景観
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景観(けいかん)とは、Landscapeの訳語で、景色、眺めのこと。風景とほぼ同義で使われることもあるが、もとは地理学の分野で使用されていた用法、用語であり、森林・河川・海などの自然景観と、都市・集落・農耕地などの文化景観に分けることもある。近年では単に景観と言った場合、後者(人工的な、あるいは人間の手が加わった景色)の意味で使われることが多い(以下の説明も主として後者の意味で用いる)。なお、日本では2004年に景観法(景観緑三法)が制定されたが、法律上「景観とは何か」は定義されていない。
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[編集] 概要
風景が主に自然の景色など絵画主観的な景の捉え方を指すのに対し、景観は、地理学的に客観的な景を指すのであるが、地理的知自体が特定地域においての自然や類型地域, 気候や動植物分布などの地理的現象から種別分類された地域という意味あいのほか、地域の社会・文化的活動をも含めた総合的な地域観念と捉えられることから自然的な事実というよりは社会的構築物であるとされるため、人工的な、あるいは人間の手が加わったものごと、現象を指すことが多い。少し難しく言えば、景観とは、人間が地表のあるまとまった地域をトータルに捉えた認識像である。つまり、一定の地域の全体を捉えようとするもので、個々の山とか建築とか橋とかをばらばらに見るのではなく、地表にはまず自然があり、そこに人間が様々な加工をして、生活を営んできた。 景観が自然と人工物の混じり合った全体をさす。人工物を中心にして形成されている都市も当然景観であり、視覚以外のものも、地域としてのまとまりのなかに捉えようとする。
つまり、景観の観念は大半が、都市の風景(街並み)や村落の風景(例えば屋敷森や棚田、漁港も含む)などで、大多数の人間が主観を入れず大差なく感じるような景、とされている。
景観は、伝統的な街並み、住民が育ててきた住環境、あるいは自然と一体になった風土を、無秩序な開発や急速な変化から守る(ナショナル・トラスト等)、という保守的な概念として用いられることも多いが、新たな都市開発においてデザイン的に統一された景観の形成が考えられることもある。 その例としては、明治期の銀座煉瓦街、三菱の丸の内計画、宮城周辺の苑地化方針、南禅寺界隈の別荘地化・京都市の風致保存をベースとする東山地域の開発構想、関東大震災後の帝都復興事業における大小公園の配置から行幸道路等の街路整備、隅田川橋梁群のデザイン、大正期の都市美運動と橡内吉胤による岩手県各地での実地指導、田園調布や成城など郊外住宅地で取り組まれた建物、植樹等に関する自主協定や建築敷地造成事業区域に対する高度地区・軒高の限度指定(皇居付近、大阪駅前、新宿西口、神戸のメインストリート沿)、警視庁の指定建築線の運用などや、戦後横浜市が進めたアーバンデザインの手法、多摩ニュータウン開発の際の景観形成、茨城県つくば市の筑波研究学園都市や、近年の例では福岡市港湾局のシーサイドももちの景観形成計画、東京・お台場臨海都市再開発(臨海副都心)、「ベルコリーヌ南大沢」で実施されたマスターアーキテクト方式、汐留のチッタ・イタリアなどがある。 また、お台場ウエストプロムナードのレインボーブリッジを超えて東京タワーを焦点として布置する手法、多摩ニュータウン鶴牧地区奈良原公園から緑地の軸を富士山に当てる眺望景観の形成や、賑わい景観をも意識した京都市の職住共存特別用途地区や山並み眺望保全のための松本市の高度地区指定など、都市計画手法を景観形成に利用した取り組みも近年みうけられる傾向にある。景観に配慮した都市計画で、街路周辺の建築物の高さ、色、形状を統一することは一種の規制であるが、景の一体感を持たせることで演出する側面がある。
日本では福岡黒田藩が1598年から博多湾岸に展開する千代の松原の樹木伐採を禁じ、藩主は地元の村に自然環境と景観の保護を命じているなどの取り組み事例などが全国各地にある。
