五式戦闘機
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キ100 五式戦闘機
五式戦闘機(ごしきせんとうき、キ100)は太平洋戦争中に用いられた大日本帝国陸軍の単発単座戦闘機で、主として三式戦闘機(以下、三式戦)のエンジンをハ112-II(金星)に換装した改良型である。開発・製造は三式戦と同じく川崎航空機(現・川崎重工業の一部門である川崎重工業航空宇宙カンパニー、以下、川崎)による。大戦末期に登場したため活躍は少ないものの、同時期の連合国戦闘機と比べても遜色のない機体であったとよく評される。
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[編集] 開発経緯
三式戦(キ61、「飛燕」)は、もともと機体構造が頑丈で、主翼形状も高高度戦闘に向いたものであったことから、来襲が予想されていたB-29に対する高高度迎撃機として期待され、液冷倒立V12気筒エンジン「ハ40」の出力向上型である「ハ140(離昇出力1,450馬力)」を搭載したキ61-IIの開発が進められていた。昭和19年(1944年)8月には審査が完了し、直ちに三式戦二型(キ61-II改)として生産が開始された。
そもそも、ドイツのダイムラー・ベンツ製DB 601を川崎が国産化したハ40は、当時の日本の技術では製造・メンテナンスが難しく、更に戦況の悪化から粗製乱造が目立ち始め、制式採用直後に生産が滞る事態となっていた。まして新型でより複雑なハ140の生産遅滞の状況は深刻で、エンジン未装備の「首無し」状態の三式戦二型が、ピーク時の昭和20年(1945年)1月には230機ほども工場内外に並ぶという異常事態となった。
こうした事態はすでに前年からある程度予測されており、昭和19年4月には陸軍より川崎に対して、三式戦二型の液冷エンジンを空冷エンジンに換装する予備研究が提案された。自社製の液冷エンジンを捨てることに抵抗感を示していたのは、むしろ川崎側だった。現実に首無し滞留機が出現し始めた昭和19年10月、軍需省より三式戦二型の首無し機に三菱製ハ112-II(離昇出力1,500馬力)を装着すべく換装命令が出され(この時、他のエンジンも候補に挙げられたが、生産に余力があること、さらにハ140と同等の出力を有することが勘案された)、陸軍はこれにキ100の型式を付与し、昭和20年すなわち皇紀2605年に制式採用されたため五式戦闘機(以下、五式戦)と命名された。これが本機の生い立ちである。
ちなみに五式戦が開発された当時、「大東亜決戦機」として期待された四式戦闘機「疾風」も、小型軽量高出力を目指して開発された誉エンジンの不調に悩まされており、稼働率の高い陸軍戦闘機は開戦以来の一式戦闘機「隼」のみという窮地に陥っていた。
[編集] 設計・特徴
正面面積の小さい液冷エンジン装備を前提に設計されたスマートな胴体に、直径の大きな空冷エンジンを取り付けることは大きな困難が伴った。そこで輸入されていたFw 190A5の空力処理(頭でっかちのエンジンカウルから胴体部にかけてフィレットを追加してあった)を参考にし、太くなった機首部分と細い胴体の段差を埋めるためのフィレットは重量過大とならないよう大型なものは避け、埋めきれない段差にて発生する乱流は排気ガスで吹き飛ばすことで解決している。こうした川崎スタッフの必死の努力により、開発開始から僅か3ヶ月後の昭和20年2月には初飛行に漕ぎ着けた。
正面面積の増大による空気抵抗で、水平速度と降下加速は三式戦より低下したが、冷却装置等の補機類や尾部のバラストが不要になったことにより330kgもの軽量化と重量バランスの改善を果たすことができ、上昇力、運動性能が格段に向上した。当初の目的である生産性と整備性・稼働率の向上に加え、思わぬ副次効果に陸軍当局は狂喜した。直ちにキ100は「五式戦」として制式採用され、首無し機体の改造と新規機体の製造準備が開始された。
武装は三式戦二型と同じく20mm機関砲を機首に2門、12.7mm機関銃を主翼に2門装備している。
なお、三式戦闘機の首なし機体を流用したファストバック型を五式戦闘機一型甲、最初から五式戦闘機として生産された水滴風防型(三式戦二型の視界改善型風防を流用)を五式戦闘機一型乙とする区別も存在するが、これは戦後に作られたもので公式ではない。
また、高高度でB29を迎撃するために、排気タービン過給機付きエンジンを搭載したキ100-IIも試作され、高度10,000mでも590km/hの速度を発揮できることが分かった。このエンジンはその当時既に一〇〇式司令部偵察機四型で実用化されており、キ100-IIは日本では初めての実用的な高高度戦闘機となる予定であった[1]。
[編集] 配備された部隊・戦歴と評価
昭和20年から配備された五式戦に対するパイロットの評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない。また、エンジンの交換によって機体の重量配分が良くなり、運動性能が向上し、改良(重武装化)によって徐々に飛行性能を低下させていった三式戦本来の運動性能を取り戻したと言われる。特に三式戦譲りの頑強な機体は、アメリカの艦上戦闘機F6Fヘルキャット並みの、日本機としては異例の800km/h以上の急降下速度に耐えることができた(P-51ムスタングに背後につかれても、急降下で振り切って被撃墜をまぬがれた例もあると言われる)。ハ112 - II(金星)を搭載した戦闘機としては他に零戦54型(試作のみ)があるが、機体強度は本機の方が格段に優れていた。
