完投
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完投(かんとう)とは、野球において、先発投手が試合終了時まで投手交代なく一人で投げることを指す。相手に得点を許さずに完投した場合は、特に完封といい、さらに安打を許さない完投をノーヒットノーラン(無安打無得点試合)、安打だけでなく四死球・失策すら許さなかった完投を完全試合という。また、勝敗は問わないので「完投負け」という逆のケースもありうる。
各国の野球リーグの草創期においては、まだ選手間の実力差が大きく、優秀な投手(エースピッチャーという)を代替できる投手がいなかったため、優秀な投手は完投することが一般的であった。しかし、リーグにおいて選手の実力や戦術が成熟していくと、先発・中継ぎ・抑えという投手間の役割分担が明確化するようになり、完投は次第に減少する傾向にある。ただし、完投できる投手の存在は、中継ぎ・抑えの負担を軽減化することから高く評価されており、完投という記録の価値が減少しているわけではない。
目次 |
[編集] 沿革
[編集] アメリカ
通算完投記録 | ||
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順位 | 投手名 | 完投数 |
1 | サイ・ヤング | 749 |
2 | パッド・ガルヴィン | 646 |
3 | ティム・キーフ | 554 |
4 | キッド・ニコルズ | 531 |
4 | ウォルター・ジョンソン | 531 |
6 | ボビー・マシューズ | 525 |
6 | ミッキー・ウェルチ | 525 |
8 | チャールズ・ラドボーン | 489 |
9 | ジョン・クラークソン | 485 |
10 | トニー・マレーン | 468 |
最初のプロ野球リーグは、19世紀後期のアメリカ合衆国で創設されたが、その当時、優秀な先発投手にとって、全ての先発試合を完投することはごく当たり前のことだった。アメリカ大リーグの通算完投数の最多記録は、1890年代から1900年代にかけて活躍したサイ・ヤングの749完投である。この時代は、まだ選手間の実力差が大きく、サイ・ヤングの完投記録は、野球記録分析者たちの間で二度と破られないであろう記録の一つに挙げられている。
20世紀に入ると、次第に完投数は減少していった。年間最多完投数の推移を見ると、19世紀後期はおよそ60完投 - 70完投の間を保っていたが、20世紀初期(1900年代 - 1910年代)に入ると約40完投 - 50完投前後へ減少し、1920年代に入ると、約30完投前後へとさらに減少していった。1940年代以降は、30完投を超える投手はほとんど見られなくなったが、それでも年間20完投以上する投手がほぼ毎年現れており、1970年代までその状態が続いた。
大きな変化が生じたのは1980年代初期のことである。この頃、投手起用法に関する研究が進み、先発した回数よりも一試合当たりの投球数が、投手への負担を大きく左右していることが実証的に明らかとなった。これを受けて、多くのチームは先発投手の負担を軽減するため、継投策を多用する傾向を強めていった。こうした動きに逆らったのが、完投主義者ビリー・マーティン率いるオークランド・アスレティクスである。1980年のアスレティクスは先発投手陣が完投を重ねていき、前年のチーム総計41完投をはるかに超える91完投を数え、見事優勝を果たした。ところが、翌81年、先発投手陣は軒並み不調に陥り、前年の過多な完投が先発投手陣に大きな負担を与えたためだとされた。これがエポック・メイキングとなり、大リーグでは完投主義が一気に後退していき、継投が主流となった。
1980年代後期になると、先発投手は中4-5日で登板し、一先発当たりの投球数は100球前後に制限するという起用法が一般的となり、1990年代以降、多い先発投手でも年間完投数は数完投にとどまっている。
[編集] 日本
通算完投記録 | ||
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順位 | 投手名 | 完投数 |
1 | 金田正一 | 365 |
2 | ヴィクトル・スタルヒン | 350 |
3 | 鈴木啓示 | 340 |
4 | 別所毅彦 | 335 |
5 | 小山正明 | 290 |
6 | 山田久志 | 283 |
7 | 若林忠志 | 263 |
8 | 米田哲也 | 262 |
9 | 野口二郎 | 259 |
10 | 東尾修 | 247 |
日本でもプロ野球草創期においては、エース投手が完投することが当然とされていた。1937年秋のシーズンに東京巨人軍の沢村栄治が先発全24試合で完投、1940年に東京巨人軍のヴィクトル・スタルヒンが42先発中41完投、同年に翼軍の野口二郎が31先発中29完投、1943年に阪神の若林忠志が先発全39試合を完投など、枚挙にいとまがないが、これらは特別な例ではなく、各チームのエースたちは当たり前のように完投していたのである。
日本プロ野球の年間完投数記録の上位者を見ると、最多は1947年に50先発で47完投した別所昭、以下、2位44完投の林安夫(1942年)、3位44完投の白木義一郎(1947年)らをはじめとして、20位までは1955年の金田正一(19位34完投)を除いて全て1940年代以前の記録である。
