御堂筋
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御堂筋(みどうすじ)は、大阪府大阪市の中心部を南北に縦断する国道である。現代の大阪市の都心部は御堂筋を中心に形成されている。
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[編集] 概要
- 名前は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(難波別院)が沿道にあることに由来する。
- 全長4,027メートル、幅43.6メートル、全6車線の幹線道路で、日本の道100選のひとつ。交通量が増加したため1970年から国道1号・国道2号と交差する梅田新道交差点より南の全車線が南行きの一方通行となっている。
- 沿道には約887本のイチョウが植えられており、毎年10月には御堂筋パレードが行われる。
- 平日の昼12時間の交通量は、自動車28,000-38,000台、歩行者10,000-26,000人となっている[1]。
- 御堂筋周辺の建物は高さ百尺(約30.3m)までに制限されたため、ビルの高さが揃った整然とした景観がつくられた。これは、都市政策論の学者でもあった關一が、パリをはじめとするヨーロッパの都市を模範としたと考えられている。また、工事の莫大な費用を賄うため受益者負担金制度をとり、周辺住民・商店との摩擦もあった。1969年に建築基準法が改正され、規制が容積制になったため、以降は大阪市が高さを指導してきた。大阪市は、1995年から御堂筋に面する外壁の高さが50m、10m後方部分が60mと指導。2007年2月から、一部の地区で1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さ制限が140mに緩和されている。
- 2006年6月の改正道路交通法により導入された民間駐車監視員制度・放置違反金制度で、全線が最重要路線に指定された結果、沿線の放置車両が劇的に減少した。
- 大阪市が2007年4月に路上喫煙禁止条例を施行したのに伴い、7月に過料1,000円を徴収する喫煙禁止区域に御堂筋の車道と歩道が指定されることが正式決定され、10月より施行された。
[編集] 路線データ
[編集] 歴史
- 江戸時代以来、「淀屋橋筋」と言われていた頃の道幅は6mほどだった。その後、大阪市助役から市長となった關一の計画で、1926年(大正15年)から1937年(昭和12年)まで地下鉄建設と合わせて総工費約3,380万円をかけて拡張工事が行われ、1937年5月11日に完成し、ほぼ現在の姿となった[3]。この工事の影響で北御堂が移動し、南御堂とともに沿道に並ぶ形になったため「御堂筋」と名付けられた。なお淀屋橋交差点以北は1908年(明治41年)に完成した梅田新道が母体となっている。
[編集] 地理
北区
- 日本銀行大阪支店旧館(設計:辰野金吾、葛西万司、長野宇平治)
- 淀屋橋(設計:大谷龍雄(原案)、武田五一・元良勲)
中央区
- 日本生命本社ビル(1935年築、設計:長谷部鋭吉)
- 大阪ガスビルディング(設計:安井武雄)
- 大丸心斎橋店(設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ)
- 新歌舞伎座(設計:村野藤吾)
- 南海ビル(髙島屋大阪店、1930年~1932年築、設計:久野節)
[編集] 道路施設
[編集] 交差する道路
交差する道路 西←<御堂筋>→東 |
交差点 | |||
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国道176号(十三方面) | ||||
市道南北線 | 市道大阪環状線※ <扇町通> |
阪神前 | 大阪府 大阪市 | 北区 |
<曽根崎通> 国道2号 |
<曽根崎通> 国道1号(重複=国道163号) |
梅田新道 | ||
<新御堂筋> 国道423号 |
梅新南 | |||
<中之島通> | 大江橋南詰 | |||
<土佐堀通> | <土佐堀通> 府道168号石切大阪線 |
