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福本豊 - Wikipedia

福本豊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

福本 豊
基本情報
出身地 大阪府大阪市生野区
生年月日 1947年11月7日(60歳)
身長
体重
169cm
68kg
選手情報
投球・打席 左投左打
守備位置 外野手
プロ入り 1968年 7位
初出場 1969年
最終出場 1988年
経歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 2002年
選出方法 競技者表彰
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

福本 豊ふくもと ゆたか1947年11月7日 - )は元プロ野球選手野球解説者である。通算盗塁数の元・世界記録保持者(現在は日本記録)、「世界の福本」の異名を持つ。大鉄高校から松下電器を経て、1969年、阪急にドラフト7位で入団。


目次

[編集] 来歴・人物

ルーキーイヤーの1969年から一軍に出場、初出場は代走で盗塁を試みるも失敗に終わった。

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で盗塁王を獲得。1972年には世界記録(当時)となるシーズン106盗塁を記録し、チームのリーグ優勝に大きく貢献、史上初となるMVP・盗塁王のダブル受賞を果たす。その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得。1977年9月にそれまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録を更新し、更に1983年6月3日には当時ルー・ブロックが保持していた世界記録を更新する通算939盗塁を記録。同年9月1日のロッテオリオンズ戦では田村勲投手からセンター前への安打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打も達成した。翌1984年8月7日には前人未到の1000盗塁に到達。その後記録を1065まで伸ばし、1988年、40歳で現役を引退した。

身長168cmという野球選手としては小柄な体格ながら、パンチ力と確実性を兼ね備えたバッティング(通算本塁打208本、通算2543安打)と、歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打を記録した俊足、そしてその俊足を生かした広い守備範囲を誇る外野手(主に中堅手)として、山田久志今井雄太郎加藤英司らと共に阪急黄金時代の原動力としてチームを牽引した。その総合的な能力の高さから、現在でも「史上最強の1番打者」との呼び声が高い。

現役引退後は1989年から1991年までオリックスの打撃コーチ、二軍監督を務め、1998年から1999年まで阪神タイガースの打撃コーチや守備走塁コーチを歴任した。現在は朝日放送サンテレビ野球解説者スポーツ報知評論家。軽妙な語り口とユーモラスなコメントを交えて内容は手厳しいが比較的公平な視点から批評するため人気があり、ファンの間では『福本語録』(後述)として親しまれている。

2002年野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、現在も日本身体障害者野球連盟の名誉理事長を務めている。また、2006年1月からは阪南大学野球部の特別コーチにも就任している。2007年、第五回グッドエイジャー賞を受賞。

[編集] エピソード

[編集] アマチュア時代

  • 高校時代、野球部員のあまりの多さから、レギュラーの座に就くことを諦めて球拾いに専念していた。そんなある日の練習中、ライトの守備に就き内野を守っていた他の選手のファーストへの送球が逸れ、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価されて、以降ライトのレギュラーに指名された。(以上ナンバ壱番館の再現VTRによる)
  • ナイトinナイト・ナンバ壱番館』や講演会で本人が語ったところによると、松下電器時代、既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤英司を目当てに来たスカウトの目に留まったことが、阪急入団のきっかけだったという。スカウトが見ている時に限って本塁打を打ったりホームへ好返球をしたりという偶然が重なり、勘違いで認められたと語っていた。また「君はもう少し背があればねぇ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝したこともあり、それが逆に「プロ向きのいい根性を持っている」とまたも勘違いされてしまい、これもプロに指名されるひとつの要因になったのではないかとも語っていた。
  • 本人は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っているが、社会人3年目の1968年には社会人ベストナインのタイトルを獲得している。
  • 松下電器時代、先輩のふりをした年下の加藤英司に、「おい、ボール片付けとけ!」と命令されたが、後で気が付き一喝した。
  • 阪急入団時、福本の父親は他球団の系列の食堂で働いていたが、息子の入団に際し、阪急への恩を感じ職場を退職した。
  • 本人はドラフトで阪急に指名されたことを全く知らず、翌朝松下電器の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て、「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と返され、そこで初めて指名を知ったという。
  • さらにドラフト指名後、阪急からまったく連絡がないまま数日が過ぎ、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。
  • その後目出度く阪急球団から獲得の挨拶に来た球団職員に肉料理に連れてって貰い、「プロなったらこんなに美味しい肉が食えるのか!!!!」と思ったが様々な理由があり態度を保留していたら何度も食事に誘ってもらい、断りにくくなって4回目の食事の時に入団を決意した。

