景浦安武
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景浦 安武 福岡ソフトバンクホークス No.90 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 新潟県新潟市 |
生年月日 | 1946年12月17日(61歳) |
身長 体重 |
187cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手(左翼手)、指名打者 |
プロ入り | 1973年 ドラフト外 |
初出場 | 1973年 |
経歴 | |
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景浦 安武(かげうら やすたけ、1946年12月17日 - )は、漫画『あぶさん』の主人公で、福岡ソフトバンクホークスに所属する架空のプロ野球選手(外野手[1])。シーズンによっては打撃コーチも兼任している。
1973年に当時の南海ホークスに入団して以来、ホークス一筋30年以上になる球界最年長選手。背番号「90」は、実際のホークスでも球団の配慮で欠番扱いである。
景浦將、藤村富美男、土井正博、永淵洋三をモデルとする酒豪の強打者である[2]。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] アマ時代
北明高校3年の時、甲子園の予選大会(当時は1県1代表制ではなかったため、北信越大会)に二日酔いで出場、サヨナラ本塁打(飛距離155m)を放つもベースランニング中に嘔吐、母校を出場停止に追い込むと同時にプロ入りの道を一時絶たれる。その後他校の生徒と喧嘩して退学処分となる。
高校退学後、社会人野球・北大阪電気で数年不遇の時期をすごす。
1968年11月12日、山本浩二、田淵幸一、有藤通世、星野仙一、山田久志、東尾修らを輩出した、のちにいう「史上最大のドラフト会議」のニュースを安屋台で自棄酒をあおりながらラジオで聞いていたことを後に回想している。
1973年、酒によって北大阪電気を懲戒免職される。高校野球時代の恩師・岩田鉄五郎のスカウトによって、契約金50万円年俸100万円で南海ホークスに入団。この時スイングは波を打ち岩田の同行者は目を覆ったが、そのバットは鉛のバットであった。
[編集] 南海時代
1973年にドラフト外で南海入団。自主トレ初日に交通事故に巻き込まれて大遅刻するというアクシデントがあった。長打力を買われてのプロ入りだったが、インコース打ちに天性の強さを見せる一方アウトコースに弱点があり、当初はいわゆる1軍半に甘んじた。1軍デビューとなった近鉄戦では杉浦マネージャーの機転でコークハイをひっかけ、グリップにするめを巻いてエース鈴木啓示からポテンヒット。後期開幕後、スランプに陥り2軍に落ちる。2軍暮らしのさなか、未亡人・山本麻衣子と恋に陥る。その年の日本シリーズでは粘った上に堀内恒夫にレフトフライに打ち取られ、最後の打者となる(実際は島野育夫)。転機となったのは球界を退いていた藤村富美男との偶然の出会いから。彼と同じ長尺バット=物干し竿を使い始め打撃開眼、以降「物干し竿」は「酒しぶき」とともに彼の代名詞となった。藤村とはうまい酒を求めて訪れた造り酒屋で、夜までの時間つぶしにと魚釣りに行った小川で知り合った(ただし実際の藤村は下戸で、球界でも有名な甘党として知られていた)。ちなみに大倉屋不動産に勤務していた藤村は、その造り酒屋の土地を求めに来ていた。後に藤村はダイエー時代の安武を見に平和台球場を訪れたこともある。また、大きな構えは近鉄バファローズの主砲・土井正博を範とする。これも不遇の時代に屋台に貼られていた写真を見て開眼したものである。
南海時代は主に代打の切り札として活躍。度々スタメンでの出場もあったが、生来の酒好きの影響で複数回打席に立つ集中力が持たないという欠点やスタミナ、守備の面に常に不安をかかえ、1975年の指名打者制導入当初はここ一番のチャンスの切り札としてベンチに置かれた。同年暮れ、道頓堀でトラブルになった老人を助けてサラリーマン3人組をノックアウトして逮捕勾留されたが、助けた老人や目撃者の証言により正当防衛が成立した。また、同じ年のオフにファンレターをきっかけに女子高生・田中早苗との交際が始まる。
