川崎球場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎球場 Kawasaki Stadium (Kawasaki Kyujo) |
|
---|---|
施設データ | |
所在地 | 神奈川県川崎市川崎区富士見2-1-9 |
開場 | 1952年4月3日 |
所有者 | 川崎市 |
管理・運用者 | 株式会社川崎球場 |
グラウンド | 内野:クレー舗装、外野:天然芝(開場~1990年) 内外野:透水性砂入り人工芝(1991年~2003年) 内外野:ロングパイル人工芝(2004年~現在) |
照明 | 照明塔:3基 (スタンド撤去前は6基) |
設計者 | |
使用チーム • 開催試合 | |
高橋ユニオンズ(1954年~1956年)、 大洋ホエールズ(1955年~1977年)、 ロッテオリオンズ(1978年~1991年) |
|
収容能力 | |
現在:2,700人 (スタンド撤去前の公称収容人数:30,000人) |
|
グラウンドデータ | |
球場規模 | 両翼 - 公称:90 m (約295.3 ft) 実測:89 m (約292.0 ft) 左中間 - 実測:105 m (約344.5 ft) 右中間 - 実測:103 m (約337.9 ft) 中堅 - 公称:120 m (約393.7 ft) 実測:118 m (約387.1 ft) |
フェンス | 不明 (スタンド撤去前は5.0~7.0 m) |
川崎球場(かわさききゅうじょう)は、日本の神奈川県川崎市川崎区にある野球場。施設は川崎市が所有し、株式会社川崎球場が運営管理を行っている。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 開場当初
川崎市内には多くの企業が経営・製造の拠点を置いており、戦前から社会人野球が盛んな土地柄だった。1951年、市内で新たな社会人野球向けの野球場を建設する機運が高まり、市と日本鋼管(現JFEエンジニアリング)、東芝、味の素、日本コロムビア(現コロムビアミュージックエンタテインメント)、昭和電工、いすゞ自動車などの主要企業が共同出資し「株式会社川崎スタジアム」が設立された。翌1952年3月、川崎市富士見の富士見公園内に川崎球場が竣工した。
4月3日、開場記念としてプロ野球公式戦・東急フライヤーズ対大映スターズ戦が開催され、5-3で東急が勝利した。同年プロ野球公式戦はパ・リーグが東急、大映の他毎日オリオンズ主催で40試合、セ・リーグが読売ジャイアンツ(巨人)、国鉄スワローズ主催で7試合の計47試合が行われ、翌1953年も計23試合が開催された。当時後楽園球場はセ・パ計5球団が本拠地としていたことから、川崎は首都圏でのプロ野球の開催日程が過密化していたのを解消するのに役立っていたといわれる。
外野の広さは公称こそ両翼90m、中堅120mだが、実際はもっと狭く、また左・右中間の膨らみもほとんど無かったため(実測値は両翼89m、左中間105m、中堅118m、右中間103m。実際にはこれより更に狭隘だったとする説もある)、当時の球場の中でも狭くて本塁打の出やすい球場として知られた。また当初外野スタンドはごく最小限の設備で建設され、その後左右対称に増築する計画が立案されたものの、右翼場外に国道を通すことになったのに伴って、右翼側の増築部は道路の計画に沿って設計を見直し、右中間からポール際にかけて上半分を切り取るような変則的な構造となった(但し国道の計画はその後経由地が変更となり、代わって市道が設けられた)。このため右翼側スタンドは非常に狭隘で、右翼方向への本塁打が場外に飛び出すことがよくあり、右翼スタンド上段には高い防球フェンスが設けられた。
1954年、同年発足した高橋ユニオンズが本拠地とし、プロ球団が初めて川崎球場をフランチャイズとした。同年6月にはプロ本拠地としては歴代6球場目となる照明設備が増設され、ナイターの開催が可能となった。当時の後楽園球場の照明が最大照度800Lxだったのに対し、川崎は最大1100Lxと高照度を誇っていた。ただ6基の鉄塔のうち右翼側の照明塔は、前述の敷地の関係上スタンドを跨ぐ格好で設けざるを得なかった。