1950年の2リーグ分立後は、選手の実力が全体的に底上げされたこともあり、次第に完投数は減少していった。しかし、エース投手は完投すべきという観念は根強く残存し、各チームのエースたちもまたその期待に応えていた。こうした「完投主義」は長らく続き、1990年代初期ごろまで見ることができた。
日本プロ野球の通算完投数記録を見ると、最多365完投の金田正一(1950年代-1960年代に活躍)、次いで2位350完投のヴィクトル・スタルヒン(1930年代-1950年代に活躍)、3位340完投の鈴木啓示(1960年代-1980年代に活躍)というように、上位にもプロ野球草創期から1980年代までの名投手が満遍なく名を残しており、完投主義がいかに長い間日本プロ野球の支配的な観念であり続けたかを表している。
年間完投数の推移(5年おき) | ||
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年(試合数) | パシフィック (完投率) | セントラル (完投率) |
1950(パ120、セ136-140) | 390 (0.464) | 510 (0.461) |
1955(パ140、セ130) | 297 (0.260) | 303 (0.388) |
1960(130) | 226 (0.281) | 220 (0.282) |
1965(140) | 251 (0.298) | 206 (0.245) |
1970(130) | 244 (0.312) | 232 (0.297) |
1975(130) | 302 (0.387) | 165 (0.211) |
1980(130) | 270 (0.346) | 209 (0.267) |
1985(130) | 235 (0.301) | 176 (0.225) |
1990(130) | 223 (0.285) | 213 (0.270) |
1995(130) | 141 (0.180) | 139 (0.177) |
2000(135) | 107 (0.132) | 73 (0.089) |
2005(パ136、セ146) | 108 (0.132) | 71 (0.081) |
1950年代から1970年代前期まで、年間完投数のリーグ合計は、パシフィック・リーグ、セントラル・リーグともに200 - 300完投の間で安定的に推移していた。1970年代中期ごろからセントラルリーグのみ完投数が減少し始め、年間200完投を超えることがなくなっていった。1980年代に入ってもセントラルリーグの完投減少傾向に変化はなく、毎年150 - 200完投前後で推移していた。一方パシフィックリーグでは以前と変わらずに年間200完投以上が記録され続けており、パ・セ間の完投をめぐる状況は大きな差異を見せていた。
パ・セ間で完投数に大きな差が出た背景として、1975年からパシフィックリーグで指名打者制度が導入されたことがしばしば挙げられる(指名打者制度では通常、投手は打席に立たないので代打を送られることによる交代はない)。しかし、セントラルリーグにおいて完投数が減少した原因については必ずしも明らかとはなっていない。ただ、1974年に巨人の連覇をとめた中日ドラゴンズが、当時の近藤貞雄投手コーチによる分業論を採用し、星野仙一や鈴木孝政らの有力なリリーフ投手を擁していたことが影響しているという説がある。
完投主義の最後の光芒と呼べるのが桑田真澄、斎藤雅樹、槙原寛己の「三本柱」を擁していた1989年・1990年の巨人である。両年とも巨人がリーグ優勝を果たしているが、これは先発完投主義によるもので、1990年にはチームで70完投を記録している。
このようにながらく続いた日本の完投主義に大きな変化が生じたのは1990年代中期である。この時期、セントラル・リーグでは年間150 - 200完投前後だったのが年間100完投前後へと減少した。そればかりだけでなく、パシフィック・リーグにおいても2リーグ分立以降ずっと継続してきた年間200完投以上が、数年のうちに年間100完投前後へ一気に減少したのである。この大きな変化は、大リーグにおける投手起用法が日本プロ野球に導入されたためだと考えられている。すなわち、先発投手の1先発当たり投球数を100前後に抑制する起用法である。1980年代中期ごろから先発投手への負担過多を問題視する意見が唱えられており、1990年代に入るとそうした意見が更に強まった。この風潮を受けて、立花龍司らのような合理的なトレーニング理論を持った人材が、各チームのコンディショニング・コーチとして採用されると、先発投手に過大な負担をかける完投を必要以上に重視しない野球観がプロ野球に定着した。このため、1990年代中期のわずか数年間で、完投数に劇的な変化が生じたのである。
21世紀に入っても、年間完投数は両リーグとも100完投前後で推移している。しかし、セントラルリーグでは完投数の減少に歯止めがかかっていないのに対し、パシフィックリーグではエース格の先発投手には完投を望む考え方が根強く残っている。また、黒田博樹や松坂大輔らのように、エースを自負し、完投することに強い思い入れを持つという昔ながらの野球観を有する先発投手もわずかながら存在している。