藤村富美男
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藤村 富美男 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県呉市山手町 |
生年月日 | 1916年8月14日 |
没年月日 | 1992年5月28日(満75歳没) |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手、二塁手、投手 |
プロ入り | 1936年 |
初出場 | 1936年4月29日 |
最終出場 | 1959年3月2日(引退試合) |
経歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 1974年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
藤村 富美男(ふじむら ふみお、1916年8月14日 - 1992年5月28日)は、広島県出身のプロ野球選手・プロ野球監督。
初代「ミスタータイガース」。タイガースの黎明期を支え、また戦前から1950年代までのプロ野球創成期を代表するスター選手。
目次 |
[編集] 来歴・人物
鶴岡一人と同学年で呉市のすぐ隣の小学校に入学、野球を始める。大正中学2年(5年制)、14歳で早くもエースとなり県内のライバル、鶴岡の広島商業や濃人渉、門前眞佐人、白石勝巳らのいた広陵中学を悉く蹴散らし、春夏の甲子園に6度出場。明石中学の楠本保、京都商業の沢村栄治、中京商業の吉田正男、県立岐阜商業の加藤春雄ら中等野球史に残る名投手と名勝負を繰り広げ甲子園の申し子と言われ、藤村登板の試合では外野スタンドで、空き箱の上に立って試合を見る最後列の観客のために「空箱屋」が大繁盛するほどの人気沸騰ぶりだったという。中学3年(5年制)、3度目の甲子園出場だった1933年夏選手権では準々決勝で三連覇を狙う中京商業とあたり完封負けを食らった。中京商対明石中延長25回準決勝の3日前の事だった。藤村のワンマンチームと思われがちな大正中学だが、呉港中学に校名変更した翌1934年夏選手権では、田川豊、塚本博睦、橋本正吾、保手浜明、原一朗らを揃え、高い総合力で全国の強豪をまったく寄せ付けず圧勝し全国制覇を果たした。決勝では藤村が熊本工業を2安打14奪三振で完封、川上哲治も3連続三振に捻った。川上は「ヒゲをはやし、一人だけ大人が混ざっているようだった」と述懐する。以後、川上とは「永遠のライバル」となる。実際当時の写真を見ると、とても10代とは思えないふてぶてしい精悍な面構えであった。深紅の大優勝旗を手に凱旋した呉港中ナインを歓迎する呉市民の熱狂ぶりは、連合艦隊入港以上のものだったという。藤村が駅で優勝旗を掲げようとした瞬間、旗の柄が折れてしまったという逸話も残る。
翌1935年夏には現在も大会記録して残る1試合最多奪三振の19奪三振を記録している(対飯田商業)。藤村が2年生14歳から5年生17歳まで、4年間一人で投げ抜いて奪った三振は甲子園で12試合通算111個である。1936年、藤村が呉港中学を卒業した年は、職業野球連盟が結成された年であった。設立されたばかりの大阪タイガースは、甲子園最大のスター選手であった藤村を熱心に勧誘し、前年末に投手として入団させた。背番号10。
ただし、藤村自身及び学校側は、法政大学進学のつもりでいたのを阪神のスカウトが藤村の父親を口説き、何も知らぬ藤村に判子を渡し、契約書に押させて契約を成立させたと言われる。藤村の反対にあって契約が不成立となるのを恐れた藤村の父と阪神スカウトの判断でこのような暴挙を行い、藤村は法政大に進学できないのを悔しがったという(なお、その後藤村の長男・哲也と次男・雅美が法政大に入り、雅美は主将を務めチーム初の4連覇に貢献した)。学校側と藤村家の関係は険悪となり、藤村は野球部の出入りを禁じられた。六大学野球全盛の当時において、創設されたばかりでリーグ戦も開催されていなかったプロ野球の立場は低く、藤村のように有力な旧制中学生がプロ球団と契約・入団する事は、人生を誤るようなものと思われていたためである。
[編集] ミスタータイガース
1936年プロ野球リーグ開幕、タイガース最初の公式戦である第1回日本職業野球大会4月29日の対名古屋金鯱軍戦に開幕投手として登板、1安打完封勝利(プロ野球におけるデビュー戦シャットアウトの第1号である[1])をあげるなど、好成績を収める傍ら、内野手不足となったチームの穴を埋めるため、内野手としても出場し、同年秋季には本塁打王に輝いた。1937年からは、本格的に二塁手に転向し、2番打者としてチームの二連覇に貢献したが、当時のタイガースは景浦將、山口政信、松木謙治郎、藤井勇などリーグ屈指の強打者が数多く在籍していたため、藤村の立場は完全に脇役であった。
1939年から1942年までは兵役のため出場できなかったが、復帰後は戦力の落ちた阪神で主軸となり、1944年に4番打者に定着すると、打点王を獲得し、優勝に貢献した。
