銀座
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銀座(ぎんざ)は、東京都中央区の地名。東京特別区を代表する繁華街の一つで、日本の繁華街の代名詞的存在となっており、高級商店街、繁華街としては世界的にもその名が知られている。「洗練された大人の街」として活況を呈し、日本でも最大級の繁華街を形成している。
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[編集] 地理
東京都中央区の西部に位置し、西を千代田区、南を港区に接する。北側より銀座一丁目から銀座八丁目まで存在する。また、江戸城外堀を埋め立てた東京高速道路の1・2階部分は商店街となっているが、行政区画が未確定な部分もあり、俗に銀座九丁目・銀座西◎丁目地先などと呼ばれる。
北東から南西にかけて町を貫く銀座通り(中央通り)を中心にグリッド状の街区が構成されており、平行して外堀通りと昭和通りが、北西から東南にかけて晴海通りといった大通りが町を貫いている。また、通りから通りへと抜ける路地が多く点在し、銀座独特の空間を演出している。
[編集] 区域
南東側を現在の首都高速都心環状線、その他を東京高速道路にぐるりと囲まれた地域である。かつては、東を三十間堀川、西を江戸城外堀、南を汐留川、北を京橋川に囲まれた島であった。
昭和通りの南東に位置する地域は、かつて木挽町と呼ばれる地域だったが、三十間堀川の埋め立てにより銀座と地続きとなったことから銀座東と改名し、銀座に統合された。首都高速都心環状線を挟んだ地域も含めて東銀座駅を最寄りとする一帯は、一般的に東銀座と呼ばれている。
一方、数寄屋橋を中心とする地域はかつて銀座西という町名だったが、地下鉄丸ノ内線の西銀座駅(現在の銀座駅)があったりしたことから町名が銀座となった今でも広く西銀座と呼ばれている(例:西銀座デパート・西銀座チャンスセンター・西銀座通り)。
[編集] 区域・町名の変遷年表
- 1869年(明治2年)5月
- 江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から四丁目が起立。
- 当時の銀座一~三丁目は、東西南北をそれぞれ現在の三原通り、観世通り、松屋通り、桜通り(東京高速道路)に囲まれた四角形、銀座四丁目は、東西南北をそれぞれ現在のあづま通り、観世通り、晴海通り、松屋通りに囲まれた四角形にあたる。
- 1930年(昭和5年)3月4日
- 1951年(昭和26年)8月1日
- 三十間堀川の埋め立てにより木挽町と陸続きになることから、この木挽町一丁目を銀座東一丁目(二~八丁目も同様)と改名した(埋め立ては1952年7月に完了した)。
- 1968年(昭和43年)10月1日
- 1969年(昭和44年)4月1日
- 住居表示実施済みの銀座一丁目に未実施の銀座東一丁目を編入し、これを改めて銀座一丁目(二~八丁目も同様)として銀座東が消滅。
[編集] 隣接する地区
[編集] 歴史
[編集] 江戸時代
江戸時代以前、現在の丸の内から日比谷にかけて日比谷入江と呼ばれる海があり、その東には隅田川の運んできた砂によって江戸前島という砂州が形成されていた。その先端が現在の銀座にあたる。
1600年、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利し、江戸の重要性が高まると、1603年、第一回目の天下普請が行われ、日比谷入江の埋め立てと京橋地区の整備が進められた。1604年には東海道が整備されたが、銀座の都市基盤の整備は1612年の第二回目の天下普請まで待つことになる。整備は、京間10間とした東海道(銀座通り)を中心にグリッド状に設計され、それぞれの街区の中央には会所地が設けられた。
町人地として整備が行われた銀座には、駿府にあった銀座役所が移転し、1800年に蛎殻町(現在の日本橋人形町一丁目付近)に移転するまで、貨幣の鋳造が行われた。現在の銀座七丁目付近には朱座が設けられた。また、徳川家康に親しまれ、幕府の式楽となった能の四座のうち三座も銀座に置かれた。このほかにも、槍や鍋といったものを供給する職人たちが多く居を構えた。
1657年、明暦の大火により江戸は大半を焼失し、銀座も大きな被害を出した。これを機に江戸の大規模な都市改造が試みられ、銀座でも三十間堀川沿いの河岸の増設や、道路の新設による街区再編などが行われた。
江戸時代の銀座は、町人地として発展したものの「職人の町」としての側面が強かった。江戸研究家の三田村鳶魚も、京橋や日本橋よりも街の賑わいは劣っていたと、自著『銀座』内で語っている。
[編集] 明治時代
銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜~東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。
しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。
こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手に住む中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである。当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。一方、維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。
[編集] 大正・昭和初期
1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。また、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街も作られていった。
