斉藤和巳
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斉藤 和巳 福岡ソフトバンクホークス No.66 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市 |
生年月日 | 1977年11月30日(30歳) |
身長 体重 |
192cm 96kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1995年 1位 |
初出場 | 1997年10月5日 |
年俸 | 2億5000万円(推定) |
経歴 | |
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斉藤 和巳(さいとう かずみ、1977年11月30日 - )は、福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(投手)。1996年から1999年までの登録名は「カズミ」。
目次 |
[編集] プレイスタイル・特筆
MAX152km/hの角度のある重い直球と緩やかなカーブ、スライダー、2種類のフォークが武器で、決め球の高速フォークはMAX146km/hを計時する。長身の投手としては珍しく、上から投げ下ろさずに前に大きく踏み込んで投げる。
気持ちを全面に押し出した投球で、初回からでもアウト一つにグラブを叩き吼える姿が見られる。2007年シーズン終了時点で通算79勝23敗と高い勝率(.775)を維持しており、"負けないピッチャー"の異名を持つ日本を代表する先発投手である。
和田毅、新垣渚、杉内俊哉とともに、ホークス投手陣の「四本柱」と呼ばれている。年長者であり実績でも抜きん出ている斉藤はその筆頭とされている。
[編集] 来歴
1995年、南京都高からドラフト1位で福岡ダイエーホークスに入団。当時は広島・長谷川昌幸、西武・星野智樹とともに「ビッグ3」と呼ばれていた。
1997年、一軍初登板を果たすが、ルーズショルダー(肩関節不安定症)のため故障も多く伸び悩み、一時は球団から打者転向を打診された。二軍戦では代打で打席に立ち、レフトの守備についたこともあるが、投手にこだわり転向を固辞した。
1998年、右肩を手術し長期離脱。
2000年、プロ初勝利を含む5勝を挙げて頭角を現す。うち4勝は後半戦に挙げたが、日本シリーズでの先発としての登板はなかった。
2001年、エース候補に上がったが、原因不明の右肩痛で再び戦線離脱し勝利を挙げられなかった。
2002年、8月10日近鉄戦で2年ぶりに白星を挙げ、シーズン4勝。野球評論家・若菜嘉晴は「打たれても粘る、大人のピッチングをできるようになった」と語っている。
2003年、王貞治監督ら首脳陣は2003年1月に「エースは斉藤か寺原(現横浜)」と明言。3月28日、対ロッテ戦で初の開幕投手を務め、勝利。その後プロ野球新記録となる先発16連勝を記録するなど、シーズン20勝(3敗)を記録。最多勝、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、沢村賞のタイトルを獲得した。前年まで通算9勝ながら、エースとして大きく成長。チームは日本一に輝いた。
この年同じく20勝を挙げてセ・リーグ優勝に貢献した阪神タイガースの井川慶とともに、史上初めてセ・パ両リーグから同時に沢村賞投手が選出された。パ・リーグの20勝は1985年佐藤義則(阪急)以来、またセ・パ両リーグから20勝投手が出たのは1982年の北別府学(広島)と工藤幹夫(日本ハム)以来のことであった。また、投球回、自責点とも松坂大輔(西武)と全く同じでこちらも史上初の最優秀防御率同時受賞となった。また、優勝争いの最大のライバルとしていた西武からこの年6勝を上げている。当時西武に在籍していた松坂大輔との投げ合いでは3勝無敗とエース対決での強さも見せた。この年は和田も西武から5勝を挙げており、対西武22年連続負け越しをストップし、リーグ優勝の一因にもなった。ちなみに松坂との通算対戦成績は6勝3敗だった。
2004年、2年連続の開幕投手となったが、前年から一転して調子は上がらず、4月中旬には二軍落ちとなった。その後再昇格し10勝は挙げたが、規定投球回に達しての防御率6.26はプロ野球史上最悪の記録であり、西武とのプレーオフでも打ちこまれた。
