鈴木啓示
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鈴木 啓示 Keishi Suzuki |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県西脇市 |
生年月日 | 1947年9月28日(60歳) |
身長 体重 |
181cm 86kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1965年 2位 |
初出場 | 1966年 |
最終出場 | 1985年 |
経歴 | |
野球殿堂(日本) | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 2002年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
鈴木 啓示(すずき けいし、1947年9月28日 - )は、兵庫県西脇市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督。左投げ左打ち。座右の銘は「草魂(そうこん)」。あだ名はクサ(草)。あるいは「スズ」(鈴)。スズと呼んだのは主に西本幸雄である。
元は右利き。4歳の時の右腕骨折の際、プロ野球選手に育てたいという父親の意向から左利きに矯正される。
目次 |
[編集] 来歴・人物
育英高等学校から1965年ドラフト2位で近鉄バファローズに入団。当初は阪神タイガースの1位指名が有力とされていたが、阪神は鈴木を指名しなかった(石床幹雄を指名)。新人の年にオールスターに出場し、同じ左腕で先輩の金田正一(巨人)にカーブの投げ方を習おうとしたら、「教えて欲しければ銭もってこい」と言われて、それまでの尊敬心から一転して敵愾心を燃やすようになる。後に金田がロッテの監督になったとき、ロッテ相手に勝ち星を稼ぎロッテキラーとなる。
入団1年目に10勝。翌年から5年連続20勝をあげエースに。1968年8月8日の対東映戦(日生球場)でノーヒットノーランを達成。1969年に24勝で最多勝。1971年9月9日対西鉄戦(日生球場)で2度目のノーヒットノーラン。速球派投手らしく1967年から1972年まで6年連続で最多奪三振に輝くが、1972年頃から奪三振数が半減し、投球内容の質も低下。
その後、1974年に就任した西本幸雄監督の指導により、力任せの直球主体の投球を改め制球・配球を重視する頭脳的なピッチングを構築していく。1975年、4年ぶりに20勝以上をあげ防御率も2.26。奪三振数は減少したが無駄な四球と失点も減少。1977年200勝達成、20勝で最多勝。翌1978年も25勝で2年連続最多勝、防御率2.02で最優秀防御率にも輝いた。同年に10試合連続完投勝利も記録。この年は見事な投球で往年の剛球が蘇り最多奪三振も記録。1979年・1980年にチームのリーグ優勝に貢献した。
1984年300勝達成。これを記念して同年12月9日、近鉄では上本町-鳥羽間に特急「草魂号」が運行された(担当乗務員の苗字を全員「鈴木」で揃えたというエピソードもある)。翌1985年7月9日対日本ハム戦で3回KOされ、翌日の7月10日に引退表明。この年、公共広告機構のコマーシャルに起用され「投げたらアカン」という言葉が流行語大賞を受賞したが、CMを通じて「人生、投げたらアカン」と語りかけていた本人が皮肉にも現役生活をシーズン途中で投げることとなった。鈴木引退の報を聞いた阪急・上田利治監督は、引退の花道にとオールスターゲーム(上田が同年の全パ監督)への出場を鈴木に持ちかけるも、辞退した。1986年3月16日、阪神とのオープン戦で引退セレモニーを行なった。
NHK野球解説者・スポーツニッポン評論家を経て1993年~1995年途中まで近鉄監督を務めたが、監督時代はエース野茂英雄投手や吉井理人投手らと野球観の違いから対立、両投手を二軍落ちさせた結果、1995年初めに野茂投手がメジャーリーグのドジャースへ、吉井投手がヤクルトへとそれぞれ移籍した。特に野茂への批判は痛烈を極め「あいつのメジャー挑戦は人生最大のマスターベーション」とまで言い切った。
現役時代の背番号1は、1985年以降はパ・リーグで唯一の永久欠番となっていたが、近鉄とオリックス・ブルーウェーブの合併によりこの永久欠番は廃止された。これは、球団と鈴木本人との協議で決めたものである(なお、パ・リーグの元プロ野球選手の永久欠番は過去にも西鉄ライオンズにも存在したことがあったが、こちらも身売りにより廃止されている。なお、オーナー・ファンなど選手以外の永久欠番は2006年現在も存在する)。2002年野球殿堂入り。
