ダルビッシュ有
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ダルビッシュ有 北海道日本ハムファイターズ No.11 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府羽曳野市 |
生年月日 | 1986年8月16日(21歳) |
身長 体重 |
196cm 84kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 2004年 1巡目 |
初出場 | 2005年6月15日 |
年俸 | 2億円(2008年) |
経歴 | |
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ダルビッシュ 有(だるびっしゅ ゆう、ペルシア語:یو درویش、ローマ字転写:Yū Darvīsh、正式氏名:ダルビッシュセファット・ファリード・有、1986年8月16日 - )は、北海道日本ハムファイターズに所属するプロ野球選手(投手)。
目次 |
人物
母親は日本人、父親はイラン人で元サッカー選手。現在は日本国籍である。「有」は、イスラム教のカリフ「アリー・イブン・アビー=ターリブ」に因む。弟が2人いる。エイベックスとマネジメント契約をしている。
MAX154km/hのストレートと鋭いスライダー(スラーブ気味と言われる)を中心に、ツーシーム(解説者などからはシュートと言われることもある)、カーブ、フォーク、カットボール、チェンジアップなどの多彩な変化球を織り交ぜピッチングを組み立てる。ナックルボールも投げられるようだが、公式戦で滅多に投げることはない。
もともとシンカーを得意球とする変化球主体のピッチングだったが、2006年2月24日に先発登板したWBC日本代表壮行試合で肩を痛めたのをきっかけに、試行錯誤を繰り返しながら新しいピッチングスタイルを模索。肩に負担のかかるシンカーを封印し、その代わりにカットボールを増やしたのが効果的に作用。肩のケアに気を使うようにもり、肩のトレーニングを増やしたのも投球に良い影響を与えた。同年8月あたりからストレートの球速が大きく上昇し、ストレートで打者を押すピッチングが出来るようになった。成績も大きく上昇し、日本ハムファイターズのエースとして、球界を代表する投手に成長した。
野村克也はじめ、数多くの球界関係者が実力的に最高の投手と認めている。現役でも、立浪和義は、フジテレビ系列のニュース番組「すぽると」にて、「今まで色々な投手と対戦したが、総合力でナンバーワンの投手」と評している。
弱点として野外の球場にはめっぽう弱く、特に、千葉マリンスタジアムでは、球場特有の海風の影響で変化球が定まらず「鬼門」とされていた。しかし、2008年4月30日には4年目で初勝利をあげた。
同僚で後輩の木下達生、吉川光夫と同期入団の西武・涌井秀章とは「ダルビッシュ軍団」を結成している。北京五輪出場をかけたアジア予選決勝リーグでは、親友の涌井と練習の時やプライベートの時もいつも一緒に行動していた。
来歴
プロ入り前
3歳の頃、父が枕元に野球とバスケットとサッカーのボールを並べると、最初に手に取ったのが野球のボールだった。父はサッカー選手であったため、サッカーのボールも蹴って渡したがそれも投げてしまった。
小学校2年生から本格的に野球を始め、羽曳野ボーイズで全国大会ベスト8、世界大会3位という成績を収め、50以上の高校からスカウトがあったが、環境面等を理由に東北高等学校に入学する。強気な発言とクールな顔立ちから、甲子園では既に女性ファンの注目を集めていた。
1年生秋からエースに就き、195cmの長身から繰り出す直球は当時から150km/h近くを計測。2年春夏、3年春夏と4度甲子園に出場。2年夏は決勝で坂克彦を擁する常総学院に敗れて準優勝、3年春の熊本工戦では史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する。最後の夏の甲子園では真壁賢守とともに活躍し、3回戦で千葉経大附に敗れたものの、高校生No.1ピッチャーとの呼び声もあった。
2004年ドラフト高校生では、涌井秀章(西武ライオンズ)・佐藤剛士(広島東洋カープ)と並ぶ目玉投手として注目され、メジャーリーグの球団も獲得の意思を示す(父親の意向が強かった)が、本人は日本球界を希望していた。
2004年11月17日、プロ野球ドラフト会議において日本ハムがダルビッシュを単独1位指名。12月17日、父親同席のもと、契約金1億、年俸1500万、出来高5千万の高卒新人としては松坂大輔、寺原隼人以来の最高条件で、2004年ドラフト指名選手の中で最後に仮契約を結んだ。
- 高校通算成績:登板67、投球回332 1/3、奪三振375、防御率1.10