明治初期には銀座煉瓦街や日比谷官庁集中計画における威信礼儀の洋風美観と、市区改正委員会での議論における保全型風致美観といった、都市風景に対する二つの審美観が存在した。建築学会は1906年から1913年にかけて、全市街での洋風美観創出を目的とした東京市建築条例案の検討を行っている。この時期建築家を中心に、都市計画に対する理解、市区改正の延長型、市街地改造等は美観創出を目的とするというのが大勢であった。同時期に、「都市の美観」(『美術新報』)や黒田鵬心「帝都の美観と建築」(『東京朝日新聞』、共に1910年)等、都市美観の啓蒙も始まっている。明治中後期から大正前期にかけては愛郷運動なるものが起き、その影響下で保存会あるいは保勝会という運動団体が各地に誕生、その名称が示すように、愛郷心の発揚を目指した史蹟の保存が目的であった。関東大震災後には、アメリカの都市美運動 en:City Beautiful movement の影響を受けて同様の啓発活動が橡内吉胤らによって展開された。このときに検討されている事項に景観施策を一手に扱う都市美委員会の設置や景観基本計画の策定などであったが、しかしながら都市美運動は一向に進展せず、吉胤自身も次第に諦念を示すようになっていった。つまり識者からは大正期から既に嘆かれる程の有様だったのである。ただし、戦前の橋梁やトンネル、水利施設には景観デザイン的には優れたものがあることは近代化遺産としてそれらが高く評価されていることからもわかる。これは明治以降の都市整備では交通や防災、衛生といった機能と並んで美観もが獲得目標とされ、文明装置としての社会基盤施設を持つ文化的重要性が意識されていたためである。
その後激化する戦争、戦災からの復興、また戦後については高度経済成長という過程の中で、合理性や経済性が優先し景観への配慮といった要素は主観的なものと考えられて軽視され、日本の景観は美的感覚とは離れた部分で変貌を続けるとされ、したがって往時の状況について、地方自治体の関係者の地方財政法の第四条第1項「地方公共団体の経費は、その目的を達成するための必要且つ最小の限度をこえて、これを支出してはならない」との規定条文から、景観形成等は最小の限度を越えていたと解釈していたとの証言もある。こうして機能一点張りで景観配慮が全くなくなったと大雑把にいわれるが、実際戦災復興都市計画では戦災地復興計画基本方針によって、主要幹線街路について「防災及び美観の構成を兼ねしむること」とし、これを踏まえて1946年に通達された一連の計画標準の街路計画標準にも「重要公共施設の配置に当たりては視観を重視し、建造物、公園、山嶽等を背景とする美観道路を配置すること」としている。このことから広島復興計画では丹下健三らが作成した、広島駅から中島川の三角地に向けて斜めに走る大通りを通し、通りの先に安芸の小富士・似島を浮かせる計画案(実現せず)などが示され、広島と名古屋の100m街路や仙台市の定禅寺通り、姫路市の大手前通りや四日市市の中央通、大分市の遊歩公園、鹿児島市のナポリ通りをはじめとする幅員30~40m以上の広幅員の道路・街路が創出され、後に貴重な空間として都市景観形成のため活用されることとなったほか、徳島市で徳島駅前と眉山を結ぶ延長630メートル、幅員50メートル道路は「美観道路」として計画された。 また少なくとも高速道路においても、日本最初の高速道路である名神高速道路やそれに次ぐ東名高速道路において、景観に対して配慮すべき基本的事項はほとんど網羅され、こうした施設のデザインがランドスケープデザインとして示されていた。これは当時の日本道路公団が事業を進める際の財源を世界銀行からの借款でまかなう際に景観に配慮する設計を旨とする旧西ドイツの建設コンサルタントを導入せよとの条件を与えられたことに由来している。こうした施設の設計では少なくとも初期の段階においてはモダンデザインの原点があったとされる。
[編集] 景観という言葉について
「景観」という言葉はもともと植物地理学分野の学術用語からきている。中国からの古来の言葉である風景であると、学術上の客観性が保つことができない、したがって、風景とは別の言語を発明する必要があった。これに対しては、地理学者の辻村太郎は1937年に著した『景観地理学講話』で「ドイツ語のラントシャフトに対して、植物学者の三好学博士が与えられた名称である」としている。
辻村は、ドイツ地理学のラントシャフト概念を精力的に日本に紹介した人物と知られ、幅広い分野にわたる知識と関心を有し、植物生態学から地理学景観論を発展させる。統制された町並みや建築物群、さらには経済活動といった人間活動をも抱合し、これらを融和した総合体系ととらえていた。 しかしながら辻村は、景観の定義を「目に映ずる景色の特徴と考えて差し支えない」とし、また「ここでは地域の意味を含ませない」としていた。ドイツ語の「ラントシャフト」がもつ地域の意味合いの概念性よりも直観的、感覚的に把握できる地域の外観の意味あいの方をあえて強く押し出しているようである。日本の景観概念は審美的な観念が高いのは、この辻村が示した観念の影響が大きいとされる。
[編集] 景観に関する研究