2005年、キャンプ中に既に開幕投手に指名されていたものの、開幕直前に右肩痛で離脱し、開幕投手を和田毅に譲った。4月27日の日本ハム戦(札幌ドーム)に初登板し勝利。その後も破竹の勢いで勝ち星を重ね、8月24日の千葉ロッテ戦(千葉マリン)で自身2度目の14連勝を達成。プロ野球史上初めて14連勝以上を複数回達成した投手となった。8月31日の千葉ロッテ戦(ヤフードーム)では1981年の間柴茂有(日本ハム)以来となる開幕15連勝を記録。9月7日のオリックス戦(大阪ドーム)で敗戦投手となり連勝は止まったが、16勝1敗で2度目の最高勝率のタイトルに輝く。しかしプレーオフではまたも中盤に打ち込まれ、チームはリーグ優勝を逃した。交流戦では5勝無敗と12球団トップタイの成績だった。
同年12月24日、ホークスの投手としては初の複数年となる3年7億5000万円+出来高で契約。
2006年、2段モーションの規制が厳しくなり、WBCの選考から外れて調整に努め、これに抵触しないフォームに変更。3月26日の対ロッテ戦で3度目の開幕投手を務め、勝利投手となった。5月26日の中日戦(ヤフードーム)で完封勝利を挙げ、交流戦で対戦した他リーグの全6球団から勝利した最初の投手となった。
6月8日の巨人戦(ヤフードーム)では、脇谷亮太に投手内野安打を許したのみの自身初の無四球1安打完封勝利。しかも脇谷を牽制でアウトにしたため打者27人で終了させる準完全試合を達成。王監督に「投手の神様が降臨しているようだった」と言わしめた。
8月には2連続完封も含め5勝を挙げ、月間MVPを受賞。レギュラーシーズンでチームは3位に終わったが、斉藤は勝利数、防御率、奪三振、勝率の四冠を獲得。完封数もリーグトップで1981年江川卓以来となる投手五冠を達成した。2度目のベストナインに選ばれ、MVP投票でも1位票数では受賞した小笠原道大を上回った。満場一致で2度目の沢村賞に選ばれ、パ・リーグで初めて沢村賞を複数回獲得した投手となった。防御率1点台(1.75)はパ・リーグでは1992年の赤堀元之(近鉄)、石井丈裕(西武)以来14年ぶり。またこの年黒田博樹(広島)も防御率1.85を記録し、セ・パ両リーグから防御率1点台の投手が出たのは1969年江夏豊(阪神)、木樽正明(ロッテ)以来37年ぶりのことであった。
同年のプレーオフでは、10月7日の西武との第1ステージ第1戦、10月12日の北海道日本ハムファイターズとの第2ステージ第2戦に先発。右肩に不安を抱える斉藤の中4日登板は2000年以来のことである。好投を見せるも、チームはそれぞれ松坂、八木智哉に完封負け。2試合16回2/3で2失点(防御率1.08)という内容ながらいずれも0-1で完投敗戦した。
日米野球に監督推薦で出場予定だったが、右肩の炎症のために辞退した。
2007年、3月24日のオリックス戦(ヤフードーム)、昨年に続き2年連続4度目の開幕投手を務めるも勝敗つかず。チームは敗れた。その後も調子が上がらず、4月26日右肩の筋疲労を理由に一軍出場選手登録を抹消される。その後7月10日に一軍復帰、楽天戦に登板するも敗戦投手となった。7月24日対千葉ロッテ戦にて後半戦開幕投手として登板、勝利投手となる。この試合以降、先発登板後再び登録抹消、中10日、球数100前後の特別ローテーションで先発した。10月8日のクライマックスシリーズ第1戦に先発したが、またも中盤でつかまり敗戦投手に。ポストシーズン10試合目の登板だったが初勝利はならず、チームも千葉ロッテの前に第1ステージで敗退した。
2008年、渡米して蓄積疲労による右肩けん板修復手術を行う。復帰時期は未定。
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 背番 号 |
登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 打者 | 投球 回 |
被安 打 |
被本 塁打 |
与四 球 |
与死 球 |
奪三 振 |
失点 | 自責 点 |
防御 率 |
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1996年 | ダイエー | 66 | 一軍登板なし | |||||||||||||||
1997年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 6 | 0.2 | 2 | 0 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 27.00 | ||