同年10月25日に開催された、大映スターズ対阪急ブレーブス戦ダブルヘッダーの観客数は100人。これは2リーグ制導入後のプロ野球公式戦の観客動員数最少記録といわれている(実数は25人だったという説も。鳥井守幸著『野球ふしぎ発見!』毎日新聞社刊より)[1]。
翌1955年からは大洋ホエールズも川崎をフランチャイズとし、これによりセ・パ2球団が川崎に本拠を置くことになった。だが高橋ユニオンズは経営悪化のため、1956年限りで大映と合併することとなり川崎を去ったため、2球団が本拠地を置いた期間は僅か2シーズンで終わっている。同年7月28日、開場記念の試合で敗戦投手となったヴィクトル・スタルヒンが近鉄パールス戦で日本プロ球界史上初の300勝を達成した(当初は同年9月4日の対大映戦で達成したとされたが、その後公式記録を訂正したため300勝目は川崎での記録となった。詳細はスタルヒンの来歴の項を参照)。
- ^ 川崎球場ではこの他、1966年10月12日のサンケイアトムズ対中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでも、観客100人(2試合とも)を記録している。詳細は東京ヤクルトスワローズ#最少観客動員を参照。なお1リーグ制時代の最少記録は1937年7月17日、洲崎球場で開催されたイーグルス対名古屋金鯱軍戦の90人とされている。
[編集] 大洋本拠地時代
1957年から1977年の21シーズンは大洋のみが川崎を本拠地とした。
1960年、外野スタンドの増築が完工。前述の外野スタンドの構造はこの時からのものである。収容人員は公称値で30,000人となったが、実際の収容人員は25,000~27,000人、もしくはそれ以下ともいわれた。この年、大洋の監督に三原脩が就任。主力に秋山登、近藤昭仁らを擁してシーズンを闘い、8月11日には島田源太郎が史上6人目の完全試合を達成するなど勢いに乗ると球団史上初のリーグ優勝を飾り、さらに川崎球場で初めて開催された日本シリーズでも大毎オリオンズを下して日本一に輝いた。しかしこのシーズンの大洋は、公式戦・日本シリーズともに敵地で優勝を決めており、その後大洋は川崎時代には優勝することができなかった。
1961年5月、照明設備の改修が行われた。川崎球場の出資企業でもある東芝の提案により、3種類のサーチライトを組み合わせて昼光色に近い照明効果が得られる「カクテル光線」が採用され、当時国内の野球場では最高となる最大照度2000Lx超を確保できるようになった。
1962年7月1日に開催された読売ジャイアンツ15回戦で、巨人・王貞治が実戦で初めて「一本足打法」を披露した。この試合まで、巨人は投手陣が好投しても打線が繋がらず惜敗を繰り返しており、この試合前の首脳陣ミーティングでは投手コーチの別所毅彦が打線の不甲斐なさに声を荒げた。打撃コーチの荒川博は当時、王と二人三脚で一本足打法に取り組んでいたが、いよいよ実戦で試す時が来たと意を決し、練習中の王に「今日から(打撃フォームは)アレで行け」と命令を下した。そして第1打席、大洋先発稲川誠がモーションに入ると、王の右足がスッと上がった。稲川は「おかしいな」と思ったが、そう思う間もなく痛打を喫した。結局この試合、王は本塁打を含む3安打を放ち、試合は10-0で巨人が大勝した。
王はその後、ホームランバッターとして日本球界に君臨。右翼スタンドへの打球はしばしば上段の防球フェンスを越えて場外に飛び出していたため、後にフェンスが嵩上げされ「王ネット」と呼ばれた。1976年7月23日に行われた読売ジャイアンツ16回戦の8回表、大洋投手鵜沢達雄が投じたカーブを叩き、日本プロ球界史上初となる通算700本目のアーチを右翼スタンドに架けた。その後、この王の700号を記念するプレートが右翼席最前列に設置された。
この間、1963年に運営会社の「株式会社川崎スタジアム」が、商号を「株式会社川崎球場」に改称した。1971年12月には、川崎球場で初めてのアメリカンフットボールの試合・シルバースター(現アサヒビールシルバースター)対在日米軍オールスター戦が行われた。開場以来バックネットは支柱で支える構造だったが、観客の視界を改善するため1975年、ワイヤーで吊り下げる懸垂式のものに改修した。
