ボビー・バレンタイン
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ボビー・バレンタイン Bobby Valentine 千葉ロッテマリーンズ No.2 |
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基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | コネティカット州スタンフォード |
生年月日 | 1950年5月13日(58歳) |
身長 体重 |
178cm 84kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 遊撃手、外野手 |
経歴 | |
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“ボビー”ロバート・ジョン・バレンタイン(Robert John "Bobby" Valentine、1950年5月13日 - )はメジャーリーグベースボールおよび日本プロ野球の監督。現在は千葉ロッテマリーンズ監督。
千葉大学・千葉商科大学・城西国際大学客員教授。吉本興業所属。
目次 |
[編集] 来歴・人物
大学入学直後の1968年5月にドラフト1巡目(全体5番目)でロサンゼルス・ドジャースに入団。アメリカンフットボールで奨学金を得ていたが、当時のトミー・ラソーダスカウト(1976年からドジャース監督)に見出され、オフ中は通学させてもらうことを条件に傘下の3A、スポーカン・インディアンズに入団した。現役時代は内野手(遊撃手)と足の速さを生かして外野(中堅)も守った。ケガに泣き、メジャーリーガーとしての実績は目立つものではなかったが指導者としての手腕を買われ、1985年から1992年までテキサス・レンジャーズ(アメリカンリーグ)の監督に就任した。
監督としてはたびたび激昂、1シーズン18回の退場記録を持つ。ただしこの退場記録は、レンジャーズ監督就任時に記者から「アメリカンリーグとナショナルリーグの違いは?」と問われた時に「最大の違いはナショナルリーグの審判の方がずっと優秀だということだ」と答えたために、アメリカンリーグの審判団から、ちょっとした抗議でもすぐに退場処分になる報復を受けた。この仕打ちはバレンタインが審判団に謝罪するまで続いた。
1995年、ロッテのゼネラルマネージャーに就任した広岡達朗に請われ、同球団の監督に就任(背番号80)。選手の潜在能力を引き出し、当時パ・リーグ5連覇中の西武ライオンズを上回る2位に導く(チームとしても10年ぶりのAクラス)。同年阪神大震災からの復興の象徴であったオリックス・ブルーウェーブの本拠地胴上げを阻止する3連勝(9月15日~9月17日)など、今までのチームカラーを一掃した。また、震災へのチャリティーのために「ドリーム・ゲーム(日本人選手選抜対外国人選手選抜)」を提案し、外国人チームの監督を務めた(日本人チームの監督は王貞治が務めた)。しかし広岡や尾花高夫・江藤省三ら一部のコーチとの確執が表面化し、1年で解任。ファンからは解任を惜しまれ、広岡や球団フロントを非難する声が上がった。
その後ナショナルリーグ・ニューヨーク・メッツの監督に就任し、柏田貴史、吉井理人、新庄剛志、小宮山悟ら日本人選手を受け入れるなど、日本でも有名なメジャーリーグ監督となる。2000年にはワイルドカードからディヴィジョン・シリーズ、リーグ・チャンピョンシップ・シリーズを勝ち上がりワールドシリーズへの出場を果たした。
メッツ監督時代の1999年6月9日の対トロント・ブルージェイズ戦では、延長12回に審判に退場を命じられて一旦退場したものの、その後サングラスと付けひげ・黒いTシャツで変装してベンチに戻ってきた(このシーンは日本のスポーツバラエティ番組でもよく取り上げられる)。試合はメッツが延長14回にサヨナラ勝ちを収め、バレンタインも選手の歓喜の輪に加わった。試合後、この件を新聞記者に問われたバレンタインは「自分に似ていない誰かがベンチにいたんだろう」ととぼけ、さらにナショナルリーグ会長からの電話による事情聴取にも「あの時はベンチとロッカールームの間の通路にいた」と退場後にベンチに戻ったことを頑強に否定した(この件で、バレンタインは、罰金5,000ドルと2試合出場停止の処分を受けた)。
2003年オフ、低迷にあえぐロッテからのオファーを受けて9年ぶりに監督に復帰(背番号2)。これにより、背番号2をつけていたサブローは背番号3へ変更となった。背番号2は古巣ドジャースで、バレンタインが恩師と仰ぐラソーダがつけていた。
2004年、北海道日本ハムファイターズとの熾烈な3位争い(プレーオフ進出権争い)を演じ、惜しくも0.5ゲーム差の4位だったがチームを9年ぶりの勝率.500へ導いた。