- 甲子園通算成績:登板12、完投7、完封4、投球回92、奪三振87、四死球27、自責点15、7勝3敗、防御率1.47
- センバツ:登板4、完投2、完封1、投球回30、奪三振29、四死球 7、自責点9、2勝1敗、防御率2.70
- 選手権:登板8、完投5、完封3、投球回62、奪三振58、四死球20、自責点6、5勝2敗、防御率0.87
プロ入り後
プロ入り1年目の2005年は、前年12月の自主トレ中に痛めた右ひざの関節炎の影響で、1月の新人合同自主トレでドクターストップがかかり、春季キャンプは二軍スタートとなったが、キャンプ会場の東風平町(現・八重瀬町)には多くのファンが集まった。
しかし、写真週刊誌で未成年者にもかかわらず喫煙していたことが報道された。それに対し球団は、2月21日に鎌ケ谷市の球団寮へ送還・無期限謹慎と謹慎中の社会貢献活動を命じる処分を言い渡した(2月28日の12チーム合同新人研修会は出席)。また、これを受けて東北高校は2月22日に本人を停学処分とした(3月1日の卒業式は停学処分期間中でまだ十分でないとして参加させず。3月8日、停学解除を以って他の生徒より1週間遅れで卒業)。ダルビッシュはそれ以前(2004年9月)にも喫煙している写真が週刊誌に掲載され、高野連より厳重注意処分を受けたことがあった。
その後二軍でリハビリを続け、5月5日にイースタンで初登板しその後完封勝利も記録。6月に一軍昇格し一軍初登板初先発の広島戦で8回2失点で勝利を挙げると、それ以降先発ローテーションに定着。14試合に登板し完封勝利を含む5勝(5敗)を挙げた。
2006年は2月に右肩を痛めた出遅れもあり開幕当初は不振も、5月30日以降は自身公式戦10連勝を記録。そのままシーズン終了まで1度も敗戦投手になることは無く、最終的に規定投球回に到達し防御率2.89、12勝5敗の成績を記録。プレーオフ、日本シリーズ、アジアシリーズでは初戦の先発を任され、日本シリーズでは優秀選手賞、アジアシリーズではシリーズMVP投手を獲得。44年ぶりの日本一に貢献し、チームの新エースへと成長した。
2006年終盤あたりから、相性の良さから鶴岡慎也とバッテリーを組む事が多くなり、2007年も中盤以降からはダルビッシュ登板時の捕手はほぼ鶴岡で固定されていた。
2007年は初の開幕投手を務め、エースとしてシーズンを通して活躍。15勝5敗・防御率1.82・被打率.174など優秀な成績を記録した。シーズン終盤には成瀬善久(ロッテ)と防御率争いを繰り広げ、0.003点差で惜しくも最優秀防御率は逃したが、今中慎二以来14年振りに全7項目の選考基準を満たした上で沢村賞を獲得したほか、最多奪三振、ゴールデングラブ賞・ベストナインのタイトルを獲得。チームのリーグ連覇に大きく貢献し、パ・リーグシーズンMVPに選出。星野仙一監督からは、北京五輪代表のエースにも指名された。
クライマックスシリーズでは第2ステージで2勝をあげ、チームの日本シリーズ進出の原動力となった。2年連続で中日ドラゴンズと対決した日本シリーズでは、第1戦で先発し1失点13奪三振で完投、川上憲伸との投げ合いを制し勝利投手となった。1勝3敗で迎えた第5戦で再び先発し7回を1失点11奪三振で抑えるものの、味方打線が山井大介、岩瀬仁紀のリレーの前に1人の走者も出すことができず(完全試合=継投による達成のため参考記録)敗戦投手となり、ドラゴンズのシリーズ優勝を許したが、この好投が評価されシリーズ敢闘選手賞を受賞した。
2008年3月20日、対ロッテ戦で二年連続二度目の開幕投手を務め、完封勝利を挙げた
年度別投手成績
年度 | 球団 | 背 番 号 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
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2005年 | 日本ハム | 11 | 14 | 14 | 2 | 1 | 0 | 5 | 5 | 0 | .500 | 410 | 94.1 | 97 | 7 | 48 | 3 | 52 | 2 | 0 | 37 | 37 | 3.53 |
2006年 | 25 | 24 | 3 | 2 | 0 | 12 | 5 | 0 | .706 | 627 | 149.2 | 128 | 12 | 64 | 6 | 115 | 5 | 1 | 55 | 48 | 2.89 | ||
2007年 | 26 | 26 | 12 | 3 | 1 | 15 | 5 | 0 | .750 | 790 | 207.2 | 123 | 9 | 49 | 13 | 210 | 4 | 0 | 48 | 42 | 1.82 | ||
通算成績 | 65 | 64 | 17 | 6 | 1 | 32 | 15 | 0 | .681 | 1827 | 451.2 | 348 | 28 | 161 | 22 | 377 | 11 | 1 | 140 | 127 | 2.53 |