2005年5月、藤井寺球場で行われたトークショーにて、「自身が指導者に恵まれた現役時代でありながら、監督としてそれを活かす事が出来なかった」と述懐し、監督時代の反省の意を表明した。
現時点で最後のシーズン25勝投手(1978年)、300勝投手である。また、通算先発288勝は歴代1位である。
[編集] 年度別投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966年 | 近鉄 | 46 | 6 | 3 | 1 | 10 | 12 | - | 189.0 | 163 | 24 | 54 | 160 | 67 | 3.19(18) |
1967年 | 44 | 19 | 4 | 10 | 21 | 13 | - | 276.0 | 230 | 36 | 47 | 222 | 85 | 2.77(12) | |
1968年 | 57 | 18 | 7 | 1 | 23 | 21 | - | 359.0 | 273 | 41 | 97 | 305 | 99 | 2.48(4) | |
1969年 | 46 | 28 | 7 | 6 | 24 | 13 | - | 330.2 | 265 | 34 | 83 | 286 | 92 | 2.50(6) | |
1970年 | 45 | 22 | 3 | 6 | 21 | 14 | - | 313.2 | 261 | 36 | 80 | 247 | 96 | 2.75(6) | |
1971年 | 43 | 25 | 7 | 3 | 21 | 15 | - | 291.1 | 221 | 39 | 115 | 269 | 104 | 3.22(7) | |
1972年 | 43 | 14 | 5 | 0 | 14 | 15 | - | 242.0 | 213 | 32 | 111 | 180 | 92 | 3.42(11) | |
1973年 | 30 | 14 | 4 | 0 | 11 | 13 | - | 171.2 | 127 | 26 | 97 | 119 | 65 | 3.40(18) | |
1974年 | 36 | 14 | 3 | 1 | 12 | 15 | 1 | 229.0 | 195 | 20 | 70 | 141 | 82 | 3.22(15) | |
1975年 | 33 | 18 | 3 | 6 | 22 | 6 | 0 | 239.1 | 191 | 22 | 51 | 107 | 60 | 2.26(2) | |
1976年 | 37 | 24 | 4 | 6 | 18 | 15 | 0 | 265.2 | 241 | 25 | 47 | 129 | 79 | 2.67(9) | |
1977年 | 39 | 24 | 7 | 8 | 20 | 12 | 1 | 267.2 | 225 | 20 | 43 | 144 | 70 | 2.35(2) | |
1978年 | 37 | 30 | 8 | 10 | 25 | 10 | 0 | 267.2 | 234 | 21 | 49 | 178 | 66 | 2.02(1) | |
1979年 | 24 | 6 | 1 | 0 | 10 | 8 | 0 | 134.2 | 148 | 23 | 41 | 91 | 66 | 4.40(19) | |
1980年 | 26 | 12 | 2 | 1 | 14 | 8 | 0 | 179.0 | 161 | 32 | 55 | 100 | 77 | 3.87(9) | |
1981年 | 22 | 8 | 0 | 3 | 5 | 11 | 0 | 123.0 | 142 | 17 | 29 | 42 | 70 | 5.12 | |
1982年 | 24 | 16 | 0 | 5 | 11 | 10 | 0 | 190.1 | 199 | 34 | 36 | 100 | 79 | 3.74(14) | |
1983年 | 28 | 23 | 3 | 7 | 14 | 11 | 0 | 226.0 | 232 | 31 | 32 | 101 | 93 | 3.74(14) | |
1984年 | 28 | 17 | 0 | 4 | 16 | 10 | 0 | 213.0 | 217 | 30 | 50 | 102 | 89 | 3.76(10) | |