震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店、カフェーなどが次々と銀座にでき、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けていった。昭和初期には、アール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、町を散策する「銀ブラ」は全盛を極めた。なお、よく誤解されがちであるが、「銀ブラ」は「銀座をブラブラすること」ではなく、もともと吉井勇、菊池寛、芥川龍之介等多くの文学者がカフェーパウリスタの「ブラジルコーヒー」を銀座で飲むことから、それが一般化し言われるようになった。この店は日本のコーヒー店の先駆けといわれるが、現在「あなたは本日、銀ブラ(銀座通りをカフェーパウリスタにブラジルコーヒーを飲みにいくこと)を楽しんだ事を証明します」という、銀ブラ証明書というスタンプカードを発行している。
しかし、日本の戦争への介入にしたがって、銀座もその影響を受けるようになった。戦局の悪化にともない、1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。戦争末期の1945年1月27日には銀座が初めて空襲を受け、多数の死者・重傷者を出した。爆弾は泰明国民学校も直撃し、教員4人が死亡、2人が重軽傷を負った。その後も、3月10日、4月28日、5月25日の空襲で、銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受けた。
[編集] 戦後
終戦後、服部時計店、松屋や東芝ビルなど、多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収された。その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、商店はバラックや露店で営業を再開した。華僑・王長徳による一等地買占めが行われたのもこの時期である。1946年には銀座復興祭が行われ、銀座の復興は軌道に乗り出した。1951年にGHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。
こうした再興の過程で、戦災を免れた建物が取り壊され、建物の高層化が進んだ。また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧江戸城外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路に化けていった。
こうして銀座は戦後復興を急速に進めたが、1960年代より新宿がアングラ文化の中心地となり、銀座に代わって盛り場としての地位を手にした。一方で、銀座は「斜陽」が叫ばれるようになった。
1968年から「明治100年」を期に「大銀座まつり」が開催され(1999年をもって休止)、1970年からは晴海通りを除いた銀座のすべての道路で歩行者天国が始まった(現在は銀座通りのみ)。
1990年代後半になると、町の再開発とともに、海外有名ブランド店やチェーン店の進出が加速した。
[編集] 地域
[編集] 人口
昼間人口は約15万人。それに対して夜間人口は、2,177世帯、3,571人(2007年1月現在)である。
1908年には27,689人が暮らしていたが、関東大震災や戦争を機に郊外流出が進み、1955年に15,582人にまで減少した。さらに高度経済成長期には人口減少に拍車がかかり、1970年の人口は6,257人、1998年は2,963人にまで減少したが、それ以降は都心回帰によって増加に転じている。
[編集] 景観
銀座の建物は戦後復興の1960年代までに建設されたものが多く、当時の建築基準法により高さ31mに制限され、統一された景観を形成してきた。しかし、老朽化した建物の建て替えに際して、多くの建物が容積率制度の導入される1964年以前に建設されたものであることから、建て替え前よりも小さい規模での建設を余儀なくされることや、建物の高層化により統一した景観が阻害されることを懸念した地元と中央区が協議し、1998年に地区計画「銀座ルール」が制定された。ルールでは、道路幅に応じて高さ13~56mにまで制限し、容積率も基準を800%、最大でも1100%とし、開発に大幅な制限をした。
しかし、2002年に都市再生特別措置法の「緊急整備地域」に指定されたために、容積率が大幅に緩和され、銀座においても再開発による建物の高層化の機運が高まることとなった。これとは別に、2005年に都市計画法の特定街区制度を活用して銀座八丁目に121mの銀座三井ビルディングが建設された。この流れを受けて、2004年に地元企業は資生堂名誉会長の福原義春を代表とする「銀座街づくり会議」を発足させた。
そのなかで、 松坂屋が森ビルと共同で松坂屋銀座店と隣の街区を合わせて大規模な再開発をする計画が浮上。また、ほぼ同時期に歌舞伎座でも建て直しに伴う一部高層化の計画が発覚し、再び「銀座ルール」の見直しがされることとなった。2006年に施行された新ルールでは、昭和通りより西の銀座中心部では一切の例外を禁止して建物の高さを56mに抑え、今まで規定のなかった屋上広告についても最大で10mまでとした。
一方で、昭和通りより東では、区長が「文化等の維持・継承に寄与する大規模開発」と判断した場合に限って56mを超える建物の建設が許可されることになり、歌舞伎座の再開発は認められる見通しである。また、建物の建設に際して建築確認の前に、「銀座街づくり会議」が選出した学者や地元商店主らによって構成された「銀座デザイン協議会」と建物のデザインや用途などについて協議することを求めている。
[編集] 象徴
銀座のシンボルとされているのが柳である。また、和光本館の時計台は銀座のランドマークとなっている。
[編集] 銀座の柳