1977年4月29日に開催された阪神タイガース3回戦、7-6と阪神がリードして迎えた9回裏一死一塁から、江尻亮の代打清水透が左翼方向へ大飛球を放った。この打球を左翼佐野仙好が背走して捕球した直後、外野フェンスのコンクリート部に激突した。線審と阪神選手が駆け寄るが佐野は動かぬまま。この間、審判が試合停止の宣告を失念した上、阪神野手も捕球後の処理そっちのけで佐野に駆け寄った間に一塁走者の野口善男はタッチアップしそのまま本塁を陥れた。佐野はその後も動けず、フィールド内に救急車が入り佐野を運び出した。結局佐野は頭蓋骨骨折の重傷だった。当時のプロ野球コミッショナー金子鋭はこの事態を重視し、5月12日に開かれた実行委員会で全本拠地球場のフェンスにラバーの設置を義務付けることが提案され、全球団の了承を得た。これがその後、全国の主要野球場にラバーフェンスが普及するきっかけとなった(その後1988年以降は地方を含め、フェンスに緩衝材が設置されていない野球場では一切プロ野球の試合を開催しないと取り決められている)。また、佐野の負傷の間に一走がタッチアップして得点したことについて阪神側から提訴されたが、この訴えは同日開かれたセ・リーグ考査委員会で却下されている(その後8月1日の規則委員会で、野球規則の細則に「選手の生命にかかわる負傷が生じた場合は、審判員はタイムを宣告できる」とする条文が追加された)。
川崎球場はこの当時、既に築四半世紀を超えて徐々に老朽化が著しくなりつつあった。大洋は施設や立地、集客力などの問題もあってかねてから川崎球場に限界を感じ、隣接する横浜市に本拠地を移転する構想を持っていた。大洋球団は手始めに1972年11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れ、当時の横浜市長飛鳥田一雄の同意を得、覚書を取り交わした。その後中区の横浜公園内にある横浜公園平和球場の改築計画が具体化し、1977年4月から横浜スタジアムの建設工事が始まった。大洋球団は6月15日、本拠地を横浜に移転することを前提として検討を進めている旨を公式に発表。8月20日、翌1978年から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋側はそれまで川崎市側に対して根回しを全く行っておらず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど、一時猛反発を呼んだ。
また、1972年限りで東京スタジアムが閉鎖された影響で、当時宮城県仙台市の県営宮城球場を暫定的に本拠地とし、首都圏では後楽園球場、明治神宮野球場、そしてこの川崎など他球団の本拠地を間借りして主催試合を開催していたロッテオリオンズも1978年から神奈川県を保護地域とし、大洋と共用で横浜を本拠地としたいと表明した。だが大洋は、共用による日程の過密化などを恐れてロッテの申し入れを拒否。一方、川崎市は上述の通り大洋に半ば裏切られた格好で、プロ本拠地としての経済効果の喪失を危惧してロッテに対し積極的に誘致を進めていた。結局その後の折衝によって、大洋は当初の計画通り横浜スタジアムを、ロッテは大洋に代わって川崎球場を専用球場とすることが決まった(これらの詳細は横浜スタジアム#球場の歴史、ジプシー・ロッテも併せて参照)。
[編集] ロッテ本拠地時代
そして1978年から1991年の14シーズンはロッテが本拠地とした。
だが移転早々ロッテは、川崎で阪急ブレーブスに前期・後期とも目の前で優勝を決められるなど阪急に大幅な勝ち越しを許した上、前年までリーグ2位だった観客動員数も6年ぶりに50万人を割り込んで5位に陥落するなど、苦難のスタートを強いられた。川崎市は、大洋が横浜に移転する代替策として三顧を尽くしてロッテを誘致した経緯があるが、肝心の川崎球場はほとんど改修される事はなく、一塁側場外に室内練習場の新設、外野フェンスを5~7mに嵩上げ、そして照明を一部改修したのみで、施設そのものにはほとんど手が入れられなかった。老朽化し且つ狭隘な本拠地に、人気の凋落した球団では川崎市民はじめ首都圏の野球ファンの関心を引き寄せる力はあまりにも弱く、川崎駅前や銭湯など市内の各店頭での無料入場券配布などの努力も実らず同年以降も観客動員は低迷を続けた。当時の球団の発表値でも、地方開催を含むロッテ主催試合の観客動員数は年間平均60~80万人台で推移し、実際には5,000人以下の観衆しか集まらないことが多かった。プロ野球の珍プレー好プレー番組などでは試合をよそにスタンドで勝手に戯れる観客の姿がしばしば取り上げられた。そんな中でも川崎球場はパ・リーグの、そして日本プロ球界の歴史に残る数多くのシーンの舞台となっている。