淀屋橋 | 中央区 | |
<本町通> 国道172号 |
<本町通> | 本町3 | ||
<中央大通> 市道築港深江線 |
船場中央3 久太郎町3 |
|||
<長堀通> 府道173号大阪八尾線 |
<長堀通> 国道308号 (重複=府道173号大阪八尾線) |
新橋 | ||
<千日前通> 市道難波境川線 |
<千日前通> 府道702号大阪枚岡奈良線 |
難波 | ||
国道25号(重複=国道26号・国道165号、大国方面) |
※御堂筋からは右折禁止のため、進入は不可。
[編集] 公共交通機関
[編集] 地域
キタ: 大阪駅前(梅田)→梅田新道(梅新)→大江橋→中之島(大阪市役所・日銀大阪支店)→淀屋橋(橋)→
船場: 淀屋橋(北浜・高麗橋・道修町)→本町(北御堂)→船場中央(船場センタービル)→南御堂→南船場→
ミナミ: 新橋交差点(長堀通)→心斎橋(そごう・大丸両本店)→道頓堀橋→難波(千日前通)→南海難波(高島屋本店)
[編集] 歌曲
- 雨の御堂筋 ─ 欧陽菲菲
- 大阪ロマネスク ─ 関ジャニ∞
- たそがれの御堂筋 ─ 坂本スミ子
- 大阪ラプソディー ─ 海原千里・万里
- 御堂筋BLUE ─ 松本孝弘
- 御堂筋PLANET ─ 矢井田瞳(2006年)
- 恋する御堂筋 ─ 江本孟紀・入江マチ子
- 大阪LOVER ─ ドリームズ・カム・トゥルー
[編集] その他
- 記録上、御堂筋の名が初めて現れるのは1615年(元和元年)、大坂夏の陣の落人狩りなどを記録した徳島藩の「大坂濫妨人落人改之帳」の中で、捕らえられた男女のうち、男1人の居場所として「大坂御堂筋」と記されているのが最初である。
- 「御堂筋」をつける銀行支店のうち、三菱東京UFJ銀行(旧UFJ銀行)の御堂筋支店は入金照合サービスの仮想口座で使用する被振込専用支店のため、実際には存在しない。
- 1959年に南海ホークスが日本一を達成した時に御堂筋でパレードを行ったが、その時の見物客は40万人といわれている。また、2003年11月3日、に阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝した時の優勝パレードの動員数も、雨にもかかわらず40万人に達した(神戸では25万人)。その2年後の2005年11月6日に行われた阪神タイガースの優勝パレードの動員数は18万人だった。
- 2006年9月3-9日 大阪フィルハーモニー交響楽団の大植英次音楽監督のプロデュースにより、大阪フィルハーモニー協会と大阪市の主催で、「大阪クラシック-御堂筋にあふれる音楽-」の企画公演が展開された。期間中、御堂筋ぞいの18の会場において、大阪フィルハーモニー交響楽団の団員による室内楽など計50公演が行われた。大植音楽監督によれば、1つのオーケストラの団員が1週間にわたって「街に出て」公演を行うというのは「僕の知る限りおそらく世界の都市で初めての試み」。大阪を象徴する御堂筋で、1週間にわたってクラシック音楽の本格的な公演が行われたことは、しばしば叫ばれている「大阪市の都市格向上」にも大いに貢献した。
[編集] ギャラリー
梅田新道交差点東南角のフェニックスタワー |
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[編集] 参考文献
- 神戸大学附属図書館 戦前期新聞記事文庫
- 大阪市の交通難 いたるところに親不知の難所(大阪毎日新聞 1927.6.28(昭和2))
- 大阪市高速度鉄道愈々今月から起工(大阪毎日新聞 1930.3.1(昭和5))
- デパートと地下鉄の紛糾オッぱじまる(大阪朝日新聞 1933.10.2(昭和8))
[編集] 脚注
- ^ 御堂筋の交通量の情報 (大阪国道事務所)
- ^ 国道26号と国道165号の重複区間。
- ^ 当時としてはあまりにも幅がありすぎる道路形成になったため、一部から「街の真ん中に飛行場でも作る気か?」などと言われた。しかし、こういう意見に対し關一は「将来必ず役に立つことだから」と、工事を断行し、そう言った意見には耳を貸さなかった。