※表中の太字はリーグ最高。
タイトル・表彰・記録
タイトル
表彰
- 月間MVP - 1回(2007年8月)
- アジアシリーズMVP - 1回(2006年)
- クライマックスシリーズMVP - 1回(2007年)
- 日本シリーズ優秀選手賞 - 1回(2006年)
- 日本シリーズ敢闘選手賞 - 1回(2007年)
- オールスター出場 - 1回(2007年)
- オールスター優秀選手賞 - 1回(2007年)
- フレッシュオールスター優秀選手賞 - 1回(2005年)
記録
- 公式戦12連勝 - 史上5人目(2006年5月30日 - 2007年4月14日)
- 高卒新人の初登板初勝利 - 史上12人目(2005年6月15日)
- 高卒新人の完封勝利 - 史上14人目(2005年9月18日)
- 20歳以下の日本シリーズ勝利 - 史上5人目(2006年、第5戦)
- 2試合連続14奪三振以上(9回まで) - 史上2人目(2007年3月30日 - 4月7日)
- 日本シリーズ1試合13奪三振 - 史上3人目(2007年10月27日)
- 同一日本シリーズ24奪三振 - 歴代2位(2007年 なお、5試合での奪三振数では歴代1位である)
初記録(投手記録)
- 初登板・初先発:2005年6月15日、対広島東洋5回戦(札幌ドーム)
- 初奪三振:同上 ― 4回表無死、打者:グレッグ・ラロッカ
- 初勝利:同上
- 初完投:2005年8月6日、対西武13回戦(札幌ドーム)
- 初完封:2005年9月18日、対東北楽天20回戦(札幌ドーム)
初記録(打撃記録)
CM
- JR北海道(2006年3月のダイヤ改正関連。北海道限定)
- 久光製薬エアーサロンパスEX(2007年3月 - 。東北高校で1年先輩であったプロゴルファー・宮里藍と共演)
- ダイドードリンコ「D-1 COFFEE」(2008年 - 。日本ハムの先輩である新庄剛志の後任として出演)
- 宝酒造 タカラCANチューハイ「直搾り」(2008年3月18日 -)
登場曲
- COLOR「涙が落ちないように」
関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- 北海道日本ハムファイターズの選手一覧
- 鶴岡慎也 バッテリーを組む女房役
- 佐藤義則 二軍時代から指導したプロでの恩師
- 涌井秀章 同期で親友
- サエコ 妻
- 金森敬之 全羽曳野ボーイズ時代の一年先輩で現在のチームメート
外部リンク
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監督 |
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88梨田昌孝 |
コーチ |
78福良淳一(ヘッド)|74厚沢和幸(投手)|81吉井理人(投手)|77中島輝士(打撃)|82平野謙(打撃)|89真喜志康永(内野守備)|87清水雅治(外野守備走塁) |
二軍監督・コーチ |
72水上善雄(監督兼内野守備)|80野村収(投手)|73島崎毅(投手)|71山中潔(バッテリー)|76大村巌(打撃)|83荒井幸雄(打撃)|75川名慎一(外野守備走塁) |
投手 |
11ダルビッシュ有|12歌藤達夫|13須永英輝|14グリン|16多田野数人|17宮本賢|18藤井秀悟|19中村泰広|20糸数敬作|21武田久|22建山義紀|25宮西尚生|27江尻慎太郎|28金澤健人|29八木智哉|30坂元弥太郎|34吉川光夫|35木下達生|36マイケル中村|38武田勝|42スウィーニー|43星野八千穂|44山本一徳|46植村祐介|47菊地和正|48津田大樹|49内山雄介|57松山傑|59金森敬之|60伊藤剛|66ダース・ローマシュ匡|67豊島明好|68浅沼寿紀 |
捕手 |
2高橋信二|32中嶋聡(バッテリーコーチ兼任)|37小山桂司|56駒居鉄平|62今成亮太|63渡部龍一|64鶴岡慎也 |
内野手 |
3田中賢介|4飯山裕志|5稲田直人|6中田翔|8金子誠|9小田智之|23尾崎匡哉|24陽仲壽|31小谷野栄一|33三木肇|39ボッツ|45今浪隆博|50市川卓|58高口隆行 |
外野手 |
1森本稀哲|7坪井智哉|10スレッジ|26糸井嘉男|40金子洋平|41稲葉篤紀|51村田和哉|52紺田敏正|53工藤隆人|54大平成一|55佐藤吉宏|65鵜久森淳志 |
北海道日本ハムファイターズ 2004年ドラフト指名選手 |
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1巡目:ダルビッシュ有 / 3巡目:橋本義隆 / 4巡目:マイケル中村 / 5巡目:市川卓 / 6巡目:菊地和正 7巡目:中村渉 / 8巡目:鵜久森淳志 / 9巡目:工藤隆人 |