メッサーシュミットBf109
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メッサーシュミット Bf 109
Bf 109は、第二次世界大戦におけるナチスドイツ空軍の主力戦闘機。 1934年、バイエルン航空機製造(Die Bayerische Flugzeugwerke/BFW、後のメッサーシュミット社)で開発が開始され翌1935年、生産開始。設計担当は、ウィリー・メッサーシュミット技師。
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[編集] 概要
単葉・全金属・引込脚など、当時の標準形態を備えたドイツ初の単座戦闘機。列強各国機に対抗できなかった旧型機に替わり、急遽スペイン内戦に投入されてデビュー、以後、第二次世界大戦終了まで実質的な主力戦闘機の座を保った。
新人には難しい操縦も、慣れると良好な飛行特性・性能で多くのパイロットに信頼され愛された。総生産機数は工場での修理再生分を含めて約30,500機で、戦闘機史上最多である。
なお、Me 109とも呼ばれる。潮書房「丸」季刊ドイツの軍用機の166ページに--(引用)E型の量産に入ると時を同じくしてメッサーシュミットがバイエルン社の実権を握ったのでE型以降Bfの名称がMeに改められた。とある。大戦中の公式文書でもMe109となっているが、戦後、英国の航空機研究家から「バイエルン社時代の設計なのでBfにすべき」との意見が出され、Bfと表記されることが多くなったという[1]。また当時のパイロットの一人への戦後のインタビューでは、戦時中は「Bf109と呼んでいた」と回答されている。実際はいずれの表記であれ、間違いではない。
[編集] 機体の特徴
[編集] エンジン
Bf109が標準的に装備したDB601・605エンジンは、高圧縮低回転型で燃料事情の良くないドイツの国情に配慮する一方、燃料直接噴射ポンプの搭載、倒立V型気筒で発動機中央に機銃が通せる構造や、ローラーベアリングの多用、側面に装備されたフルカン式継手を用いた実際は2速式だが通常の過給機と異なり1速と2速の間が流体トルクコンバーターにより無段階に変速できる過給器、など、非常に高度で複雑な機構を多数採用している。これは製造の困難さや重量の増大も招いたが、高度な工作技術で克服、特に大戦前半にはライバル機に対する優位を保った。特にバトル・オブ・ブリテンの空中戦において、気化器を装備してマイナスGがかかるとガソリンが一瞬送られなくなる英国戦闘機のエンジンに対して、そのような事がない燃料直接噴射ポンプは効果絶大だった。
しかしこうした点が、大戦後半の連合国機との出力増強競争に遅れをとる原因の一つとなっていた。
[編集] 主脚
Bf109の主脚は胴体(正確にはエンジンマウント)に付いていて、翼端に向かって引き込まれるようになっている。この方式は、強度と重量を必要とする引き込み装置をエンジンマウントと一体に作れるため、主翼構造を簡単化、軽量化できる。本機の主翼は簡単な単桁構造で片翼づつ取り外し、交換ができる。
その反面、主脚の間隔が狭いので安定性がわるい。さらに、少しでも間隔を広げるために主脚を斜めに設置したことによる強度不足、機首上がりのきつい地上姿勢による前方視界の不良、小型の機体に強力なエンジンを搭載したことによる曲がり癖、高い離着陸スピードなどにより本機の離着陸を難しくしている。特に主脚の弱さは本機が性能限界を来たす一要因ともなった。戦時中、量産が行われている工場では並行して前線から送り返された脚破損機の修理も大量に行われていたといい、また戦争中期以降パイロットに未熟練者が増えるにつれ、この問題は座視できないレベルになった。しかし、K型になり主脚の取付金具の補強、尾脚を長くしたことで静止時の角度が14.5度から13度に減少、この2点の改修によって地上ループ、それによる主脚折れの事故が劇的に減少した。また主脚に車輪カバーの追加、尾脚を引き込み式にしカバーを付ける事により空気抵抗が減少し最大速度向上にもなった。
[編集] 航続力
