根本陸夫
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根本 陸夫 Rikuo Nemoto |
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基本情報 | |
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出身地 | 茨城県那珂郡東海村 |
生年月日 | 1926年11月20日 |
没年月日 | 1999年4月30日(満72歳没) |
身長 体重 |
171cm 64kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1952年 |
初出場 | 1952年 |
最終出場 | 1957年 |
経歴 | |
野球殿堂(日本) | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2001年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
根本 陸夫(ねもと りくお、1926年11月20日 - 1999年4月30日)は、茨城県那珂郡東海村出身のプロ野球選手(捕手)・プロ野球監督、野球解説者。元西武ライオンズ編成・管理部長、元福岡ダイエーホークス代表取締役専務、代表取締役社長。横浜大洋ホエールズ、ヤクルトスワローズの監督を歴任した関根潤三とは日大三中時代からの親友で、選手・コーチを通じて近鉄パールスに在籍した。
ニックネームは「球界の寝業師」(ドラフト会議やトレードで辣腕を振るったことから)。根本のその仕事ぶりや、誰もがおどろくような手腕は「根本マジック」と呼ばれた。本人は「私はつなぎ監督なので」と話していた通り、監督としては目立った成績は残っておらず、在任期間も短かったものの、球団フロントとして西武、ダイエーの初優勝の土台を築き上げた。
今日的見地では、日本プロ野球史上初といっても良いチーム・プロデューサーであったといえる。
目次 |
[編集] 来歴・人物
旧制日本大学第三中学校(現:日本大学第三高等学校)時代に関根とおなじく藤田省三監督に指導を受けた。その後日本大学専門部→法政大学へと進み、日本コロムビア(現:コロムビアミュージックエンタテインメント・デノン、実業団チーム「川崎コロムビア」)を経て、1952年近鉄に入団。
1957年引退。その後はスカウトを経て、1962年から1966年まで近鉄コーチ。別当薫監督とともに「18歳の4番打者」・土井正博を育て上げた。
1967年広島の長谷川良平監督に誘われ、コーチに就任。おなじコーチとして上田利治がいる。1968年、チームは「広島東洋カープ」として運営形態が変更されることになり、根本はその新体制で監督に就任。オーナーの松田耕平から「シーズン全敗でもかまわないからチームの基礎作りを」と要望される。根本は山内一弘を阪神タイガースから獲得、投手コーチに小森光生を招聘。そして選手には猛練習を課し、また食事面でも制限を加える措置をとった。そして、同年68勝62敗の3位となり球団創設以来初のAクラスに導いた。翌1969年には最下位に転落するが1970年、71年と4位勝率5割以上とまずまず健闘。ヘッドコーチとして関根潤三、内野守備コーチとして広岡達朗を招聘した。この間に衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄、三村敏之などを育成し、後の赤ヘル黄金期の礎を築いた。しかし1972年、開幕から不振が続いてシーズン途中で休養、そのまま退団した。その後は朝日放送の野球解説者を務めた。
1978年、球団社長の坂井保之に招聘されクラウンライター・ライオンズの監督に就任する。ここでも就任直後から選手に猛練習を課し低迷するチームの建て直しを図ろうとした。同年シーズン終了後に国土計画の堤義明社長がクラウンを買収し球団名が西武ライオンズに変更される。根本はそのまま監督として球団に残留、初代西武ライオンズの監督となる。