戦後は自らが監督代理をつとめた1946年こそ5番打者であったが、その後は不動の4番打者として、史上最強といわれた「ダイナマイト打線」を象徴する存在となった。打点王として1947年の優勝に貢献、同年設立されたベストナインの三塁手に選ばれると、以後6年連続で同賞を受賞している。1948年からはゴルフのクラブからヒントを得た(本人いわく笠置シヅ子のショーを観て触発されたとも)といわれる通常の選手のそれよりも長い37~38インチの長尺バットを用いて、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘とともに本塁打を量産した。このバットは「物干し竿」と呼ばれ、藤村のトレードマークになると共に3年連続打点王の原動力となった。この年の10月2日、対金星スターズ戦で日本プロ野球史上初のサイクルヒットを記録。1949年には187安打、46本塁打、142打点と主要三部門のシーズン日本記録を一度に更新するという驚異的な記録を残したが、惜しくも首位打者は小鶴誠に譲り三冠王にはなれなかった。藤村の大活躍は甲子園に入場できない人もでる大盛況でプロ野球の隆盛を招き、そのスポーツマンとしての功績は現在でも評価が高い。チームが6位だったにも関わらず、MVPを獲得。この頃から「ミスタータイガース」と呼ばれ、ファンから絶大な支持を得ている。
[編集] プレーイングマネージャー
1949年末から1950年始にかけての2リーグ分立の際には、若林忠志、別当薫、土井垣武等をはじめとする主力選手が次々と毎日オリオンズに引き抜かれたが、藤村はタイガースに残留して弱体化したチームを支えた。1950年、前年藤村の三冠王を阻んだ小鶴が本塁打、打点の二冠を手にすると、藤村は首位打者を獲得し、小鶴の三冠王を阻んだ。この年記録した191安打は、イチローに破られるまで44年間日本記録であった。また、1953年に再び、本塁打、打点の二冠王となるなど、常にタイトル争いに加わり、1955年まで一線でプレーした。なお凄いのが1951年まで投手としても登板し通算34勝11敗。しかし、1955年に就任した岸一郎監督は世代交代を目指して、藤村等ベテラン選手より若手選手優先の起用を行った。そのため主力選手の反発を招き、岸監督がシーズン中に更迭されると藤村が兼任監督となった。1956年には兼任監督としての仕事を優先してレギュラーを譲ると、日本球界2人目の代打満塁逆転サヨナラ本塁打の快挙を達成した(もちろんプレイングマネージャーでは藤村が唯一の達成者である。)。古田敦也に先んじること50年、「代打、ワシ」のコールから起こした夢の大記録だった。この本塁打が藤村の現役最後の本塁打であった。この年限りで引退して監督に専任することとなった。1958年に監督を辞任して現役復帰したが同年末に引退し、ついに阪神から完全に離れた。その後、1963年に国鉄スワローズのコーチ、1964年から1965年には東映フライヤーズのコーチをつとめ、1966年に評論家に転じた。その後、1967年から1968年にも東映のコーチをつとめた。
大阪タイガース結成時から藤村が付け続けた背番号10は、球団初の永久欠番となっている。1974年野球殿堂入り。1992年5月28日、糖尿病による腎不全のため、75歳で死去した。
[編集] エピソード
- 甲子園のスター選手であった藤村富美男だが、弟・隆男(後にタイガース等で選手・コーチ)、長男・哲也(育英)、次男・雅美(三田学園)、そして哲也の子・一仁と賢(共に三重・海星、賢は現在 愛知ベースボール倶楽部)、雅美の子・光司(育英~立教大学、当時の育英監督は雅美)の孫3人が相次いで甲子園に出場し、話題となった。広島、兵庫、三重の3県4校にまたがる、まったく他に類を見ない「親子3代の兄弟出場」となった。まさに藤村は甲子園の主である。
- 「ミスタータイガース」としては、他に村山実、田淵幸一、掛布雅之がそう呼ばれた時期がある。しかし、藤村を別格と見て、ミスタータイガースに初代も二代目も三代目も存在しない、藤村富美男だけがミスタータイガースとするファンもいる。ファンもそうだが、野球関係の書物に同時期活躍した小山正明、吉田義男ら同僚選手、青田昇らライバル選手やマスコミ関係者から同様の意見が多く聞かれる。青田は「ミスタータイガースはあのおっさんしかいない。あの2リーグ分裂で、藤村のおっさんまで阪神を出て行ったら、今の阪神はないし、いまのプロ野球もないぞ。プロ野球がここまでのびたのは、東の川上、大下、西では藤村が頑張ったからだ。村山、田淵、掛布がミスタータイガースなどといわれたが、とてもとても藤村のオッサンには及ばないよ。ミスタータイガースは藤村のおっさんだけ」「とにかく阪神と戦って、巨人の選手が9人がかりで、あのおっさんを潰すしかなかった」と話している。また入団時に藤村の用具係を務めた吉田義男は「いろんな面でミスタータイガースは、藤村さんだけやと私は今も思っています」と述べている[2]。