[編集] 現役時代

[編集] 盗塁術

  • 社会人時代、足の速さが注目され、南海ホークスが早くから注目していたが、168cmの小柄な身長がネックとなり、当時の鶴岡一人監督に獲得をあっさり却下されてしまう。
  • その後打力が付きレギュラーとして定着はしたが、出塁すると牽制死、盗塁失敗の毎日だった。そんなある日、自分が野球選手だったという証を残すため、8ミリカメラで試合を撮影してもらって、自宅でその映像を見ていた時のこと。偶然、投手の体の動き(癖)が投球と牽制で違うことに気づき、これによって盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。このフィルム撮影はその後球団の手で行われることとなった(2006年放映のNHK-BSの番組による)。
  • NHK特集 盗塁王・福本豊~939世界新記録」によれば、「福本の脚がチームメイトの松永浩美などと比べて特別速いというわけではなく、福本の走塁は、左右の歩幅が一定で横に広がらない、陸上短距離選手が理想とするような走り方である」と足跡を収めた映像を交えて実証していた。
  • 1年目2盗塁だったのが、2年目にいきなり75盗塁出来たのは、東京五輪の400m選手が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。
  • 106盗塁を達成した年は神部年男が大の苦手で、天敵とも言える存在であった。神部から何としても盗塁をしたいと考えた福本は、何回も8ミリフィルムの映像を観察、その結果、軸足が2mmほど動いたらホームへ投げる癖があるということを見抜き、翌年は天敵の神部の攻略に成功した。
  • 盗塁における福本の一番のカモは、リーグでも牽制がうまい西武ライオンズ東尾修だった。顔を合わせる毎に「オレの弱点は何なのか教えてくれ」と聞いてきて、あまりにしつこいのであっさり教えてしまう。東尾はそれを基に、次の対戦までに癖を直してきたが、福本は更に、癖の修正によって生まれた新たな癖を発見したという逸話がある。この事から、福本はただ研究熱心であっただけでなく、癖を見破る才能にも天性のものを持っていたと言える。ただこの件に関しては、発見したのが自身ないし東尾の引退間近の頃だったため、再び隙をつく機会が得られず、そのため引退後も度々悔しがっていた。
  • 現在、盗塁対策として広く投手に用いられているクイックモーションは、南海ホークス野村克也が、福本の執拗な盗塁に対抗する手段として編み出したものである。ちなみに、野村は福本が二盗を試みると、二塁にわざとワンバウンドの送球を投げ、脚にぶつけることも考えていた。野村は後に「脚に球をぶつけて怪我をさせようとしたが実際には背中に球が当たってしまい、西本監督に(怪我させるという)狙いがばれてえらい怒られた」と語っている(『NANDA!?』2003年9月放送)。また野村は、福本をイニングの先頭打者として迎えたくない思いから、二死走者無しの状態で9番の投手を四球で歩かせ1番の福本と勝負するという策も用いたことがあるが、これも一度は成功したものの、二度目には西本に狙いがばれ投手をわざと盗塁死させたため、策は失敗に終わったという(同じく『NANDA!?』より)。
  • 巨人は、日本シリーズで阪急と対戦することを想定し、牽制球で一塁にわざと勢いのある悪送球を投げ、一塁側の内野フェンスにはねかえったボールを送球して、二塁で福本を封殺する練習を繰り返していた(もっとも、実行する事は結局なかった)。
  • 近鉄バファローズ梨田昌孝は2塁送球の時間を短縮するため、福本が出塁すると右足を半歩下げて構えていたという。
  • つま先からやわらかくベースに触れる、足を傷めない独自のスライディングを自ら工夫して編み出した。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。(ヘッドスライディングの危険性については引退後も度々解説の場などで口にしている)
  • 以上の通り、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781であり、優秀ではあるが飛び抜けて高いわけではない。福本の盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。
  • 1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島カープ高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、コツはたった一言「気合いや」だったので面食らったという。なお、福本は第1戦の3回裏、安打で出塁するとすぐに盗塁を成功させた。同じ試合で高橋も9回に三盗を成功させている。
  • これだけの実績を誇る“盗塁王”だが、意外にもホームスチールの成功率は低く、7回試みて1回しか成功させたことがない。