景観を世界で初めて科学的に取り上げたのは旧西ドイツとされている。日本では、前述の地理学、都市工学や土木工学、社会工学や建築学で景観研究を扱われることが多いが、生物学系統で景観生態学の観点からの研究や、審美的観念から芸術学また人々の営み、地域活動などの観念をも含まれるという解釈から近年では社会科学、教育学の分野でも広く取り扱われる。たとえば「東アジアの海域交流と日本伝統文化の形成 ―寧波を焦点とする学際的創生―」では「景観班」を設置し、「東アジアにおける死と生の景観」というテーマで研究している。
地理学では情報技術の歴史地理学的応用として空中写真や衛星画像を利用した歴史景観の研究、さらに立地とプランを体系化し得られた知見をさらに地理情報システム(GIS)に統合し、考古学や文献史学の成果へつなげる試みも取り組まれている。森林や公園緑地など自然環境を美的観念から研究する造園学、森林科学の分野においても、たとえば色彩から考える地域景観誘導方策に関する研究、史跡城跡の景観解析と植栽に関する研究、街路樹のある街路景観の好まれる要因についての研究、参道景観の評価に関する研究などといったテーマで進められている。
[編集] 歴史的資料・教育としての景観
文部省(1999)『高等学校学習指導要領解説 地理歴史編』には、「雑誌・新聞等も含めた文献、絵画や地図、写真等の画像、映画や録音などの映像・音声資料、日常の生活用品も含めた遺物や遺跡、景観、地名、習俗、伝承、言語など様々なものが歴史的資料となり得る」との文言がある。
2004(平成16)年通常国会において文化財保護法の一部を改正する法律が成立する。この中で、Cultural landscape が文化的景観として盛り込まれる。棚田や里山などのような地域における人々の生活や生業、また当該地域の風土により形成された景観地を生活または生業の理解のため欠くことのできないものとして保護するために新設される。景観計画区域や景観地区が指定されている地域の中から都道府県か市町村から申し出に基づいて文部科学大臣が「重要文化的景観」を選定し支援するとしている。
九州産業大学が推進する文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業(学術フロンティア)「人間-環境系の媒体としての景観プロセスに関する学際的研究」に参画する教員の研究パートナーとして、建築学科の教職課程講義履修者で結成された学生グループ、景観教育タスクフォースを発足。中部開発センターでは、2005年7月に「中部圏における景観に関する専門分科会」(分科会会長:伊藤達雄名古屋産業大学学長(当時))を設置し、中部圏の都市景観の現状、問題点、についてアンケート調査、ヒアリング調査および現地調査を実施するとともに、中部圏の都市景観が生まれ変わるために何が必要かについて議論を重ね、この調査の結果を2006年4月に報告書「中部圏における都市景観のあり方-美しい中部圏実現のために-」として発表している。また青森県では景観形成に関する普及啓発として、「景観の日」の設定のほか景観学習教室、高校景観デザインコンテスト を実施している。国土交通省では2006年度までに景観まちづくり学習の推進のための実践モデル校を募集し、18校を実践モデル校として採用している。
[編集] 景観に対する規定(日本)
[編集] 高度成長期まで
景観保全を企図した最初の法律は1897年の森林法で、同法は「社寺名所または旧跡の風致を沿える」森林について伐採等を原則禁止する風致保安林としての保護の道を開いた。その後1931年には天与の大風景の保護とその観光開発の両立を目指した国立公園法が制定され、私有地に対して公用制限を課す地域性公園制度が導入されるが、これは1957年には自然公園法へと拡張され、2002年の同法改正によって、自発的な意思による景観保全を推進する風景地保護協定制度を創設するまでにいたる。
1919(大正8)年制定の旧都市計画法に風致地区が、旧市街地建築物法に美観地区が創設された。つまり法的には当初より美観地区、風致地区などの規定があった。また風致地区などの指定をうけて東京府や京都府などで風致協会、風致地区委員会、保勝会などの名の運動団体が発足している。そうした規定はごく限られた範囲のことであり、一般の市街地に対しては特段、景観に配慮を行うような規定は存在せず、戦後の高度成長の時代においては、敷地をいかに有効に(高容積で)利用するかが優先され、建築基準法も社会的要請に応えるよう、次第に緩和規定が設けられていった。例えば、建築物の高さ制限は景観を左右する大きな要素であるが、商業地などで31m、住宅地で20mと定められていた絶対高さ制限は、1963年の建築基準法改正により撤廃された。[1]。このため、1960年代までに形成された中心市街地(例:御堂筋、銀座、新宿)では一定の軒線が守られているものの、それ以降に発達した市街地では高さの揃わない街並みになっている現象が見られる。また、総合設計制度(1970年創設)は都心部に空地を確保する効果もある反面、周囲から突出した高層ビルも建設可能にした。1980年の改正では、地区計画制度が登場し、地区の特性に応じた建物高さや壁面位置等のこまやかな規制を可能にしている。