- タイガースの記念すべき公式戦、第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男のエラーによりサヨナラ負け。阪神の勝利・敗戦とも第1号となった。更にアメリカ遠征から戻った巨人との“伝統の巨人・阪神戦”第1戦に先発・若林をリリーフ。ボークなどで逆転されたが、味方が再逆転し“伝統の一戦”も勝利第1号となっている。
- 水島新司の有名漫画、「男どアホウ甲子園」の主人公の名前が、藤村富美男から取った藤村甲子園である。「ドカベン」岩鬼正美の豪快・奔放なキャラは、藤村のそれが多大に影響を与えているらしい。また「あぶさん」こと景浦安武は、名前を景浦將、「ものほし竿」を藤村、連載開始時の大きな構えは土井正博と、三人の豪打者を組み合わせて創ったものに永淵洋三の酒豪エピソードを加えたもの[3]で、藤村も2度だけ作中に登場した。ルーキー時代のあぶさんに「物干し竿」を使い始めるきっかけを与え、またこれは偶然ではあるが、「二代目物干し竿」のあぶさんが作中で三冠王を獲得した(1991年)のを見届けてから、翌年に他界している。
- 大学卒で鳴り物入りで入団してきた別当薫に異様な闘争心を燃やし、フロに入っていた別当の頭の上をまたいで浴槽に入った。別当が前(3番)で先にポカスカ打つと思い切り機嫌が悪かった。なみのバッターならチャンスで萎縮するものだが、藤村はチャンスだと嬉しそうに打席に入った。これが打点王を多く獲った理由と思われる。なお土井垣や本堂などの証言では「別に機嫌が悪くなったとか無かったですよ。よく別当を連れて飯食いに行ってました」という話もある。
- 真偽は不明であるが、球場関係者やチームメイトが入った後の汚れきったフロの湯でうがいをし、さらにそれを飲んだという話がある。
- 1939年1月、召集を受け郷里の陸軍広島第5師団に入営。23歳だった。連隊砲(小型の大砲)要員となったが、幹部候補生の試験に落ち最前線に行った。中学時代に教練の時間があり、授業に出て良い点を取っておかないと幹候の試験に落されたらしい。鶴岡一人や川上哲治のように将校となって、内地で多くの部下を率いていたら、のち監督として違った面が出たのでは、といわれる。第5師団は熊本の第6師団と並び、勇猛な師団として知られ中国軍にも鳴り響き、第5師団が移動して、あとに第8連隊が駐屯すると、その夜中国軍が夜襲をかけて来た、という逸話が残る。第五師団の進撃と共に藤村も移動。1939年9月、まず1ヶ月で2万人の日本軍の死傷者を出したいわゆる死のノモンハンに向かうが、行く途中で停戦になり1度唐津に戻る。ノモンハン事件では完敗の責任をとって多くの高級将校も自殺させられ、やっと生き残った兵も、この事実を国民に広められるのを恐れた軍部が内地帰還をさせず、最も危険な最前線へと追いやった。このため藤村も本土上陸はせず、そのまま海南島を経て南寧作戦に向かった。この戦闘以降常に最前線に立ち何度も死にかけている。しかし強運により死ななかった。中国華南では谷に転落、左大腿部に重傷を負い切断が必要と言われたが、イチかバチかの手術で切断は免れた。この後マレー作戦に参加。1941年クアラルンプール近郊のジャングルでの戦闘では、英国軍に至近弾を浴びた。戦友の肉片が顔じゅうにかかったがこれも凌ぎ、シンガポール戦線では、最前線で英国軍の砲火にさらされながら、電話線をかける作業をやった。それはヘッド・スライディングの連続だった。戦友が砲弾の直撃を受け内臓をさらけ出して死んだ。藤村はその戦友の左腕をナイフで切り落し、三角巾で巻いて首から吊るし、戦争が終わったらそれを遺骨にして遺族に送った。この1942年2月14日の戦闘では、英国軍の白旗を最初に発見。「英国降伏の第一報を山下奉文らの司令部に送ったのはワシや」と誇っていたと言う。停戦1分前に撃たれて死んだ者もいた。シンガポール陥落の後、輸送船でジャワ島からニューギニアに向かう途中、バンダ海で潜水艦に撃沈されるという事態に遭遇した。二隻で航海していたが魚雷が命中したのは米を積んだ藤村の方の船だった。もう一方の船にはガソリンと350キロの爆弾が積んであった。この時はフカがいっぱいの海を半日泳いで助かった。この話を子供や孫達にマッチ箱などを使ってよく自慢して話していたという。
- 1943年2月2日、アンボン島に辿りついた藤村に内地帰還の命令が下る。東の海のガダルカナル島では、日本はアメリカ軍に絶望的な戦いを強いられていた。アンポン島からスラバヤまで、いつ撃沈されるか分からない輸送船の上で数日間眠れない夜を過ごし、その後スラバヤ-シンガポール-下関ルートを計半年がかりで無事帰還。すぐ除隊になり呉の実家に帰った。27歳だった。既にこの時点で死と絶えず隣り合わせの4年半を兵役に費やし終戦の年、更に半年の兵役。戦後プロ野球再開年には30歳になっていた。当時は30歳を過ぎるとロートルと見られていた。結局プロ野球選手として一番脂の乗り切ったほぼ7年間を兵役と戦時中の混乱に取られた。最初の兵役が終わった1943年、夏のシーズンから復帰、チーム名は「阪神」となっていた。