[編集] 打撃・守備

  • 盗塁ばかりでなく、打撃においても優秀な選手であったことは、2500本安打を達成、.291という優秀な終身打率(8000打数以上の選手の中では歴代4位)からも証明されている。特に現役後半年は、藤原満(元南海)らが使用していた径の太い「つちのこバット」を用い、短打で出塁してから盗塁を狙うというスタイルで相手投手から警戒された。この戦法は後の俊足打者にも強い影響を与え、大石大二郎(元近鉄)らもつちのこバットを愛用している。
  • 小柄ながらパワーもあり、シーズン2桁本塁打を20年間で11度記録し、2007年に読売ジャイアンツの高橋由伸に更新されるまではシーズン初回先頭打者本塁打の日本タイ記録(1972年の8本)保持者でもあった。なお、通算数においては現在も日本記録を保持している(43本)。
  • 盗塁のために投手の癖を盗むことに執心したのは既述の通りだが、打撃においてはその研究が生きなかったことが多かったという。癖を盗むことで球種などを読むことは出来たが、それによって逆に気負ってしまい、フォームが崩れるなどして結果にはつながらなかったとのこと。
  • シーズン最多安打も、通算で4回記録している。これはイチローに抜かれるまではパ・リーグ記録で、現在も榎本喜八ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である。また1977年には、30試合連続安打を達成している(プロ野球歴代4位タイ、パ・リーグ歴代3位)。
  • 1974年7月22日西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦、阪神タイガース田淵幸一が放ったホームラン性の打球をフェンスの上までよじ登ってキャッチし、アウトにした。これを見た読売ジャイアンツ長嶋茂雄「あれは人間業ではありません」とコメントを残したが、超人的な守備で知られた長嶋をしてこう言わしめたのは、後にも先にも福本のこのプレーのみである。ちなみに福本は、このファインプレーに加えてホームランも1本放ち、この試合のMVPに輝いている。
  • 1985年三塁打、現役最後となった1988年に二塁打の通算記録を更新し、一時は盗塁と合わせて3つの通算記録を保持していた。このうち二塁打は2005年に立浪和義に破られたが、2008年現在もパ・リーグ記録である。

[編集] 記録など

  • 当時の世界記録である939盗塁を達成した西武ライオンズ球場での西武ライオンズとの試合では、大差で負けていたにも関わらず何度もしつこい牽制球が来るため、それに反発して走ってやろうかと思いに駆られ、また、わざわざ記録達成を見に来てくれたファンにも報いなければという気持ちもあったという。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。
  • 盗塁の世界記録を更新後、中曽根康弘首相から国民栄誉賞を打診されたが、「そんなんもろたら立ちションもでけへんようになる」と固辞した。またこの時、世界記録達成を記念して、特例による名球会入会が認められたが、これも固辞。同年2000本安打を達成し、正式に入会を果たした。
  • 福本の持っていた通算盗塁数の世界記録は、リッキー・ヘンダーソンによって1992年に破られているが、その折には渡米しヘンダーソンを直接祝福している。福本はヘンダーソンの肉体能力、特に盗塁の一歩目を「自分の筋力ではできない」と絶賛、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と評している。
  • 17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度のパ・リーグタイ記録をそれぞれ持っている。また2008年現在、阪急・オリックス球団出身の生え抜き選手として唯一、2000本安打、2000試合出場を記録している。
  • 現役時代の背番号「7」は、オリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっておらず、これについては阪急・オリックスファンから根強い批判があった。2001年には福本公認の下、進藤達哉に背番号7が与えられたが、進藤はその年横浜ベイスターズから移籍してきたばかりの選手であったため、これもまたファンの間で物議を醸した。進藤が引退した後は日高剛が背番号7をつけ、2004年、近鉄と合併してオリックス・バファローズになった現在は、準永久欠番扱いも失効している。