2005年は相手先発投手に合わせ毎日スタメンを変える変幻自在の打線で勝ち続けた(但し、この戦法はバレンタインの専売特許ではない。予告先発制が導入された際、当時オリックス・ブルーウェーブの監督であった仰木彬がこの方法を取り入れている)。大胆な若手選手の先発起用、ほぼ全てのポジションに複数の選手を充て競争意識を高めつつ適度に休養を取らせる、里崎智也、橋本将の2人の捕手を先発投手に合わせ入れ替える(両選手ともに打撃も良く、スタメンマスクを外れても指名打者として出場することもあった)、クリーンアップトリオを2組作って投入するなど独特の起用法が当たり、「ボビーマジック」と呼ばれた。特に目覚しい活躍を見せた西岡剛、今江敏晃らは「ボビーチルドレン」と呼ばれた。84勝でシーズン2位、3位と18.5ゲームと大差をつけてプレーオフ進出を決め、第1ステージで西武ライオンズを、第2ステージで福岡ソフトバンクホークスを破り、31年ぶりの優勝に貢献。史上初の日米で優勝経験を持つ監督となった。そして日本シリーズで阪神タイガースに4連勝し、チームを日本一に導いた。その際の優勝監督インタビューで、広岡達朗に対して「日本球界に招き入れてくれた恩人」と、感謝の言葉を贈っている。その後、11月10日から東京ドームで行われた初めてのアジアシリーズの初代王者に導いた。また、バレンタインは外国人監督としては初の日本一監督となっている。
2006年は首位争いを演じるものの最終的に4位と低迷すると、手のひらを返したような「曖昧な采配止めて」(えちうらの楽曲のタイトルを捩ったものと思われる)などの声が飛ぶことすらあった。しかし2007年は、レギュラーシーズン2位につけ、その後のクライマックスシリーズでも第1ステージで福岡ソフトバンクホークスに競り勝ち、第2ステージではリーグ優勝した北海道日本ハムファイターズ相手に2勝3敗と惜敗したものの健闘し、ロッテがバレンタインの下で名実共に強豪チームとなりつつある事が伺える。
[編集] 性格・監督として
- 普段は笑顔と共に陽気な性格を見せているが、試合中になると、自チームが逆転するなど通常はホームサイドで大歓声が自然に上がる場面でもポーカーフェイスを通す(ただし良い働きに対する労いは忘れず、ハイタッチなどはする)。これは「試合の勝利が決定する瞬間まで指揮官は喜んではいけない。もしそれをするとその時点で試合が決定したような雰囲気になり、選手の緊張感が切れてしまう」という彼の監督としての哲学に基づいたものである。2005年のプレーオフ第2ステージ第5戦、里崎智也の逆転タイムリーの後ですら、ベンチ内外で歓喜するロッテ選手の陰で一人落ち着いた表情を保っているバレンタイン監督の姿がTVカメラに映されている。
- 普段の陽気な性格とは反対に審判や相手監督に度々激昂することもあり、復帰一年目の2004年のオリックス・ブルーウェーブとのオープン戦では当時のオリックスの監督だった伊原春樹と試合中に口論。伊原が「じゃかましいわいこの野郎」と日本語で怒鳴りつけた。また外国人記者クラブで当時東北楽天ゴールデンイーグルスのGMだったマーティ・キーナートの会見が長引き、次の番であったバレンタインは業を煮やし会場に「早くしろ!」と野次を飛ばし、キーナートと一触即発の状態になった。
- 選手を怒鳴りつけることは殆ど無く(ただ10連敗したときやチームに覇気がないと感じたときにはある)、試合に敗れた後も「また明日勝ちましょう」「終わったことは仕方がない、次はキメようぜ」と励ますのみである(しかし橋本将によると「目は全く笑ってない」)。ただし、試合後は西村徳文ヘッドコーチなどによく愚痴をこぼしている。
- 彼の采配において特筆すべき点は、その選手起用の在り方である。彼自身が現役時代怪我に泣いたせいか、選手の故障・酷使には敏感であり、どんなに好調な選手であっても一定間隔で休養をとらせている。特に投手陣にいたっては、必ず5人~6人でローテーションを組み、登板間隔を一定に保っている。
- ファンサービスを非常に大切にすることで知られる。予定にない即席サイン会が行われることがしばしばある。2006年のファン感謝イベントでは選手とファンが触れ合う機会が少な過ぎることに不満を漏らし、フィールドでのイベントには目もくれず、ただ独り、ファンにサインをし続けた。
[編集] エピソード
- 家族構成は夫人と1男。特技のひとつは社交ダンス。本格的にダンスをはじめたのはジュニアハイスクール時代(当時13歳)地域のコンテスト、州内のコンテストで優勝。
- 1965年にはマイアミで行われた国際大会のジュニアクラスで優勝するなど競技ダンスでも活躍していた。
- 愛車はBMW。(もう一台の愛車であるMTBもBMW。)
- DEENのファンとしても知られる。きっかけは初来日当時の劇空間プロ野球のテーマソングが「未来のために」で、この曲に感銘を受けたことからファンになった。プライベートでDEENのライブに行くほどである。2006年にはダイヤモンド/光の珠~The shining ball~にVoice&vocalで参加している。