西武監督時代は管理部長も兼任してフロントの責任職に就任し、球団代表の坂井保之、スカウト部長の浦田直治らと共にチーム作りを急速に進めていった。新生西武ライオンズの1978年のドラフト会議で森繁和を1位に指名。巨人とドラフト外で松沼博久、松沼雅之の松沼兄弟の入団を巡って競争になり獲得に成功。そして阪神タイガースから田淵幸一・古沢憲司を、ロッテから山崎裕之をトレードで獲得。さらにロッテを自由契約となった野村克也も獲得。79年の春季キャンプはアメリカのフロリダで2ヶ月近くにわたって実施する。上記の戦力補強ぶりから戦前の西武の評価はまずまずだったが、開幕から12連敗を記録し結局1979年は最下位に終わる。
しかし補強の成果は着実に現れており、翌1980年の後期ペナントレースでは近鉄、ロッテ、日本ハムと優勝争いを演じ話題を起こす。1980年のドラフト会議で石毛宏典、岡村隆則、杉本正、安部理の4名を指名し獲得。ドラフト外で秋山幸二を巨人との争奪戦の末に獲得に成功。そして、当時熊本工業高校の定時制に通学していた伊東勤を所沢高等学校に転校させ、西武の練習生とした。翌年のドラフト会議で西武は伊東を1位指名する。
根本は1981年限りで監督を退任して管理部長に専任。そして後任監督として、かつて広島での仲間だった広岡達朗を招聘する。またヘッドコーチとして森祇晶も招聘する。こうして、根本はゼネラルマネージャー専任となり、オーナーの堤に「私は何も現場の事は分からないから全部根本さんに任せてある」と言わしめるほどの実質的なGMであった。
広岡は1982年、83年と連続日本一に輝く。特に1983年の巨人と日本シリーズは「球界の盟主の座を駆けた決戦」と喧伝され、巨人を4勝3敗で破った。こうして西武ライオンズは全国的に有名となる。しかし、根本は監督の広岡とチームの補強方針を巡って対立をするようになる。そして夕刊紙などに広岡のチーム批判とも取れるコメントが掲載されるようになり、両者の溝が深くなっていった。1984年は3位に終わるが、翌1985年は再びリーグ優勝する。しかし日本シリーズは阪神に2勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、広岡は健康面での不安を理由に辞任する。
広岡の監督後任として1984年に退団した森祇晶を招聘する。1985年のドラフト会議では最大の目玉だった清原和博を根本自身がくじを引き当て1位指名に成功。清原はこの後4番打者として活躍。森は、1986年から1994年までの間でリーグ優勝を逃したのが1989年のみ、6度の日本一に輝くなど西武ライオンズの黄金時代を築いていった。1989年シーズン途中でコーチの土井正博が麻雀賭博で逮捕され、球団代表の坂井が解任される。坂井は翌年ダイエーホークスの球団代表に就任する。
1993年、中内功から招聘され西武ライオンズを退団し福岡ダイエーホークスの代表取締役専務兼監督に就任。西武の黄金時代の立役者が退団して同一リーグのライバルチームの監督へ移籍する点が話題を呼んだ。チームは前身の1978年からずっとBクラスを低迷しており、根本は西武ライオンズに似た方法でチーム再建を進めていった。現場復帰となった1993年は最下位に終わるが、シーズン終了後は秋山幸二・渡辺智男・内山智之と佐々木誠・村田勝喜・橋本武広の交換トレード「世紀のトレード」を敢行。また同年から実施されたフリー・エージェント制で阪神タイガースから松永浩美を、ドラフト逆指名で小久保裕紀、渡辺秀一を獲得。
1994年限りで監督を退任して務となり、後任監督として王貞治を招聘した。ドラフトでは駒澤大学進学が内定していた城島健司を獲得し、西武の主力であった工藤をFAで獲得。西武監督就任が確実視されていた石毛も獲得するなど、ダイエーでも「寝業師」ぶりを存分に発揮した。
12年ぶりの現場返り咲きとなったダイエー監督時代は往年の若親分と呼ばれた熱血ぶりは影をひそめ、風貌も寝業師の異名にそぐわない雰囲気で、マウンドに行く途中に足がもつれてつまづくシーンが珍プレー特集で放映される等していたが、それでもときたま激しく抗議し退場処分を受けた事もあった。また広岡や森といった管理野球の信奉者を西武時代は監督に置いていたにも関わらずダイエーでは2番に山本和範を起用するなど大胆な采配を時として行い、森や広岡のような作戦面での細かい指示をする事もなかったという。