[編集] 町並み保存の動き
歴史的建造物の保護は、森林法と同年に保存金の下付を目的とした古社寺保存法が制定されている。これは1929年には社寺という限定を外して後の施策の基本となる指定制を採用した国宝保存法へと改正され、また旧都市計画法制定と同年の1919年には史蹟名勝天然紀念物保存法が制定されているが、1950年制定の文化財保護法はこれらの法律を統合したものである。
高度成長期以降は日本人の生活も大きく変わり、伝統的な街並みや農村の風景も大きく変化することになった。飛鳥、奈良、京都、鎌倉といった日本の文化史上特に重要と考えられる地域も開発の波にさらされるようになった。これらの地域の景観を守るため、1966年に風土を初めて冠した古都保存法が創設された。古都における歴史的風土特別保存地区の規定や、伝統的建造物群保存地区(通称「伝建地区」、1975年、文化財保護法改正)の規定などが生まれた。この地区の中から特に価値が高いものは国の文化財である重要伝統的建造物群保存地区に選定される仕組みとなっている。 (古都保存法ならば、市町村がこの法律に基づく「古都」に指定されると、実質的には景観緑三法以上の規制がかかる。)鎌倉市では1964(昭和39)年、鶴岡八幡宮裏山を民間業者が宅地開発するという計画を立てたため、鎌倉市民は激しい反対運動に立ち上がり、「財団法人鎌倉風致保存会」を設立。内外からの募金運動を始め、1966(昭和41)年、財団は宅地造成予定地の一部の買い取りに成功し、ついには開発を諦めさせることになる。このとき、鎌倉在住の作家大佛次郎がイギリスのナショナルトラスト運動を紹介したことがきっかけで、財団法人日本ナショナルトラスト(1968年)が設立された(大佛は発起人の一人で、理事に就任)。1966年には長野県南木曽で妻籠町並み保存運動を開始している。
緑や歴史的景観を保全しようという動きは、1962年の樹木の保存に関する法律(樹木保存法)、1966年の首都圏近郊緑地保全法や1973年の都市緑地保全法などの法律の公布があったとおり、1960年代半ばころから自治体でも始まり、条例を制定して歴史や自然の遺産の保全に乗り出そうという先進的都市が現れる。金沢市の「金沢市伝統環境保存条例」(1968年)、1970年には奈良県や京都府、横浜市の「風致地区条例」、盛岡市の「盛岡市自然環境保全条例」などが制定される。盛岡の例では1972年の制定時、市街地にあって優れた景観要素となる緑地、寺院群や市民に親しまれている樹木、個人庭園などを対象にしたが、1976年には条例を改正して歴史的建造物も加えている。これらの多くは主として歴史的景観や、その都市にとってかけがえのない景観が急速な都市の変動のなかで、現行の法規のままでは破壊されてしまうのを食い止めて景観を保全し、都市としての個性を保とうというのが主な目的になっている。横浜市ではさらに「緑の環境をつくり育てる条例」が施行される。1973年には長崎市で中島川をまもる会が、また同じ年に主な自治体が集まって、歴史的景観都市連絡協議会が発足。1974年には和歌山県田辺市で天神崎の自然を大切にする会が結成される。こうして、1979年は自治体が集まって「全国伝統的建造物群保存地区協議会」を発足させる。
結果地方都市の個性を景観や市街地環境の整備として支援することを目的とする国の補助制度は80年代前半からは徐々に整備されていく。初期の例では国土庁の地方都市整備パイロット事業と伝統的文化都市整備事業、1981年の水緑都市モデル地区整備事業、1984年の花と緑のモデル地区整備事業などがある。過去こうした事業施策はほか建設省が歴史的建築物等活用型再開発事業、自治省が地域文化財保全事業、運輸省が歴史的港湾環境創造事業、文化庁が史跡等保存整備事業および購入事業、史跡等活用特別事業、歴史の道整備活用推進事業などを創設している。
建設省で1982年に創設された歴史的地区環境整備街路事業(通称「歴みち事業」)は現在でも、身近なまちづくり支援街路事業という名前で続くが、この事業は歴史的町並み保存のためには計画決定された都市計画道路の計画変更も視野に入れたものとなっている。
1996年の文化財保護法改正によって生まれた国の登録有形文化財制度は、法に基づく全国一律の保存制度で、伝建地区や景観条例等ではカバーしきれない景観的に重要な建造物の保存に大きな役割を果たしている。
