街路樹
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街路樹(がいろじゅ)とは、市街地の道路の両側に沿って植えられた樹木のこと。市街並木ともいう。
都市の美観の向上や道路環境の保全、歩行者等に日陰を提供することなどが目的である。一般に、歩道の車道寄りや中央分離帯に植えられる。
一般に、街路樹(市街並木)と並木(地方並木)とは区別される。
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[編集] 歴史
世界で最も古い街路樹は、約3000年前にヒマラヤ山麓に造られた街路、グランド・トランクに列植された樹木とされる。グランド・トランクは、インドのカルカッタ(コルカタ)からアフガニスタン国境につながる幹線街路で、一部に石が敷かれ、道の左右と中央に樹木が列植された。また、中国でも約2500年前の周代には、すでに壮大な街路樹や並木が造られていた。
日本では、6世紀後半の敏達天皇の治世に、難波の市にクワの並木を作ったとされ、8世紀半ばの聖武天皇の治世には、平城京にタチバナとヤナギの並木が作られた。また、光明皇后は貧しい人が飢えないよう、都大路にモモとナシの木を植えて並木道にしたと言われる。
さらに、754年(天平勝宝6年)に帰朝した遣唐使の僧・普照は、唐の諸制度とともに、並木・街路樹の状況も奏上した。これを受けて、759年(天平宝字3年)、太政官符で並木・街路樹の植栽を決めた。これが日本における行政主導の街路樹のはじめである。
8世紀後半の桓武天皇の治世には、平安京にヤナギとエンジュが約17メートル間隔に植えられ、地方にも果樹の並木が植栽された。鎌倉時代にはサクラ、ウメ、スギ、ヤナギの並木が植えられた。戦国時代には、織田信長が旅人の安全、快適な交通を確保するために並木道を作ったと言われる。江戸時代には、街道網が整備され、マツ、スギ、ケヤキなどが植えられた。街道には並木が作られるとともに、1里(約4キロメートル)ごとに一里塚が造られ、距離の目印、休憩場所として利用されるようになった。また市街地の川沿いの道などにはヤナギやマツが植えられた。
開国後には、1867年(慶応3年)、横浜市の馬車道にヤナギとマツが植えられた(1979年、横浜市は馬車道に石碑「近代街路樹発祥之地」を建てた。これに対し、近代の定義が曖昧な事に疑問を呈する人々もいる)。1874年(明治7年)には、東京の銀座通りにサクラとクロマツが植えられたものの木の成長が悪く、1884年(明治17年)にシダレヤナギに植え替えられた。
1907年(明治40年)、林学博士・白沢保美と子爵・福羽逸人(ふくばいつせん)により街路樹の改良計画が立てられ、10樹種が街路樹として選定・植栽され、現在の街路樹の元となっている(10樹種については後述)。
日本では、一度植えてしまうと街路樹として適さないくらい大きく成長してもそのままであるが、パリなどでは、街路樹に適した大きさの木への植え替えが行われている。
[編集] 樹種の選択
街路は木にとって楽な環境ではない。自動車の排気ガスを浴びることが障害の筆頭で、植えられる土が狭く固い場合(そうならない方が例外である)には、それも問題になる。これらには耐性が強い樹種と弱い樹種がある。20世紀後半から各地で街路樹に夜間の電飾をかけるようになったが、木にとっては負担要素である。成長すると、信号や標識の視認を確保するため、枝を払う必要が出てくるが、これにも耐性の違いがある。さらに気候の適性があり、木の寿命の長さも考慮の要素である。以上のように様々な要素が組み合わさるが、結果として現代では落葉樹、広葉樹が好まれている。
ただ、樹種選択のせいで直ちに失敗する例は少なく、たいていの木はある程度の負荷に耐えうる。また、いずれにせよ樹木とて不老不死ではない。そこで、不利な種を厳しく排除することなく、様々な街路樹を認める考えがある。21世紀初めには、その土地に昔から自生してきた樹種を優先しようという考えも登場している。
- 1907年(明治40年)に林学博士・白沢保美、子爵・福羽逸人によって選定された街路樹。今まで継承される樹種の基本となった。
[編集] 日本でよく見られる街路樹
- 落葉樹
- ハルニレ、トゲナシハリエンジュ(トゲナシニセアカシア)、セイヨウハコヤナギ、ナナカマド、トチノキ
- メタセコイア、シナサワグルミ、イチョウ、プラタナス、シダレヤナギ
- ニワウルシ(シンジュ)、ケヤキ、ユリノキ、ソメイヨシノ、ハナミズキ
- サトザクラ、トウカエデ、エンジュ、モミジバフウ、アオギリ
- ナンキンハゼ、センダン、ホウオウボク、ポプラ
- 常緑樹
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 山本紀久『街路樹』、技術堂出版、1998年。ISBN 4765521184