阪神タイガース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪神タイガース(はんしんタイガース、HANSHIN Tigers)は、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。運営法人は阪急阪神東宝グループの系列下である。兵庫県を保護地域とし、同県西宮市にある阪神甲子園球場を専用球場(本拠地)としている。二軍(ウエスタン・リーグ)の本拠地は同市にある阪神鳴尾浜球場。
2005・2006・2007年度ペナントレースでの観客動員実数は12球団中で唯一300万人を超える。なお、英語の「Tigers」の発音は「タイガーズ」の表記のほうが近いが、球団の正式名称は日本語の固有名詞なので、あくまで「タイガース」である。
チーム名 | 阪神タイガース |
---|---|
会社名 | 株式会社阪神タイガース |
加盟団体 | セントラル・リーグ(一軍)、ウエスタン・リーグ(二軍) |
創設年度 | 1935年(一軍)、1950年(二軍) |
チーム名の遍歴 | (一軍) 大阪タイガース(1935年 - 1940年途中) →阪神軍(1940年途中 - 1944年) →大阪タイガース(1946年 - 1960年) →阪神タイガース(1961年 - ) (二軍) 大阪タイガース(1950年 - 1953年) →阪神ジャガース(1954年 - 1956年) →阪神タイガース(1957年 - ) |
フランチャイズの遍歴 | 兵庫県(1952年 - 2004年)→兵庫県・大阪府(2005年 - 2007年)→兵庫県(2008年 - ) |
本拠地 | 阪神甲子園球場(本拠地) 阪神鳴尾浜球場(2軍本拠地) |
収容人員 | 50454人 |
オーナー | 宮崎恒彰 |
運営母体 | 阪急阪神ホールディングス (阪神電気鉄道配下) |
監督 | 岡田彰布 |
タイトル | リーグ戦:5回、日本シリーズ:1回 |
優勝年度 | (リーグ戦)1962、1964、1985、2003、2005 (日本シリーズ)1985 |
クライマックスシリーズ | 1回 - 0勝1敗(太字は勝利した年) 2007 |
種類 | 株式会社 |
---|---|
市場情報 | 非上場
|
略称 | 阪神、タイガース |
本社所在地 | 〒663-8151 兵庫県西宮市甲子園町2-33 |
設立 | 1935年12月10日(大阪タイガースとして) |
業種 | サービス業 |
事業内容 | プロ野球興行 |
代表者 | オーナー 宮崎恒彰 社長 南信男 |
主要株主 | 阪神電気鉄道 |
外部リンク | 阪神タイガース |
特記事項:1935年に大阪タイガースとして創立。1961年に社名を阪神タイガースに変更 | |
目次 |
[編集] 球団の歴史
「球団の歴史」については、阪神タイガースヒストリーも参照
[編集] 戦前期
1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになった。
1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。
翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等とともに日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。
1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかった。しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨んだが、タイガースはいずれも1位を逃した。
1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。
戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となった。
1940年9月、戦局悪化によって敵性語である英語の使用禁止を受け、球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
[編集] 戦後期(1946年 - 1959年)
戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(参照)。
1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、「ミスタータイガース」と称された。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。
1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。さらに遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、ダイナマイト打線は崩壊した。
セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。
一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。
[編集] 2度のリーグ制覇(1960年代)
フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰がシーズン中に監督を解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義(当時ヘッドコーチ)が監督に就任した。
1962年、藤本の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)と対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる。なお、シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更された。
1964年、エース小山と大毎オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)の4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズ(現:横浜ベイスターズ)があと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。
[編集] 迷走から日本一へ(1970年 - 1985年)
1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、優勝には手が届かなかった(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。
1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。
1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。1977年も序盤は好調だったが、中日戦での負け越し(8勝18敗)が大きく響いて、4位に。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。
1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
1979年以降、ドン・ブレイザー、中西太、安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は低迷が続いた。
1985年、吉田が監督に復帰。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(これは2004年に巨人に破られるまでのセ・リーグ記録)。また中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をして、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。また、日本シリーズで、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手 (MVP) となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠王を獲得した。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークした。なお、この年の8月12日に発生した日航機墜落事故で、阪神球団社長(当時)であった中埜肇が死去した。
[編集] 低迷期(1986年 - 2001年)