[編集] 景観法制定前の取り組み
- 自主条例の制定
1950年代末には首都圏整備委員会が起草した首都景観法案が日本で初の総合的な景観法案とされているが、制定には至らず、結果としていくつかの自治体では、独自に景観保全の取組みを行っていった。
1972年の自然環境保全法施行を受けて、兵庫県は1971年に、徳島県は1972年に、自然環境保全条例を施行。1971年に京都市は市街地景観条例を施行。仙台市は1973年に「杜の都を守り育てる条例」「広瀬川の清流を守り育てる条例」とまちの個性に着目した条例を制定した(市民が昔から大切にしている都市財産を市民の協力によって守り育てようとした)。同じ年に大分県は環境緑化条例を施行した。こうした自然環境保全に関する法律はその後1993年の環境基本法にて景観が環境への取り組みへと昇華されていく。
神戸市では1978年から条例を制定し、特に重要な地域・地区を「景観計画区域」、「都市景観形成地域等」、「伝統的建造物群保存地区」などに指定し、重点的に景観誘導を図ってきた。1985年には大規模建築物等の届出制度の運用開始とあわせ景観アドバイザー制度を設けている。
広島市では、都市美の観点に立った都市づくりを推進するため、1981年に「広島市都市美計画」策定。これにしたがって「建築物等景観形成協議制度(都市美協議)」、「平和大通り沿道建築物等美観形成要綱」、「リバーフロント建築物等美観形成協議制度」、「原爆ドーム及び平和記念公園周辺建築物等美観形成要綱」、「西風新都アーバンデザイン推進要綱」といった景観協議制度を設けた。世田谷区では1980年の都市美委員会の発足から、区民と共に公共施設づくりを考えたり、職員の勉強会を行ったりしながら、アイデアを出し合い一歩一歩まちづくりを進め、その後都市デザイン室を発足させる。
都市計画法も1980年の改正により、地区計画制度が創設され、建築物の形態・意匠等を含む詳細な計画が都市計画の中に位置付けられることとなった。
こうした流れを受けて、その後の自治体では、さらに積極的に景観問題に踏み込んだ景観条例の制定が見られるようになってきた。神奈川県は1981年に文化懇話会報告『神奈川県風景づくり』という提言をまとめ、1984年になると、兵庫県では伊丹市と尼崎市、ほか北九州市が、都市景観条例を制定し、東京都も「都市美審議会」をつくり、都市美についての提言を行い、景観審議会を持つに至る。埼玉県は1979年に緑の総合対策の策定、ふるさと埼玉の緑を守る会条例を施行している。 名古屋市では、1978年に名古屋市都市景観条例と名古屋市縁化推進条例を施行。また都市景観基本計画を1987年に策定。1989年には文化財保護の観点から、都市景観重要建築物等指定物件の制度を開始した。さらに名古屋市は「デザイン都市」を宣言し、デザイン博覧会を成功させた。その後も都市景観に力を注いでいる。
1986(昭和61)年には芦原義信を座長とする「都市景観懇談会」が、「良好な都市景観の形成を目指して -都市景観は地域の共有財産、景観への配慮は都市生活のマナー-」の中で、景観の形成は上からの押し付けで行うのではなく、公の先導的役割を自覚しながらも、地域住民主体に進められるべきもの、との認識を明らかにしている。こうして1992(平成4)年の都市計画法改正による「市町村の都市計画に関する基本的な方針」、いわゆる「市町村マスタープラン」で、望ましい都市像・ビジョンを明確化とともに、景観についても都市景観形成の指針や景観形成上配慮すべき事項の方針を明らかにし、広く市町村の自主性により、景観を都市計画行政の中に根付かせるべく施策が進められることとなった。今日景観に関連する条例は全国の市町村がもっており、 景観施策を重視している市町村かなりあると推定される。 結果論であるが、中央集権的性格の強かった旧都市計画法の美観、トップダウン的な首都景観法案の頓挫は、自治体による創意工夫の名という景観施策の性格を決定付けたのである。
こうした実践の中で景観の基本計画、形成地区、形成建造物、形成市民団体、協定、審議会といった多様な仕組みが確立されたが、条例は法律上の委任規定を持たない自主条例であり、建築基準法・都市計画法の規定が優先するとされたため、各地で景観をめぐる紛争が絶えなかった。
- 建設省ほかの取組み