多くのチームメイトも戦地にとられ、倒すことを生きがいとした"あの沢村"に往年の輝きはなく、戦地で無数の手榴弾を投げさせられた扱いにより肩を壊し、腕だけで下手がかった横手で投げていた。相手チームのファンから「沢村を出せ!」と耳を塞ぎたくなるような野次が飛んだ。また肩をボロボロにして戻った景浦と藤村も一、二塁を組むが、長い軍隊生活で思うように体が動かず、「一、二塁間狙え!」「藤村狙え!」と同様に厳しい野次が飛ばされた。打撃も34試合で2割2分、本塁打0とブランクはいかんともし難く、プロ入り最悪の成績に終わった。しかし翌、1944年春には打棒が戻り、3割1分5厘で打率5位、打点25で打点王を獲得。夏のシーズンから若林忠志監督に本格的にサードへコンバートされた。これは人気選手のホットコーナー定着の先駆けを成すものだった。メジャーリーグの三塁守備によく見られる、三塁線の打球の素手取りを、スタンドまで掴む音が聞こえるような猛ゴロであっても平然とやってのけ、"猛人藤村"ともいわれた。秋のシーズンは戦局悪化のため中止。このためこの年夏のシーズンは戦前最後のシーズンとなり、これを阪神はプロ野球最後の勝率8割台(8割1分8厘)で優勝を飾った。
- 1945年初頭の正月大会に出場。この大会は戦前最後のプロ野球と呼ばれている。第3戦の5回に警戒警報が出て中止。この後神戸大空襲でやられた電車の復旧工事をしている時、広島の連隊に再召集された。ここで本土決戦に備え塹壕掘りなどに従事。同年4月、連隊は福岡県折尾(現・北九州市八幡西区)に移動。今度は山の中で軍用犬の教育をしていた。この為8月6日の広島の原爆投下には遭わなかった。山の中にいたため終戦を知らされず、復員式では勝手に復員した上官もいた。敗戦後は呉の実家に帰っていたが、進駐軍の雑役に駆り出され、人間魚雷「回天」の解体作業をやっていた。11月、球団から「スグカエレ」の電報が。再び野球をやれる喜びで体が震えた、という。既に30歳、藤村が球界に返り咲き1014試合連続出場するのはこのあとの事である。
- 1945年11月23日、戦後初のプロ野球公式戦、神宮球場の東西対抗に西軍3番で先発出場。5回表に東軍の白木義一郎投手から放ったセンターオーバーのランニングホームランは、戦後のプロ野球初本塁打といわれている。
- 当初は2番を打つなど、打撃面では脇役だった藤村が、ホームランバッターになった理由は、戦中・戦後に地方遠征などで試合前に余興で行われたホームラン競争がきっかけと言われる。戦力の落ちたチームで、別当のあと声がかかりホームラン競争をやってるうちにコツを覚えたらしい。
- 1946年、復員後早々監督を兼任。クリーンアップに座り、打率.323をマークする傍ら、戦後の投手不足のため投手として登板。試合の後半、ピッチャーが四球を連発したりすると、じっとして守れなくなり、負け試合でもサードからウォーミングアップもろくにせずリリーフ登板。この年リリーフだけなら8勝0敗、トータル13勝2敗の成績を残している。また股の間から二塁走者を伺う珍無類な牽制で笑わせたり、実際に股の間から一塁へ牽制球を投げた。
- 赤バットの川上哲治、青バットの大下弘に対抗して物干し竿を使ったが、藤村に言わせれば色を塗るだけなら誰でも出来る、自分は他人の真似の出来無いバットを使おうと考えた。ゴルフのドライバーをヒントに運動具店に長尺バットを作らせた。このバットを振り切る為、当時はバーベルなんて無いので、漬物石を持ち上げ腕力を鍛え、女房の鏡台をストライクゾーンに見立てバットを振った。「これならボール球もホームランに出来るわい」とほくそ笑んだ。ONの時代まで、選手たちはバッグの中に7つ道具として、バスタオルに包んで軍手、牛骨、厚いガラス片を持っていた。バットのささくれや木目が裂けるのを防ぐため、ロッカールームで軍手を着用し牛骨で擦って脂肪分を浸み込ませ、ガラス片で握り部分を削り微調整した。またバットはアンモニアで乾燥させるといいというので、いつも自宅の便所に10本近くぶら下げていた。当時は汲み取り式でアンモニア臭いっぱいだった。その浸み込んだバットで本塁打を量産した。このバットの更に左手の小指を外して握り、外角高めの少々ボール気味の球でも手を出した。うかうかウエストも出来無かったらしい。
- 見せる野球、ショウマンシップに目覚めたのは『東京ブギウギ』の笠置シヅ子のレヴューを見てからとよく知られるところだが、お客さんを喜ばそうと、試合前の練習から曲芸のような捕球や打ち方をやって見せた。試合が公式戦でも紅白戦のようなオープン戦であろうとも手を抜くことはなく、土井垣らと内野のボール廻しを途中からボールを使わず、いかにも続けているかのように見せるシャドゥプレイでお客さんを沸かしたり、本塁打を打って両手を振ってダイヤモンド一周をしたり、砂煙を上げる猛烈スライディングをわざとしたり、内角のキツいところを突かれると大仰にひっくり返ったり、"娯楽"に飢えていたファンは藤村のプレーに堪能した。そういったサービス精神旺盛な姿勢が、球界初のレコード吹き込み『涙の乾杯』やテレビ出演に繋がった。