ライバル球団、阪急ブレーブスの高井保弘に「わいの記録もいずれこいつに破られちまうわい」と言わしめその予言通り1980年には大島康徳のシーズン代打本塁打の日本記録を更新、更新の時の相手捕手はかつての監督である野村克也であった。1982年には代打だけで落合博満と本塁打王を争った。また、1981年には西本幸雄監督の推薦でオールスターに出場し3試合連続代打本塁打を打ち、3試合連続でMVPとなっている(オールスター初出場は1977年)。
1977年ペナントレース閉幕直前、心酔する野村選手兼任監督の解任時は実に悩むも吹っ切れ、広瀬叔功新監督のもとでも代打の切り札、ときに先発レフトとして活躍。1979年には4打席連続本塁打のタイ記録。新記録となる5本目がかかった打席では打球を顔に当てて退場、しかし代打・王天上が本塁打を放って持ち越し。復帰後第1戦となった地元・新潟で本塁打を放ち記録更新かと思われたが、その試合は雨のためにノーゲーム、持越しとなる。再度新記録のかかった打席ではロッテオリオンズの村田兆治のフォークを空振り三振を喫した。1980年シーズン終了後、桂木サチ子と結婚。1981年、長男・景虎誕生。
毎年オフにはトレード話が持ち上がり、1974年、近鉄とのトレード話が持ち上がり、永淵洋三が足繁く大虎に来店し熱心に勧誘。阪急の西本幸雄監督も中百舌鳥を訪れるが、結局実現しなかった。その後も張本、大杉のいない打線に危機感を持った日本ハムファイターズの大沢啓二監督が大砲が欲しいとトレードを持ちかけるが、野村監督は一蹴する。1980年には巨人の長嶋茂雄もその能力に目を付けて獲得に乗り出したことがあった。1983年には実際にチームの若返り政策で一度自由契約になってもいる。巨人、西武などが獲得に名乗りをあげた。阪神に至っては年俸の大幅アップで交渉をしたが、結局入団テストを受け30代後半とは思えない成績で南海に再入団。それからは人が変わったように好成績を残し、レギュラーに定着。
1986年、はじめて4番レフトとして常時スタメン出場、落合と本塁打王を分け合う。ちなみに同じ年、ロッテの村田からサイクル安打も記録している。
[編集] ダイエー時代
福岡への移転時は引退を決意するが、当時の杉浦忠監督の懇願で現役を続行する。まだ福岡ドームも無かった弱小ホークスの精神的主柱として田淵幸一・根本陸夫両監督を支えた。1991年、福岡ダイエーホークスの4番レフトとして自身初の全試合フル出場、史上最高齢での三冠王を獲得(.327? 本塁打43 打点110)。水島が語った所によれば、これはこの年実際に監督に就任した田淵が「自分なら景浦をレギュラーで使う」と水島に言った為とされる。
1992年、シーズン序盤にけがをして出遅れるも2年連続三冠王(.339 本塁打45 打点103)
1993年、開幕戦で好調なスタートを切り最後まで義弟の小林満と首位打者争いを繰り広げ、最終打席に野茂英雄(近鉄)からレフト線にツーベースヒットを放ち3年連続三冠王(.340? 本塁打46 打点122)。
1995年まで5年連続で本塁打、打点の二冠王。この間、1994年には王貞治の記録を抜くシーズン56本塁打も記録した。
1996年、椎間板ヘルニアを発症し、長期戦線離脱。この時右打席では痛みが出るため左打席で試合に出場している。以降、個人タイトルからは遠ざかっている。
2000年、開幕戦において野村につぐ史上2人目の3000試合出場を達成。
[編集] ソフトバンク時代
2006年のオープン戦では、WBC日本代表監督に就任した王監督の代理で選手兼任監督となり、対戦相手の東京ヤクルトスワローズ選手兼任監督・古田敦也(当時)とのプレイングマネージャー対決を実現している。その試合で両者ともホームランを打った。
2006年7月、王監督が入院した際、王監督より選手兼ヘッドコーチに任命され、同年8月には三塁審判・栄村隆康への侮辱行為及び抗議時間オーバーで退場処分を受けた森脇浩司監督代行の代わりに選手兼任で監督業を勤めた。