- 2005年、阪神甲子園球場で日本一を/更に東京ドームでアジア一を決めた時のインタビューで、ファンに向かって「このチームは世界でイチバンです!!」と絶叫にも似た答えで返した。
- 31年ぶりに千葉ロッテマリーンズを日本一に導いた采配と、ファンから親しまれる人柄を評価し、背番号2をチームの永久欠番にしようという動きもある。
- 2005年度正力松太郎賞、千葉市特別名誉市民。功績を称え、祝勝パレードが行われた千葉市美浜区幕張ベイタウンの「富士見通り」は“バレンタイン通り”に改称。
- グリーンガムのCMに選手たちと一緒に出演し、中央でサムアップのポーズをしたり、落ち込んでいるヒロイン「よしこ」を代打(ポジションは指名打者)で起用、「さぁ、行きましょう!」と励ましたりする演技が光っている(勿論、声は吹き替え)。その後、アカデミー賞候補で大ブレイクした“よしこ”こと菊池凛子からバレンタインデーに手製のチョコレートを贈られ、「アカデミー賞の日本の子が、あの“よしこ”とは」と絶賛、感激していた。このCMでは他に、選手達が、仕事上のミスから残業して後始末をする羽目になったよしこを「失敗するから成功もあるのさ」と励ますバージョンもある。
- 翌年には、やはりグリーンガムのフィギュアプレゼントのCM、“インタビューで、今欲しい新しいキャラを「Qチャン!」、一番大切なものは「ディープインパクト!」と発言、これを聞いたボビーチルドレンの代表でもある今江・西岡が、選手のことだと勘違いして「Qちゃん!?」「馬かよ…」とガックリ肩を落とす、しかし本人は全く気づかず「当テテイキマショー♪」”篇にも登場し、すっかりロッテを代表する人物になった。
- 更に2006年は、ロッテのグループ会社であるロッテリアにて、『ボビーバーガー』というキャンペーンバーガーが販売される。商品名に名前を提供し、「監修」という形で名前を連ねている他、同商品の広告に大々的に出ている。また、ロッテ以外にも新生銀行のCMにも出演し、選手が乱闘しているにもかかわらず、パソコンを使っていたり、代打を告げる際に「5.5! 5.5!」と審判に言い募る場面が描かれている。ちなみに5.5は新生銀行の金利であり、撮影地も千葉ロッテマリーンズの本拠地の千葉マリンスタジアムではなく、西武ライオンズの本拠地であるグッドウィルドームを使用している。なお、現在ボビーバーガーは、マリンスタジアム店のみでの限定販売。
- 就任当初の95年春にコンパック日本法人のCMに登場した。同社が納入したマリーンズのトレーニングシステム紹介の最後で挨拶代わりとばかりに"We will change the baseball."と宣言している。本人によればCM出演は過去に米国でも 「15年で20件ぐらいやった」そうである。
- 「WBCで日本が優勝したことで我々の国の野球は世界で一番だと証明されたんだ。なのに、何故皆“メジャーで挑戦”と言う?」と日本人選手のメジャーリーグ志向に警鐘を鳴らしている。また、松坂大輔のポスティングシステムによるメジャー移籍の際にも「入札には日本の球団も参加できるようにすべきだ」と話している。
- 日本のプロ野球は下部リーグを充実させるべきであるという持論を持っており、2007年には四国アイランドリーグ(当時)の球団をロッテが買収するというプランを披露したことがある(球団サイドは否定したが、その後アイランドリーグに選手を派遣する構想は表明している)。2008年4月にアイランドリーグ出身の角中勝也が初めてホームランを放った際にも下部リーグの重要性を指摘するコメントを述べた。
- 2006年にベストドレッサー賞を受賞した。
- 2006年5月6日、試合前のスタジアムにタキシード姿で登場。DEENの「ダイヤモンド」に乗せて、プロの寺門亮子と華麗なチャチャのステップを披露した。この日のダンスが話題を呼びJ SPORTSの「ダンスに片思い~恋するステップ~」や日本テレビ「シャル・ウィ・ダンス?」の「魔女のダンス教室」に講師として出演をしている。
- 2007年5月17日、世界高血圧デーのキャンペーンの一環として、24時間以内に一つの場所で何人が血圧測定できるかを競うギネス記録に挑戦。千葉マリンスタジアムでの西武戦の試合前~終了後までバレンタインを始め、ファンや選手など2109人が血圧を測定しギネス認定された(測定結果は135/86だった)。
- 2007年10月3日、高校生ドラフト1順目で唐川侑己のくじを見事引き当てたバレンタインは、「ベリーエキサイティング。体も大きいし色々な球種を投げられるし、唐川君もロッテに来たいと言ってくれてるみたいだし最高だね。ブラウンに渡されたのを断ったのは、シリコンバンド(チームロゴと「Once again, All Hands to the Flag(もう一度結束―フラッグの為に!)」の刻印入り灰色。ペナント奪還への意気込みの意)をしてる左手でひきたかったから。ファンのみんなと一緒にクジをひきたかったんだ。」と発言した。
- 2007年11月16日、千葉商科大学の特別講師として『千葉ロッテマリーンズの現状と将来像』について講義を行った。