- 打撃だけではなく強肩を生かした華麗な三塁守備でも知られた。「V9巨人」の三塁手である長嶋茂雄も「藤村に憧れて三塁手になった」と公言している。つまりこの魅せる野球という姿勢が長嶋茂雄へ引き継がれ、プロ野球人気を今日まで永きに渡り持続するものにしたとも言えるだろう(長嶋が三塁手になった理由は実際には成長痛による遊撃手からのコンバートであり、ある場所では尊敬する選手は鶴岡一人とも答えており低迷時代の「西の阪神」へのリップサービスの可能性も有りうる。2006年、讀賣新聞に連載された「時代の証言者 長嶋茂雄」では、後楽園球場で見た藤村さんに憧れてサードになった、と長嶋自身がはっきり述べている。いずれにしても藤村を含めた数々の先人の影響が彼を生んだことは紛れも無い事実である)。
- 藤村は王貞治にも間接的に影響を与えている。鳴り物入りで入団した王だが、最初はまったく打てず、「三振王」などと野次られた事は有名。<2007年6月1日、日刊スポーツ連載「王貞治すべてがアンビリーバブル」での川上哲治のインタビュー、原文のまま引用> 「ボールを待ちきれないんですな。すぐに迎えにいって、体重移動が悪かった。それが王の最大の欠点だったんです。荒川君(荒川博コーチ)と話をして、もう少し引きつけて打つよう教えてほしいと頼んだんです。もっと後ろ足に体重を乗せるように、と...。すると、わたしの頭の中に、あるバッターのフォームがイメージとして浮かび上がったのです」川上が王の打撃フォームを徹底的に改造するため、ヒントを得たのは、藤村の打撃フォームだった。「右打者だった藤村さんの打ち方は前の左足を引きつけて出す、一本足の変形のようなフォームでした。王にああいう感じで、もっと球を呼び込んで打つように教えた。前足を引きつけ、重心を後ろに乗せ、そして踏み出す...。それを繰り返しているうちに、だんだん一本足になってきた。そうやって王の打撃フォームは変わっていったのです」
- 甲子園で「阿修羅の藤村」と表現されたように、赤鬼のような顔で審判にも文句を言いしばしストライクがボールになったらしい。更に1948年の対巨人戦で本塁に突入し、捕手・武宮敏明を体当たりして脳震盪させたプレーは、捕手への体当たり第1号といわれる。それまでは捕手が先にミットを構えたら走者は止まってアウトになっていた。
- どのポジションを守っても平均以上の守備をみせ、捕手以外の全ポジションを経験した。特に、投手、二塁手、右翼手、三塁手、一塁手では、1シーズン以上にわたりレギュラーを務めた。
- 左足のケガのため代打出場となった試合で本塁打を放ち、片足(いわゆるケンケン)でダイアモンドを1周した。
- 187安打、46本塁打、142打点と、打撃の主要三部門のシーズン日本記録を一気に更新した1949年には、川上哲治の有名な言葉(小鶴誠説あり)「ボールが止まって見えた」に対抗して「わしゃぁ、レフトスタンドがそこに見えたぞ」と吹いた。
- 1950年の2リーグ分立によって阪神の主力選手が大量に毎日オリオンズに引き抜かれた中で、「わしゃぁタイガースの藤村じゃ」という名言を残し、ひとりだけタイガースに残った。「出てったもんと、残ったもんと、どっちが勝つかはっきりさせようじゃないか」という言葉も残るが、当人は日本シリーズに出場することはなく、この遺恨カードは2005年の日本シリーズで千葉ロッテマリーンズ戦としてようやく実現した。結果はタイガースの0勝4敗に終わった。ただし、オーナー企業としてみるならば厳密にはロッテは毎日の直系ではなく、大映ユニオンズの系譜である(毎日との合併時にオリオンズの愛称を引き継ぎ、ロッテも長くオリオンズの愛称を残したので毎日の系譜として扱われる)。
- 1954年7月25日の対中日ドラゴンズ戦で、杉村正一郎球審に退場を宣告されたが、そのことを理解していなかった藤村が再び打席に立とうとしたため、ファン千人の大群がグラウンドに雪崩れ込んで乱闘が起こり、タイガースの没収試合となった。杉村球審が藤村にビビり、退場の宣告を「風呂でも入って来なさい」とマイルドに言ったのを藤村は退場宣告ととらず、少し休めばまた出ていいものと思い、再び打席に立ったといわれている。実際に風呂に入った訳ではない。藤村は出場停止となり、連続試合出場の記録が1014試合で途絶えた。この事件を大和球士は、『真説日本野球史7』(ベースボール・マガジン社刊)の中で「難波事件」と呼び「平和台事件」と並ぶプロ野球史上、双璧をなす大騒動と記しているが、現在「難波事件」という名称では、さほど定着していないようである。
- 1955年4月7日、沼津球場での対大洋ホエールズ戦、7回二死の場面で四球を選び出塁すると、岸一郎監督は代走を告げた。しかし、藤村はこれに反発し、交代を拒否しようとした。この事件が岸監督更迭に大きく影響した。
- 1956年6月24日の対広島カープ戦、1点ビハインドの9回裏二死満塁で、兼任監督として三塁コーチャーズボックスに立っていた藤村は、稲田茂球審に「代打わし」と告げて打席に入ると、長谷川良平から代打満塁逆転サヨナラ本塁打を放った。これが現役最後の本塁打となった。