1979年、ロッテ・レロン・リーが前年よく右翼上段の「王ネット」を超えて場外へ打球を飛ばしていたことから、ネットを更に嵩上げ。「リー・ネット」と呼ばれた。
1980年5月28日に開催された阪急11回戦、3番・指名打者で先発出場したロッテ・張本勲は6回裏一死二塁、山口高志から右翼席上段のネットを直撃する6号2ラン本塁打を放った。これが張本の、日本プロ球界では史上初となる現役通算3000本目の安打となった。打った瞬間、張本はヘルメットを空高く放り上げて咆哮。試合後、張本は「家に帰ったら泣くかもしれない」と語った。後日、本塁打が当たった点15m下の右翼スタンド上段には着地点を矢印で示す表示板が設けられた。
1985年、ロッテ・落合博満は130試合全試合に出場し打率.367、本塁打52、打点146をマークし三冠王を達成。翌1986年も.360、本塁打50、打点116を記録し2年連続の三冠王に輝いた。しかし同年オフ、年俸の高騰がネックとなるなどし、1対4のトレードで翌1987年から中日ドラゴンズに移籍した。
だが、この間も川崎球場の老朽化は更に著しく進行し続けた。中には開場以来一度も交換されていない機器まであるほどだった(かつて放送席にあったボールカウント表示用のスイッチは、川崎球場開場年の1952年製造のものだった)。ロッカールームは湿気が多く、スタンドの座席は狭隘で座りにくく、トイレは男女共用。フィールドの水捌けも悪く、降雨の翌日になっても水が引かないため、晴天にもかかわらず「グラウンド状態不良」を理由に試合を中止せざるを得ない事も多々ある程で、シーズン終盤になると川崎でのロッテ戦が数多く組まれるのが恒例と化していた。1984年、同年秋の日米野球開催に合わせてロッカールームとスタンド外周部の照明の改修を行ったものの、その日米野球は雨天中止。川崎で日米野球の日程が組まれたのは同年の一度だけで、まさしく幻となった。著しく老朽化した川崎球場では誘客が望めないとして、1980年代以降、ロッテは千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、関東の他都市への本拠地移転を検討した事が何度かある。しかし施設面や交通アクセス、更には行政側の影響も絡むなどしていずれも頓挫した。
一方、川崎市側は引き止め策として川崎球場の改修や幸区鹿島田地区の日本国有鉄道新鶴見操車場跡地(新川崎駅西側)にドーム球場を建設する構想を発表したものの、市の財政難や、観客動員数低迷による採算性への不安、さらにリクルート事件による市政の混乱などにより計画はなかなか進展しなかった。また川崎球場の改修についても具体的な対策が執られぬままで、ほとんど改善されぬまま。ロッテは1987年から女性向けのPR用フリーペーパー「URE・P(ウレピー)」を無料で配布し、横浜スタジアムが通称「ハマスタ」と呼ばれる向こうを張って、川崎球場を「SAKIスタ」と呼んでイメージアップを図ったものの、実際の設備に大きな変化はなかった。
1988年には大リーグ時代は闘志溢れるプレーで"Mad Dog"(狂犬)の異名を取り、通算4度首位打者に輝いたビル・マドロックを三顧の礼で迎え入れ、前年に退団したレロン・リーに代わって球団は元メジャーリーガーを手厚く迎えるべく、川崎球場の一塁側ダッグアウト裏に専用のロッカールームを用意し、その他の改装を行ったほどだった。またマドロックは来日後初めて川崎を訪れた際、本当にこんな狭くて汚い球場で試合をするのかとこき下ろし「この野球場なら(本塁打)50本は打てると思う」と豪語した。が、マドロックは、当時37歳と年齢的には既にピークを過ぎており、打率はシーズン中盤まで2割5分を前後し、期待された本塁打も殆んど出ずじまいであった。かつての首位打者の面影の見えないまま不振が続き、4番を高沢秀昭に譲り5番に降格。リーの後釜を期待していたファンを大きく裏切る不成績に、川崎球場の外壁には「マドロック立入禁止」なる落書きまで書かれた。