1986年、掛布の骨折と主軸投手池田親興の負傷による長期戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位。1987年はシーズン最下位となり、吉田は監督を辞任した。
1988年、村山実が監督に復帰。「少年隊」トリオと呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、掛布の引退などが重なり2年連続最下位。1989年、新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から監督問題が浮上し村山は監督を辞任した。
1990年、中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調であったが、投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団、規定投球回数に達したのは5勝11敗の猪俣隆と4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。1991年、開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、結局2年連続の最下位となった。後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。91年オフ、たけし軍団に敗れる。
1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両外野手(亀新フィーバー)に加えて、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らが活躍。甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も奮起し、ヤクルトスワローズと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。
1993年、主力選手の故障に加え、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、昨年絶好調だった投手陣が崩壊し、4位に終わった。なお、この年に野田浩司と交換トレードで獲得した松永浩美がFAを宣言して福岡ダイエーホークスへ移籍した。1994年、FAでオリックスから石嶺和彦を獲得。新人の藪恵壹、オリックスから移籍の古溝克之が活躍しシーズン後半まで首位争いに加わったが、終盤の7連敗により2年連続の4位。同年オフ、長打力不足などを理由にオマリーを解雇した。1995年、FAでオリックスから山沖之彦を獲得。開幕から和田豊、石嶺和彦といった日本人打者の不振もあって極度な成績低迷が続き、中村がシーズン途中で監督を辞任。藤田平が監督代行で指揮を取るも4年ぶりの最下位に終わった
1996年、藤田が正式に監督へ就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、チームは開幕から低迷、5月終了時点で借金15と、早期にペナントレースから脱落し、最終的には2年連続最下位となった。新庄や主力選手との確執により、藤田がシーズン途中で監督を辞任。
1997年、吉田が監督に再復帰し、中盤まで上位を狙える位置にいたが、マイク・グリーンウェルの途中退団、新庄剛志ら主力選手の不振により失速し、5位に終わった。オフに久慈照嘉・関川浩一を中日へ放出し、大豊泰昭・矢野輝弘を中日から獲得。1998年、新人の坪井智哉が奮闘したものの、アロンゾ・パウエル、大豊泰昭といった主力打者が不振。8月に球団ワースト記録となる12連敗を喫し2年ぶりの最下位となり、シーズン後に吉田は監督を辞任した。
1999年、前ヤクルト監督の野村克也が監督に就任。6月には一時首位に立ったが、先発投手陣の不振から徐々に失速、最下位に終わった。2000年、4月に9連勝し首位に立ち、5月には近鉄からトレードで吉田剛・西川慎一を獲得し、吉田がいぶし銀の活躍を見せ、更には新庄剛志が自己最高の28本塁打を放ったが、結果は3年連続の最下位。オフに新庄剛志がニューヨーク・メッツにFAで移籍した。2001年、井川慶が防御率2位の活躍、濱中治の台頭、赤星憲広が盗塁王・新人王を獲得したが、イバン・クルーズら外国人打者の期待外れもあり球団創設以来初の4年連続の最下位。野村は、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、沙知代夫人の脱税の責任を取って、監督を辞任した。
[編集] 猛虎復活(2002年 - )
- 2002年
2001年オフ、前中日監督の星野仙一が監督に就任。日本ハムからFAで片岡篤史を獲得。2002年は開幕7連勝と好スタートを切って優勝争いに絡んだが、夏場以降巨人に圧倒され4位であった。オフに、所属選手の解雇やトレードを断行した一方、元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝を獲得、日本ハムから下柳剛や野口寿浩らをトレードで獲得した。また、広島から金本知憲をFAで獲得した。
開幕より快進撃を続け、7月中に優勝マジックが点灯し、18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと戦い、第7戦までもつれ込んだものの3勝4敗で敗れた。日本シリーズ終了後に星野は体調不良を理由に監督を退任した。なお、星野によって招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一と達川光男、西本聖は退団した。
- 2004年
岡田彰布が監督に就任。1年目の2004年は片岡篤史ら主力選手の不振、更に藤本敦士、安藤優也、ジェフ・ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位。
- 2005年
「JFK」(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之)や「SHE」(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴)などの救援陣の活躍や、アンディ・シーツ、金本、今岡によるクリーンナップの安定した成績で、同年導入された交流戦で好成績を収めて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなく5度目のリーグ優勝を飾った。千葉ロッテとの日本シリーズは0勝4敗で敗退した。
シーズンの最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝を飾るも、今岡誠の不振と負傷、久保田智之の負傷など、主力選手の不振が響いて2位となった。だが1985年(首位) - 1986年(3位)以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成。2005年から実施された実数での観客動員数も2年連続300万人を超えた(1試合平均観客動員数は12球団一の4万3千人台)。シーズンオフに井川慶がポスティングシステムによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍。
シーズンは先発・打撃陣の不振で4月から5月にかけて9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷。最大借金9を抱える。しかしリーグ戦再開後は、打撃陣が挙げた少ない点数をJFKを筆頭とした中継ぎ陣で守り抜く守りの野球により、7月の上位の巨人・中日との13戦を10勝3敗で切り抜け、7月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越すと、シーズン終盤には10連勝し、一時首位に立つ。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、先発陣・打撃陣ともに不振に陥り、8連敗を喫するなど再び低迷し、最終的には3位に終わった。クライマックスシリーズ第1ステージではリーグ2位の中日と対戦。1戦目・2戦目ともに初回の大量失点と打撃陣の不振が響き、2連敗を喫した。この年は、2003年のオリックス・ブルーウェーブ以来4年ぶりに規定投球回数到達者なしという事態に陥った。それに、先発陣の完投数も12球団最少の3であり、完投したのは杉山直久、能見篤史、上園啓史の三人だけであった。一方、打率・得点も12球団最低であった。先発・打撃陣とも過去2年に比べ不調の目立つシーズンだったが、林威助・桜井広大・上園啓史・狩野恵輔・渡辺亮・庄田隆弘・坂克彦といった若手の台頭も目立ち、3年連続のAクラス達成と共に観客動員数も3年連続で300万人を突破した。なお、このシーズンは土壇場の9回に同点に追いつき勝利したり、敗色濃厚な試合を大逆転し、勝利するなど劇的な勝利が多かった。この年のオフは、中村泰広、濱中治、吉野誠、赤松真人をトレードならびにFAの人的補償で放出し、広島からFA宣言した新井貴浩、トレードで金村暁、平野恵一、阿部健太を獲得するなど積極的な補強を行った。
