杉下茂
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杉下 茂 |
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基本情報 | |
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出身地 | 東京府東京市神田区 (現・東京都千代田区) |
生年月日 | 1925年9月17日(82歳) |
身長 体重 |
182cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1949年 |
初出場 | 1949年 |
最終出場 | 1961年 |
経歴 | |
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野球殿堂(日本) | |
殿堂表彰者 | |
選出年 | 1985年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
杉下 茂(すぎした しげる、1925年9月17日 - )は、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区)出身のプロ野球選手・プロ野球監督、野球解説者。
日本初の本格的フォークボーラーとされており、現役時代は驚異的な変化の切れ味と落差を誇るフォークボールを自在に操り一世を風靡した。杉下のフォークが日本球界に与えた影響の大きさから「フォークボールの神様」と呼ばれている。高齢になった現在も中日ドラゴンズOB会に積極的に参加しており、率先して現役の中日選手や首脳陣をねぎらう一方で伸び盛りの若手を激励するなど、老いて尚野球人として健在を誇示している。
目次 |
[編集] 来歴・人物
旧制帝京商業学校野球部時代は4番・一塁手。当時野球部の監督は天知俊一。長身を生かして投手として登板することもあったが当時は弱肩で、守備時の送球は下手投げに近い横手投げだった。1944年3月に卒業し入隊。野球経験者という理由だけで中隊対抗手榴弾投げ競争の代表に選ばれる。弱肩であることを言い出せず、フォームを上手投げに矯正し必死に遠投を練習。練習の甲斐あって肩が強くなり、競争では優勝した。
終戦後、ノンプロのいすゞ自動車に入社。対コロムビア戦で投手として登板したある試合、偶然球審を務めていた天知は強肩速球投手に変貌していた杉下に驚嘆。この試合で杉下はノーヒットノーランを達成。すぐに天知の母校である明治大学への入学を勧められ入学。野球部で練習する傍ら、天知の私的指導も受けた。この明大時代に天知からフォークボールを伝授されるが、試合で初めて試投した第1球目がぼてぼての当たり損ねの安打になったことから、縁起の悪さを嫌って封印する。
明治大学から1949年に中日に入団。1年目の1949年は9勝だったが、2年目の1950年から1955年までの6年連続20勝を含めて9年連続2ケタ勝利を記録。
1954年、32勝をあげてチームを初優勝に導く。日本シリーズでも7試合中1人で5試合に登板し、うち4試合に完投(4完投は1958年の稲尾和久と並ぶシリーズタイ記録)、3勝1敗の成績を上げ日本一に貢献し、中日球団史上最初の日本シリーズMVPとなった。なお、中日はこれ以降2007年まで日本シリーズ優勝から遠ざかることとなり、長らく杉下は「中日選手として唯一日本シリーズMVPを手にした男」と称されることとなった。
1955年5月10日川崎球場対国鉄戦で金田正一と投げ合いの末1-0の僅差スコアでノーヒットノーラン達成。出した走者は1四球のみという準完全試合といえる内容だったが、その1四球は金田に与えたものだった。1957年8月21日、金田は中日球場で中日相手にやはり1-0のスコアで完全試合を達成しているが、そのとき金田と投げ合ったのも杉下だった。
1957年10月23日後楽園での対巨人戦で200勝到達。敗戦投手は馬場正平(ジャイアント馬場)であった。
1958年に一度引退し1959年~1960年は監督。名目上は選手兼任だったが、監督業に専念するため引退した。
1961年大毎に移籍し同年引退。この年4勝しかできなかったため、生涯シーズン平均20勝を超えられなかった。そのためこの記録を持つのは日本プロ野球史上では金田正一のみとなっている。金田は「自分が見た最高の投手は藤本英雄さんでも別所毅彦さんでもない。正真正銘のフォークボールを投げた杉下茂さん」と語っている。人差し指と中指の第二関節の間をボールが触ることなく通過したとも言われる、常人はもとより、プロ野球選手の中でも飛び抜けて長い指を活かしたフォークボールを投げ、この特殊性と尋常ならざる変化幅をもって「フォークボールの神様」と言われる所以である。
プロでは大学時代封印していたフォークボールを駆使し、日本初のフォークボーラーとして名を売ったが、現在のフォークボーラーのような高い奪三振率を記録していない。これはフォークを最後の切り札とする信念のもと、勝負所でのみフォークを投じていたためであり、1試合で投じるフォークの球数は多くとも5~6球と少ないものであった(ただし、それでも杉下より先輩の投手、たとえばヴィクトル・スタルヒン、若林忠志、藤本英雄、野口二郎、別所毅彦らと比べると奪三振率は高い)。
現在一般的なフォークとは異なり、ボールが全く回転せず左右に揺れながら落ちるナックルボールに近いもので、「蝶のようにひらひらと舞う」と呼ばれ、川上哲治が「ボールの縫い目が見えた」「捕手が捕れないのに打てるわけがない」と言うほどであった。これ程の変化は杉下の長い指があってこそであり、このフォークが打たれたのは長嶋茂雄に一度だけであった。もとより速球を投球の中心として脇にカーブなどの変化球を交える投球スタイルであり、フォークに固執する必要がなかった。もっともそれが、樋笠一夫に日本プロ野球初となる代打逆転満塁サヨナラホームランの栄誉を献上する元凶になったと言われている。選手時代晩年は新しいピッチングを模索するも結果が出ず、フォークに回帰することなく引退した。引退後の自著では、現在のフォークボーラーのようにフォークを中心とした投球をしていれば、それ相応の記録が残せていたかもしれないと回想している。
1964年~1965年阪神タイガース投手兼ヘッドコーチ。1966年阪神監督。1年おいて1968年再び中日監督。1969年~1975年までTBS・CBCの野球解説者。1976年~1980年読売ジャイアンツの投手コーチ。1981年~1992年TBSの野球解説者を経て、1993年~1994年西武投手コーチを務めフォークボールの指導にあたった。1985年野球殿堂入り。現在はTBSの野球解説者。2007年からは中日スポーツ紙上に自伝風コラム「伝える」を掲載している。