[編集] その他

  • 夫人は一切野球に興味がなく、夫が野球選手であることも知らなかった。福本も福本で「松下から阪急に転職するから」としか説明せず、そのため夫人は、夫が阪急電鉄の駅員として働いているものと思い、各駅を探し回っていた。そのうちに駅員から「もしや、あなたの探しているのは盗塁王の福本では?」と教えられ、初めて事実を知ったという。
  • 夫人から『ユタカちゃん』と呼ばれていたことが南海の野村克也の耳に入り、南海戦では野村から絶えずそのことを打席でささやかれていた。「あれが一番カクッときた」と本人が語っていた。
  • 若くして結果が出始めた頃は、増長して失敗を犯したこともあった。試合中、盗塁を目論んで1塁から良いスタートを切れたにも関わらず、バッターボックスの大熊忠義がファールをしてしまった事に対して、「あれ、いけましたで(大熊がファールにしなければ盗塁が成功したという意味)」と言ってしまったためにしばらく盗塁へのアシストを得られなくなってしまったという。なお大熊とは後に和解している。
  • 打撃練習の際、三塁側へ「当て逃げ」のようなバッティングを繰り返していたら、西本幸雄監督から「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」と叱られたと、後年野球中継の解説中に語っていた(文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」にも同趣旨の内容が記されている)。この体験が後年の、足のある選手でも当てるだけではなくしっかり弾き返す打撃をしなければならない、という指導者・評論家としての持論に反映されているものと思われる。
  • 1972年のシーズン、球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。この保険は福本が引退するまで継続されたが、人一倍体調管理に神経を使った福本は現役中一度も足を怪我しなかったため、保険金も支払われることなく終わっている。
  • 1983年3月、ナゴヤ球場にて行われた中日ドラゴンズとのオープン戦にて、前年に現役引退を表明していた中日・星野仙一の最後の対戦相手となる。星野の引退試合ということで、球場は中日ファンで満員。オープン戦ということもあり、先発投手として登板した星野に対し、三振に切って取られることで花道を作る予定だったが、あまりに遅いストレートについ手が出てしまい、本気で左へ流し打ちしてしまう。結果レフト前ヒットとなり、中日のエースの現役最後の勇姿を期待して球場へ駆けつけた大勢の中日ファンを、完全に呆れさせてしまった。
  • 1983年4月、西宮球場で開かれた球団のPRイベントにおいて、バンプ・ウィリスとともにと競走して勝利した。ただし、馬は慣れない場所だったためか、全力では走っていなかった。
  • 1988年、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦、上田利治監督が試合後の挨拶で、「去る山田、そして残る福本」と言うつもりだったもの、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展してしまう。そして渦中の福本は、殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま現役を引退した。この出来事以前から引退について考えていたかどうかは不明である。後年「ナンバ壱番館」(朝日放送)でこの時の事について、「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも語っており、「いつみても波瀾万丈」(日本テレビ)では「体力的にはあと3年はやれたけどね」と笑顔で振り返っていた。しかし、実際は福本は阪急が無くなるこの年限りでの引退を決めており、監督には伝えたがフロントにはまだ話していなかったのでフライングで発表されて驚いたのが真実のようである。
  • ヒッティングマーチはイチローへと引き継がれた。
  • 古巣の阪急ブレーブスも無く、西宮球場も無くなった現在「僕にはもう帰るところがないからね」と語っている。
  • 長男は会社員。次男は高校野球部専属コーチ。

[編集] コーチ時代

  • 阪神タイガースのコーチ時代、1999年に就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われ、三塁ベースコーチを任せられたが、選手にバッティングのことばかり指導していたために、同年限りで辞任させられる。これは「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁出来る確率も少ない。出塁が出来なければ盗塁も出来ない」という持論に沿ったものであった。

[編集] 解説者として

  • 解説者としては、リードオフマンとしての攻撃面や守備・走塁に対しての厳しい批評や、比較的公平な評論などで評価が高い。ヘッドスライディングを行った選手に対して「到達時間が変わらないのに怪我をする確率が高くなる」、牽制球に対して手からの帰塁に関して「手から行ったらアカンて、足から帰りなさい。怪我するだけや」と、この2つに関しては特に口酸っぱく語っている(実際、阪神在籍時の濱中治は牽制で手から帰って右肩関節唇を損傷して選手生命の危機に陥り、同じく阪神在籍時の沖原佳典も牽制で手から帰った際にベースで突き指をして骨折、それを境にレギュラー争いから脱落した。また広島の中東直己も牽制で手から帰った際に相手チームの野手と交錯して右手指4本を捻挫している)。
  • 一見ファインプレーに見える守備でも「スタートが悪い」「打者の特徴を考慮した守備位置ではない」と指摘したり(スライディングをしてフライを捕った濱中に「お客さん喜ぶやろうけど、わざわざスライディングせんでも捕れるわね」と言った)、2003年の阪神タイガース対福岡ダイエーホークスの日本シリーズの勝敗予想では、関西のテレビ番組であったにもかかわらずダイエーの勝利を予測したりしていた。

