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小宮山悟 - Wikipedia

小宮山悟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小宮山 悟
千葉ロッテマリーンズ No.14
基本情報
国籍 日本
出身地 千葉県柏市
生年月日 1965年9月15日(42歳)
身長
体重
183cm
83kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1989年 1位
初出場 1990年4月12日 (NPB)
2002年 (MLB)
年俸 4,200万円(推定)
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日- )は、千葉県柏市出身のプロ野球選手千葉ロッテマリーンズ所属。ポジションは投手。非常にコントロールの良い投手で、投げる精密機械ミスターコントロールなどと呼ばれている。風避けのゴーグルと特異なセットポジションがトレードマーク

目次

[編集] 来歴・人物

柏市立柏第四中学校から併願芝浦工業大学柏高校へ(千葉県立柏南高等学校を受けるも不合格)。当時の柏南の野球部員は、柏四中から有名なバッテリーが入ると期待していたというが、結局捕手のみの入部となった。その後2浪して早稲田大学教育学部。2年生の秋からエースの座につき、通算20勝を挙げる。4年次には主将。慶應義塾大学大森剛(のち読売ジャイアンツ)との対決は早慶戦の華だった。3年春にはリーグ打率更新、3年秋には2シーズン連続首位打者という大森の野望を続けざまに粉砕、しかしその秋の早慶戦ではその大森をチームの勝利優先のために敬遠、慶應側スタンドからの野次に思わずマウンドで涙したという逸話も残っている。

  • 1989年ドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
  • 1990年、ルーキーのこの年、シーズン6を挙げる。
  • 1992年千葉移転後の千葉ロッテマリーンズの栄えある開幕投手となり、シーズン10勝。以降3年連続して開幕投手を務める。
  • 1993年、開幕戦の完投勝利を皮切りに、開幕から自身登板時に6試合連続完投勝利というプロ野球史上初の記録をマーク(ただしその後6連敗を喫して6勝6敗となるなどして、シーズン成績は12勝14敗で負け越し)。
  • 1997年、開幕投手。開幕から自身登板時に6連勝を記録する。この年に防御率2.49で最優秀防御率タイトルを獲得。翌1998年にも開幕投手となった。
  • 1999年FA権を行使する意向を球団に伝えたところ、戦力外通告を受けたため、横浜ベイスターズに移籍。
  • 2001年、6度目の開幕投手を務め、シーズン12勝を挙げる。
  • 2002年、FAによりアメリカメジャーリーグニューヨーク・メッツに移籍するが、メジャーでは1勝もできずに帰国。
  • 2003年、この年はプロ球団に所属せず、野球解説者を務める傍らトレーニングを続ける。
  • 2004年、ロッテに復帰。
  • 2005年、自ら敗戦処理を買って出、チーム31年ぶりとなるリーグ優勝・日本一を支える。
  • 2006年、早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻する。学生とプロの二足のわらじをはく。しかし学校はほとんど行っていない。
  • 2007年、この年からアンダースローにも(スリークォーターとの二刀流)挑戦する事を表明。
  • 2008年、早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科で修士の学位取得見込み。ただし修士論文は所属する研究室の人間に書いてもらっている。

1999年にフリーエージェント(FA)の権利を取得。同年オフの行使は確実と見られていたが、ライバル球団への戦力流出を恐れたロッテは、同一リーグに移籍しないことを条件に、FA補償のかからない自由契約を提案する(実質戦力外通告だったと言われ、一方的に自由契約としたという意見もある)。紆余曲折あり、様々な憶測を呼んだが、メジャー移籍を視野に入れる小宮山は、セントラル・リーグの横浜ベイスターズに移籍。2年後にFA宣言してニューヨーク・メッツに移籍する。

2005年以降は、自軍が大量リードされている展開でのロングリリーフ(つまり敗戦処理)がほとんどである。これはボビー・バレンタイン監督の意向で、「将来性のある若い投手に敗戦処理をさせても意味がない」との持論からである。このような起用法に、自身のプライドから異を唱えるベテラン投手もいる中で、小宮山は自分の役目を淡々と担っている。

なお、このバレンタインの持論は「ベテランに敗戦処理をさせてもブライドを傷つけられて腐るだけ」「若い投手は敗戦処理でも〝投げさせて貰える〟とプラスに作用する」という、大矢明彦・横浜ベイスターズ監督の持論と真っ向から対立するものである。

また敗戦処理だけでなく、延長戦など緊迫した場面を任されることも多い。これも「若い投手がサヨナラ負けで大きなショックを受けてしまうのは良いことではない」という監督の意向からである。