5月6日、対巨人戦で勝利し、巨人に次いで史上2球団目の球団通算4500勝を達成。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 5回 (1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
- 日本一 1回 (1985年)
- Aクラス 43回 (1937春 - 1940年、1942年 - 1948年、1951年 - 1960年、1962年 - 1970年、1972年、1973年、1975年、1976年、1981年、1982年、1985年、1986年、1992年、2003年、2005年 - 2007年)
- Bクラス 28回 (1941年、1949年、1950年、1961年、1971年、1974年、1977年 - 1980年、1983年、1984年、1987年 - 1991年、1993年 - 2002年、2004年)
- 最多勝利 87勝 (2003年、2005年)
- 最多敗戦 84敗 (1995年)
- 最多引分 13分 (1976年)
- 最高勝率 .829 (1938年春)
- 最低勝率 .331 (1987年)
- 最多連勝 14連勝 (1937年、1946年)
- 最多連敗 12連敗 (1998年、1999年)
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム (1937年春、1973年)
- 最大ゲーム差 37.5ゲーム (1987年)
- 最多本塁打 219本 (1985年)
- 最少本塁打 1本 (1944年)
- 最高打率 .345 (1936年夏)
- 最低打率 .197 (1941年)
- 最高防御率 1.53 (1944年)
- 最低防御率 4.79 (1978年)
[編集] チーム特徴
[編集] 球団名称
ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。松原は大阪の姉妹都市であるデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしてこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を発音すると「タイガーズ」のほうがより近いが、正式名称は片仮名表記であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的であった。その後「タイガース」の名は、戦争中の英語が使用出来なかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、2005年に復活した「イーグルス」を除けば、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。
球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄であることと、本拠地である甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置していることとの2つの意味をあわせもった球団名である。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急、南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
球団名を一文字で表記する時は一般的に「神」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるところだが、かつて阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。
[編集] 六甲おろし
球団歌は『阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。歌詞の冒頭をとって六甲おろし(ろっこうおろし)と呼ばれる。
『阪神タイガースの歌』は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』として作られたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞の中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、球団名を改めた後もそのまま残った。
詳細は阪神タイガースの歌を参照
[編集] 試合開催地について
[編集] 歴代本拠地
詳細は阪神甲子園球場を参照
ホームゲームでは大部分の試合で本拠地である阪神甲子園球場を使う。現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。元々は高校野球開催など、多目的にスポーツ行事で使用することを目的として造られた球場であった。
1948年のフランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場、西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。また、フランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合もあった。また、大阪ドーム(2006年7月1日より「京セラドーム大阪」)でも1997年の開場から主催試合を行っているが、2005年から2007年までの3年間は野球協約上の保護地域が大阪府にも暫定拡大したことから公式な準本拠地として使用していた。(ダブルフランチャイズ前後の2004年までと2008年も高校野球シーズンを中心に3カード・10試合程度を大阪(京セラ)ドームで開催している)甲子園球場以外での主催試合も主に関西を中心とした西日本で開催されることが特徴である。
大阪ドーム開場以前は、1988 - 1990年にはグリーンスタジアム神戸、1991 - 1996年には西宮球場で年間数試合が行われた。
現在では、大阪ドームの他に倉敷マスカットスタジアムや松山坊っちゃんスタジアム(2007年は主催試合なし)で年1 - 2試合程度主催試合を行う。以前は西京極球場でも毎年1試合を行っていたが、2005年(西武戦)を最後に主催試合がない。2006年は1試合を予定していたが甲子園球場に振りかえ、2007年はオープン戦すら行っていない。
2005 - 2007年は、兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併したことによるダブルフランチャイズ問題の暫定処置として、大阪ドーム(2006年7月1日から「京セラドーム大阪」に変更)を準本拠地として使用することが認められていた。このため、高校野球で阪神甲子園球場が使えない時期などには、大阪ドーム(京セラドーム大阪)で主催試合を行う。もっとも、この問題とは別にドーム開場年から毎年使用実績がある。
2軍の本拠地は阪神鳴尾浜球場を使用している。阪神甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、二軍の選手も一軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から一軍本拠地に行くことができ、非常に利便性が高い。12球団の中でも一軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は埼玉西武ライオンズの次に短く、互いの球場を徒歩で行き来出来るのも12球団の中では阪神と西武の2球団のみである。
[編集] 前年Aクラス時の開幕戦
甲子園球場は高校野球の開催地でもあるため、タイガースは、前年(2003年以降は前々年)Aクラスに入り本拠地開幕権を得ても、選抜高等学校野球大会開催のため甲子園で開幕戦を迎えることができない。
選抜高校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セントラル・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。従ってこの間に第1節が設定されてしまうと地元開催ができなくなるわけで、実際に選抜が行われている時期に第1節が設定されると開幕を地元で迎えられなくなる。そのような場合の対処法として、以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降、大阪ドームで開幕戦を行った2005年以前に絞る。なお2002年はFIFAワールドカップ日韓大会対策の特例処置だったが、阪神はビジター開幕。2003年以後、新シーズン開幕のホーム開催権利は2年前のリーグ戦上位3球団に与えられる)。