1985年 | 15 | 2 | 0 | 0 | 5 | 6 | 0 | 65.0 | 91 | 17 | 29 | 38 | 57 | 7.89 | |
通算成績 | 703 | 340 | 71 | 78 | 317 | 238 | 2 | 4600.1 | 4029 | 560 | 1216 | 3061 | 1588 | 3.11 |
[編集] 通算打撃成績
- 通算試合 713試合
- 通算打率 .209
- 通算安打 172本
- 通算本塁打 13本
- 通算打点 70打点
- 通算盗塁 0盗塁
- 通算犠打 47個
- 通算犠飛 2本
- 通算四球 32個
- 通算死球 2個
- 通算三振 175三振
- 通算併殺打 17個
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝 3回(1969、1977~1978)
- 最高勝率 1回(1975)
- 最優秀防御率 1回(1978)
- 最多奪三振 8回(1967~1972、1974、1978)
- ベストナイン 3回(1969、1975、1978)
- オールスターゲーム選出 15回(1966~1973、1975~1978、1980、1983~1984)
- ノーヒットノーラン 2回(1968.8.8、1971.9.9)
- MVP 1回(1978年後期。シーズンMVPは山田久志)
- MIP 1回(1978年後期。当時存在した表彰で、半期ごとに選出。最も印象に残る活躍をした選手に贈られたらしい。)
- 野球殿堂入り(2002)
- 10試合連続完投勝利(1978年達成。当時の日本記録で、現在もパ・リーグ記録。破ったのは斎藤雅樹である)
- 150勝(1974年6月25日、対ロッテ)
- 200勝(1977年4月26日、対ロッテ)
- 250勝(1979年9月20日、対南海)
- 300勝(1984年5月5日、対日本ハム)
- 1500奪三振(1972年4月22日、対南海)
- 2000奪三振(1975年8月27日、対阪急)
- 2500奪三振(1979年4月17日、対日本ハム)
- 3000奪三振(1984年9月1日、対南海)
- プロ野球新の74試合無四球試合(1983年10月5日、対阪急。最終的に78試合まで記録を伸ばす。)
- 700試合登板(1985年6月4日、対南海)
- 通算340完投 (パリーグ記録)
- シーズン30完投 (1978 パリーグ記録)
- 通算71完封勝利 (パリーグ記録)
- シーズン20勝以上 8回 (1967~1971、1975、1977、1978)
- 開幕投手 14回(金田正一と並ぶプロ野球記録)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム本塁打 | チーム打率 | チーム防御率 | 年齢 | 球団 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1993年 | 平成5年 | 4位 | 130 | 66 | 59 | 5 | .528 | 7 | 145 | .258 | 3.62 | 46歳 | 近鉄 |
1994年 | 平成6年 | 2位 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 7.5 | 169 | .274 | 4.24 | 47歳 | |
1995年 | 平成7年 | 6位 | 130 | 49 | 78 | 3 | .386 | 32 | 105 | .234 | 3.97 | 48歳 |
- ※1993年から1996年までは130試合制
[編集] 監督通算成績
- 348試合 167勝171敗10分 勝率.494
[編集] 背番号
[編集] 著書
- 『投げたらアカン!―わが友・わが人生訓』(1985年4月 恒文社 ISBN 477040607X)
- 『男の人生にリリーフはない―男は誰も長距離ランナー、投げたらアカンのや!』(1985年6月 徳間書店 ISBN 4195030870)
[編集] 現在の出演番組
[編集] エピソード
- 若い頃はセの江夏、パの鈴木と並び称された奪三振の多い投手であった。二人とも左投手で、1967年から1972年にかけて毎年リーグ最多奪三振を記録した点も同じである。