建設省では、1978(昭和53)年7月の「環境影響評価に関する当面の措置方針」そして事務次官通達「建設省所管事業環境影響評価技術指針(案)」発表する。これは省の所管事業について公害の発生、自然環境の破壊等環境保全上重大な支障をもたらすことのないよう十分に配慮を払うとともに、環境影響評価との調和に万全を期しつつ事業の円滑化を図るため、所管事業に関する環境影響評価実施を定めている。さらに1979年の中公審「環境影響評価のあり方について」の答申をうけ、1982年建設省都市局長通知 都市計画を決めるに際しての環境への配慮に関する当面の取扱いについて」、1984(昭和59)年8月に、政府が「環境影響評価実施要綱」(閣議決定要綱)を決定したことを受け、1985(昭和60)年には「建設省所管事業に係る環境影響評価の実施について」を定める。
さらに環境施策の一環として、地域の特性に配慮した潤いのある快適な空間の創出、を重要視し、都市景観やまちづくりについての基本理念の整理・検討、及びこれを受けての積極的な施策の拡充を行うこととなる。こうして、井上孝を座長とする「美しい国土建設を考える懇談会」は1981(昭和56)年「うるおいのあるまちづくりのための基本的考え方」を提言。3年の審議を経て、省内の建設技術開発会議環境保全技術開発部会は1985(昭和60)年「建設省所管施設間における景観整備マニュアル」をとりまとめ、「シンボルロード整備事業」を実施。1986(昭和61)年には「まちなみ景観総合整備事業」、また1987(昭和62)年に総合的な都市景観の形成を推進するための「都市景観形成モデル都市」を制度化し、施策を重点的に行う重点地区の候補地区を有する都市を都市景観形成モデル都市として指定。さらに「ふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業」を創設し、こちらもモデル地区の指定を受ける形とした。こうして指定などを受けた市町村は景観等に関するガイドプランまでをも作成し、それを基に建設省所管事業及び各種の規制・誘導方策を重点的複合的に推進することとした。つまり、景観の形成が具体的に施策として事業化されたのは、モデル都市やモデル地区といった指定地区への施策重点化が最初の始まりであった。
現在では道路・ダム・鉄道・空港や大規模開発などの事業を対象に行われる環境影響評価においては自然環境の一要素として景観が取り扱われる。またそれらの施設・構造物の設計業務委託の際、発注主体となる公共団体が「景観設計」を義務付け、設計図書に記載していることが多くみられることとなる。また河川事業では河川の正常流量、河川維持流量の決定にあたり、当該河川の代表する地点で満たす機能項目に景観があり、満たす条件は水面幅が河道幅の2割とされている。河川砂防技術基準(案)第5章 環境保全計画の基本には河川環境保全整備計画における区域の区分として、河川敷等の自然環境を保全し、または回復に努める区域や河川及び周辺の美的景観を保全する区域を提示している。河川敷等の自然環境を保全し、または回復に努める区域については通常決定する必要のある計画内容として保全すべき自然的景観を定めている。
1983年からはHousing with Proper Environment(HOPE)、つまり地域固有の環境(自然環境、資源的環境、文化的環境など)を活かした住まいづくりを目指す「地域住宅計画」という施策を打ち出す。当初は3年から5年程度の時限付きの補助事業であったが各地方でひろまり、結果平成6年度からは地方公共団体が策定する住宅マスタープランの中の「地域の住文化等に係る住宅供給に係る事項」として位置づけられることとなる。こうした住宅改善から町並み等の地域景観整備までをも視野に入れた施策は元は1960年に住宅地区改良事業があり、そのモデル版である1978年の住環境整備モデル事業がある。これの発展系として1988年からの街なみ整備促進事業で、現在では良好な景観保全まで目標を広げた街並み環境整備の事業として現在に至っている。
1984(昭和59)年11月「美しい国土建設を考えるために -景観形成の理念と方向-」においては、「景観は国土を基盤としてその上に人間の営為が積み重ねられ統合化された、“自然と人間との合作による環境の眺め”であり、その時代・民族・地域の文化を反映している」とした上で、「今後の住宅・社会資本整備に当たっては、安全、快適で活力ある経済社会を築くための基本的機能を確保するとともに、美しい景観形成への配慮を合わせ行う総合的かつ長期的な考え方に立った施策の推進が必要である」と提言し、1991(平成3)年 「シビックデザイン導入手法に関する調査」(建設省技術調査室)においては、美しい景観やデザインのまちをつくるための技術的な課題に対する対応方法を提供。2003年からの美しい国づくりのための施策ではさらに「公共事業における景観アセスメント(景観評価)システムを確立」するため、「国土交通省所管公共事業における景観評価の基本方針(案)」を策定。アセスメントは各地方整備局で景観アドバイザー、さらに選任担当官と事業景観係を設置、景観生成事業推進費の創設から2005(平成17)年4月の「道路デザイン指針(案)」、2006(平成18)年の「港湾景観形成ガイドライン」など、公共土木施設に関しての各種施策を策定するに至る。