ダイエー在任期間、吉武真太郎・小久保裕紀・渡辺秀一・城島健司・藤井将雄・斉藤和巳・佐久本昌広・井口資仁・松中信彦・柴原洋・倉野信次・永井智浩・篠原貴行・星野順治などをドラフトで獲得し、ダイエー初優勝および現在に至る地元人気の土台を築いた。また、松永浩美・廣田浩章・武田一浩・田村藤夫・長冨浩志・西村龍次・山崎慎太郎など他球団で活躍したベテラン選手を補強している。また、西武時代同様ケビン・ライマー、ケビン・ミッチェルなどの現役大リーガー選手の獲得に尽力した。
1999年1月に球団社長に就任するが3ヶ月後の4月30日に急性心筋梗塞のため72歳で死去した。その年のダイエーの球団創設11年目にしての初優勝を目にすることはかなわなかった。根本は日本ハリストス正教会(キリスト教・正教会)信徒であったため、遺骨は同教会本部のある東京・神田ニコライ堂に安置されている。
同年のシーズン中には根本の遺影がダイエーのベンチに掲げられ、優勝時の胴上げでは選手が代わる代わる遺影を掲げた。2001年野球殿堂入りした。チームの基礎を作り上げる手腕への評価が高く広島、西武、ダイエーとも根本が監督を退いたあと数年以内に黄金時代を築いている。監督としてただチームの采配を振るうだけでなく、自ら球団経営・チーム編成にも関わり、西武時代からは編成の最高責任者として活躍した。現在で言うGM(ゼネラルマネージャー)の存在で球史にその名を刻んだ。
[編集] 西武時代のエピソード
- 世紀のトレードの一つとされる、田淵幸一・真弓明信を中心とする阪神・小津正次郎社長との密室トレード。
- 石毛宏典をはじめとする、社会人野球(主としてプリンスホテルなど)を通した囲い込み。
- 巨人などと争っていた高校時代投手の秋山幸二を、大学進学の噂を流させドラフト外で獲得。契約金は当時の高卒1位指名選手を越える破格の5000万円だった。
- 定時制課程在籍のため卒業までもう1年必要な伊東勤を熊本の高校から所沢の定時制高校に転校させ、球団職員として囲い込み、翌年ドラフト1位で指名。
- 工藤公康に熊谷組就職をさせるつもりでそれを土壇場で反故にし、ドラフト下位で獲得。
- 広島の若手投手であった小林誠二を、禁止されているレンタル移籍を使用してトレードの形で獲得。
- 広岡監督にはこの事実が伝えられておらず、小林が再び広島にトレードされた時には疑問に思ったという。
- (1988年のドラフトで他球団との争奪戦になることが確実視されていた)渡辺智男・石井丈裕に怪我の噂を流させ、その間隙を突いて両者をドラフト上位で指名、どちらも入団に持ち込んだ。
- 中日の主力選手でスターであった田尾安志や平野謙を、すったもんだの末トレードで獲得。囲い込みに失敗した小島弘務を中日がドラフト1位で指名するなど、星野仙一とのパイプを築く。
- 台湾球界のエースであった郭泰源を獲得した。
- 西武時代はほとんど人前には姿を現さなかった。また、人前に出てきてもほとんど抽象的な話しかしなかったので、「根本管理部長の通訳が要る」と言われることもあった。
[編集] ダイエー時代のエピソード
- 「今世紀最後の大トレード」と言われた、秋山幸二・佐々木誠を中心としたトレードの実行(このトレードは中内功・堤義明両オーナーにも知らされず、中内はその日夜のNHKニュースのトップでこの発表を知って仰天したという)。
- ダイエーでの自分の後継に王貞治を指名し、直々に会談、ダイエー監督就任を承諾させる。
- 西武の監督候補であった石毛宏典を誘い、FA入団に成功。同時に西武のエース・工藤公康もFA入団。
- 相思相愛であった城島健司を、他球団には駒大進学のように見せかけ(駒大にも話さなかった)ドラフト1位で指名。
- ただし、後々もめることを考慮し、スカウトからの指名リストに入らなかった駒大の本間満も併せて指名している。
- 中央球界でも名が知れ、巨人と争奪戦になっていた小久保裕紀・「今世紀最後の大型内野手」と言われた井口忠仁・アトランタ五輪日本代表の4番打者であった松中信彦などを、親会社をも動かし、逆指名制度を最大限に駆使してドラフト指名。
- その一方で地元九州のノンプロである九州共立大学や三菱重工長崎などとの親交を深め、将来のドラフトに備えた。
- ダイエー時代は西武時代とは違って取材にも積極的に応じたが、話術が抽象的なのは相変わらずだったので、地元マスコミからは「言語大量、意味不明」と揶揄されていた。
[編集] 年度別打撃成績