入団の際に、18、19、20と3つの番号が提示されたが、「20勝すれば一人前」という球団代表の言葉に、迷うことなく20番を選択した。自身の代名詞とも言える背番号20は、大毎に移籍しなければ、永久欠番となっていた。その後は、ドラゴンズのエースナンバーとして確立される。80歳を超えた現在でも精力的に各チームのキャンプを周り投手の指導にあたっており、特にフォークの指導には熱が入るようである。
杉下引退後の1978年、国鉄OBの金田正一が中心となって名球会が設立された。当時の名球会への入会条件は日本プロ野球の公式戦で野手は2000本以上の安打、投手は200勝以上を挙げることであった。杉下は中日で200勝を達成していたが、名球会は昭和生まれということが入会の前提条件なので、2000本安打を達成した川上とともに大正生まれの杉下も入会することはできなかった。名球会発足当時の存命者では、別所毅彦・野口二郎・藤本英雄も200勝以上だが、同様の理由で対象外であった。
最初にフォークボールを伝授したのは板東英二だという[1]。村山実等1960年代~1970年代までのフォークボールを武器にしていた投手の大半は自分の教え子であると以前テレビ番組で発言していた。
非常に立派な陰茎を持っていたことでも有名で、当時のプロ野球選手の間で「一に杉下、二に別所、三四がなくて五に岩本」と言われていたとか、杉下の別名を浴槽に入るときの音から「ドボン」と呼んでいた、などの逸話が伝わっている。
[編集] 年度別投手成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗戦 | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
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1949年 | 中日 名古屋 中日 |
29 | 7 | 0 | 0 | 8 | 12 | 159.2 | 160 | 16 | 69 | 66 | 65 | 3.66 |
1950年 | 55 | 22 | 2 | 0 | 27 | 15 | 325.2 | 269 | 24 | 141 | 209 | 116 | 3.20(9) | |
1951年 | 58 | 15 | 4 | 0 | 28 | 13 | 290.1 | 274 | 18 | 95 | 147 | 76 | 2.35(2) | |
1952年 | 61 | 25 | 6 | 2 | 32 | 14 | 355.2 | 316 | 13 | 99 | 160 | 92 | 2.33(5) | |
1953年 | 45 | 13 | 1 | 1 | 23 | 9 | 266.2 | 230 | 16 | 100 | 156 | 84 | 2.83(11) | |
1954年 | 63 | 27 | 7 | 1 | 32 | 12 | 395.1 | 265 | 9 | 110 | 273 | 61 | 1.39(1) | |
1955年 | 53 | 24 | 5 | 5 | 26 | 12 | 328.0 | 226 | 16 | 62 | 247 | 57 | 1.56(3) | |
1956年 | 42 | 19 | 4 | 5 | 14 | 14 | 248.0 | 172 | 11 | 48 | 167 | 55 | 2.00(9) | |
1957年 | 41 | 6 | 1 | 1 | 10 | 7 | 169.1 | 108 | 11 | 33 | 122 | 33 | 1.75 | |
1958年 | 46 | 10 | 1 | 2 | 11 | 9 | 218.0 | 169 | 16 | 49 | 161 | 43 | 1.78(5) | |
1961年 | 大毎 | 32 | 2 | 0 | 0 | 4 | 6 | 85.0 | 77 | 5 | 30 | 53 | 23 | 2.44 |
通算成績 | 525 | 170 | 31 | 18 | 215 | 123 | 2841.2 | 2266 | 154 | 836 | 1761 | 705 | 2.23 |
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最多勝:2回(1951年、1954年)
- 最高勝率:1回(1954年)
- 最優秀防御率:1回(1954年)
- 最多奪三振:2回(1950年、1954年)
- MVP:1回(1954年)
- 沢村賞:3回(1951年、1952年、1954年)
- ベストナイン:1回(1954年)
- 野球殿堂入り:1回(1985年)
- ノーヒットノーラン:1回(1955年5月10日)
- 日本シリーズ最高殊勲選手:1回(1954年)
- 日本シリーズ1シリーズ完投:4(1954年、シリーズタイ記録)
- オールスターゲーム出場:6回(1951年~1956年)
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 | |
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1959年 | 昭和34年 | 中日 | 2位 | 130 | 64 | 61 | 5 | .512 | 13 | 106 | .237 | 2.77 | 34歳 |
1960年 | 昭和35年 | 5位 | 130 | 63 | 67 | 0 | .485 | 9 | 87 | .230 | 3.08 | 35歳 | |
1966年 | 昭和41年 | 阪神 | 3位 | 135 | 64 | 66 | 5 | .492 | 25 | 81 | .233 | 2.52 | 41歳 |
1968年 | 昭和43年 | 中日 | 6位 | 134 | 50 | 80 | 4 | .385 | 27 | 142 | .246 | 3.72 | 43歳 |
※1959年から1962年、1966年から1996年までは130試合制
[編集] 監督通算成績
- 405試合 182勝215敗8分 勝率.458
- Aクラス2回、Bクラス2回
[編集] 脚注
- ^ 2006年10月29日放送、TBSラジオ「栗山英樹のエキサイトサンデー」にゲスト出演した時の発言
[編集] 関連項目
業績 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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中日ドラゴンズ・歴代MVP 1954年・杉下茂/1982年・中尾孝義/1988年・郭源治/1999年・野口茂樹/2004年・川上憲伸/2006年・福留孝介 |