しかし、欧米の戦闘機の趨勢が700km/hに突入する中での最高速度580km/hは、世界水準から見るとかなり低いと言わざるを得ない。もちろん速度だけが戦闘機の性能を決定するとは言えないが、重要なファクターではある。ただし、カタログスペックとしての最高速度は測定条件に違いがある為、単純な数値の比較で優劣を論じることはできない[2]。
主に北九州地区の、飛行第59戦隊、首都圏から九州、中京と転戦した飛行第244戦隊、中京地区の飛行第5戦隊などのいくつかの飛行戦隊に配備された他、終戦直前に明野教導飛行師団から改編された飛行第111戦隊、同じく終戦直前に常陸教導飛行師団から改編された飛行第112戦隊(通称:天誅戦隊)などにも配備された。しかし、本土決戦に向けた「戦力温存」と、配備部隊の多くが転換訓練中であったことから大規模な活躍はない。少ないながら残されている実戦記録として、昭和20年7月25日、八日市市付近上空で軽空母ベロー・ウッド所属の18機のF6Fヘルキャットに対して、飛行第244戦隊所属機のうち16機で挑み、被撃墜2機と引き替えに、撃墜12機を報じている(実際は撃墜2機。空戦参加機数については諸説ある)。また、飛行第111戦隊も、昭和20年7月16日、”義足のエース”檜與平少佐と、江藤豊喜少佐に率いられた24機の五式戦が、硫黄島を出撃したアメリカ陸軍航空隊21st FG、506th FG所属のP-51マスタング96機のうち15機程度と松阪市上空にて交戦し、撃墜1機、被撃墜5機の記録が残っている[3][4]。 「(P-51戦闘機が相手でも)無理しない限り、絶対に墜とされる飛行機ではない」(檜少佐)など、実際に搭乗したパイロット達の評価は高い。
他にも「五式戦1機は四式戦3機の価値がある」などといったパイロットの声が五式戦の優秀性を証明している。ただし、開発開始から間もない昭和19年末にエンジンを生産する三菱の工場が空襲と東南海地震で壊滅したため、五式戦の大量量産体制が実現するはずもなく、四式戦の生産優先方針が終戦まで維持された。
[編集] 性能諸元
※使用単位についてはWikipedia:ウィキプロジェクト 航空/物理単位を参照
全幅 | 12.00m |
全長 | 8.82m |
全高 | 3.75m |
翼面積 | 20m² |
翼面荷重 | 174.75 kg/m² |
自重 | 2,525kg |
全備重量 | 3,495kg |
エンジン | ハ112-II型(離昇出力1,500馬力) |
最大速度 | 580km/h(高度6,000m) |
航続距離 | 1,400~2,200km |
武装 | 機首20mm機関砲 2門、翼内12.7mm機関砲 2門 |
爆装 | 250kg爆弾 2個 |
総生産機数 | 396機 |
[編集] 余談
- 五式戦よりやや早い時期に、DB 601を愛知航空機で海軍向けに国産化・改良した水冷エンジンのアツタ三二型の生産遅延のため、艦上爆撃機「彗星」でも、首なし機体が愛知航空機の工場内外に滞る状態となったことから、エンジンを空冷の金星六二型(ハ112-IIの海軍名)に換装した彗星三三型が生産されることになった。本機と同様に若干の性能低下は見られたが、故障が減り稼働率も高くなったため、第一線部隊の艦爆搭乗員と整備員からは高く評価された。
- 一式戦闘機「隼」、二式単座戦闘機「鍾馗」、及び、二式複座戦闘機「屠竜」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」には報道機関向けの愛称があるのに対して、五式戦闘機には愛称は無い。使用された期間の短さと、時期的にもそれだけの余裕が無かったという事であろう。
[編集] 脚注
- ^ ただし、このエンジンは生産準備中に終戦を迎えることになったため、実戦に参加することはなかった。たとえ実用化できたとしても、中間冷却器(インタークーラー)を省略した言わば簡易型であり、当初より中間冷却器を完備した排気タービン過給機を実用化しているアメリカとの技術差は大きかったであろう。
- ^ 最高速度624km/hとされた四式戦闘機が、戦後アメリカのテストでは689km/hを示した事なども考慮に値する。なお、日本の戦闘機は総じてプロペラ直径が欧米機に比べ小さいので、理論上は速度性能では不利になるが、加速性ではむしろ有利になったと考えられる。
- ^ 渡辺洋二 「液冷戦闘機『飛燕』」(朝日ソノラマ、1998年5月)p.345~346
- ^ 檜氏は「軍用機メカ・シリーズ 飛燕&五式戦」(光人社)で24機対米軍機250機の戦いで撃墜11機(うち不確実5機)の戦果であったとしているが、根拠は不明
[編集] 関連項目
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