1998年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 19 | 3.2 | 6 | 0 | 3 | 1 | 1 | 3 | 3 | 7.36 | ||
1999年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 6 | 1.0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 3 | 2 | 2 | 18.00 | ||
2000年 | 22 | 0 | 0 | 5 | 2 | .714 | 399 | 89.1 | 92 | 9 | 46 | 1 | 77 | 44 | 41 | 4.13 | ||
2001年 | 7 | 1 | 0 | 0 | 1 | .000 | 104 | 22.1 | 28 | 4 | 11 | 1 | 16 | 11 | 11 | 4.43 | ||
2002年 | 10 | 0 | 0 | 4 | 1 | .800 | 282 | 70.1 | 53 | 4 | 21 | 3 | 63 | 24 | 23 | 2.94 | ||
2003年 | 26 | 5 | 1 | 20 | 3 | .870 | 801 | 194.0 | 174 | 19 | 66 | 8 | 160 | 62 | 61 | 2.83 | ||
2004年 | 22 | 3 | 1 | 10 | 7 | .588 | 612 | 138.0 | 139 | 22 | 59 | 6 | 120 | 100 | 96 | 6.26 | ||
2005年 | ソフトバンク | 22 | 4 | 1 | 16 | 1 | .941 | 636 | 157.0 | 135 | 14 | 41 | 10 | 129 | 54 | 51 | 2.92 | |
2006年 | 26 | 8 | 5 | 18 | 5 | .783 | 790 | 201.0 | 147 | 10 | 46 | 8 | 205 | 50 | 39 | 1.75 | ||
2007年 | 12 | 0 | 0 | 6 | 3 | .667 | 297 | 72.1 | 64 | 3 | 25 | 3 | 71 | 22 | 22 | 2.74 | ||
通算成績 | 150 | 21 | 8 | 79 | 23 | .775 | 3645 | 881.1 | 777 | 82 | 294 | 40 | 775 | 352 | 329 | 3.38 |
- 太字はリーグ最優秀成績
[編集] タイトル・表彰
- 最多勝:2回(2003年、2006年)
- 最優秀防御率:2回(2003年、2006年)
- 最優秀投手(旧最高勝率):3回(2003年、2005年、2006年)
- 最多奪三振:1回 (2006年)
- 沢村賞:2回(2003年、2006年)
- ベストナイン:2回(2003年、2006年)
- 最優秀バッテリー賞:2回(城島健司と2003年、的場直樹と2006年)
[編集] 記録
- 初登板:1997年10月5日対西武ライオンズ 26回戦(西武ライオンズ球場)、4回裏から救援登板
- 初奪三振:同上、4回裏にドミンゴ・マルティネスから
- 初勝利:2000年6月24日対千葉ロッテマリーンズ12回戦(福岡ドーム)、先発登板
- 初完投勝利:2003年4月4日対日本ハムファイターズ1回戦(東京ドーム)
- 1イニング4奪三振(プロ野球タイ記録):2000年9月3日対オリックス・ブルーウェーブ戦
- 初完封勝利:2003年8月13日対千葉ロッテマリーンズ19回戦(福岡ドーム)
- 先発登板16連勝(プロ野球記録):2003年
- 開幕15連勝(プロ野球タイ記録):2005年
[編集] エピソード
- カズミ時代の英語表記は「KAZUMI」、2000年9月に行われた試合にも「KAZUMI」のユニフォームを着用した。
- 交流戦に強く、2006年終了時点での通算成績は12試合に登板して10勝1敗、防御率1.89。逆にポストシーズン(日本シリーズ・プレーオフ)では10試合に登板し未勝利である(0勝6敗)。
- ドラフト1位入団で、エースと呼ばれ主力投手であるが背番号は入団以来66のままである。これは怪我のために二軍でくすぶっていたころから、当時の妻(※2001年結婚、2006年離婚)とともに自分を支えてくれていた彼女の祖父(故人)について、葬儀の際に背番号66のユニフォームを着せてあげたことから「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」ためとしている[要出典]。