そんな市が消極姿勢を転換せざるを得ない事態が訪れる。1988年10月19日、近鉄バファローズがリーグ優勝のマジックを「2」として迎えた大一番のロッテ戦ダブルヘッダー、いわゆる「10.19」である。熱戦にスタンドは溢れ返り、右翼場外のマンションには通路や階段、屋上にまで鈴なりの人垣ができた。売店の飲食物も、飲食店の食材も試合半ばで底を突いた。近鉄は第1試合に勝ったものの、第2試合は引き分けに終わり、西武ライオンズがリーグ4連覇を果たした。この10.19には普段川崎を訪れない観客も多く訪れ、テレビ・ラジオで全国に生中継された。また市や球団には、施設やサービスの面について観客からの苦情が数多く寄せられたため、これまで改修を渋り続けてきた市も重い腰を上げざるを得ず、翌1989年秋から川崎球場の改修工事に着手した。
その1989年、通算198勝で開幕を迎えたロッテのエース村田兆治はまず1勝を挙げ、いよいよ200勝に王手をかけると、当時の有藤道世監督は「本拠地で200勝を達成させてやりたい」と、川崎での主催試合にローテーションを合わせる方針を決めた。だが4月16日の近鉄戦では延長11回の粘投も、最後は新井宏昌の適時打で力尽きると、4月30日の日本ハム6回戦は序盤で打ち込まれてKO。両日とも記録達成を見届けようとスタンドは観客で埋め尽くされ、テレビ中継も行われたが、結局本拠地では達成できなかった。村田は5月13日、山形県野球場で行われたビジターの日本ハム7回戦で200勝を達成した。
また、パ・リーグはこの年も上位チームが僅差で競り合ういわゆる「熱パ」となり、シーズン終盤は近鉄・西武・オリックスの三つ巴の争いとなった。10月12日、10月13日にはオリックス戦3連戦が行われ、オリックスは12日、川崎でのロッテ戦ダブルヘッダーに連勝。一方、西武ライオンズ球場での西武対近鉄戦ダブルヘッダーでは、近鉄が西武を猛打で圧倒して優勝戦線から引き摺り下ろし、近鉄がマジックを「2」とした。翌13日、同じく川崎でのロッテ戦に臨んだオリックスは先発にエース佐藤義則を立てたが5回、愛甲猛に決勝3ランを喫すなどし、5-3で敗戦。マジックを「1」とした近鉄は翌10月14日、藤井寺球場のダイエー戦で歓喜のリーグ優勝を果たした(詳細は10.19#翌年の10.12へを参照)。
1991年春、川崎市が14億円を掛けた改修工事が完了した。この2年の間にスタンド壁面の再塗装、防球ネットの嵩上げ、一部座席の取替え、パネル式だったスコアボードの電光化、フィールドの人工芝敷設など段階的に施設のリニューアルを行った。また、近鉄・ラルフ・ブライアントが右翼上段の「リー・ネット」を超えて場外に打球を飛ばしていたことから、この改修工事を期にネットが更に嵩上げされ「ブライアント・ネット」と呼ばれた。同年春、ロッテは「テレビじゃ見れない川崎劇場」を謳い文句に誘客キャンペーンを展開、自虐的なテレビコマーシャルも話題を呼んだ。とはいえ、川崎球場はあくまでも施設を一部改修しただけであり、老朽化・狭隘化した施設そのものが改善されたわけではなく、抜本的なファシリティの改善を望める状況ではなかった。またこの頃、千葉市が千葉マリンスタジアムを竣工させ、施設不備に苛まされていたロッテ側に対して本拠地誘致を積極的に進めていた。結局、ロッテはその年限りで本拠地の千葉移転を発表。当初は移転後も当面の間、川崎でも年間10試合程度の公式戦を開催する方向で検討していたが、川崎市が川崎球場の改修を盾に、移転に関する収入補償を求めてきたことで態度を硬化。ロッテ側はこれまで長年に亘り、市側に川崎球場の改修や新施設の整備を求めてきたのを悉く反故にされ続けてきた経緯からこの要求を拒否、川崎での試合開催数も大幅に削減する事を決めた。こうして川崎球場は、プロ野球のフランチャイズとしては幕を引く事になった。なお、この年がロッテ史上初の100万人観客動員達成となった(ロッテ本拠地時代については千葉ロッテマリーンズ#川崎球場時代のエピソードも併せて参照)。