- 前年Bクラスチームの本拠地で開幕を迎える
- 前年Aクラスチームの本拠地で開幕を迎える
- 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
- 地方球場でのビジター試合で開幕戦を迎える
こういう事態が考えられるから、かつては連盟が阪神に配慮して第1節を選抜開幕前、もしくは終了後に設定したというケースがあったが、開幕前は1956年のみ(対戦相手は広島)で、それ以外のケースはすべて終了後。すなわち配慮を得られない限り阪神の地元開幕は無理であった。
2005年・2007年・2008年の開幕シリーズは大阪ドーム(京セラドーム大阪)で開催されたが、その後はオリックス・バファローズの専用球場使用権の関係もあり、本来のフランチャイズ・兵庫県の神戸総合運動公園野球場(スカイマークスタジアム)で開催の可能性もありえる。ただ、一方でオリックス側が、大阪ドームの観客動員数の伸び悩みなどの理由から兵庫県もフランチャイズを希望しており、阪神側に打診。阪神側がオリックスの打診を受け入れ大阪府もフランチャイズすれば、今後も大阪ドームでの開催の可能性もある。(オリックス・バファローズ#営業・ファンサービス参照のこと。)
[編集] 選手・監督の起用に関する特徴
プロ野球ドラフト会議においては、長期的視野を要する高校生よりも大学生、社会人選手を進んで取る傾向にあり、逆指名制度、自由獲得枠、希望選手枠といった即戦力を獲得するための制度を最も積極的に使っている。しかし、2004年ドラフト会議において指名した辻本賢人はドラフト会議史上最年少の15歳であった。
監督はチームの生え抜き選手が就任することが多い。しかし、優勝から遠ざかっていた1960年代には藤本定義が、低迷が続いた後の1999年以降は野村克也、星野仙一といった他球団で実績を残した人材を起用したことにより、両時期とも低迷を脱した。
[編集] 球団マスコット
球団マスコットは次の2つである。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。初期のトラッキーには初登場の年を表す背番号「1985」があったが、背中には名前だけを書くようになり、「1985」は胸番号に移行した。だが2007年、ユニフォームの大幅モデルチェンジを期に背番号「1985」が復活した。なお、親会社の阪神電気鉄道およびその関連企業のマスコットとしても使われている。
- トラッキー(TO-LUCKY) - 背番号1985
- ラッキー(LUCKY) - 背番号なし(2006年までは初登場の年を表す胸番号「1994」があったが、2007年のユニフォームの大幅モデルチェンジを期に現在はなくなっている)。
[編集] 球団旗
球団旗は、結成当初から黒と黄色の横縞に、左上に赤い丸で囲まれた猛虎のマークが使われている。1984年に虎のイラストと丸の大きさが変更され、「HANSHIN Tigers」の球団ロゴが付け加えられるというマイナーチェンジが施されただけである。しかし、版権という概念が確立されていなかった1960年代には他球団も含めていい加減な扱われ方をされており、正面を向いた猛虎のイラストが黄色い丸で囲まれた球団旗も当時出版された選手名鑑などで見受けられる。また、ホーム用ユニフォームの胸に描かれる"Tigers"の書体も、1960年に細部が変更されたのみで創設以来一貫して使用され続けている。一時期、球団旗の虎が現在の横向きではなく、正面を向いている球団旗も存在した。
[編集] 関西密着
セントラル・リーグでは唯一の関西の球団である。1リーグ時代には南海ホークス、阪急ブレーブスなども関西の人気チームであったが、2リーグ分立後は読売ジャイアンツの試合は常にテレビ中継が行われるようになり、同一リーグのために日本シリーズや交流戦以外でも巨人と対戦するタイガースは自ずとマスコミへの露出が関西の他球団より突出して多くなり、さらに1969年に開局したサンテレビが開局直後から局の目玉として阪神戦の完全中継サンテレビボックス席の放送を開始。兵庫県だけでなく周辺の大阪府等でも広い全域で受信できるために、関西に広く人気を集めるようになった。そのため、読売新聞系の「スポーツ報知」を除く関西版のスポーツ新聞の1面を飾ることが多い。タイガースの公式イヤーブック(球団発行)でもスポーツ新聞の広告で唯一スポーツ報知だけは除外されている。(読売系列のテレビ放送局・讀賣テレビ放送の広告は掲載されている)
1985年10月16日に関西テレビ放送が放映した明治神宮野球場でのヤクルト戦(21年ぶりの優勝が決まった試合)の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率である。
[編集] 球団の伝統
時代に合わせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、各節で前述した通り、タイガースは常に伝統を重んじるとして大きな変更が行われないのが伝統となっている[要出典]。
また、プロ野球最初の公式リーグ戦である1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加しており、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体が変わらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。テレビ中継などでは阪神巨人戦は「伝統の一戦」と紹介される。
幾つかの特有の伝統行事も持つ。代表的なものとして、タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に広田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。また、現在では、開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝することも伝統行事となっている。
[編集] 阪神ファン・応援スタイル
阪神ファンを参照
[編集] ユニフォームの変遷
「ユニフォームの変遷」については、ユニフォーム物語も参照
- 1936年 - 1940年 球団創設時は「Tigers」2種類、「OSAKA」1種類のユニフォームを使用。縞帽子はこの頃から登場している。ロゴは黒で縁取りは黄色。
- 1940年 - 1944年 軍部の指導によりロゴを漢字の「阪神」(左胸に縦書き)に変更。1944年からは国防色の採用が義務付けられ、グレーの縦縞が廃止される。ホーム用はラインを廃止(袖の猛虎マークは消滅しなかったが戦後に入ってからいったん消滅している)。
- 1945年 - 1948年 戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
- 1947年 - 1951年 縦縞なしの無地で前立てライン付きのユニフォームを採用。2リーグ分裂後も使用されたが1951年夏で廃止。
- 1948年 - 1949年 ユニフォームの生地に濃紺を採用。
- このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったこともあって老若男女問わずファンの認知度は高い。
- 1951年 - 1953年 オールスターを境に前立てラインのないユニフォームに変更。ホーム・ビジターともに同一スタイル。
- 1953年 - 1960年 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活。
- 1954年 ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。
- 1958年 ロゴの黄色の縁取りがなくなる。ホーム用の白地の帽子とストッキングを廃止し、ビジター用と同じものに統一。
- 1960年 ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体が変更になり、胸番号を採用。帽子のマークをOからOTに変更。
- 1961年 - 1965年 球団名が「阪神タイガース」になり、ビジター用の胸ロゴを「HANSHIN」に変更。チームの象徴ともいえる帽子のHTマークが登場する。
- 1962年後期 - ビジター用の胸番号が背番号と同じ丸い書体になる。
