九七式戦闘機
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キ27 中島九七式戦闘機(なかじま97しきせんとうき)は、1940年前後の大日本帝国陸軍の主力戦闘機で、陸軍最初の低翼単葉戦闘機。設計は中島飛行機、生産は中島のほかに立川飛行機と満州飛行機でも行われ全生産機数は3386機。旋回性が非常に高く、格闘戦では右に出る機体は無かったと言われる。九七戦もしくは九七式戦と略称されることもある。連合国によるコードネームはNate。
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[編集] 誕生の経緯
1935年、海軍の九試単座戦闘機(翌年九六式艦上戦闘機として制式採用)の成功に刺激された日本陸軍は、海軍の了解のもとに、九試単戦を陸軍用に改修させた三菱キ18を、九五式戦闘機(川崎飛行機製)を採用した際の試作審査に、途中参加させた。しかし、エンジンの信頼性不足など性能不十分を理由に(実際には陸軍の面子という面が大きかったと言われる)採用には至らず、とりあえず川崎キ10を九五式戦闘機として採用したものの、旧態依然たる複葉機である同機では次期主力戦闘機としての任に耐えないため、引き続きそれに代わる戦闘機として低翼単葉戦闘機の競争試作を中島・三菱・川崎の3社に指示した。
これを受けて中島のキ27、川崎のキ28、三菱のキ33(九六式艦上戦闘機の改造機)の競争となったが、先のキ18の不採用にしこりが残る三菱は、試作機の提出はしたものの熱意を示さなかったため、水冷で発動機に不安のあるキ28をおさえて本機が選定され、皇紀2597年(昭和12年、1937年)に九七式戦闘機として制式採用された。
結果的に三菱は本機の技術的熟成のための当て馬として使われた形であり、以後海軍の戦闘機は三菱、陸軍は中島が主体となる端緒ともなった。日華事変中の中国・漢口基地でしばしば行われた陸海共同の模擬空戦では、九六艦戦よりも九七戦の方が速度、上昇力、格闘戦性能の全てで勝り、海軍のパイロット達からうらやましがられたという。
[編集] 技術的特徴
中島は、先代の九五式戦闘機の競争試作の際に低翼単葉のキ11を設計したが、当時オーソドックスだった複葉を採用した川崎飛行機に敗れた。キ11は単葉ながら主翼に強度保持の為の張線を有しており、斬新さは今一歩であったが、キ27では有害抵抗となる張線を廃し、空気力学的に洗練された流麗な機体となった。
主脚は固定式だが(当時昭和12年ころ、新鋭機は引き込み脚を採用し始めていたが小山悌技師は技術的にオーソドックスな固定脚を採用した)空気抵抗を軽減するカバーがつけられ、構造は頑丈で不整地への離着陸も可能であった。本機で採用された前縁直線翼は主翼前縁が左右通しの一直線で後縁のみがテーパーしている形であるが、その後一式(隼)・二式(鍾馗)・四式(疾風)の各戦闘機に採用され、太平洋戦争終了時まで中島製戦闘機の伝統となった。
設計主任は小山悌技師で、その後前記各戦闘機の設計にも携わった。また初めて落下式タンクを装備し飛躍的に航続力がのびた。
[編集] 活躍
1938年より実戦に参加、太平洋戦争開始時まで陸軍の主力機であった。1939年日本陸軍とソ連軍がモンゴルで2度に渡って戦ったノモンハン事件では、ソ連軍の複葉戦闘機I-153や単葉戦闘機I-16と空中戦を行い、運動性の良さで敵を圧倒し大戦果を上げ、日本軍の戦線の崩壊とソ連の進軍を防いだ。複葉戦闘機すら蹴散らす運動性能と、「空の狙撃兵」とあだ名されたほどの射撃安定性の両立が生んだ成果であった。
第一次と第二次を併せた撃墜総数は日本側の発表では1252機(ソ連側の資料によると200機程度。ただし、当時はスターリン体制下という事もあって、この数字は過少に粉飾されているとする説が有力である)、日本機の損害はノモンハンでは大中破も合わせて157機(未帰還及び全損は64機、内97戦は51機で戦死は53名)だった。日本側の損耗率は60パーセントで、これらの戦訓から陸軍は航空機の有効性と消耗性を知り、数を揃える必要性を痛感したという。
ノモンハンでは多くの老練な戦闘機パイロットが戦死し、パイロットの補充に危惧感さえもたれたが、大きな戦果のため士気は高かった。ただ、この戦果の結果から陸軍パイロットは旋回性が良く格闘戦に強い戦闘機による制空権確保に自信を持ち、「軽戦万能主義」などとも言われる考え方がやや支配的になり、隼戦闘機の開発のコンセプトになった。また、後の重武装、高速の重戦闘機への転換が進みづらい原因の1つとなっている。
しかし、ノモンハン事件においても、後期には装甲を強化したI-16が、優速を活かしての一撃離脱戦法に切替えたため、敵を取り逃がすことが多くなり、戦果は初期ほどあがらなくなった。この戦訓は後に2式単戦、3式戦の開発につながった。
太平洋戦争開戦直前の1941年12月7日、マレー半島への上陸部隊を乗せた輸送船団の上空護衛を行い、哨戒中のカタリナ飛行艇1機を(正式な開戦の前であったが)撃墜したのは第十二飛行団所属のキ27である。
戦争の初期まで実戦に参加し、後継機の一式戦闘機に一線の座を譲った。その後は優れた安定性から中間練習機の用途や、あまり重要でない地区の防空に使用された。ドーリットル空襲の際には、内地の防空隊に配備されていた本機も迎撃に上がったが、1機に白煙を上げさただけで取り逃がしている。
大戦末期には他の機体と同様に特攻機に転用され、多くの経験のないパイロット達が操縦の容易なキ27で出撃させられたが、古い機体なために故障も多く出撃不能機が続出し、生還したパイロットは収容施設に隔離せられた。
なお、キ27は満州国やタイ王国へ輸出され、どちらの国でも実戦使用されているが、特にタイでは空中戦においてP-51に損傷を与え、P-38 1機を撃墜したとされている。
[編集] 現存する機体
平成8年に博多湾の海中より引き揚げられた機体が、復元されて太刀洗平和記念館に展示されている。
[編集] 要目
- エンジン:空冷9気筒 中島 ハ1乙型 (地上正規610HP/2400r.p.m 地上最大710HP/2600r.p.m)
- 最大速度:460km/h
- 航続距離:627km
- 全高:3.25m
- 全幅:11.31m
- 全長:7.53m
- 自重:1110kg
- 上昇時間:5000/5'22"
- 実用上昇限度:12250m
- 武装:胴体内7.7mm機銃×2(携行弾数各500発)
- 爆弾:25kg×4
- 落下タンク 左右各133L
[編集] 関連項目
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