-X C0372
- 第二次大戦ブックス64『疾風』 サンケイ新聞社出版局(鈴木五郎 著) 1975年
- 日本陸軍試作機物語 光人社(刈谷正意 著) 2007年 ISBN 978-4-7698-1344-6 C0095
- 続・日本機傑作機物語 酣燈社 1960年
出典
- ^ 光人社 刊「軍用機メカ・シリーズ7」中の「異色のテス・パイ“疾風”を語る」(井口修道 著)より引用
- ^ R. J.FRANCILLON"Japanese Aircraft of the Pacific War"(New Edition 1979,London,ISBN 0 370 30251 6)p.236
- ^ 文林堂 世界の傑作機No.19・大日本絵画 世界の駄っ作機3・他
- ^ 大内建二著『間に合わなかった軍用機』光人社2004年53頁
- ^ 秋本実著『日本の戦闘機 陸軍編』出版協同社1961年50頁
- ^ "JAPANESE AIRCRAFT Code Name & Designations" Robert C. Mikesh, Schiffer Military/Aviation History, 1993(フランク・マッコイ少将の序文付)
[編集] 関連項目
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