年度 | チーム | 背番号 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1952年 | 近鉄 | 8 | 46 | 85 | 9 | 16 | 3 | 0 | 2 | 8 | 1 | .188 |
1953年 | 110 | 257 | 12 | 53 | 4 | 1 | 0 | 15 | 3 | .206 | ||
1954年 | 10 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | ||
1957年 | 20 | 17 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .059 | ||
通算成績 | 186 | 370 | 21 | 70 | 7 | 1 | 2 | 23 | 4 | .189 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
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1968年 | 昭和43年 | 広島 | 3位 | 134 | 68 | 62 | 4 | .523 | 112 | .224 | 2.91 | 42歳 |
1969年 | 昭和44年 | 6位 | 130 | 56 | 70 | 4 | .444 | 121 | .221 | 3.24 | 43歳 | |
1970年 | 昭和45年 | 4位 | 130 | 62 | 60 | 8 | .508 | 108 | .226 | 3.00 | 44歳 | |
1971年 | 昭和46年 | 4位 | 130 | 63 | 61 | 6 | .508 | 89 | .233 | 3.11 | 45歳 | |
1972年 | 昭和47年 | 6位 | 130 | 49 | 75 | 6 | .395 | 117 | .250 | 3.57 | 46歳 | |
1978年 | 昭和53年 | クラウン・西武 | 5位 | 130 | 51 | 67 | 12 | .432 | 109 | .268 | 3.75 | 52歳 |
1979年 | 昭和54年 | 6位 | 130 | 45 | 73 | 12 | .381 | 140 | .259 | 4.60 | 53歳 | |
1980年 | 昭和55年 | 4位 | 130 | 62 | 64 | 4 | .496 | 219 | .267 | 4.43 | 54歳 | |
1981年 | 昭和56年 | 4位 | 130 | 61 | 61 | 8 | .500 | 143 | .267 | 3.62 | 55歳 | |
1993年 | 平成5年 | ダイエー | 6位 | 130 | 45 | 80 | 5 | .360 | 75 | .246 | 4.22 | 67歳 |
1994年 | 平成6年 | 4位 | 130 | 69 | 60 | 1 | .534 | 132 | .275 | 4.10 | 68歳 |
- ※1968年から1996年までは130試合制
[編集] 根本陸夫を演じた人物
- 内海賢二(声優):アニメ映画「がんばれ!!タブチくん!!」にて
[編集] 関連項目
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1972年は6月30日まで指揮。
西鉄クリッパース |
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宮崎要(選手兼任) 1950 |
西鉄ライオンズ |
三原脩 1951-1959 |川崎徳次 1960-1961 |中西太(選手兼任) 1962-1969 |鬼頭政一(代行) 1969 |稲尾和久 1970-1972 |
太平洋クラブライオンズ |
稲尾和久 1973-1974 |江藤愼一(選手兼任) 1975 |レオ・ドローチャー 1976 |鬼頭政一 1976 |
クラウンライターライオンズ |
鬼頭政一 1977 |根本陸夫 1978 |
西武ライオンズ |
根本陸夫 1979-1981 |広岡達郎 1982-1985 |森祇晶 1986-1994 |東尾修 1995-2001 |伊原春樹 2002-2003 |伊東勤 2004-2007 |
埼玉西武ライオンズ |
渡辺久信 2008- |