2007年4月21日楽天戦に5回途中から登板して好リリーフを見せ、3年ぶりとなる白星を挙げた。また、続く24日の北海道日本ハムファイターズ戦(22日は雨天中止、23日は試合なし)では7回2死満塁、同点に追いつかれた場面で登板し、3球でアウトを奪う。8回には自軍が逆転し、わずか3球で2試合連続の勝利投手となった。ちなみに、40代の投手が2試合連続でチームの勝利投手となったのは、59年ぶり2人目(2リーグ制以降では史上初)という珍記録であった。 この年は、自己最多となる41試合に登板。

また、2007年吉井理人が現役引退したことから、パリーグ最年長投手となった。

[編集] 魔球「シェイク」

2005年に新魔球「シェイク」を開発した。シェイクは人差し指と中指の2本の指ではさみ、通常の投球フォームとは明らかに違う、球を押し出すようなフォームで投げる。フォームが違うことや揺れることはナックルに類似するが、球速が80km/h程度まで抑えられており、他の球種と併用することで力を持つ。交流戦では古田敦也がこの球を空振りした。2006年には日高剛に対し4球連続でシェイクを投じ空振り三振に仕留め、球場を湧かせた。このシェイクは千葉マリンスタジアム特有のマリン風を利用し揺らしているため、2005年にはただのスローボールとなり、ど真ん中に入ったシェイクを西武ライオンズ中村剛也に痛烈に本塁打された。小宮山は後に「揺れなかったのでアレはシェイクではない」と語っている。

ちなみに、小宮山は翌2006年、シェイクと同じフォームからおよそ110km/hの速球を投げ込む「フェイク」を開発している。これは、ゆったりとした独特の投球動作で打者にはシェイクを投げることを予感させながら、異なる球種で投げるという投法である。メディアに「フェイク」と取り上げられる前に、この投法で西武の和田一浩から三振を奪っている。

2007年シーズンは投球練習では披露することは多々あったものの、実戦では使っていない。これは、小宮山のシェイクは大差が付いた試合でファンに披露するいわゆるサービスボールであり、2007年の小宮山は緊迫した場面で登板する場面が多かったからだと言われている。

[編集] エピソード

  • 2浪ながら一般入試で早大に入学したように頭脳明晰で、打者心理をついた変化球中心の投球をする。
  • 賢明なピッチング同様、わかり易い野球解説・理論にも定評があり、現役投手でありながらも若手時代から度々テレビ中継で解説を行っている。ボビー・バレンタイン監督の後継監督と噂されており、2007年度シーズンの投手部門のコーチを兼任するという声も囁かれたが本人は選手一本でやっていくと表明。
  • 非常に多彩な球種を持つ投手の部類に入る。ストレートは140km/h以下で決して速くはないが、シェイク(前述)を始めスライダーカーブスプリッターチェンジアップカットボールシンカーシュートなど、ほぼ全球種を使いこなす。「(ナックル以外の球種は)投げようと思えばすぐに投げることができた」と、シェイク開発のエピソードを語る際にコメントを残している。
  • 小宮山は同級生のプロ野球選手・コーチ・スタッフで構成する「プロ野球昭和40年会」のメンバー。オフには古田敦也吉井理人仲田幸司山本昌香田勲男星野伸之ら40年会メンバーと、中村紀洋小笠原道大三浦大輔らをメンバーとする「プロ野球昭和48年会」と合同でイベントを行っている。メンバーは小宮山の人となりについて「コミは何かにつけて説教するのが好き」などと評している。
  • 二浪して大学進学したため、本来二級下の佐々木主浩(当時東北福祉大学)らからは、日米大学野球代表などで同じチームになった際には「小宮山」と呼び捨てにされていた。ただプロ入り以降は「小宮山さん」と呼ばれている。
  • Jリーグ柏レイソルのサポーター。よく自主トレーニングを柏レイソルの選手と一緒に行っている。横浜ベイスターズに在籍時、同じ横浜に本拠地を置く横浜F・マリノスから応援コメントを求められ、柏レイソルファンであることを理由に断ったという逸話はサポーターの間では有名。2005年のリーグ優勝時のビールかけの席でも、かぶっていた水泳帽に「がんばれ柏レイソル」と書かれていた。
  • 柏が横浜FCヴィッセル神戸とJ1昇格を争っていたシーズン終盤の2006年11月26日の対コンサドーレ札幌戦ではイレブンに混じって試合前の写真撮影に参加していた。
  • 前述の2005年のビールかけの際にも横浜球団に対して義理堅いのか、水泳帽には「横浜Aクラスおめでとう」とも書かれていた。
  • トレードマークであるサングラスは、音楽が聴けるようになっている。
  • 早稲田では教職課程を取り、数学の教員免許を持っている。
しかし教育実習時は慢性的な睡眠不足が続いたことから些細なことで怒りやすくなり、実習先の中学校の生徒と連日つかみ合いのケンカをしていたという(BAY LINE 7300出演時の本人の発言)。
  • 下記成績表の通り、主に所属している千葉ロッテ自体長く低迷していた事もあって、シーズンで負け数が勝ち数を上回る年が多い。
  • ファンからは「教授」とあだ名されている。近年は「長老」というあだ名も浸透している。
  • 現在でこそコントロールの良さを武器としているが、プロ入りして4~5年ほどは、どちらかというと荒れ球を武器としていたタイプであった。
  • 実は1995年も最優秀防御率のタイトルに手が掛かる位置にいた(最終戦の時点で当時チームメイトだった伊良部秀輝が2位、小宮山は3位。1位は西武の郭泰源であったが西武は日程終了)。バレンタイン監督は最終戦で小宮山を先発させタイトルを狙わせたが、打たれて自責点が付き降板。タイトル獲得はならなかった。小宮山が降板した後には伊良部が登板しリリーフを成功させ、この年の最優秀防御率を獲得している。
  • 2003年は所属球団がなく、「浪人」状態で、プロ野球や大リーグのゲスト解説や、テレビ番組の出演や講演などでそれなりの収入を得ることができたが、それでもプロ野球選手の一軍最低保障額(1500万)には届かず、あらためてプロ野球選手のすごさや、現役でいられるありがたみを痛感するようになったという。
  • 2006年に早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻する(しかし学校はほとんど行っていない。今年、修士の学位取得見込み。ただし修士論文は所属する研究室の人間に書いてもらっている)。