- 1965年 - 1973年 襟・袖・パンツに太いラインがつく。背番号書体がホーム用は丸ゴシック、ビジター用は角書体、胸番号がホーム、ビジター共角書体になる。ただし、ホーム用は背番号と書体が異なる。ホーム用の左袖に「OSAKA」が復活、ビジター用は猛虎マーク。
- 1970年 猛虎マークが若干変更され、背番号の上ににローマ字で選手名が入ったため背番号が小さくなった。かつて阪急のユニフォームに採用した背ネームのように長音母音にマクロン(長音記号)が付いた正式な訓令式ではないが、例えば川藤幸三はヘボン式表記の「KAWATOH」ではなく「KAWATO」と、長音の「H」を省略した。この表記は一部を除き1985年頃まで続いた。この年入団した大野久の背ネームは「OHNO」であったが、当時在籍していた工藤一彦や伊藤文隆(背ネームの表記は「ITO」)がいたため混在していた。翌1986年に入団した遠山昭治の背ネームは「TOHYAMA」となっており、この年より徐々にではあるが正式なヘボン式表記になる。
- 1972年 帽子のHTマークの「H」が黄色、「T」が白となる。
- 1974年 - 1975年 ニット素材のユニフォームを採用し、帽子のツバ、胸ロゴ、背番号、袖・首・パンツのラインに、それまでの黒に加えてチームカラーの黄色が入る。またホーム用の縦縞の色がグレーから黒になる。
- 1975年 - 1978年 ビジター用のユニフォームの色が、グレーからスカイブルー地になり、袖、パンツのラインがギザギザのラインになり派手な印象となった。このギザギザラインは永井一正がデザインしたもので、「輝流ライン」と呼ばれた。由来には「虎の牙」と「赤穂浪士の法被」の2つの説がある。
- 1976年より、ホーム用もギザギザラインになり、さらに左袖の「OSAKA」のロゴが消え、猛虎マークになる。
- 1979年 - 1981年 ブレイザー監督就任と同時にギザギザラインを廃止し、従来の黒と黄色のラインに変更、ボタン式からプルオーバー式になる。ホーム用からパンツのラインが消え、縦縞が若干太くなる。ビジター用は左肩の猛虎マークが「Tigers」のロゴに変わり、1983年継続使用される。また、この年からストッキングの黄色の2本ラインも廃止され黒一色になる。
- 1982年 - 2006年 安藤統夫監督就任により、ホーム用が大幅にモデルチェンジする。チームカラーの黄色を排し、モノトーンスタイルと縞帽子(ツバ、THマークは黒)が復活。またホーム用のスパイクが白地に黒ラインになる。途中マイナーチェンジを重ねつつ、基本デザインは2006年の25年間に渡り使用。この間1985年、2003年、2005年の3度のリーグ優勝を果たした。
- 1984年 - 2000年 ホーム用に2年遅れて、ビジター用が大幅にモデルチェンジする。ホーム用同様黄色が消えてグレーの縦縞となり、首、袖のラインが消える。また帽子が黒地に白のHTマークとなり、ビジター用の胸番号がホーム用と同じ書体になる。
- 2001年 - 2006年 ビジター用デザインが大きく一新。縦縞が消え、黒白のラケットラインと袖ラインが入る。また「HANSHIN」の胸ロゴがピッツバーグ・パイレーツ型のものになり、ホーム用同様背番号、胸番号の書体が高校野球型になる。
- 2001年のみ左袖の虎のマークをモノトーンに変更。翌年から従来のものに戻っている。また、2001年と2002年は背ネームなしだった。
- 2007年 - 大幅モデルチェンジ。ホーム用は25年ぶりの大幅変更となった。チームカラーである黄色が1981年以来久々に取り入れられ、わき腹の部分には黒色を配したデザインとなった。ビジター用はホーム用と同じく、わき腹部分に黒色を配したデザインとなる。また背番号、胸番号の書体が1962年夏 - 1965年まで使用された欧州系の書体を彷彿させるデザインとなった。帽子も1974年 - 1981年(ビジター用は1983年まで)に使用された、「HANSHIN」のロゴの書体が若干違うタイプが復活、ビジター用は従来の黒帽子のつばのフチに白のラインが入れられている。
[編集] スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
[編集] 歴代監督
「歴代監督」については、当項目の年度別勝敗表を参照
[編集] 永久欠番
永久欠番は以下の3つとなる。実績・功績は夫々の項目を参照のこと。
[編集] 欠番扱い
- #02 松永浩美
- 1993年に所属した松永浩美がシーズン途中から背負った02については、その後日本野球機構が0と00を除く0番台と100番台以上の番号を支配下登録選手には使わない方針に変更したため、今後使用されることはないと考えられる。
[編集] ノーヒットノーラン達成者
ノーヒットノーラン達成者を参照。
なお、完全試合達成者は球団創設から現在まで無し。
[編集] 歴代の球団歌
- 大阪タイガースの歌(作詞:佐藤惣之助 作曲:古関裕而 歌:中野忠晴とコロムビア・ナカノリズムボーイズ、若山彰)
- 阪神タイガースの歌(球団名変更にともなう改題、歌詞変更 歌:立川清登、中村鋭一、道上洋三、唐渡吉則ら多数)
- 公認の球団歌はこの「タイガースの歌」(別称・六甲颪)だけだが、その他に球団応援歌も多数ある。
- 他多数
[編集] 主なキャンプ地
[編集] キーワード
[編集] ミスタータイガース
詳細はミスタータイガースを参照
元は、球団創設時から在籍し、1940年代後半に不動の4番打者となった藤村富美男が初代。藤村の引退後は、村山実、田淵幸一、掛布雅之が称された。詳細はミスタータイガースを参照のこと。
[編集] ダイナマイト打線
詳細はダイナマイト打線を参照
タイガース打線の代名詞。1946年に日刊スポーツの記者が命名し、1947年の優勝時に広まった。1940年代後半を第1次、1985年を第2次、2003年を第3次という。また、命名前の1930年代後半を第0次と呼ぶこともある。
- 第0次:松木謙治郎 - 藤村富美男 - 山口政信 - 景浦將 - 藤井勇 - 伊賀上良平 - 田中義雄 - 西村幸生 - 岡田宗芳
- 第1次:呉昌征 - 金田正泰 - 別当薫 - 藤村富美男 - 土井垣武 - 本堂保次 - 安居玉一 - 若林忠志 - 長谷川善三
- 第2次:真弓明信 - 弘田澄男 - ランディ・バース - 掛布雅之 - 岡田彰布 - 佐野仙好 - 平田勝男 - 木戸克彦 - リッチ・ゲイル
- 第3次:今岡誠 - 赤星憲広 - 金本知憲 - 桧山進次郎 - ジョージ・アリアス - 片岡篤史 - 矢野輝弘 - 藤本敦士 - トレイ・ムーア
[編集] バックスクリーン3連発
詳細はバックスクリーン3連発を参照
1985年4月17日、甲子園球場での巨人戦の7回裏。巨人の槙原寛己から、3番ランディ・バース、4番掛布雅之、5番岡田彰布がバックスクリーンへ3者連続ホームランを放ち、阪神21年ぶり優勝への勢いを決定付けた。
また2003年5月9日、横浜スタジアムでの横浜戦の3回表。横浜の吉見祐治から、4番濱中治、5番片岡篤史、6番ジョージ・アリアスがレフト方向に3者連続でホームランを放った。こちらは「平成の3連発」とも称される。
加えて2006年9月30日、山形県野球場で行われたファーム日本選手権の千葉ロッテマリーンズ戦でも、1回裏にエンタイトルツーベースで出塁した先頭打者の赤松真人を2塁に置き、千葉ロッテの成瀬善久から、2死から4番喜田剛がツーラン、5番桜井広大、6番藤原通がソロホームランをセンター - レフト方面に放った。この三者連続ホームランは2006年度ファーム日本一を決定付ける3連発となり、この時のヒットは全てスタンドインという稀なケースでもあった。
[編集] いろは順背番号とポジション順背番号
1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号であった18、19にそれぞれ変更している。エース若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
1950年、リーグが分立し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1 - 8が投手、9 - 11が監督、助監督、主将、12 - 14が捕手、15 - 20が内野手、21 - 24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9 - 11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。
[編集] 伝統の一戦・阪神vs巨人戦
[編集] 概要
阪神と巨人の対戦カードを伝統の一戦と呼ぶ。「西の景浦、東の沢村」「職業野球は沢村が投げて、景浦が打ってはじまった」と呼ばれて戦前の野球ファンの注目の的となった豪腕沢村栄治と強打者景浦將の対戦にはじまり、ミスタータイガース村山実とミスタージャイアンツ長嶋茂雄、奪三振王江夏豊と本塁打王王貞治、ミスタータイガース掛布雅之と巨人のエース江川卓といった幾多の名勝負を生んだ。