[編集] 福本語録

野球中継(朝日放送サンテレビボックス席)の解説においては、先のような自らの経験に裏打ちされた優れたコメントだけではなく、およそ解説者らしからぬ数々のユーモラスなコメントも残しており、関西では川藤幸三と並んで人気が高い(内容自体は川藤に比べるとはるかに技術的・論理的)。特に楠淳生アナウンサーや中田良弘中西清起とのコンビは、放言・脱線の多さから「居酒屋中継」の名で呼ばれている。

  • 阪神横浜戦、投手戦で0が並んだスコアボードをみて「うわー、たこ焼きみたいやねぇー」(本人いわく「長い試合でね、寒いわ、腹減るわでどっちが勝ってもええからはよ終われ、思てたらポッと出たんですわ」)
    • これ以降、ゼロが並ぶスコアボードが各所で『たこ焼き』と呼ばれるようになった。
  • その後、この試合で1点が入り、スコアボードの「1」を見て「たこ焼きに爪楊枝がついたな
  • 打者が振り遅れのスイングをして「着払いやね」(2005年のある時、この発言の直後その打者(広島東出)がホームランを打ったこともある。ちなみに2005年シーズン東出のホームランはこの1本だけだった)
  • 阪神が大型連敗を脱出して「オセロならひっくり返るんやけどねぇー」
  • 甲子園で試合が長引いたとき応援している観客を見て「加古川より向こうの人帰られへんね」(加古川は甲子園のある西宮から遠いため)
  • 日曜日の東京ドームの対巨人戦で試合終了前に早々と帰る観客を見て「明日仕事やもんね」
  • ベンチで3人並んで座る打ち込まれた投手に「左からアン、ポン、ターンって感じやねぇー」
  • 序盤でリードしている展開で雨脚が強くなり、早く試合を成立させなければならない状況で粘って四球を選んだ田中秀太に「選球眼はええけど頭は悪いね
  • アナウンサーの「福本さん、今のプレーどうですか?」に対して「ごめん、見てへんかった」(選手の守備位置など他の箇所を見ていたため。)
  • アナウンサーの「福本さん、今のプレーまずいですね。」に対して「まずいねぇ。うどんの方がよっぽど、うまい
  • アナウンサーの「林(威助)はさらなる打撃向上のためどうしたらいいですか?」に対して「これ以上て・・・五割目指すん?
  • 4点差がついた試合のとき、アナウンサーの「4点差です。この回どうやって攻めていきましょうか?」に対して「まず4点取らないかんね」。ちなみにこのセリフはラジオコマーシャルで用いられている。
  • 大雨の中、グラウンドに砂を大量に入れて整備中「砂ないんちゃうか?明日買いに行くんやろ」
  • ナゴヤドームで勝てない阪神について「どうしてですかね?」福本「屋根があるからちゃう?
  • 阪神の快進撃に話が及んで「タイガース突っ走りそうですか?」と尋ねられ「突っ走ったらえらいこっちゃでぇーせないかんこといっぱいあるで
  • 「6月に入ってきました、福本さん6月はどんなイメージですか?」と尋ねられ「雨降ったら中止!!
  • 阪神対巨人戦で阪神が猛攻のとき「止まりませんね」と尋ねられ「止まらんがな
  • 阪神の連勝が続いたことに対して「確変やね」
  • 阪神の夏季長期ロードを乗り切るための秘訣を問われ「横になる(横たわって寝る)こと
  • ジミー・ペイジロバート・プラントがページ&プラントとしてコンサートツアーで来阪の際、居酒屋で呑んでいたところ福本と遭遇。「外人?知らんわ。おっちゃんらバンドやっとんのん?
  • 技術的な説明を求められても擬音語で表現することが多い(もともと関西人は多用する表現である、一部では祗園祭をもじって「擬音祭」と呼ばれることもある。)
    • (例)「キャーン」「ピーン」「ポコーン」「ゴーン」「カーン」「ギャーン」「プイ」「ピュッ」「ポイ」「チョン」「ブワー」「ビャー」「ホイサッサ」「ポンカラポンカラ」「カンカラカンカラ」など
  • 緩慢なプレーに対しては非常に厳しく「スカタン」「バカタレ」「カス」など容赦なく批判。
  • 阪神が不甲斐ないプレーをしていると、机を叩いたり、蹴り上げたりして不機嫌になり無口になる。そのため、他の解説者や実況アナウンサーが凍りつくことがある。
  • このような特徴的な発言から、明石家さんま島田紳助などの芸能人に注目され、数々のバラエティ番組に出演している。朝日放送「クイズ!紳助くん」のレギュラー解答者を長年務めた。
  • 服装はコミカルな服装が多く、ピンクのジャケット、アロハなどを着る。また、「クイズ!紳助くん」の出演時には、きまってミズノ(左胸にmマーク入り)のゴルフシャツにスラックスであった。
  • これら福本に関する様々なエピソードについて、はなわが「解説の男 ~福本豊伝説~」としてまとめ、歌ったことがある。メロディは「伝説の男~ビバ・ガッツ~」のものをそのまま使い、曲中の福本の台詞はますだおかだ増田英彦が担当していた。後にますだおかだがパーソナリティを務めていた「どーだ!ますだおかだ」にゲストで呼ばれた福本がこの歌の正誤を解説。
  • また吉本興業所属で野球漫才で知られるストリークも福本の解説時の逸話をネタに使ったりしている。
  • ABCの企画「虎バン主義」キャンペーンの一環として、「福本豊の出前生解説」がたびたび視聴者にプレゼントされている。福本が一般公募で選ばれた視聴者の自宅を訪ねてタイガースの試合を視聴者のために生で解説する試みであり、好評につき過去に数回実施されている。
  • 主に吉本芸人の半生を、本人を交えた今田耕司東野幸治らとのトークと再現VTRで振り返る番組「ナンバ壱番館」では、その面白さに注目され、福本は芸人ではないにも関わらず取り上げられた。並の芸人を凌ぐ爆笑を獲得し、放送されたものの中でも好評を得た回である。

