小宮山悟
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小宮山 悟 千葉ロッテマリーンズ No.14 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 千葉県柏市 |
生年月日 | 1965年9月15日(42歳) |
身長 体重 |
183cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1989年 1位 |
初出場 | 1990年4月12日 (NPB) 2002年 (MLB) |
年俸 | 4,200万円(推定) |
経歴 | |
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小宮山 悟(こみやま さとる、 1965年9月15日- )は、千葉県柏市出身のプロ野球選手。千葉ロッテマリーンズ所属。ポジションは投手。非常にコントロールの良い投手で、投げる精密機械、ミスターコントロールなどと呼ばれている。風避けのゴーグルと特異なセットポジションがトレードマーク。
目次 |
[編集] 来歴・人物
柏市立柏第四中学校から併願の芝浦工業大学柏高校へ(千葉県立柏南高等学校を受けるも不合格)。当時の柏南の野球部員は、柏四中から有名なバッテリーが入ると期待していたというが、結局捕手のみの入部となった。その後2浪して早稲田大学教育学部。2年生の秋からエースの座につき、通算20勝を挙げる。4年次には主将。慶應義塾大学・大森剛(のち読売ジャイアンツ)との対決は早慶戦の華だった。3年春にはリーグ打率更新、3年秋には2シーズン連続首位打者という大森の野望を続けざまに粉砕、しかしその秋の早慶戦ではその大森をチームの勝利優先のために敬遠、慶應側スタンドからの野次に思わずマウンドで涙したという逸話も残っている。
- 1989年、ドラフト1位でロッテオリオンズに入団。
- 1990年、ルーキーのこの年、シーズン6勝を挙げる。
- 1992年、千葉移転後の千葉ロッテマリーンズの栄えある開幕投手となり、シーズン10勝。以降3年連続して開幕投手を務める。
- 1993年、開幕戦の完投勝利を皮切りに、開幕から自身登板時に6試合連続完投勝利というプロ野球史上初の記録をマーク(ただしその後6連敗を喫して6勝6敗となるなどして、シーズン成績は12勝14敗で負け越し)。
- 1997年、開幕投手。開幕から自身登板時に6連勝を記録する。この年に防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを獲得。翌1998年にも開幕投手となった。
- 1999年、FA権を行使する意向を球団に伝えたところ、戦力外通告を受けたため、横浜ベイスターズに移籍。
- 2001年、6度目の開幕投手を務め、シーズン12勝を挙げる。
- 2002年、FAによりアメリカメジャーリーグのニューヨーク・メッツに移籍するが、メジャーでは1勝もできずに帰国。
- 2003年、この年はプロ球団に所属せず、野球解説者を務める傍らトレーニングを続ける。
- 2004年、ロッテに復帰。
- 2005年、自ら敗戦処理を買って出、チーム31年ぶりとなるリーグ優勝・日本一を支える。
- 2006年、早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻する。学生とプロの二足のわらじをはく。しかし学校はほとんど行っていない。
- 2007年、この年からアンダースローにも(スリークォーターとの二刀流)挑戦する事を表明。
- 2008年、早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科で修士の学位取得見込み。ただし修士論文は所属する研究室の人間に書いてもらっている。
1999年にフリーエージェント(FA)の権利を取得。同年オフの行使は確実と見られていたが、ライバル球団への戦力流出を恐れたロッテは、同一リーグに移籍しないことを条件に、FA補償のかからない自由契約を提案する(実質戦力外通告だったと言われ、一方的に自由契約としたという意見もある)。紆余曲折あり、様々な憶測を呼んだが、メジャー移籍を視野に入れる小宮山は、セントラル・リーグの横浜ベイスターズに移籍。2年後にFA宣言してニューヨーク・メッツに移籍する。
2005年以降は、自軍が大量リードされている展開でのロングリリーフ(つまり敗戦処理)がほとんどである。これはボビー・バレンタイン監督の意向で、「将来性のある若い投手に敗戦処理をさせても意味がない」との持論からである。このような起用法に、自身のプライドから異を唱えるベテラン投手もいる中で、小宮山は自分の役目を淡々と担っている。
なお、このバレンタインの持論は「ベテランに敗戦処理をさせてもブライドを傷つけられて腐るだけ」「若い投手は敗戦処理でも〝投げさせて貰える〟とプラスに作用する」という、大矢明彦・横浜ベイスターズ監督の持論と真っ向から対立するものである。