- 1946年と1955途中から1956年の兼任監督時代は打てる投手の時に「代打わし」と告げ逆に打てない投手の時に出ないというケースがあり同僚選手が高打率をマークすると「今に見ておれ!!」という態度をとっていた。それまでも数々のスタンドプレーを快く思わない選手も多く、打撃練習もファンを意識してわざと遅れてやる、一人長々やる、などの蓄積が、ナイン全体の反感を買い1957年に専任監督に棚上げされるという事態を招いてしまった。これが有名な藤村排斥事件である。
- 藤村排斥事件をスクープしたのはデイリースポーツだが、藤村は自身を排撃したデイリースポーツを終生憎んでいたといい実際引退してからデイリーの評論家にならなかった。
- こういった排斥運動などのイメージで監督としては無能だった、という評価が定着しているが、監督4シーズンで勝率5割8分3厘と決して悪いものではない。特に1957年は首位巨人と1.0ゲーム差、流感による主力選手の離脱がなければ優勝できたとも言われた。
- 監督を解任され、42歳で平選手にされた1958年は、先発は1試合のみ、7番ファーストで途中交代。結局26打数3安打、シングルヒットが3本の打率1割1分5厘で、生涯打率3割を保つため出場をやめた。引退の記者会見は、甲子園球場の食堂で行われた。阪神一筋の大選手に対する処遇としてはあまりに冷たいものだった。口が重い、怒りっぽい、むくれると、腫物を扱うように関係者・新聞記者達からも嫌われ、この後の評論家・解説者もうまくいかず。水原茂、浜崎真二ら他チームの大監督からは請われて、東映打撃コーチ時代は、大杉勝男の入団を促すなどの成果は挙げたものの1968年、野球界からは完全に離れ、藤村ファンという社長の経営する水道工事の会社に勤務した。この事について藤村自身は「野球だけしか出来ない人間と思われたくないから、野球界から完全に離れた」と言っていたが本心ではなかったと思われる。終生のライバルだった川上や鶴岡が、指導者としても大きな名声を得たのと比べると淋しい引退後だった。
- 東映打撃コーチ時代は、猛者揃いの東映選手も恐ろしい人が来る、と戦々恐々だったが、旅館で「ビールでもどうですか」と言ったら「ビールはいらん、それよりあんパンくれ」と言って回りを驚かせた。こういった事が糖尿病を悪化させ死期を早めたのでは、といわれる。
- 豪放なイメージとは逆に、酒はまったく弱かった。監督としては選手との意志の疎通をしくじることが多かったが、「酒の飲める人だったら違っていたはずだ」の評もある。また大柄な親父というイメージがあるが、身長は173cmと決して大きくはなかった。ただいつも敵を目がけて飛びかかるように見えて、小山のように大きく見える人であった。
- アニメ版「巨人の星」に東映の二軍監督として登場(もちろん、声は本人ではない)、星飛雄馬の球質の軽さを見抜いてみせ、試合後にそれを知った星一徹を震え上がらせた。
- 1977年には役者としてテレビ時代劇「新・必殺仕置人」に、元締・虎役でレギュラー出演。中村主水ら仕置人を束ねる闇の暗殺集団『寅の会』の元締という役柄で、特に会の掟を破った外道の仕置人を物干し竿一振りで仕置するシーンには現役時代のフィルムがカットインするなど遊び心十分であった。やや棒読みっぽい語り口であったが、劇中での堂々とした立ち居振る舞いは本職の役者にもなかなか出せない強烈な存在感を放っていた。
- 藤村の同僚だった田宮謙次郎(後の東映監督)は「巨人と違ってOBを大事にしないのも阪神の悪しき伝統。藤村さんあたりが球場に顔を出してもみな知らんぷりだったよ」と発言している。
- 大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。
- 藤村が阪神引退時に進呈された西宮市の家は、1995年の阪神大震災により修復不可能となって現在は更地に。未亡人も仮設住宅に長く暮らされた。また入団時の契約金で建て直した呉の実家も、2001年の芸予地震で倒壊してしまった。
[編集] 略歴
- 1931年 大正中学(後に呉港中学に改称)入学
- 1935年末 大阪タイガース入団
- 1946年 監督代理を兼任。同年限りで監督代理を辞任
- 1950年 兼任コーチに就任
- 1954年 兼任助監督に就任
- 1955年 途中から兼任監督に就任
- 1956年 現役引退
- 1957年 監督を辞任
- 1958年 現役復帰。同年限りで現役引退
- 1963年 国鉄スワローズコーチ就任。同年辞任
- 1964年 東映フライヤーズコーチ就任
- 1965年 コーチ辞任
- 1967年 東映フライヤーズコーチ就任
- 1968年 コーチ辞任
- 1977年 新・必殺仕置人に元締・虎役で出演
[編集] 受賞タイトル、表彰、記録
- 最高殊勲選手:1回(1949年)
- 首位打者:1回(1950年)
- 本塁打王:3回(1936年秋、1949年、1953年)
- 打点王:5回(1944年、1947年 - 1949年、1953年)