2007年は長年慣れ親しんだ物干し竿バットから普通のバットに持ち替え、ボロボロになるまで現役を続けることを決心していた。しかし、シーズンの途中から長打を必要とするためか、あるいはダントツの優勝候補と言われながらも勝ちきれず、不甲斐ない戦いを続けるチームに喝を入れるためか再び物干し竿を使用。物干し竿を使うことで本塁打も出始めたが、打率が下がるうえ体にも負担がかかる事から、再び普通のバットに持ち替えた。再度のバット持ち替えにより再び打率は上昇。残り10試合の時点で打率4割(規定打席到達)だったが、自身が望み最後まで出場。そのため最終戦となる西武戦を前にして4割をわずかに割り込んだ。その最終戦では先発の西口文也からヒットを放ち再び4割に到達したが、試合は決着が付かず延長戦に突入する。そして満塁で打順が回り、普通ならここで交代だったが西口がいまだ投げていることから、打席に立つことを志願。そこでサヨナラヒットを放ち、ついに正真正銘の打率4割を達成した。
現在も元三冠王の松中信彦を押し退け、4番に座ることもある。また、2006年からは若手に守備機会を与えるためとプレーオフに備えるために外野の守備からはずれ、DHの6番として出場している。
最近は現役引退をイメージさせる伏線が増え、去就が注目されていたが2008年1月31日、今季限りで引退する意向を固めていることが判明。安武の後見人こと原作者の水島が明かしたもので、同時に今季は代打に専念することも発表された[3]。
[編集] 人物
長い球歴の中で様々な優秀な成績を残し、ルーキー時に南海ホークスが優勝してから1999年の福岡ダイエーホークスの優勝まで、約25年ほど不遇のホークスを支えてきた選手は彼ひとりである。
若いころは酒に酔って暴れたりすることもあったが、基本的に性格はきわめて温厚で、後輩や友人たちへの面倒見が良い。サチ子とは旧知であったものの恋愛関係というわけではなく、結婚前はほかの女性とよくつきあっていた。結婚してからは妻一筋。
中年になってからも男性向けファッション誌にモデル出演したり、かっこよく落ち着いた大人の男性というイメージが強く女性から非常によくもてるが、前述のとおり妻以外の女性からのラブコールに答えることはない。
得意球はインハイを含めインコース全般。ただし、インローは苦手。
上杉謙信のファンである。
[編集] 主な記録
- 三冠王3回(1991~1993年)
- 首位打者4回(1991~1993年、2007年)
- 本塁打王6回(1986年、1991~1995年)
- 打点王4回(1991~1993年、1995年)
- シーズン打率.401(456打数183安打)(2007年)
- シーズン56本塁打(1994年)
- 4打席連続本塁打(1979年)
- オールスターMVP3回(1981年)
- サイクルヒット(1986年)
- 通算3000試合出場(2000年)
[編集] 家族
詳細はあぶさんの登場人物を参照。
[編集] 景浦サチ子
- 妻。旧姓:桂木。1980年に結婚。居酒屋「大虎」の娘。安武とは南海入団以前からの付き合い。
[編集] 景浦景虎
- 長男。1981年12月17日生まれ(安武と同じ誕生日)。投手。左投左打。
- 浪花一番星学園高校に入学し、春・夏の甲子園大会に5度出場。主将も務める。
- 2000年、大阪近鉄バファローズに入団。背番号は1(鈴木啓示の永久欠番)。
- 2004年、分配ドラフトでオリックス・バファローズに移籍。背番号は01。
- 2005年、対ソフトバンク戦でリリーフ登板し、安武を相手に163km/hのストレートを投げ、日本最速記録を更新すると同時に安武を三振にしとめる。
- 2006年、ランディ広岡とのトレードで阪神タイガースに移籍。背番号はオリックス時代と同じ01。
- 2008年シーズン前に秋葉舞と結婚。
- 「景虎」の名前の由来は、安武がファンである上杉謙信の幼名が「景虎」だったためである(なお正確には「景虎」は謙信の幼名ではなく上杉憲政から「政虎」の名を貰うまでの諱であり、謙信の幼名は「虎千代」である)。
[編集] 景浦夏子
[編集] その他
[編集] 脚注
- ^ 一時期、三塁手のレギュラーとして出場したことがある。
- ^ ベースボールマガジン2007年9月号(Vol.31 No.4)、ベースボール・マガジン社、p112-113
- ^ "61歳あぶさん引退…花道の舞台は巨人との日本シリーズか" スポーツ報知: 2008-2-1. 2008年2月1日閲覧.