また敗戦処理だけでなく、延長戦など緊迫した場面を任されることも多い。これも「若い投手がサヨナラ負けで大きなショックを受けてしまうのは良いことではない」という監督の意向からである。
2007年4月21日、楽天戦に5回途中から登板して好リリーフを見せ、3年ぶりとなる白星を挙げた。また、続く24日の北海道日本ハムファイターズ戦(22日は雨天中止、23日は試合なし)では7回2死満塁、同点に追いつかれた場面で登板し、3球でアウトを奪う。8回には自軍が逆転し、わずか3球で2試合連続の勝利投手となった。ちなみに、40代の投手が2試合連続でチームの勝利投手となったのは、59年ぶり2人目(2リーグ制以降では史上初)という珍記録であった。 この年は、自己最多となる41試合に登板。
また、2007年吉井理人が現役引退したことから、パリーグ最年長投手となった。
[編集] 魔球「シェイク」
2005年に新魔球「シェイク」を開発した。シェイクは人差し指と中指の2本の指ではさみ、通常の投球フォームとは明らかに違う、球を押し出すようなフォームで投げる。フォームが違うことや揺れることはナックルに類似するが、球速が80km/h程度まで抑えられており、他の球種と併用することで力を持つ。交流戦では古田敦也がこの球を空振りした。2006年には日高剛に対し4球連続でシェイクを投じ空振り三振に仕留め、球場を湧かせた。このシェイクは千葉マリンスタジアム特有のマリン風を利用し揺らしているため、2005年にはただのスローボールとなり、ど真ん中に入ったシェイクを西武ライオンズ・中村剛也に痛烈に本塁打された。小宮山は後に「揺れなかったのでアレはシェイクではない」と語っている。
ちなみに、小宮山は翌2006年、シェイクと同じフォームからおよそ110km/hの速球を投げ込む「フェイク」を開発している。これは、ゆったりとした独特の投球動作で打者にはシェイクを投げることを予感させながら、異なる球種で投げるという投法である。メディアに「フェイク」と取り上げられる前に、この投法で西武の和田一浩から三振を奪っている。
2007年シーズンは投球練習では披露することは多々あったものの、実戦では使っていない。これは、小宮山のシェイクは大差が付いた試合でファンに披露するいわゆるサービスボールであり、2007年の小宮山は緊迫した場面で登板する場面が多かったからだと言われている。
[編集] エピソード
- 2浪ながら一般入試で早大に入学したように頭脳明晰で、打者心理をついた変化球中心の投球をする。
- 賢明なピッチング同様、わかり易い野球解説・理論にも定評があり、現役投手でありながらも若手時代から度々テレビ中継で解説を行っている。ボビー・バレンタイン監督の後継監督と噂されており、2007年度シーズンの投手部門のコーチを兼任するという声も囁かれたが本人は選手一本でやっていくと表明。
- 非常に多彩な球種を持つ投手の部類に入る。ストレートは140km/h以下で決して速くはないが、シェイク(前述)を始めスライダー、カーブ、スプリッター、チェンジアップ、カットボール、シンカー、シュートなど、ほぼ全球種を使いこなす。「(ナックル以外の球種は)投げようと思えばすぐに投げることができた」と、シェイク開発のエピソードを語る際にコメントを残している。
- 小宮山は同級生のプロ野球選手・コーチ・スタッフで構成する「プロ野球昭和40年会」のメンバー。オフには古田敦也、吉井理人、仲田幸司、山本昌、香田勲男、星野伸之ら40年会メンバーと、中村紀洋、小笠原道大、三浦大輔らをメンバーとする「プロ野球昭和48年会」と合同でイベントを行っている。メンバーは小宮山の人となりについて「コミは何かにつけて説教するのが好き」などと評している。
- 二浪して大学進学したため、本来二級下の佐々木主浩(当時東北福祉大学)らからは、日米大学野球代表などで同じチームになった際には「小宮山」と呼び捨てにされていた。ただプロ入り以降は「小宮山さん」と呼ばれている。
- Jリーグ・柏レイソルのサポーター。よく自主トレーニングを柏レイソルの選手と一緒に行っている。横浜ベイスターズに在籍時、同じ横浜に本拠地を置く横浜F・マリノスから応援コメントを求められ、柏レイソルファンであることを理由に断ったという逸話はサポーターの間では有名。2005年のリーグ優勝時のビールかけの席でも、かぶっていた水泳帽に「がんばれ柏レイソル」と書かれていた。
- 柏が横浜FC・ヴィッセル神戸とJ1昇格を争っていたシーズン終盤の2006年11月26日の対コンサドーレ札幌戦ではイレブンに混じって試合前の写真撮影に参加していた。
- 前述の2005年のビールかけの際にも横浜球団に対して義理堅いのか、水泳帽には「横浜Aクラスおめでとう」とも書かれていた。
- トレードマークであるサングラスは、音楽が聴けるようになっている。
- 早稲田では教職課程を取り、数学の教員免許を持っている。
- しかし教育実習時は慢性的な睡眠不足が続いたことから些細なことで怒りやすくなり、実習先の中学校の生徒と連日つかみ合いのケンカをしていたという(BAY LINE 7300出演時の本人の発言)。