- 最多安打:2回(1949年、1950年)
- ベストナイン三塁手 6回(1947年 - 1952年)
- サイクルヒット:2回(1948年10.2、1950年5.25)
- 連続試合満塁本塁打:2(1953年4月28日 - 1953年4月29日)日本記録
- 三塁手シーズン刺殺:209(1950年)日本記録
- 三塁手シーズン補殺:484(1950年)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン併殺:60(1950年)セ・リーグ記録
- 三塁手シーズン守備機会:728(1950年)日本記録
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試 合 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
失 策 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1936年春夏 | 大阪 阪神 |
13 | 37 | 6 | 11 | 0 | 2 | 0 | 15 | 5 | 1 | - | 1 | - | 4 | 0 | 2 | - | 3 | .297 | .366 | .405 | .771 |
1936年秋 | 25 | 52 | 13 | 18 | 1 | 1 | 2 | 27 | 13 | 3 | - | 0 | - | 7 | 1 | 4 | - | 2 | .346 | .433 | .519 | .953 | |
1937年春 | 40 | 105 | 13 | 25 | 10 | 2 | 0 | 39 | 15 | 1 | - | 0 | - | 17 | 1 | 13 | - | 11 | .238 | .350 | .371 | .721 | |
1937年秋 | 40 | 126 | 20 | 40 | 8 | 4 | 0 | 56 | 16 | 1 | - | 0 | - | 8 | 2 | 7 | - | 7 | .317 | .368 | .444 | .812 | |
1938年春 | 35 | 146 | 32 | 44 | 7 | 6 | 0 | 63 | 20 | 4 | - | 0 | - | 15 | 1 | 4 | - | 2 | .301 | .370 | .432 | .802 | |
1938年秋 | 40 | 164 | 25 | 43 | 11 | 3 | 1 | 63 | 34 | 4 | - | 0 | - | 19 | 2 | 11 | - | 2 | .262 | .346 | .384 | .730 | |
1943年 | 34 | 124 | 10 | 25 | 4 | 1 | 0 | 31 | 11 | 2 | 2 | 1 | - | 14 | 0 | 8 | - | 10 | .202 | .283 | .250 | .533 | |
1944年 | 35 | 130 | 12 | 41 | 2 | 3 | 0 | 49 | 25 | 2 | 2 | 1 | - | 19 | 1 | 3 | - | 12 | .315 | .407 | .377 | .784 | |
1946年 | 96 | 375 | 65 | 121 | 31 | 12 | 5 | 191 | 69 | 11 | 5 | 0 | - | 48 | 1 | 22 | - | 24 | .323 | .401 | .509 | .910 | |
1947年 | 119 | 481 | 60 | 132 | 36 | 6 | 2 | 186 | 71 | 10 | 6 | 1 | - | 34 | 5 | 14 | - | 24 | .274 | .329 | .387 | .716 | |
1948年 | 140 | 572 | 69 | 166 | 38 | 13 | 13 | 269 | 108 | 15 | 7 | 2 | - | 31 | 4 | 28 | - | 33 | .290 | .331 | .470 | .801 | |
1949年 | 137 | 563 | 116 | 187 | 35 | 3 | 46 | 366 | 142 | 12 | 4 | 0 | - | 47 | 4 | 44 | - | 36 | .332 | .388 | .650 | 1.038 | |
1950年 | 140 | 527 | 130 | 191 | 41 | 3 | 39 | 355 | 146 | 21 | 2 | 0 | - | 100 | 1 | 36 | 16 | 35 | .362 | .465 | .674 | 1.139 | |
1951年 | 113 | 410 | 71 | 131 | 27 | 3 | 23 | 233 | 97 | 7 | 3 | 0 | - | 69 | 5 | 24 | 11 | 27 | .320 | .424 | .568 | .992 | |