- 右肩の度重なる怪我や野手転向の打診などで苦しんでいた間、同じ時期に肩を手術し隣の病室に入院していた小久保裕紀に助けられ、多くを学んだことからプロ初勝利では共にお立ち台に上がることを希望していた。実際にプロ初勝利をあげた2000年6月24日対千葉ロッテ戦で小久保は先制本塁打を放ち、これを実現した。
- 2003年に16連勝、2005年には開幕15連勝を記録。15連勝以上を2度達成したのはプロ野球史上唯一の記録である。
- 2006年、特に中盤以降山崎勝己の台頭で的場は先発を外れることが多くなったが、斉藤は自分の先発する試合に的場を指名した。斉藤の活躍もあって同年最優秀バッテリー賞に選ばれた。
- 的場直樹と斉藤とは同学年で、プロ入り前から親交があり、斉藤のプロ初勝利の時にマスクを被っていたのが的場であるなど、浅からぬ縁がある。
- 的場はキャンプ恒例の声出しで笑いをとる事で有名で、斉藤が誰よりも大声で笑い転げてる姿や声が映像から確認できる。
- 体格に見合って非常に大食漢。好物は手羽先で的場と食事に行った際に10人前平らげたあと更におかわりを要求し的場を驚かせた。
- 「日本で今もっとも優れた投手は誰か」という質問があがった際、ほぼ確実に名前を挙げられる選手の一人。落合博満や上原浩治などが同質問で名前を挙げている。上原曰く、初回からでも気持ちを全面に出せる好きなタイプの選手。城島健司も2006年に実質日本No.1投手と評していた。
[編集] CM
- ソフトバンクモバイル「ホワイトプラン」 『ホワイト・バット篇』、『ホワイト・身長篇』 (2007年1月~)
- ソフトバンクモバイル「911SH」、「911T」 (2007年3月17日~)
- 川崎宗則、的場直樹と共演
- 国内信販(現楽天KC)「FDHカード」
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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監督 |
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89王貞治 |
コーチ |
80秋山幸二(チーフ)|88森脇浩司(内野守備走塁)|87井出竜也(外野守備走塁)|81新井宏昌(打撃) 85杉本正(投手)|82高山郁夫(投手)|84大石友好(バッテリー)|92山川周一(コンディショニング) |
二軍監督・コーチ |
76石渡茂(監督)|71鳥越裕介(内野守備走塁)|79五十嵐章人(外野守備走塁)|75山村善則(打撃) 77藤田学(投手)|74岩木哲(バッテリー)|94田之上慶三郎(コンディショニング補佐)|95川村隆史(コンディショニング) |
投手 |
00ホールトン|11小椋真介|13高橋秀聡|14馬原孝浩|16篠原貴行|17大場翔太|18新垣渚|19森福允彦 20スタンドリッジ|21和田毅|24高橋徹|28大隣憲司|31佐藤誠|33星野順治|34山田秋親|35ニコースキー 38神内靖|39久米勇紀|40藤岡好明|41岩嵜翔|43ガトームソン|44水田章雄|47杉内俊哉|48甲藤啓介 49パウエル|54川頭秀人|56柳瀬明宏|57三瀬幸司|59大西正樹|61山村路直|63大田原隆太|64西山道隆 66斉藤和巳|68竹岡和宏|91陽耀勲 |
捕手 |
12高谷裕亮|22荒川雄太|25的山哲也|26的場直樹|29加藤領健|62山崎勝己|70田上秀則 |
内野手 |
0仲澤忠厚|3松中信彦|5松田宣浩|9小久保裕紀|10本間満|32森本学|36明石健志|37福田秀平 45李杜軒|46本多雄一|50吉本亮|52川崎宗則|53金子圭輔|65藤井翼 |
外野手 |
1柴原洋|6多村仁|7大村直之|8江川智晃|23城所龍磨|27中西健太|30長谷川勇也 42レストビッチ|51荒金久雄|55小斉祐輔|58辻武史|60中村晃|69井手正太郎 |
育成選手 |
121山田大樹(投手)|122吉川元浩(内野手) |
福岡ダイエーホークス(現・福岡ソフトバンクホークス) 1995年ドラフト指名選手 |
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1位:斉藤和巳 / 2位:松本輝 / 3位:土井雅弘 / 4位:佐久本昌広 / 5位:高橋和幸 / 6位:福田信一 |