- 下記成績表の通り、主に所属している千葉ロッテ自体長く低迷していた事もあって、シーズンで負け数が勝ち数を上回る年が多い。
- ファンからは「教授」とあだ名されている。近年は「長老」というあだ名も浸透している。
- 現在でこそコントロールの良さを武器としているが、プロ入りして4~5年ほどは、どちらかというと荒れ球を武器としていたタイプであった。
- 実は1995年も最優秀防御率のタイトルに手が掛かる位置にいた(最終戦の時点で当時チームメイトだった伊良部秀輝が2位、小宮山は3位。1位は西武の郭泰源であったが西武は日程終了)。バレンタイン監督は最終戦で小宮山を先発させタイトルを狙わせたが、打たれて自責点が付き降板。タイトル獲得はならなかった。小宮山が降板した後には伊良部が登板しリリーフを成功させ、この年の最優秀防御率を獲得している。
- 2003年は所属球団がなく、「浪人」状態で、プロ野球や大リーグのゲスト解説や、テレビ番組の出演や講演などでそれなりの収入を得ることができたが、それでもプロ野球選手の一軍最低保障額(1500万)には届かず、あらためてプロ野球選手のすごさや、現役でいられるありがたみを痛感するようになったという。
- 2006年に早稲田大学大学院、スポーツ科学研究科に入学し、投球フォームに関するバイオメカニクスを専攻する(しかし学校はほとんど行っていない。今年、修士の学位取得見込み。ただし修士論文は所属する研究室の人間に書いてもらっている)。
[編集] アマ時代の戦歴
- 東京六大学リーグ
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
勝 利 |
敗 戦 |
セーブ | 勝 率 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボーク | 失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
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1990年 | ロッテ | 14 | 30 | 6 | 2 | 6 | 10 | 2 | .375 | 170.2 | 159 | 22 | 63 | 4 | 126 | 5 | 0 | 70 | 62 | 3.27 |
1991年 | 29 | 15 | 1 | 10 | 16 | 0 | .385 | 212.0 | 219 | 28 | 80 | 5 | 130 | 3 | 0 | 104 | 93 | 3.95 | ||
1992年 | 29 | 9 | 1 | 8 | 15 | 0 | .348 | 172.2 | 187 | 11 | 64 | 6 | 124 | 3 | 0 | 86 | 76 | 3.96 | ||
1993年 | 27 | 14 | 0 | 12 | 14 | 0 | .462 | 204.1 | 193 | 14 | 71 | 12 | 160 | 6 | 0 | 90 | 78 | 3.44 | ||
1994年 | 14 | 3 | 2 | 3 | 9 | 0 | .250 | 85.0 | 81 | 10 | 28 | 3 | 67 | 3 | 0 | 48 | 40 | 4.24 | ||
1995年 | 25 | 6 | 1 | 11 | 4 | 0 | .733 | 187.0 | 150 | 11 | 53 | 5 | 169 | 2 | 0 | 60 | 54 | 2.60 | ||
1996年 | 25 | 2 | 0 | 8 | 13 | 0 | .381 | 154.2 | 192 | 17 | 39 | 5 | 90 | 4 | 0 | 86 | 78 | 4.54 | ||
1997年 | 27 | 3 | 2 | 11 | 9 | 0 | .550 | 187.2 | 186 | 8 | 30 | 2 | 130 | 7 | 0 | 62 | 52 | 2.49 | ||
1998年 | 27 | 10 | 2 | 11 | 12 | 0 | .478 | 201.2 | 224 | 20 | 27 | 5 | 126 | 2 | 1 | 101 | 80 | 3.57 | ||
1999年 | 21 | 4 | 0 | 7 | 10 | 0 | .412 | 141.2 | 158 | 19 | 15 | 1 | 96 | 3 | 0 | 74 | 64 | 4.07 | ||
2000年 | 横浜 | 27 | 26 | 5 | 3 | 8 | 11 | 0 | .421 | 161.1 | 166 | 24 | 37 | 0 | 108 | 3 | 0 | 72 | 71 | 3.96 |
2001年 | 24 | 6 | 3 | 12 | 9 | 0 | .571 | 148.2 | 150 | 9 | 30 | 8 | 74 | 2 | 0 | 55 | 50 | 3.03 | ||