ロッテは川崎時代にはリーグ優勝の経験はない。しかしパ・リーグが二期制を採用していた1981年前期には川崎で優勝を決めており、結局これが大洋・ロッテ時代を通じて唯一の本拠地での胴上げとなった。
[編集] ロッテ移転後
その後1992年7月3日・7月4日に千葉ロッテマリーンズ対近鉄バファローズ2連戦が開催された。翌1993年8月6日には16年ぶりのセ・リーグ公式戦として横浜ベイスターズ対阪神タイガース戦が組まれたが、当日は雨天中止となり予備日も設定されなかったため、前述の1992年の千葉ロッテ対近鉄が公式戦最後の試合になった。公式戦の開催試合数はセ・リーグが1394試合、パ・リーグが1059試合、合計2453試合。この他日本シリーズ2試合、パ・リーグのプレーオフ4試合、オールスターゲーム7試合などが行われた。オープン戦は1994年3月19日に横浜ベイスターズ対日本ハムファイターズ戦が開催され、横浜が前身の大洋以来17年ぶりに川崎で主催した試合となった。また二軍では1992年10月3日、ジュニア日本選手権・読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ戦が行われた。1996年と1997年には読売ジャイアンツ主催のイースタン・リーグ(二軍)公式戦が各1試合開催されたが、これも1997年8月20日のヤクルトスワローズ戦を最後に途絶え、遂にプロ野球公式戦で使用されることは無くなった。
プロ野球の開催はなくなったが、高校野球、首都大学野球、社会人野球などアマチュア野球公式戦はその後も継続して行われた。またフィールドが人工芝になってからはアメリカンフットボールの公式戦が本格的に行われるようになった。他にもプロレスの会場として使用され、特にプロレス団体のFMWは川崎球場を聖地と呼び、通算7回(スタンド撤去前は6回)に亘って興行を行っている。この球場の観客動員記録を持っているのも、プロ野球ではなく、FMWである(プロレスではスタンドだけでなく、フィールド部分もアリーナ席として使用するため)。
この間、富士見公園内にある各施設の老朽化が問題視され、市は再整備計画について検討を開始。その結果1995年11月、川崎球場は1998年開催の秋季国民体育大会(かながわ・ゆめ国体)終了後に撤去し、その後市内の他の場所に代替施設を建設する方針が決まった。これに伴い、かつて頓挫した新鶴見のドーム球場構想が再び浮上したが、市の財政難もあって計画は事実上頓挫。結局川崎球場は取り壊される事なく、その後も野球をはじめ各種イベントが行われた他、草野球等の一般利用などに供用されてきた。
だが1999年12月に市が実施した耐震検査の結果、スタンド部分が震度6程度の地震で倒壊する危険性があることが指摘され、翌2000年1月、市は同年3月31日限りで川崎球場を一旦閉鎖し、スタンドの解体・撤去を行うと発表した。建築当時の予算が総額6000万円に抑制され、鉄骨には米軍が使用していた鋼材や日本鋼管が持ち込んだ廃材が使用されるなど躯体が脆弱な上、高度成長期の大気汚染によって老朽化がより著しく進行した可能性があるとも言われた。またこの間、市側が抜本的な改修や補強をほとんどと言っていい程行ってこなかったのが最終的に仇となった。撤去決定の知らせを受け、ロッテファンを中心とする野球ファン有志が2月26日、川崎球場を借り切ってお別れイベントを実施。このイベントではオリオンズOBによる紅白戦も行われ、スタンドではかつての低迷期のようにキャッチボールをするファンや、ベンチに横になって仮眠を取るファンも見られた(もっとも、さすがに流しそうめんを敢行するファンはいなかったが)。アマチュア野球の最後の公式戦は同年3月に行われた、社会人野球のJABA東京スポニチ大会となった。