同機の大きな欠点の一つと言われているのが航続距離の少なさである。これは開発時期の1930年代に台頭していたドゥーエの空中艦隊論や当時流行した高速爆撃機の思想から、欧州の戦闘機全般が迎撃性能を重視した結果とされる。この点が問題になったのは、バトル・オブ・ブリテンと呼ばれたイギリス上空での戦いでである。爆撃機を護衛する侵攻戦闘機として開発された双発多座戦闘機が単座戦闘機に対抗しえず、英国上空での滞空可能時間が15分程度しかなかったことは大きな戦術的制約となった。
その後も、本機の構造は翼内タンクなどを設置することを許さず、増槽を付けた型でも航続力は1000km程度にしか伸ばすことが出来なかった。ただ航続距離の少なさは、迎撃が主流となったドイツ上空での防空戦闘では致命的な欠陥とはならなかった。パイロットの声でもこの点を指摘するものは意外と少なく、ベテランにとってはむしろ、多量の積載燃料によりバランスを崩した米国製戦闘機に対してより優位を占めることができたと言われている。Bf109を操縦するベテランパイロットは「全備重量ならどんな敵戦闘機にも負けない」と賞賛したとされる[2]が、その理由はこの点にあった。
[編集] 武装・速度
- Bf 109E : MG 17 7.92ミリ機関銃 2丁・MG-FF 20ミリ機関銃2門。570km/h。1100馬力。
- Bf 109F : MG 17 7.92ミリ機関銃 2丁・MG 151 15ミリ機関銃又はMG151/20 20ミリ機関銃1門。624km/h。1350馬力。
- Bf 109G : MG 131 13ミリ機関銃 2丁・MG 151/20 20ミリ機関銃1門。685km/h。1500馬力。
- Bf 109K : MG 131 13ミリ機関銃 2丁・MK 108又はMK 103 30ミリ機関砲1門。710km/h。2000馬力。
本機は当初から武装に悩んだ機体だった。理想的武装として搭載する予定だった機首のモーターカノンは振動等の問題点を克服できず、初期には機首上面の機関銃しか使えなかった。Bf109はもともと主翼内への武装を設計時に想定しておらず、第二次世界大戦の勃発時には無理をして7.92ミリ機銃を翼内に装備し、さらにそれを20ミリに増強したが、初速、発射速度、装弾数の点からも満足のいくものではなかった。ちなみに、E型においてようやく20ミリ機銃を搭載しているが、当初これはスイスのエリコンFFSをモーターカノンとして搭載するはずのものだった。しかし、エンジンとFFSの現物を突き合わせてみるとシリンダ間隔が小さすぎて銃が収まらず、国産化されたMG-FFではこの点を改善したものの、やはり振動からくるトラブルで実用化できず、想定外の翼内装備となった。
念願のモーターカノンはF型になってようやく実現したが、翼内機銃を廃止したため、アドルフ・ガーランドなどの武装重視派とギュンター・ラルなどの運動性重視派との間にいわゆるF型論争が起きている。弱武装を指摘されながら、F型以降では翼内武装は行われず、主翼に武装する場合は下面への20mmや30mm機関砲のガンポッド、21cmロケットランチャーを搭載するタイプ(U仕様)などに限られた。これらの火力増強によっても次々に出現する連合軍の大型爆撃機に対抗するには威力不足で、また主翼への外接武装は重量と空気抵抗の増加で著しい性能低下を招いた。このことは、主翼への武装強化がすでに本機の性能限界を超えている事を証明していた。続くG型では、G-5以降では機首上面機銃を7.92ミリから13ミリに増強したが、既存の機首内に収まりきらず、ボイレ(こぶ)と呼ばれた突出部を生じ、性能低下を招いている。G-10型以降で過給機の大型化に従って機首全体が膨らんで改修。K型にいたって主翼を設計変更してようやく翼内武装が可能となり、最終型のK-14では機首上面に13ミリ機関銃、モーターカノンと両翼に30ミリ機関砲を備える重武装となった。
[編集] 主な型式
ドイツ軍の慣習に従って、各型には該当するアルファベットの頭文字に対応した、非公式な愛称としてドイツ人によく見られる人名が付けられている。なお、人名は男女を問わない。
- Bf 109V:前生産型。A~E各型のもととなった機体。一部はスペイン動乱で実戦試験に投入された。
- Bf 109A(アウグスト August):初期生産型。
- Bf 109B(ベルタ Berta):Jumo 210Eエンジンを搭載した改良型。スペイン動乱初期の主力機となった。