1952年 | 120 | 475 | 74 | 149 | 29 | 1 | 20 | 240 | 95 | 5 | 1 | 0 | - | 59 | 3 | 44 | 13 | 25 | .314 | .393 | .505 | .898 | |
1953年 | 130 | 459 | 62 | 135 | 28 | 0 | 27 | 244 | 98 | 1 | 3 | 3 | - | 60 | 4 | 51 | 10 | 13 | .294 | .380 | .532 | .912 | |
1954年 | 114 | 422 | 42 | 115 | 15 | 0 | 21 | 193 | 78 | 2 | 0 | 1 | 9 | 32 | 4 | 43 | 13 | 6 | .273 | .323 | .457 | .781 | |
1955年 | 112 | 349 | 41 | 94 | 12 | 0 | 21 | 169 | 63 | 1 | 2 | 1 | 5 | 35 | 8 | 51 | 11 | 11 | .269 | .345 | .484 | .829 | |
1956年 | 51 | 105 | 10 | 23 | 4 | 0 | 4 | 39 | 19 | 0 | 2 | 2 | 0 | 9 | 2 | 9 | 4 | 1 | .219 | .293 | .371 | .665 | |
1958年 | 24 | 26 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | 6 | 1 | 0 | .115 | .233 | .115 | .349 | |
通算成績 | 1558 | 5648 | 871 | 1694 | 339 | 63 | 224 | 2831 | 1126 | 103 | 103 | 16 | 14 | 631 | 49 | 424 | 79 | 284 | 300 | .374 | .501 | .876 |
- 表中の太字はリーグ最高
- 1939年から1942年は中国・東南アジア方面で従軍。1945年は公式戦なし。1957年は監督専任。
- 1938年までの盗塁死、1953年までの犠牲フライ、1949年までの併殺打は未集計
[編集] 通算投手成績
登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四死球 | 奪三振 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
76 | 14 | 4 | 34 | 11 | .756 | 1457 | 345.1 | 293 | 6 | 149 | 183 | 90 | 2.34 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 球団 | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1946年 | 大阪 | 3位 | 105 | 59 | 46 | 0 | .562 | 7 | 28 | .288 | 3.23 | 30歳 |
1955年 | 3位 | 130 | 71 | 57 | 2 | .555 | 20.5 | 51 | .251 | 2.49 | 39歳 | |
1956年 | 2位 | 130 | 79 | 50 | 1 | .612 | 4.5 | 54 | .224 | 1.77 | 40歳 | |
1957年 | 2位 | 130 | 73 | 54 | 3 | .573 | 1 | 68 | .240 | 2.38 | 41歳 |
[編集] 監督通算成績
- 462試合 266勝190敗6分 勝率.583
[編集] 脚注・出典
- ^ 公式戦初登板を開幕戦で完封、さらに二桁奪三振を高卒(旧制中学卒)新人で挙げたのは藤村一人。打っても4打数3安打2打点。
- ^ 日刊スポーツ「連載 我が野球人生 吉田義男 徹」2007年12月22日、3頁。
- ^ ベースボールマガジン9月号、2007年No4、ベースボールマガジン社、p112-113
[編集] 著作・参考文献
- 真虎伝(1996年12月20日 南萬満著 新評論)
- 大阪タイガース球団史 1992年度版(松木謙治郎、奥井成一著 ベースボール・マガジン社)
- 猛虎の群像 そして星野(2003年3月18日 政岡基則 デイリースポーツ社)
- 昭和20年11月23日のプレイボール(1978年8月 鈴木明 綜合社)
- プロ野球 豪傑伝(1986年10月 大道文著 ベースボール・マガジン社)
- プロ野球人国記 中国編(2004年4月 ベースボール・マガジン社)
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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