[編集] 好物

  • 夜釣り →現役時代からナイター終了後、夜釣りをしに車を走らせていた。
  • うなぎ →プロ野球のキャンプ取材で訪れる高知に行き付けのお店がある。
  • 宝塚歌劇[1] →綺麗なので好き。阪神の試合が無い月曜日には宝塚大劇場に足を運び観劇している。時折デイリースポーツの記者にタカラジェンヌの写真をねだったりしているらしい。ちなみに、過去に数年ほど宝塚市に住んでいたこともある。

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム





















(順位)
1969年 阪急 40 38 39 8 11 3 0 2 20 4 4 0 0 2 6 .282
1970年 127 423 92 116 23 3 8 169 41 75 3 3 60 71 .274(12)
1971年 117 426 82 118 18 5 10 176 45 67 0 4 51 49 .277(20)
1972年 7 122 472 99 142 25 6 14 221 40 106 3 2 65 69 .301(5)
1973年 123 497 100 152 29 10 13 240 54 95 0 2 67 56 .306(8)
1974年 129 477 84 156 19 7 8 213 52 94 1 1 60 57 .327(3)
1975年 130 491 79 127 26 4 10 191 51 63 1 3 54 74 .259(26)
1976年 129 489 88 138 23 9 8 203 46 62 0 3 75 66 .282(9)
1977年 130 541 89 165 21 9 16 252 54 61 1 2 53 74 .305(7)
1978年 130 526 107 171 35 10 8 250 34 70 3 1 65 65 .325(2)
1979年 128 493 101 142 27 9 17 238 67 60 7 3 84 63 .288(19)
1980年 128 517 112 166 29 6 21 270 58 54 4 3 79 64 .321(7)
1981年 130 495 90 142 22 7 14 220 48 54 6 2 81 65 .287(18)
1982年 127 476 97 144 31 7 15 234 56 54 8 1 90 46 .303(5)
1983年 130 493 89 141 26 7 10 211 59 55 7 1 86 40 .286(19)
1984年 130 488 93 126 22 2 9 179 41 36 8 2 87 41 .258(25)
1985年 130 425 95 122 15 7 11 184 51 23 5 6 95 40 .287(15)
1986年 130 454 75 120 18 2 8 166 29 23 5 3 58 55 .264(30)
1987年 101 349 53 100 25 3 5 146 33 6 2 2 33 35 .287
1988年 92 174 23 44 12 2 1 63 21 3 0 0 32 18 .253
通算成績(20年) 2401 8745 1656 2543 449 115 208 3846 884 1065 64 44 1277 1054 .291
8位 6位 2位 5位 2位 1位 - 14位 - 1位 - - 7位 - -
  • 太字はリーグ最高。