[編集] 年度優勝決定戦と太平洋ホームラン
1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位の巨人の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
同年12月に洲崎球場で行われた年度優勝決定戦では、1勝2敗で惜敗したものの、景浦將が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。特に第1戦で巨人のエース沢村栄治から放った場外ホームランは東京湾に落ち、「太平洋ホームラン」と呼ばれた。当時のボールは本塁打さえ滅多に出ないほどに飛びにくいもので、その上景浦が打ち返した球が魔球として知られる沢村の三段ドロップだったことから、この場外ホームランは多くの野球ファンを驚かせた。
1936年秋の優勝決定戦では破れたものの、翌1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チーム・巨人との年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村栄治を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに、翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗ると4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。
[編集] 世紀の落球とV9
1973年シーズンは、8連覇中の巨人と激しい優勝争いをしていた。そのような状況下で、8月5日の巨人戦、9回2死から池田純一がセンターフライを落球して逆転負けを喫した。この年、阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを世紀の落球と呼ぶようになり、池田が戦犯のごとく扱われた。この年、池田は勝負強い打撃と好守でチームの優勝争いに貢献した(詳しくは池田の項目を参照)。その後、8月30日に江夏のノーヒットノーランで中日を事実上優勝戦線から脱落させたが、翌8月31日には巨人が首位に立った。10月10日の後楽園での巨人-阪神戦では、田淵幸一が倉田誠から逆転満塁ホームランを放ち、江夏豊が最後を締めて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えたが、翌10月11日の同カードは、一時は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまでせまっていた10月20日の中日戦(中日球場)では、中日キラー上田の先発が予想されたが、金田正泰監督は裏をかいて先発投手に江夏を指名した。この時、オーダー表を提出する役目を担っていた当時の岡本伊三美ヘッドコーチは、先発投手の名前に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田監督に念押ししている。しかし、江夏が木俣達彦にホームランを打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一らに抑え込まれて2-4で敗戦した。星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、かちかちになった阪神打線はこれを打てなかった(詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
この試合が間もなく終わろうとする時間に、中日球場のそばを通る新幹線に巨人ナインを乗せた「ひかり」が通り過ぎた話は有名である(「ひかり」号が通過していくのが映った試合映像が現存している)。ナインの一人はスコアボードを見ようと頑張ったが果たせず、名古屋駅到着時に巨人ファンが試合経過を知らせ、それを聞いて車内のムードが明るくなったと伝えられている(山際淳司のドキュメント小説では、新幹線車内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日勝利が決まった途端王貞治がうれしさのあまり叫んだ、と描写されている)。この時の情景は、早速テレビアニメ『侍ジャイアンツ』第38話に取り入れられている。こうして、10月22日(本来は21日であったが雨天で順延)の対巨人最終戦で勝ったチームが優勝ということになった。
48,000人の大観衆を集めたこの試合も、阪神は0-9で大敗を喫し、巨人のV9を許した。午後4時18分、最後の打者ウィリー・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦と不甲斐なさ過ぎる阪神に怒り、一部の「阪神ファン」が暴徒と化し、一塁側スタンドの巨人ベンチに襲い掛かった。このため、近所の甲子園署から200人、また兵庫県警の機動隊が70人出動した。この際に県警からの要請で金田監督がファンの前で謝罪した。県警に追い散らされたファンは「帰れ!」コールを浴びせかけ、最後は阪神選手を翌日までロッカールームに缶詰めにした(後藤和昭談)。
この「世紀の試合」はテレビは読売テレビにより日本テレビ系列(解説・村山実)で、またラジオは数局が中継していたが、途中から実況席にも危険物などが投げ込まれ、500人ほどのファンが襲い掛かってきた。テレビはマイクコードを抜かれ、また中継の最後の方では荒れ狂う甲子園のグラウンドの映像のみとなってしまい、放送終了後テレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材はファンによって徹底的に破壊されてしまった。読売テレビ側は犯人を特定できず、弁償請求できなかったという。またこの暴挙のため優勝の瞬間は鮮明なVTR映像がなく、映画フィルムに転写したもの(キネコ)が残っているのみである。
阪神は「優勝するもの」と想定して、田淵を起用した日本シリーズ用のポスターをあらかじめ大量に印刷していたが(制作時点ではパ・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神-パリーグ優勝チーム」という表記だった)、当然お蔵入りとなった。また、優勝記念に作られたマッチも外に配れず、阪神電鉄の保養所で使われていた。
一方、江夏は自伝「左腕の誇り」の中で、「阪神の長田球団社長から10月20日の中日戦の前日に呼び出され、明日の中日戦には勝つなと八百長を指示された」と記している。
[編集] 史上最短試合と史上最長試合
1946年7月26日の対パシフィック戦(西宮球場、1-0で勝利)では13時15分の開始から14時10分の終了まで試合時間わずか55分という日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した。この試合では先発の渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝利、またパシフィック先発・湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった。
1992年9月11日、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長の6時間26分という試合時間を記録した。この試合では9回裏、八木裕の打球がレフトフェンスのラバーに当たった上でスタンドに入り、いったんはサヨナラ本塁打と判定されたが、ヤクルト側の抗議により、審判団が協議した結果エンタイトルツーベースに訂正された。タイガース側がこの判定に抗議して、37分間試合が中断した。結局、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)3-3の引き分けとなった。なお、この試合を中継していたサンテレビは完全生中継を行った。また、試合終了時刻「午前0時26分」は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻となった。
[編集] 投手の偵察メンバー第1号
1950年4月22日、熊本・水前寺での対中日ドラゴンズ戦でのこと。中日の先発投手が左の清水秀雄か右の服部受弘か迷った松木謙治郎監督はメンバー表の1番に「左翼手・干場一夫」と書いて提出、服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制した。ただし、試合は7-9で敗れた。
[編集] 2度の放棄試合