- 牽制球の技術に優れ、盗塁王の福本豊が神部年男と並んでもっとも苦手にしていた投手である。福本は8mmフィルムによる投手の研究に力を入れたが、そのきっかけは鈴木、神部対策だった。
- 1983年、鈴木康二朗がヤクルトから近鉄に移籍してきたことで、鈴木姓の投手が2名となる。そこでスコアボード、新聞などに"鈴木啓"と表記されるのを嫌った鈴木啓示が「オレは今までどおり"鈴木"でいい。あっちを"鈴木康"にすればすむことだろ。」と発言したが、球団は認めず"鈴木啓"表記を使用。しかし後年、"鈴木啓"と表記されたのと共に実況放送やスポーツニュースなどでフルネームで呼ばれる機会が増えたためか「名前を正しく覚えてもらえた。」と新聞の取材で語っている。
- 鈴木は1984年に史上6人目の300勝を達成したが、この際に滅多に出ない大記録であったためか、球団主導で「鈴木投手の300勝は何月何日?」とファンに予想してもらう企画があった(なお1983年シーズン終了時点であと4勝に迫っていたため、1984年中の達成は確実と見られていた)。
- 鈴木が引退を決意し、恩師・西本幸雄に報告しに行った際に、西本は鈴木の話を聞いて「おお、スズ。お前の目はもう死んでる。長い間ご苦労さんだった」と鈴木をねぎらった。
- 最後の登板時、いつも次の投手にボールを渡していた鈴木が、初めてボールを持ったままマウンドを降りた。すでにこの時点で引退を決めていたといわれ、このボールが、鈴木の手元に残った唯一のメモリアル・ボールとなった。
- 通算300勝を達成した際にも、チームメイトから譲られたウイニングボールをスタンドに投げ入れていた。
- 先発・完投をモットーとしたこともあり、通算317勝のうち救援勝利はわずか29。そのほとんどは「交代完了」で、救援してさらに他の投手の救援を得て勝利投手となったのは、通算2回しかない。
- 鈴木が近鉄の監督を務めた頃、のちに日米をまたにかけて活躍する野茂や吉井を二軍に落としたというエピソードは、振り子打法を理解できずイチローを二軍に落とし続けた土井正三のそれと酷似している。また、それによって指導者としての評価を左右する大きな瑕疵がついてしまったという点も共通している(ただし、イチローはまだ当時は実績の無い若手であったのに対し、野茂・吉井はすでに大きな実績をあげていた)。
- 鈴木・野茂の双方とも親しい江夏豊は、複雑な心境を自著の中で述べていた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1995年は8月8日まで指揮。
投手(通算200勝以上) |
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金田正一 - 小山正明 - 米田哲也 - 鈴木啓示 - 堀内恒夫 - 山田久志 - 平松政次 - 東尾修 - 村田兆治 - 北別府学 - 工藤公康 |
投手(通算250セーブ以上) |
佐々木主浩 - 高津臣吾 |
野手(通算2000本安打以上) |
山内一弘 - 野村克也 - 長嶋茂雄 - 広瀬叔功 - 張本勲 - 王貞治 - 土井正博 - 高木守道 - 松原誠 - 柴田勲 - 藤田平 - 衣笠祥雄 - 福本豊 - 山崎裕之 - 山本浩二 - 有藤通世 - 若松勉 - 谷沢健一 - 加藤英司 - 門田博光 - 大島康徳 - 新井宏昌 - 秋山幸二 - 駒田徳広 - 立浪和義 - 鈴木一朗(イチロー) - 清原和博 - 古田敦也 - 野村謙二郎 - 石井琢朗 - 松井秀喜 - 田中幸雄 - 前田智徳 - 金本知憲 |
故人 |
投手/稲尾和久 - 梶本隆夫 - 皆川睦雄 - 村山実 野手/江藤慎一 - 大杉勝男 |
名誉会員(マスターズリーグとの通算で資格基準を満たした選手) |
松永浩美 |
有資格者(退会もしくは参加を辞退・保留している選手) |
榎本喜八 - 江夏豊 - 落合博満 - 野茂英雄 |
その他の成績条件達成選手(昭和以前生まれ) |
ヴィクトル・スタルヒン - 若林忠志 - 野口二郎 - 別所毅彦 - 中尾碩志 - 藤本英雄 - 川上哲治 - 杉下茂 |
近鉄バファローズ 1965年ドラフト指名選手 |
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1位:田端謙二郎 / 2位:鈴木啓示 / 3位:長井繁夫 / 4位:飯田幸夫 / 5位:松原良明 / 6位:田中章 / 7位:渡辺立也 / 8位:得津高宏 / 9位:金子準一 |