[編集] タイトル・表彰・記録

[編集] タイトル

[編集] アマチュア時代

[編集] プロ時代

[編集] 表彰

  • 日本シリーズMVP:1回(1976年)
  • 日本シリーズ優秀選手賞:2回(1977年、1984年)
  • 日本シリーズ技能賞:1回(1975年)
  • 日本シリーズ打撃賞:1回(1976年)
  • オールスターMVP:3回(1973年第2戦、1974年第2戦、1982年第1戦)

[編集] 記録

  • 日本記録
    • 通算盗塁:1065(1969年 - 1988年)
    • 通算三塁打:115(1970年 - 1988年)
    • 通算盗塁死:299
    • 通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本)※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録。
    • 盗塁王:13回(1970年 - 1982年)
    • ゴールデングラブ賞:12回(1972年 - 1983年)
    • シーズン20二塁打以上:14回(1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年)※タイ記録。
    • シーズン三塁打リーグ1位:8回(1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年)
    • シーズン50盗塁以上:14回(1970年 - 1983年)
    • シーズン盗塁:106(1972年)
    • 1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録。
    • 11試合連続盗塁:2回(1971年4月27日 - 5月12日、1974年4月10日 - 4月28日)
    • 13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)
    • 12年連続ゴールデングラブ賞(1972年 - 1983年)
    • 14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年)
    • 3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年)※タイ記録。
  • パ・リーグ記録
    • 通算得点:1656(1969年 - 1988年)
    • 通算二塁打:449(1969年 - 1988年)
    • シーズン得点リーグ1位:10回(1972年 - 1980年、1982年)
    • シーズン100得点以上:4回(1973年、1978年 - 1980年)
    • シーズン100安打以上:18回(1970年 - 1987年)※タイ記録。
    • シーズン全試合出場:8回(1975年、1977年、1978年、1981年、1983年 - 1986年)※タイ記録。
    • シーズン初回先頭打者本塁打:8本(1972年)※タイ記録。
    • 1試合5盗塁(1972年5月3日)
    • 17年連続規定打席到達(1970年 - 1986年)※タイ記録。
    • 3年連続シーズン100得点以上(1978年 - 1980年)※タイ記録。
    • 18年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1987年)
    • 9年連続シーズン得点リーグ1位(1972年 - 1980年)
  • その他
    • 通算猛打賞:178回 ※歴代5位。
    • 通算盗塁成功率:.781(1065盗塁299盗塁死)※300盗塁以上では歴代4位。
    • サイクルヒット1981年5月21日
    • 30試合連続安打(1977年5月18日 - 7月10日)
    • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1980年8月9日 - 8月10日)
    • 日本シリーズ通算盗塁:14(1969年、1971年、1972年、1975年 - 1978年、1984年)※歴代1位。
    • 日本シリーズ3試合連続盗塁 ※シリーズタイ記録。
    • オールスター出場:17回(1970年、1972年 - 1987年)
    • オールスター通算盗塁:17 ※歴代1位。
    • オールスター通算得点:26 ※歴代1位タイ。
    • オールスター9連続盗塁成功(1976年第2戦 - 1979年第1戦)

[編集] 背番号

[編集] 現在の出演番組

[編集] 過去の出演番組

[編集] 関連項目

先代:
阪本敏三
パ・リーグ盗塁王
1970年-82年
次代:
大石大二郎
先代:
長池徳二
パ・リーグMVP
1972年
次代:
野村克也
阪急ブレーブス(現・オリックス・バファローズ)
1968年ドラフト指名選手
1位:山田久志 / 2位:加藤秀司 / 3位:長谷部優 / 4位:柳橋明 / 5位:新井良夫 / 6位:島崎基慈
7位:福本豊 / 8位:柿本進 / 9位:切通猛 / 10位:三好行夫 / 11位:村上義則
12位:門田博光 / 13位:石井清一郎 / 14位:鈴木博 / 15位:坂出直
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