2002年 | NYM | 17 | 25 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | .000 | 43.1 | 53 | 7 | 12 | 3 | 33 | 1 | 0 | 29 | 27 | 5.61 |
2004年 | ロッテ | 14 | 18 | 0 | 0 | 3 | 4 | 0 | .429 | 81.0 | 95 | 15 | 21 | 4 | 47 | 1 | 1 | 49 | 47 | 5.22 |
2005年 | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | .000 | 40.1 | 52 | 5 | 5 | 0 | 22 | 0 | 0 | 20 | 17 | 3.79 | ||
2006年 | 24 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .000 | 35.0 | 40 | 2 | 6 | 0 | 15 | 0 | 0 | 18 | 18 | 4.63 | ||
2007年 | 41 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | .750 | 56.1 | 65 | 2 | 12 | 2 | 24 | 1 | 0 | 29 | 25 | 3.99 | ||
日本通算 | 410 | 83 | 17 | 113 | 139 | 3 | .448 | 2240.0 | 2317 | 217 | 581 | 62 | 1508 | 45 | 2 | 1024 | 905 | 3.64 | ||
日米通算 | 435 | 83 | 17 | 113 | 142 | 3 | .443 | 2283.1 | 2370 | 224 | 593 | 65 | 1541 | 46 | 2 | 1053 | 932 | 3.67 |
- 2007年シーズン終了時点
[編集] タイトル
- 最優秀防御率:1回(1997年)
[編集] 背番号
- 14(1990年~1999年、2004年~)
- 27(2000年~2001年)
- 17(2002年)
[編集] 関連項目
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監督 |
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2ボビー・バレンタイン |
コーチ |
78西村徳文(ヘッド兼外野守備走塁兼3塁ベースコーチ)|79井上祐二(投手)|87高橋慶彦(打撃)|85袴田英利(バッテリー)|77吉鶴憲治(バッテリー)|81成本年秀(ブルペン)|83ランペン(打撃兼内野守備兼ベンチコーチ)|73諸積兼司(バント兼1塁ベースコーチ)|90立花龍司(ヘッドコンディショニング)|86佐野嘉幸(巡回) |
二軍監督・コーチ |
80レン・サカタ(監督)|71古賀英彦(ヘッド)|88荘勝雄(投手)|75高沢秀昭(打撃兼外野守備走塁)|94定詰雅彦(バッテリー)|72上川誠二(内野守備走塁)|82イエーツ(投手兼コンディショニング担当) |
投手 |
0荻野忠寛|1大嶺祐太|11神田義英|12川崎雄介|13浅間敬太|14小宮山悟|15柳田将利|16久保康友|17成瀬善久|18清水直行|19唐川侑己|20服部泰卓|21内竜也|24下敷領悠太|27古谷拓哉|28根本朋久|29小野晋吾|30伊藤義弘|31渡辺俊介|35三島輝史|36黒滝将人|37林啓介|38中郷大樹|41小林宏之|43アブレイユ|45松本幸大|46呉偲佑|47手嶌智|48高木晃次|49シコースキー|51植松優友|53相原勝幸|56木興拓哉|60阿部和成|66末永仁志|69江口亮輔|99田中良平 |
捕手 |
22里崎智也|33橋本将|39田中雅彦|62金澤岳|63青松敬鎔|67新里賢 |
内野手 |
4オーティズ|5堀幸一|7西岡剛|8今江敏晃|9福浦和也|32根元俊一|40渡辺正人|42ズレータ|52塀内久雄|58青野毅|59細谷圭|68早坂圭介|70定岡卓摩 |
外野手 |
00代田建紀|3サブロー|10大松尚逸|23大塚明|25竹原直隆|44早川大輔|50ベニー|55神戸拓光|57佐藤賢治|61角中勝也|65南竜介 |
育成選手 |
121池田健|122宮本裕司|123小林憲幸|124白川大輔|125大谷龍次|126田村領平 |
ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ) 1989年ドラフト指名選手 |
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1位:小宮山悟 / 2位:小林昭則 / 3位:鈴木俊雄 / 4位:南渕時高 / 5位:鹿野浩司 / 6位:林博康 |