その一方1987年に景観材料協議会、1988年には全国景観会議が設立されている。1989年には官民一体となった専門の調査研究機関として、「財団法人都市づくりパブリックデザインセンター」を設立。都市景観に対する国民の意識啓発を目的として、1990年に毎年10月4日を「都市景観の日」に定め、同センターと国土交通省とで「都市景観100選」を選定し表彰してきた。現在「100選」は終了したため平成13年度より 「美しいまちなみ賞」 として衣替えし、日本全国からの応募をもとに「都市景観の日」に都市景観大賞 「美しいまちなみ大賞」 「美しいまちなみ優秀賞」 「美しいまちなみ特別賞」の表彰を行なっている。
農村景観の育成という取り組みとしては1987年制定の集落地域整備法で、都市計画区域内という限定ではあるが可能となり、1999年改正の食料・農業・農村の各基本法で農村整備の基本方針が明示されるに至る。
建設省では1993年には景観整備事業をスタートさせたが、同時に土木学会の景観に関する学術研究者と土木事業系の民間企業が集まって景観デザイン研究会を発足させている。またこの時期道路局の1995年創設のくらしのみちづくり事業のほか、農林水産省が1992年創設の美しいむらづくり推進事業、運輸省が1991年創設の港湾景観形成モデル事業、国土庁が1994年創設のラーバン・リゾート事業など、景観形成を正面に捉えた施策が他省庁でも施行されている。 1994年の街並み・まちづくり支援事業では他事業とセットで進める「メニュー補助方式」を導入し街の景観形成を支援していった。
1998年6月には「うるおいのあるまちづくりのための基本的考え方」という小冊子を再び発表するが、このなかで、「まちづくりに対する国民の関心が安全、健康などの生活上の基本的な要求から、うるおいのある人間関係、豊かな自然、美しい景観、ゆとりのある空間、文化や伝統などに対する要求まで高度化、多様化している」と述べている。これは数年来各地で進められてきた町づくりの動向に対して、建設省としての姿勢をあらわしたものとみることができる。この町づくりの動向は、各地でそれぞれの工夫をこらしながら「文化的町づくり」とか、「快適な都市環境のデザイン」とかいったスローガンで、環境整備が進められてきていることをさしている。「公共施設への1パーセントのデザイン付加」という事業もこの事例にあげることができる。
こうして建設省ほか官公庁が景観事業に乗りだすことによって全国的に景観行政が普及し都市景観に関する啓蒙普及は進むこととなるほか、全国の市町村でも都市景観に関する条例制定、 あるいは景観形成に関するマスタープランを持つ等の推進が図られていく。 都市景観行政も市民受けする施策の一つになり、地方公共団体のなかに「新しい都市景観の形成」に積極的に取り組む団体がふえることとなった。
後に建設省は国土交通省に再編されてからは、総合政策局政策課都市・地域整備局都市計画課に景観室を設置するに至る。
[編集] 景観法の制定まで
1980年頃から景観を保全するための条例(自主条例)を制定する自治体が多くなってきたのは前述の通りだが、背景の一つには各地で繰り返された高層マンション建設をめぐる紛争があった(前述の絶対高さ制限の撤廃も大きな要因である)。周囲がほとんど低層の一戸建ての区域に高層マンションの建設が計画されると、日照権などを巡る紛争になる場合が多い。こうした紛争は各地で起こってきたが、その中でも東京・国立市のマンション建設を巡る紛争は全国的にも話題になった。国立市では景観条例を制定し、行政指導により大学通りの景観を守ろうとしていたが、マンション事業者は2000年に14階建(44m)の建築に着工し、住民、市、事業者が裁判で争うことになった(国立マンション訴訟)。
2003年時点で、27都道府県、450市町村が景観に関する自主条例を制定していた。しかし法律の委任規定のない自主条例では、建築基準法や都市計画法より厳しい制限を設けることはできないため、国の立法措置が求められることになった。高度成長の時代、急激な都市化の時代は終わり、良好な景観に対する関心が高まってきたことを背景に、2003年(平成15年)、国土交通省では「美しい国づくり政策大綱」、農林水産省では「水と緑の『美の里』プラン21」を策定、これを法的に裏付けるため、2004年(平成16年)「景観法」(景観緑三法)が6月11日に成立、同月18日に公布され、同年12月17日に一部施行、平成17年6月1日に全面施行された。