プロ野球で、複数の試合を放棄試合として没収されたのはパシフィックとタイガースの2チームだけである。パシフィックについては、プロ野球が再開された1946年に戦前までタイガースに所属していた藤井勇らを強行出場させたため、彼らが出場した4試合共に試合終了後に没収試合(試合記録は成立したがスコアは0-9でパシフィックの負け)となっただけで、試合途中で複数回にわたって試合を没収されたのは2度の放棄試合を記録したタイガースだけである。
1度目の放棄試合は1954年7月25日、中日を大阪球場(当時甲子園には設備がなかったため、ナイターは大阪球場で行った)に迎えた試合。10回裏の攻撃で杉村正一郎球審へ暴力行為をはたらいた藤村富美男が退場を宣告されたが、杉村球審は「退場」とは言わず「風呂で汗を流しては」などと言い、これを藤村が理解していなかったため、本当に風呂で汗を流した後再び打席に立とうとして杉村球審に阻止された。この光景が奇異に写ったのか、事情を理解していないファンがグラウンドになだれ込んで抗議を行い、事態収拾が付かなくなったため、ホームチームのタイガースに責任があるとして没収試合となった。この騒動で藤村は出場停止20日制裁金5万円、松木謙治郎監督は出場停止5日制裁金3万円の処分を受けた。
2度目は1967年9月23日、地元甲子園に大洋を迎えた試合。1回表に大洋が3点を奪い、なお2死満塁で森中千香良を打席に迎える。2ナッシングからジーン・バッキーの投げた3球目を森中は空振りし、捕手の和田徹がショートバウンドで捕球し森中にタッチしようとしたが、森中はベンチに引き上げようとしていたため「1塁に行く意思がない」と判断。森中にタッチ、ホームベースを踏む、1塁送球のいずれも行わずにボールをマウンドに転がしてベンチに引き上げた。これを見た大洋ベンチは森中に1塁に走るよう、また3塁走者の松原誠には本塁突入を指示。松原が生還したことで大洋に追加点が入った。ここで大谷泰司球審が阪神ベンチへ行き、藤本定義監督に「今のは3ストライクのジェスチャーで、アウトの成立ではない」と説明(ルール上、この場面では振り逃げが成立するため、スリーストライクをとられた時点ではアウトとならないが、打者が振り逃げを放棄した動作をした場合は、アウトになる)し、阪神ナインに再び守備につくように命じた。これに対し藤本は「スリーアウトと言ったから和田は引き上げた」と反論し、後藤次男・山田伝両コーチを交えて抗議。その際に大谷の胸を何度か突いた。33分間の中断後、大谷が「暴行を働いた藤本監督を退場させることを条件に試合を再開する」と説明したが、これに対し阪神側の態度が再び硬化。その後も阪神ナインは守備につくのを拒否し続けたため、放棄試合が成立した。
2005年9月7日にも対中日戦(ナゴヤドーム)で岡田彰布監督が審判の判定に不服を申し立て、放棄試合になりかけた試合があった。3-1で迎えた9回裏・無死2・3塁の場面で、谷繁元信が二塁ゴロを放った。二塁手の関本健太郎がバックホームしたが判定はセーフとなり、三塁走者のアレックスが生還。この直前の9回表に同じような微妙な判定で中村豊が本塁でアウトになっていたため、アレックスがセーフという判定に対して岡田監督が猛抗議、選手全員をベンチに引き上げさせてしまった。その際に、橘高淳主審に暴力行為を振るおうとした岡田監督を止めに入った平田勝男ヘッドコーチが橘高を突く形になり退場処分を受けた。結局18分間の中断後に試合は再開され、延長11回表に中村豊のソロホームランで阪神が勝ち越し、4-3で勝利を収めた。
[編集] 佐野事件
1977年4月29日、川崎球場での大洋戦で起きた事故。阪神が7-6とリードした9回裏1死1塁で、大洋の清水透が打った大飛球を左翼手の佐野仙好がフェンスに激突しながらも好捕した。しかし、当時の川崎球場のフェンスはコンクリートが剥き出しだったため、佐野は頭蓋骨を陥没骨折して、ボールを捕球したままうずくまった。レフト線審の田中俊幸は捕球を確認してアウトを宣告したうえで担架を要請するしぐさを行った。佐野は目を剥いており、ただ事ではないと思った中堅手池辺巌も外野から同様の合図をしたため(重傷者が出たのだから当然ボールデッドになるものと思っていた)選手、コーチが心配して佐野に駆け寄った。その間に、一塁走者の野口善男がタッチアップして本塁に到達し、7-7の同点となった。これに対し、吉田義男監督は「突発事故の発生によりタイムが宣告されるケースだから得点は認められない」と田中線審に抗議したが、審判団は「守備側プレーヤーの負傷ではプレー中にタイムを宣告することができない」として抗議を退けた。結局、吉田監督は提訴試合とすることを条件に試合再開に応じ、試合は時間切れのため7-7の引き分けに終わった。提訴を受けたリーグは「この件は規則に定められた突発事故に当たらない」と結論づけ、阪神の提訴は取り下げられた。
野球規則5.10(c)には「突発事故によりプレーヤーがプレイできなくなるか、あるいは審判員がその職務を果たせなくなった場合(球審は"タイム"を宣告しなければならない)」とある。しかし同時に、同5.10(h)に「審判員はプレイの進行中に、"タイム"を宣告してはならない。ただし、本条(b)項、 または(c)項の〔付記〕に該当するときは、この限りではない」となっている。(b)項は「ライトの故障のために、審判員がプレイを見るのに困難となるか不可能となった場合」であり付記もライト故障に準じるものである。(c)項付記は「プレイングフィールド外への本塁打、または死球の場合のように、一個またはそれ以上の安全進塁権が認められた場合、走者が不慮の事故のために、その安全進塁権を行使することが出来なくなったときは、その場から控えのプレーヤーに代走させる事ができる」という攻撃側の突発事故を想定したものとなっている。つまり審判が試合中にタイムをかけられるのはこの2つに限られており、佐野負傷という守備側に問題が発生した状況は野球規則上に書かれている審判がタイムをかけられる状況には当たらず、タイムを宣告しなかったのは規則に則った正しい処置であった、と結論付けられた。
しかしながら規則上は正しい処置ではあったとしても人道上の問題ありとして規則が再検討され、人命に関わるような事態の場合にはプレイ中であっても審判がタイムを宣告できるように内規が定められた。この事件以降、川崎球場をはじめとしたフェンスが剥き出しになっていた球場は安全のためにラバーを張ることとなった。なお、佐野はグラウンド内に乗り入れた救急車で病院へと運ばれて一命をとりとめ、その後復帰して1985年の優勝にも貢献した。現役引退後は阪神のスカウトとして活躍している。
[編集] 道頓堀
詳細は阪神ファン#道頓堀への飛び込みを参照
[編集] 「阪神優勝」のロゴ商標問題
2003年、18年ぶりのリーグ優勝で大きく話題になった際、千葉県在住の男性が「阪神優勝」のロゴを商標登録届を出し、Tシャツや靴下などの商品を全国量販店などに発売したが、阪神タイガースの商標権侵害の恐れがあるとして球団と係争となった。男性は「阪神地区の優勝の意味」と主張したが、同年末、特許庁は商標を無効とする判断をした。なお、この男性は同時に「巨人優勝」の商標登録を申請したが即座に却下されたという。
[編集] JFK
詳細はJFK (阪神タイガース)を参照
阪神タイガースにおいては、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の3名のことを指す。詳細はJFK (阪神タイガース)を参照。
[編集] 村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合
2005年、阪神電鉄の株式を村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が買い増しし、電鉄の筆頭株主になった。村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、タイガースの株式上場を提案。これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、更に牧田俊洋球団代表も株式上場の計画がないとコメント。2005年10月11日、村上と阪神電鉄首脳が会談を行い、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」とコメントした。
2006年6月19日、阪急電鉄等を傘下に持つ阪急ホールディングスがTOBにより、村上ファンドが保有する阪神電鉄株式を取得。その後、阪急ホールディングス(現阪急阪神ホールディングス)は阪神電鉄を子会社化した(阪急・阪神経営統合参照)。