そして3月26日には「川崎球場ファイナルシーン」と銘打って、かつて川崎を本拠とした横浜ベイスターズと千葉ロッテマリーンズによるオープン戦が開催され(当初の横浜スタジアムでの開催予定を変更)、これが川崎球場でのプロ野球最後の試合となった。当日は別れを惜しむファンが詰めかけ、場外には長蛇の列が出来、スタンドでは21,000人の観客が最後のゲームを見届けた。試合は打撃戦の末、千葉ロッテが22-6で勝利したが、本塁打が10本、しかも本来は長距離打者ではない小坂誠が1イニング2本塁打の快記録を作ったことは、川崎球場の狭いフィールドは打撃技術が向上した現在のプロ野球の開催に耐えられない事を示していた。なお横浜には近鉄時代、10.19で2試合連続リリーフ登板した阿波野秀幸や、川崎時代のロッテのエースだった小宮山悟が在籍しており、登板はなかったが、多くの観衆から声援を受けた。試合終了後には閉場セレモニーが行われ、市民がフィールド上で「ありがとう」の人文字を造った。この日、満塁を含む2本塁打のロッテ・堀幸一は「僕がプロ入り初めての一軍の試合で本塁打を打ったのはここ。最後の試合で打てて、いい思い出になる」、10.19の第2試合で同点本塁打を放ったロッテ打撃コーチ・高沢秀昭は「自分のいい時も悪い時も知っている球場。10.19でのホームランが今でも話題に上るのは嬉しい」、その本塁打を打たれた阿波野は横浜市の出身とあって、川崎では高校時代からプレーしており「高校野球でも負けたし、今でも高沢さんが申し訳なさそうにダイヤモンドを回る姿が忘れられない。この球場でいい思い出はつくれなかったけど、一球の重みを教えてくれた、僕の野球人生になくてはならない球場」と、それぞれに思い出を語っていた。
こうして、それまで不人気の評判がつきまとった川崎球場はその最後を華々しく飾り、3月31日にその役目を終えた。だが閉鎖を前にした3月8日頃、球場正門の門柱に取り付けられていた「川崎スタヂアム」の銘板が何者かによって盗難される事件があり、現在も残された門柱を立看板で覆い隠している状態になっている。 この事件は解決しておらず、未だ銘板の行方は分かっていない。
[編集] 現施設
閉鎖直後の2000年4月からスタンドの撤去工事が開始され、順次撤去を開始(この間も暫くの間、フィールドのみはアメフトなどで使用されていた)、8月から完全閉鎖し撤去工事が本格的に始まった。なお、スタンドに設置されていた王700号のプレートは撤去前に取り外されて洗浄・研磨され、また張本3000安打の表示板は王のプレートと同型のレプリカが作成され、先の川崎でのオープン戦で展示された後、ベースボール・マガジン社を介して新潟県南魚沼郡大和町(現南魚沼市)の町立美術館に所蔵された。
翌2001年春、現施設の施工工事が順次完工して営業を再開、5月に全面竣工した。フィールド部分と照明塔6基のうち3基、室内練習場はそのまま活用し、内野部分に2,700人収容の土盛りスタンドと、アメリカンフットボールと兼用できる磁気反転式のスコアボードが新設された。硬式野球での使用はできないが、全国軟式野球統一王座決定戦・ジャパンカップ(ストロングリーグ主催)など、草野球や軟式野球の他、アメリカンフットボール公式戦やプロレス、フリーマーケット会場等各種イベントに使用されている。また右翼側のスタンド跡地は遊歩道として整備された。
2004年には、それまで敷設していた人工芝が経年劣化したため、毛足が長く天然芝に近い感触を持つロングパイル型に張り替えた。また、Jリーグ1部の川崎フロンターレが小学生・中学生のサッカースクールを開催している。
2007年には第3回アメリカンフットボール・ワールドカップが川崎市で開催され、川崎球場は中原区の等々力陸上競技場とともに開催会場のひとつとなり、全9試合のうち開幕戦と決勝戦を除く7試合が行われた。
なお川崎市では川崎球場のスタンド撤去決定後に、市長が諮問機関「新球場整備準備委員会」を設け、新球場の建設について継続して検討を行っているものの、財政難などで現在も具体化には至っていない。余談だが、2007年4月時点の政令指定都市17市のうち、1万人以上収容のスタンドを有する野球場がないのは、堺市と川崎市の2市のみである。
[編集] 施設概要
- 両翼:89m、中堅:118m
- かつての公称値は両翼90m、中堅120m。但し実測値は上記よりも更に狭隘であるとする説あり
- 内外野:ロングパイル人工芝
- 照明設備:照明塔3基
- スコアボード:得点部=磁気反転式、チーム名表示部=パネル式