- Bf 109C(ツェーザー Cäser、またはクラーラ Klara):主にスペイン動乱からポーランド侵攻にかけて少数が使用された。機首上面と翼内に各 2 門のMG 17機関銃を装備した。20 mm MG FF機関砲を搭載することが予定されたC-3は生産されなかった。なお、「ツェーザー」は人名のほか、ローマ帝国皇帝カエサルを特に指す固有名詞的な使い方もされる。
- Bf 109D(ドーラ Dora):Jumo 210を搭載した機体で、主にスペイン動乱からポーランド侵攻にかけてある程度の機数が使用されたが、すぐにBf 109Eが登場したため戦場に長くは留まらなかった。
- Bf 109E(エーミール Emil):ダイムラー・ベンツ製エンジンDB 601Aを搭載した機体で、二次大戦初期の主力機となった。後期型では出力向上させたDB 601Nも使用された。
- Bf 109F(フリードリヒ Friedrich、またはフリッツ Fritz):DB 601N及び改良されたDB 601Eエンジンが搭載された機体。空気抵抗を減少させる設計に刷新された。大きな性能向上を果たし、中期の主力機となった。
- Bf 109G(グスタフ Gustav):DB 605エンジンを搭載した機体。多数の派生型が開発され、後期の主力機となった。
- Bf 109H(ハインリヒ Heinrich):Bf 109Fから開発された高高度戦闘機型。翼幅が拡張され、高度10,100 mにおいて750 km/hでの飛行が可能とされた。少数のH-1が生産され、試験されたが主翼の強度不足から開発は放棄された。
- Bf 109K(クーアフュルスト Kurfürst):量産された最後の機体。なお、「クーアフュルスト」とは「選帝侯」のこと。戦争末期に完成し2機のみ配備されたK-14型では2段2速過給器付きDB605Lを搭載し、高度14000mで740km/hとされている。
- Bf 109T(トレーガーフルークツォイク Trägerflugzeug):E-3型にカタパルトフックとアレスティング・フックを追加、主脚強化、主翼延長と翼端を折りたたみ式に改造した艦上戦闘機型。航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」に搭載する予定だった。フィゼラー社担当でまず先行量産型T-0型を10機製作、E-4/N型ベースのT-1型60機の量産が進められた。しかし空母が未完成に終わったため、完成した機体から艦載用装備を撤去、ノルウェーや北西ドイツの陸上基地で部隊運用された。
- Bf 109Z(ツヴィリング Zwilling):2 機のBf 109Fを合体させて双発機とした機体。実用されなかった。
- Bf 109W(ヴァッサーフルークツオイク Wasserflugzeug):水上機型。
[編集] 海外での運用
- ブルガリア
- Bf 109E-4/7とBf 109G-2/6/10などを戦前から戦後まで運用した。
- ハンガリー
- Bf 109F-4、Bf 109G-2/6/10/14などを戦後まで運用した。
- スペイン
- ドイツ・イタリアの支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍のナショナリスト軍で初期型各型を運用した。フランコ軍の識別標識をつけながらドイツ空軍のコンドル軍団によって運用された機体もあった。スペイン動乱時にはBf 109V各型、Bf 109B-1/2、Bf 109D-1、Bf 109E-1/3を運用。しかし、その後の二次大戦でフランコのスペインは枢軸国側に立って参戦することをしなかったため新型機の供給は基本的に拒絶されるようになった。そのため、以降のスペインでは若干数のBf 109Fが提供されたに留まり、スペインでは自力改修を行った。まずHA-1109-J1Lと呼ばれる機体が完成したが、失敗作だった。エンジンをロールス・ロイス製のマーリンへ変更して完成したのがHA-1112-M1Lと複座のHA-1112-M4Lなどで、ブチョン(鳩)と呼ばれたこれらの機体はイスパノ・アビアシオン社で生産、1960年代まで第一線で使用された。その他、スペイン動乱では共和国・人民戦線政府側でも捕獲した機体を使用した。