同法には「美しく風格のある国土の形成、潤いのある豊かな生活環境の創造及び個性的で活力ある地域社会の実現」が目的に挙げられている(第1条)。基本理念で、良好な景観は国民共通の資産として整備・保全が図られなければならず、その形成については地方公共団体、事業者及び住民による一体となった取組が展開されなければならないこと、国は、基本理念に対する国民の理解を深めるよう良好な景観の形成に関する啓発に努めなければならないことを、定めたのである。
ただし景観法自体は具体的な規制を行うものではない。規制を行うには、自治体、景観行政団体が景観計画などを定める必要がある。
なお、景観法の全面施行日である平成17年6月1日に良好な景観形成を国民運動として展開する契機とするため開催された「日本の景観を良くする国民大会」の大会決議で、「毎年6月1日を景観の日とし、引き続き美しく風格ある景観づくりを国民運動として推進する」ことが提唱され、景観法を所管する国土交通省、農林水産省及び環境省は、景観法の基本理念の普及、良好な景観形成に関する国民の意識啓発を目的に、新たに6月1日を「景観の日」と定めた。
[編集] 景観を巡り議論となった事例
- 奈良帝国博物館(現奈良国立博物館本館)
- 古都奈良に建った洋館は理解しがたいものだったようで、後に奈良県庁舎、奈良県物産陳列所などの秀作を生み出し、奈良公園周辺においては景観規制がなされることとなる。
- 皇居周辺の美観を損なうとして都市美協会が反対したため、望楼が短縮された。
- 丸の内で初の超高層ビル・東京海上ビル(前川國男設計)を巡る論争。1966年に計画が発表され、1974年に竣工。
- イタリア人建築家ガエ・アウレンティ設計。外壁に使われている派手な赤い色彩が物議をかもしている。
- 公共の色彩を考える会
- 渡辺恒雄氏一喝「赤は趣味悪い」 伊文化会館壁問題 2007年2月3日 産経新聞
- 赤い色は景観乱す? 行ってみた伊文化会館 2007/02/05 インターネット新聞「JANJAN」
- 真鶴町美の条例問題
[編集] 景観の経済効果
日本では1950年に国際観光文化都市の制度を設けているが、観光地の中には伝統的な建物の再生や、電線の地中化などにより街並みを整備している動きが見られる。景観を良くすることにより観光客が増加するという経済効果を挙げている地域もある。
- 例
- 長浜市 - 黒壁ガラス館を中心に街並みを整備
- 伊勢市 - 伊勢神宮の門前町でおかげ横丁を中心に街並みを修復
- 小布施町 -後に小布施方式と呼ばれる土地再編方式で修景事業を実施。
- 倉敷市 - 見る景観を一角に限定して徹底して演出することによって、観光都市倉敷というイメージをつくりだしている。
- 湯布院 -初めは一帯の高原が開発され景観が一変することへの反対から地域づくり活動が始まっている。
- 臼杵市 - 歴史のある古い建物を、利用法が見つかるまで残して置く「待ち残し」
- 川越市 - 蔵造りの街並みを保全
また宮崎県では、地元の宮崎交通社長の岩切章太郎の提唱で、フェニックスやワシントニア・パームという椰子の仲間の植物を植え、宮崎を異国情緒を含んだ南国的な景観にして観光地として発展させる努力が行われている。1969年に宮崎県沿道修景美化条例を施行。
[編集] その他
旧西ドイツでは1961年以降隔年毎に「わが村は美しく」コンテストが開催されている。日本でも1992年から「美しい日本のむら景観コンテスト(美しい日本のむら景観百選)」を農林水産省と日本農村振興協会により行われ出している。ドイツではマスタープラン項目の3番目が景観基本計画と位置づけている。昭和61年度からは建設省では「手づくり郷土賞」、国土庁は「農村アメニティー」コンクール、(財)明目の日本を創る協会は「ふるさとづくり奨励賞」を創設している。JA東京中央会では平成9年度から、それまでの写真コンテストを発展させ「東京「農」の風景・景観コンテスト」を実施。2005年に特定非営利活動法人日本都市計画家協会(JSURP:ジェイサープ)は、「ルーフスケープ(屋根景観)コンテスト」を実施している。
[編集] 脚注
- ^ 第一種住居専用地域(第一種・第二種低層住居専用地域)では10mまたは12mの高さ制限とされた。また、京都市など、都市計画法の高度地区により絶対高さ制限を設けた自治体もあるが、多くの自治体では絶対高さ制限はなくなった
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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