経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続することになったものの、これが7月5日に行われたプロ野球オーナー会議において、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される「経営譲渡」と見なされ、阪急ホールディングスは加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側はこの対応を不服として減免措置を含め再検討を要求した。この結果、同年末に加盟手数料1億円を除く29億円を免除することがオーナー会議で決定された。
[編集] 交流戦専用ユニフォーム
2005年から日本版インターリーグ(交流戦)が開始されたことを受けて、タイガースでは交流戦期間中に限り、専用ユニフォームを着用してゲームを行っている。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たること、また綱島理友が1999年から2004年まで週刊ベースボールで連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まったこと、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことによる。
2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた“復刻版ユニフォーム”を専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年 - 1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着用せず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。
2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使用した復刻版ユニフォームをビジターの試合で着用した。ホームでは逆に、同時期(1979年 - 1983年)にビジターで着用していた水色地のモデルを使用。従って、ホームゲームでは結果的に「ビジターvsビジター」、ビジターゲームでは「ホームvsホーム」という趣で行われた(東北楽天ゴールデンイーグルス・カラーユニフォーム対決の項を参照)。
2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることのなかった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号はかつてコシノが手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字色は黄色であり、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺球場時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色のラインが配されていた。
2008年は“リアルタイガー”をコンセプトに、プロ野球界で初めて従来はアプリケだった胸のロゴや袖のマーク・背番号を生地に印字することで、これまでよりも100グラム軽い約400グラムに軽量化。より“虎”をイメージしたデザイン面は、伝統のタテジマの幅を倍の5ミリにしグラデーション加工を施し、場所によってシマの濃さが変わる。さらに「流線形」でスピード感を表すように、すそや胸のロゴに向かって色が薄くなっている。さらに帽子もホーム用は空気穴とトップのボタンを黄色にした交流戦限定タイプ。また、ビジター用の帽子のツバにはグレーが用いられた。なお、このユニフォームはキャンプ中に岡田監督が自ら提案した。
[編集] その他・エピソード等
- 選手寮は兵庫県西宮市の虎風荘であり、隣接するファームの本拠地阪神鳴尾浜球場と合わせて「タイガースデン(Tigers Den、虎の穴)」と称する。当初は、虎の穴とガーデンとを掛け合わせて「タイガーデン(Tiger Den)」としていたが、タイガー魔法瓶との商標権の関係で、2003年末に改称した。
[編集] 関連項目
- 阪神ファン
- 阪神タイガースの選手一覧
- 阪神タイガース主催試合の地方球場一覧
- 死のロード
- 尼崎中央・三和・出屋敷商店街
- 阪急阪神東宝グループ
- 男どアホウ甲子園
- 決戦・日本シリーズ
- 阪神タイガース (小惑星):阪神タイガースにちなみ命名された小惑星
ホームゲーム中継制作局
- 毎日放送(ラジオ・テレビ)
- 朝日放送(ラジオ・テレビ)
- 関西テレビ
- フジテレビ739(東京ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビ721に移して中継)
- 読売テレビ
- サンテレビ
- テレビ大阪
- Tigers-ai(阪神コンテンツリンクによる阪神戦中継、衛星放送向けに制作)
ビジターゲーム中継制作局
地元ケーブルテレビ局
- ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作)
検定
- タイガース検定:12球団初の球団公認の検定試験。
[編集] 外部リンク
監督 |
---|
80岡田彰布 |
コーチ |
84久保康生(チーフ投手)|76吉竹春樹(チーフ野手兼打撃)|91木戸克彦(作戦兼バッテリー)|71中西清起(投手)|85広澤克実(打撃)|86和田豊(守備走塁)|89山脇光治(守備走塁)|81吉田康夫(バッテリー/ブルペン)|90続木敏之(トレーニング) |
二軍監督・コーチ |
78平田勝男(監督)|88立石充男(野手総合兼打撃)|70星野伸之(投手)|82葛西稔(投手)|73町田公二郎(打撃)|87中村豊(守備走塁)|79筒井壮(守備走塁)|83嶋田宗彦(バッテリー)|74伊藤敦規(トレーニング)|75遠山奬志(育成)|97加藤安雄(育成) |
投手 |
4ボーグルソン|12渡辺亮|13金村曉|14能見篤史|15太陽|16安藤優也|17金村大裕|18杉山直久|19筒井和也|20正田樹|21岩田稔|22藤川球児|26江草仁貴|27アッチソン|28福原忍|29小嶋達也|30久保田智之|34橋本健太郎|40桟原将司|41上園啓史|42下柳剛|46鶴直人|47白仁田寛和|48石川俊介|49若竹竜士|54ウィリアムス|56阿部健太|59黒田祐輔|61辻本賢人|62玉置隆|65清原大貴|67伊代野貴照|68横山龍之介|122オヘイダ(育成選手) |
捕手 |
2野口寿浩|38橋本良平|39矢野輝弘|45清水誉|57岡崎太一|60小宮山慎二|99狩野恵輔 |
内野手 |
00秀太|1鳥谷敬|3関本賢太郎|7今岡誠|9藤本敦士|25新井貴浩|32前田忠節|35坂克彦|36高濱卓也|37野原将志|44藤原通|50高橋光信|52バルディリス|63大城祐二|64森田一成|66大和|120田中慎太朗(育成選手) |
外野手 |
0庄田隆弘|5平野恵一|6金本知憲|8浅井良|24桧山進次郎|31林威助|33葛城育郎|43山田真介|51桜井広大|53赤星憲広|55フォード|58高橋勇丞 |
|
|
---|---|
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ |
読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 横浜ベイスターズ | 中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | 広島東洋カープ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | オリックス・バファローズ | 福岡ソフトバンクホークス |
イースタン・リーグ | ウエスタン・リーグ |
北海道日本ハムファイターズ | 東北楽天ゴールデンイーグルス | 埼玉西武ライオンズ | 千葉ロッテマリーンズ | 読売ジャイアンツ | 東京ヤクルトスワローズ | 湘南シーレックス |
中日ドラゴンズ | 阪神タイガース | サーパス | 広島東洋カープ | 福岡ソフトバンクホークス |
独立リーグ | |
四国・九州アイランドリーグ | ベースボール・チャレンジ・リーグ |
愛媛マンダリンパイレーツ | 香川オリーブガイナーズ | 高知ファイティングドッグス | 徳島インディゴソックス | 福岡レッドワーブラーズ | 長崎セインツ |
新潟アルビレックス・ベースボール・クラブ | 信濃グランセローズ | 群馬ダイヤモンドペガサス | 富山サンダーバーズ | 石川ミリオンスターズ | 福井ミラクルエレファンツ |
日本野球機構・日本プロフェッショナル野球組織 | 日本選手権シリーズ | オールスターゲーム | |
阪神タイガースドラフト指名選手 |
---|
1965 | 1966 | 1967 | 1968 | 1969 | 1970 | |