- なおこのブチョンはしばしば戦争映画でドイツ軍のBf 109役として登場していた。
- イタリア
- Bf 109F-4、Bf 109G-2/4/6/10/14などを運用した。
- ロシア
- ドイツ軍の捕虜となったロシア人から編制されたロシア解放軍(ROA)の航空隊でBf 109G-10を運用した。
- ルーマニア
- ルーマニア王国航空隊でBf 109E-3/4/7、Bf 109F-2/4、Bf 109G-2/4/6を戦後まで運用した。一部は革命後のルーマニア人民共和国空軍にも引き継がれた。また、国内の航空機メーカーIAR社でライセンス生産された機体Bf 109Ga-4/6は、戦後配備・運用された。
- スロヴァキア
- Bf 109E-3/4/7、Bf 109G-6を運用した。
- フィンランド
- Bf 109G-2/6などを戦後まで運用した。「メルス(Mels)」の愛称で呼ばれた。
- クロアチア
- Bf 109E-3/4、Bf 109G-2/5/6/10/14などを運用した。運用した機体は戦後ユーゴスラヴィアへ譲渡された。
- チェコスロヴァキア
- 戦前より航空産業が盛んで戦中にはドイツの航空機工場が置かれていたチェコスロヴァキアは、戦後ナチス・ドイツ製の各種の機体が新規に生産された珍しい国のひとつとなった。BF 109シリーズとしては、アヴィア社がBF 109G-10をそのまま完成させたS-99、Bf 109G-14のエンジンをユンカース製のJumo 211Fに変更するなどしたS-199、その複座練習機型のCS-199などが生産された。しかし、エンジンを無理に変更したS-199では直線に飛行することすら困難なほどに性能が悪化した。これらは主にFw 190やLa-7などとともに空軍や国境警備隊で使用されたが、スピットファイアの増備により余剰化し、第一次中東戦争の際にイスラエルへ輸出、エジプト軍のスピットファイアなどと激しい戦闘を行った。チェコスロヴァキア国内に残った機体は、1950年代中盤頃まで使用されていたが、MiG-15の国産化・増備により退役した。
- スイス
- Bf 109D-1、Bf 109E-3、Bf 109G-6を運用した。Bf 109G-6は国産化されたが出来が悪く、Bf 109E-3よりも先に退役した。
- ユーゴスラヴィア
- 戦前ドイツから購入したBf 109E-3と国内でライセンス生産をしたBf 109E-3aを装備したが、ドイツ軍の侵攻により破壊を受けた。少数の機体はドイツ軍機を撃墜する戦果をあげ、エースを生んだ。その後はクロアチアから捕獲した機体や賠償で得た機体などを運用し、Bf 109G-6/10/12、Bf 109G-6から改修された複座練習機型UBf 109を保有した。
- 大日本帝国
- 1941年1月から6月にかけ第二次世界大戦下のドイツ・イタリアに山下奉文航空総監を団長とする軍事視察団が派遣された。この際、レーゲンスブルクのメッサーシュミット工場で Bf 109 の展示飛行を見学し実験用に輸入する話が決まった。同年6月にはBf 109E-3 三機が神戸に到着、岐阜県の陸軍各務原飛行場に移し試験飛行が行われた。メッサーシュミット社のテストパイロットヴィリー・シュテァーが訪日、操縦法を伝えた。その際にキ-44(のちの二式単座戦闘機)と空戦比較が行われ、速度・加速力・上昇性能・格闘戦能力など、飛行能力で全面的にキ-44が上回っていた。結果、格闘戦至上主義の日本陸軍で採用が危ぶまれていた、キ-44の正式採用が決まった。もっとも、この時期すでにドイツ軍ではより高性能のBf109Fが実戦配備されていた。
[編集] 捕獲された機体
その他、イギリス、アメリカ合衆国、スウェーデン、ソ連、フランスなどに捕獲された機体があった。その他、上記運用国でも互いに捕獲機を運用していた。
[編集] 脚注
[編集] 関連項目
国内対抗機
対戦国の戦闘機
- 回数は少なかったが、アメリカ海軍やイギリス海軍のグラマンF4F ワイルドキャットやF6F ヘルキャットと戦ったこともある。この場合、太平洋での零戦とグラマンとの戦いとは全く反対に、直線速度で勝るBf109に対し、グラマンは空冷ならではの瞬発力と運動性で戦ったという。
姉妹機(同じDBエンジンあるいはライセンス生産品を搭載した有名な戦闘機)
[編集] 外部リンク