現在では、「中央区の木」にも指定されている。1874年に日本初の街路樹として、桜・松・楓が銀座通りに植樹されたが、埋立地である銀座の土地が水分の多いことから根腐れを起こしてしまい、1877年に湿地に生育する柳に植え替えられた。しかし、1921年に車道の拡幅にともない銀杏へと植え替えられた。しかし、銀座の柳に対する思いは強く、1929年に発表された西条八十作詞の『東京行進曲』でも銀座の柳をなつかしむ歌詞が登場する。1932年に朝日新聞社の寄贈で再び銀座通りに再び柳が復活し、同年4月には第1回柳まつりが開催された。その後も、『東京ラプソディ』や『東京音頭』で歌われるなど、柳は銀座のシンボルとして定着していった。
しかし、1968年に銀座通りの共同溝工事のために柳は伐採され、東京都日野市の建設省街路樹苗圃に移植された。しかし、その柳もどんどん枯れていき、1984年には3本しか残っていなかった。それを知った地元商店主が柳の枝を譲り受けて挿し木を行い、自宅の庭などで育てたものを、銀座をはじめ、全国各地に植樹を行った。銀座に柳を復活させる運動は続いており、現在では外堀通りや銀座柳通り、御門通りに柳が植えられている。また、外堀通りでは2006年から毎年5月5日に「銀座柳まつり」が開催されている。
[編集] 経済
東京都心部に位置する銀座は、明治時代より商業の中心地として日本でも有数の繁華街を形成している。
商業地域は銀座通り(中央通り)沿いの地域を軸とした銀座の西部、特に晴海通りと交わる銀座四丁目交差点の周辺を中心としている。また、七丁目や八丁目周辺は高級クラブや飲食店などが立ち並ぶ地域となっている。
一方で、東銀座地域は企業の社屋などが立ち並ぶオフィス街となっており、新橋演舞場のある六丁目から八丁目にかけては新橋の花街が形成されている。
[編集] 商業
銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、2002年の年間商品販売額は4088億2100万円で、東京都内では新宿駅東口地域に次ぐ規模となっている。
明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期のデパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが、業態は少しずつ変化していった。1990年代のバブル崩壊以後は、カラオケ店や量販店などのチェーン店の進出が進んだ一方で、海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた。
銀座は、百貨店の集積地でもあり、松屋・松坂屋・三越・プランタン銀座のほかにも、隣接する有楽町の西武百貨店や阪急百貨店、丸井を含めると、7店にも及ぶ。
[編集] 情報通信業
銀座にはマスメディアの集中も見られる。その歴史は明治時代の銀座煉瓦街の建設によって、丸の内や日本橋に近い銀座に多くの新聞社が集中したことに由来する。一時期は、東京日日新聞(現・毎日新聞)、東京朝日新聞(現・朝日新聞)、読売新聞や國民新聞などといった新聞社のほとんどが銀座に集中し、それに伴って印刷業や広告代理店なども集中した時期もあったが、関東大震災を期に銀座周辺へと分散していった。
また、日本電報通信社(現・電通)が銀座に設立されたことにより、広告原稿の受け渡しの利便性から地方新聞社の多くが銀座周辺に東京支局を構えた。このことから、現在でも地方のテレビ局などが銀座に支局や支社を構えている。このほか、明治時代から社屋を構える教文館や実業之日本社や、1950年から1966年まで社屋を構えた文藝春秋など、出版社も多く見られる。
[編集] 銀座に本社を置く企業
[編集] 文化
明治時代、煉瓦街建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地鉄砲洲に外国人居留地があったために舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの商品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。
[編集] 食文化
食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。1871年、「文英堂」(現・木村屋總本店)が尾張町にて創業し、パンの販売を始めた。また、1895年には洋食屋の「煉瓦亭」が開業した。銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂は1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水やアイスクリームを売りだした。他にも、1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど、銀座には様々な食文化が流れ込んだ。
1911年、パリのカフェを模した「カフェープランタン」が開店し、作家や画家などの文化人の社交場となった。その後も「カフェーパウリスタ」や「カフェーライオン」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、文壇の議論が盛んに行われた。しかし、関東大震災を境に関西資本のカフェーが進出し、カフェーは女給による濃厚なサービスを行う場に変貌していった。昭和初期にはエログロナンセンスの流行とともに大衆化・俗化し、カフェーは全盛を極めることとなった。また、この頃に関西の料亭の進出も相次いだ。
戦後、銀座は高級料理店や料亭、高級クラブなどが立地する街として認識されるようになっていった。1980年代頃からは世界の一流レストランが多く進出するようになった。一方で、外食フランチャイズの進出も盛んになった。まず、1971年に「マクドナルド」や「ダンキンドーナツ」の1号店が銀座に開店した。1990年代には「スターバックスコーヒー」や「タリーズコーヒー」が相次いで進出し、その後も「サンマルクカフェ」や「ル・カフェ・ドトール」の1号店の開店が相次ぎ、銀座はカフェの激戦地となったほか、カフェブームを全国へと広げる舞台にもなった。