[編集] アマ時代の戦歴

東京六大学リーグ

[編集] 年度別投手成績

年度 チーム






セーブ














ボーク




1990年 ロッテ 14 30 6 2 6 10 2 .375 170.2 159 22 63 4 126 5 0 70 62 3.27
1991年 29 15 1 10 16 0 .385 212.0 219 28 80 5 130 3 0 104 93 3.95
1992年 29 9 1 8 15 0 .348 172.2 187 11 64 6 124 3 0 86 76 3.96
1993年 27 14 0 12 14 0 .462 204.1 193 14 71 12 160 6 0 90 78 3.44
1994年 14 3 2 3 9 0 .250 85.0 81 10 28 3 67 3 0 48 40 4.24
1995年 25 6 1 11 4 0 .733 187.0 150 11 53 5 169 2 0 60 54 2.60
1996年 25 2 0 8 13 0 .381 154.2 192 17 39 5 90 4 0 86 78 4.54
1997年 27 3 2 11 9 0 .550 187.2 186 8 30 2 130 7 0 62 52 2.49
1998年 27 10 2 11 12 0 .478 201.2 224 20 27 5 126 2 1 101 80 3.57
1999年 21 4 0 7 10 0 .412 141.2 158 19 15 1 96 3 0 74 64 4.07
2000年 横浜 27 26 5 3 8 11 0 .421 161.1 166 24 37 0 108 3 0 72 71 3.96
2001年 24 6 3 12 9 0 .571 148.2 150 9 30 8 74 2 0 55 50 3.03
2002年 NYM 17 25 0 0 0 3 0 .000 43.1 53 7 12 3 33 1 0 29 27 5.61
2004年 ロッテ 14 18 0 0 3 4 0 .429 81.0 95 15 21 4 47 1 1 49 47 5.22
2005年 23 0 0 0 0 1 .000 40.1 52 5 5 0 22 0 0 20 17 3.79
2006年 24 0 0 0 2 0 .000 35.0 40 2 6 0 15 0 0 18 18 4.63
2007年 41 0 0 3 1 0 .750 56.1 65 2 12 2 24 1 0 29 25 3.99
日本通算 410 83 17 113 139 3 .448 2240.0 2317 217 581 62 1508 45 2 1024 905 3.64
日米通算 435 83 17 113 142 3 .443 2283.1 2370 224 593 65 1541 46 2 1053 932 3.67
  • 2007年シーズン終了時点

[編集] タイトル

  • 最優秀防御率:1回(1997年)

[編集] 背番号

  • 14(1990年~1999年、2004年~)
  • 27(2000年~2001年)
  • 17(2002年)

[編集] 関連項目

先代:
伊良部秀輝
パ・リーグ最優秀防御率
1997年
次代:
金村暁
ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)
1989年ドラフト指名選手
1位:小宮山悟 / 2位:小林昭則 / 3位:鈴木俊雄 / 4位:南渕時高 / 5位:鹿野浩司 / 6位:林博康
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