- イニングスコア、カウント(SBO)表示のみ。アメリカンフットボールのスコア表示にも対応(1回~4回を1Q~4Qと表記。合計得点は199点まで表示可能)。
- 収容人員:2,700人(内野側:土盛りスタンド、ベンチ設置箇所あり。外野側:スタンドなし)
[編集] スコアボードについて
スコアボードは、開場当初から1990年まではパネル式だった。
- 当初はダブルヘッダーに対応できるよう、2試合分のイニングスコアが表示できるようになっていた。
- 出場選手表示箇所(縦書き横スクロール)の上部には、チーム名を表示する箇所が設けられていた(1文字ずつ「大」「洋」などと掲出)。またイニングスコアは9回まで表示可能。仮に延長戦に入った場合、10回以降は9イニング分の得点パネルを外し、再び1回から表示し直していた。その後10回まで表示可能に。11回以降は改めて1回のところから表示し、10回までの合計得点を10回の部分に表示した。但し合計得点を表示する箇所は設けられておらず、高校野球など一部のアマチュア野球の試合では、10回の部分に合計得点を表示することがあった。またこの場合、8回が終了すると誤読を避けるため、パネルを外す措置が行われていた。
- 1970年代中盤頃、第2試合を表示する箇所を改修。同箇所には現打者の打率と本塁打数を表示する箇所(電光式。白色電球を使用)と、前試合の結果もしくは他球場の速報を表示する箇所が設けられた。またパ・リーグの指名打者制導入に伴って、選手名表示部に投手を表示する箇所が追加された。さらにチーム名表示箇所も改修され、チームの安打数・失策数を電光表示する箇所が設けられた。
- それまでプロ野球の試合の際、選手名と守備位置の表示板は黒地のパネルに白文字で書かれたものを使用していたが、1987年から、これらは青地に白文字で書かれたものに入れ替えられた。だがこの際、阪急ブレーブスの選手の分を作成し忘れたため、同年最初のロッテ対阪急戦では、阪急選手の表示部分がすべて空白となるという珍事が発生した。
1991年から2000年のスタンド撤去まで、スコアボードは電光式(高輝度放電管)だった。
- スコア部の表示方法も改められ、他球場同様、イニングスコアの右側に合計得点、安打数、失策数を表示する形式となった。
- 現在攻撃中の選手を示す表示(赤色信号灯やネオン管、LEDなどを使用)が設けられていなかったため、守備番号の表示部を全面点灯にすることで識別した(そのため当該選手の攻撃中だけは白い■の表示となり、守備番号が見えなくなっていた)。
[編集] 放送席など
- バックネット裏には各地上波放送局の放送席(バンガロー風)があり、それぞれの席下に所有局のロゴが記述されていた。席順は、一塁側からフジテレビ、NHK、TBSテレビ、TBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、ラジオ関東→ラジオ日本、tvk、空白席(主に日本テレビ、東京12チャンネル→テレビ東京が使用)。また、それらの屋根の上にはテレビ朝日の放送席が単独で設置されていたが、これはNETテレビ時代の1975年に同局が関西地区の腸捻転解消ネットチェンジのあおりで大洋ホエールズ戦の独占放映権を獲得した際に増築したものと思われる(朝日放送制作の「10.19」もここから放送した)。
- ロッテが本拠地としてからは、フジテレビ放送席のライト方向隣に電子オルガンの演奏席も設置されていた(かつての横浜スタジアムと同じ日本ビクター製の「ビクトロン」)。
[編集] 交通
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
前本拠地: n/a - |
高橋ユニオンズの本拠地 1954 - 1956 |
次本拠地: n/a - |
前本拠地: 大阪球場 1953 - 1954 |
大洋ホエールズの本拠地 1955 - 1977 |
次本拠地: 横浜スタジアム 1978 - 現在 |
前本拠地: 県営宮城球場 (1973年のみ準本拠地) 1973 - 1977 |
ロッテオリオンズの本拠地 1978 - 1991 |
次本拠地: 千葉マリンスタジアム 1992 - 現在 |