[編集] ファッション
服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献した。
関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけてはモボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であったアール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。
1964年、並木通りやみゆき通り周辺に「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していたアイビー・ルックを少し崩し、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「VAN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。しかし、同年に開催される東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消した。
1990年代以降に、海外ブランドの進出が活発化し、並木通りを中心に多くの海外高級ブランド店が進出している。
[編集] 文化施設
明治後半から大正時代にかけて、歌舞伎座や東京宝塚劇場など、銀座・有楽町周辺には多くの劇場が開場した。
昭和20年代後半にはカントリー・ミュージックやシャンソン、ジャズなどをバンドの生演奏で楽しむジャズ喫茶の開店が相次いだ。また、シャンソン喫茶「銀巴里」は多くのシャンソン歌手を生んだ。しかし、1970年ごろより、新宿や御茶ノ水といった学生街に音楽の拠点は移っていった。
現在では、劇場や映画館、コンサートホールなどの文化施設が多く存在している。特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の文化支援活動の一つとして開いているものが多いことである。また、画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。
[編集] 主な文化施設一覧
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[編集] 交通
銀座は地下鉄網が整備されており、またJRの有楽町駅や新橋駅からも徒歩圏内にある。このため、1998年に行われた銀座への交通手段に関するアンケート調査では地下鉄利用者が半数以上を占め、JRの利用者も3割以上だったことから、大半が鉄道を利用して銀座へ来ていることが分かった。
[編集] 道路
晴海通りや中央通り、昭和通りなどの大通りが走り、これらの通りでは自動車の交通量が多い。
- 主な道路
[編集] 鉄道
1882年に東京馬車鉄道が新橋~日本橋間で開業した。1903年、馬車鉄道は「東京電車鉄道」と名を変え電化し、同年には数寄屋橋~神田橋間に東京市街鉄道が開業した。これらの鉄道路線は、後に東京市電として公営化し、路線・系統の拡大がされた。1934年には東京地下鉄道によって敷設された地下鉄(現・東京地下鉄銀座線)が銀座まで延伸した。
1950年代より地下鉄整備が着々進められ、丸ノ内線や日比谷線が開業し、その一方で都電は撤去されていった。
- 鉄道駅
- 銀座駅 - 東京地下鉄銀座線、日比谷線、丸ノ内線(数寄屋橋交差点・銀座四丁目交差点付近の最寄り駅)
- 京橋駅 - 東京地下鉄銀座線(銀座1丁目銀座中央通り沿い付近の最寄り駅)
- 東銀座駅 - 東京地下鉄日比谷線、都営浅草線(昭和通り付近の最寄り駅)
- 宝町駅 - 都営浅草線(銀座一丁目昭和通り付近の最寄り駅)
- 銀座一丁目駅 - 東京地下鉄有楽町線(外堀通り~銀座中央通りの銀座1丁目・2丁目付近最寄り駅)
- 有楽町駅 - JR山手線、京浜東北線、東京地下鉄有楽町線(数寄屋橋交差点、外堀通り付近の最寄り駅)
- 日比谷駅 - 東京地下鉄日比谷線、千代田線、都営三田線(数寄屋橋交差点付近の最寄り駅)
- 新橋駅 - JR山手線、京浜東北線、東海道線、横須賀線、東京地下鉄銀座線、都営浅草線、ゆりかもめ(銀座7丁目、8丁目付近の最寄り駅)
[編集] 建物・施設
銀座は、新宿や渋谷などの副都心の繁華街と違い、家電量販店・ゲームセンターが無く、カラオケボックス・パチンコ店・ファーストフード店は少ない。このことが、若者を銀座に寄せ付けがたくする一方、年配者や高所得者に人気の繁華街なる要因となっている。ただし、これらの店舗は有楽町や新橋など、銀座からでも歩いて行けるような地域にはある。
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[編集] 商店街の代名詞
「○○銀座」と呼ばれる商店街が全国に見られる。その大半が東京の銀座に倣った物であり、多くの商店街が並ぶ。近年では、郊外型ショッピングセンターに押され衰退気味だが、商品の個性化、地域通貨など様々なサービスを展開し、賑わいの復活を模索している。最近は、高級服飾店が幾つも立地するなど高級化している。「○○銀座」の元祖は東京都品川区にある戸越銀座と言われている。
[編集] 銀座を舞台・背景とした作品
日本映画の黎明期から黄金期となる昭和20年・30年代まで、東京を代表する町として頻繁に銀座が登場。
歌謡曲でも銀座を歌った歌が数多く、『東京行進曲』や『東京音頭』などといった東京の歌の歌詞にも銀座が登場する。
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[編集] 参考文献
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 銀座コンシェルジュ - 銀座公式サイト