- 京成バスの幕張本郷駅―千葉マリンスタジアム間路線でアナウンスの声を担当。喋る内容は英語で「監督のボビー・バレンタインです。本日もご利用ありがとうございます」「(同様に名乗った後)本日は御乗車ありがとうございました。またマリンスタジアムでお会いしましょう」。
[編集] MLB での監督成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 勝率 | 年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | TEX | 7位 | 129 | 53 | 76 | .411 | 35歳 |
1986年 | 2位 | 162 | 87 | 75 | .537 | 36歳 | |
1987年 | 6位 | 162 | 75 | 87 | .463 | 37歳 | |
1988年 | 6位 | 161 | 70 | 91 | .435 | 38歳 | |
1989年 | 4位 | 162 | 83 | 79 | .512 | 39歳 | |
1990年 | 3位 | 162 | 83 | 79 | .512 | 40歳 | |
1991年 | 3位 | 162 | 85 | 77 | .525 | 41歳 | |
1992年 | 4位 | 86 | 45 | 41 | .523 | 42歳 | |
1996年 | NYM | 4位 | 31 | 12 | 19 | .387 | 46歳 |
1997年 | 3位 | 162 | 88 | 74 | .543 | 47歳 | |
1998年 | 2位 | 162 | 88 | 74 | .543 | 48歳 | |
1999年 | 2位 | 163 | 97 | 66 | .595 | 49歳 | |
2000年 | 2位 | 162 | 94 | 68 | .580 | 50歳 | |
2001年 | 3位 | 162 | 82 | 80 | .506 | 51歳 | |
2002年 | 5位 | 161 | 75 | 86 | .466 | 52歳 |
- 2000年はワイルドカードで地区シリーズに出場、サンフランシスコ・ジャイアンツに3勝1敗、リーグ優勝決定戦でセントルイス・カージナルスに4勝1敗で優勝
[編集] 日本での監督成績
年度 | 年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 打率 |
チーム 防御率 |
チーム 本塁打 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | 平成7年 | ロッテ | 2位 | 130 | 69 | 58 | 3 | .543 | 12.0 | .254 | 3.27 | 88 | 45歳 |
2004年 | 平成16年 | 4位 | 133 | 65 | 65 | 3 | .500 | (※2)12.5 | .264 | 4.40 | 143 | 54歳 | |
2005年 | 平成17年 | (※1)1位 | 136 | 84 | 49 | 3 | .632 | (※2)4.5 | .282 | 3.21 | 143 | 55歳 | |
2006年 | 平成18年 | 4位 | 136 | 65 | 70 | 1 | .481 | (※2)16.5 | .252 | 3.78 | 111 | 56歳 | |
2007年 | 平成19年 | 2位 | 144 | 76 | 61 | 7 | .555 | (※2)2.0 | .262 | 3.26 | 107 | 57歳 |
- ※1:レギュラーシーズンでは2位。
- ※2:レギュラーシーズン1位とのゲーム差
- 2005年はセ・パ交流試合に24勝11敗1分で優勝
- 2006年はセ・パ交流試合に23勝13敗で優勝
- 2005年は日本一、アジア一
[編集] 監督通算成績
- MLB 2189試合 1117勝1072敗
- NPB 399試合 218勝172敗9分
[編集] 略歴
- 1969年-1972年 ロサンゼルス・ドジャース
- 1973年-1975年途中 カリフォルニア・エンゼルス
- 1975年途中-1977年途中 サンディエゴ・パドレス
- 1977年途中-1978年 ニューヨーク・メッツ
- 1979年 シアトル・マリナーズ
- メジャー通算 実働10年 639試合 1698打席 441安打 12本塁打 157打点 打率.260
[編集] 監督としての略歴
- 1985年-1992年 テキサス・レンジャース
- 1994年 メッツ傘下3Aノーフォーク
- 1995年、2004年- 千葉ロッテマリーンズ
- 1996年-2002年 ニューヨーク・メッツ
[編集] 参考文献
- 「心に火をつける47の言葉」 PHP研究所刊 ISBN 4569648215
- 「バレンタインの勝ち語録 ―自分の殻を破るメッセージ80」 主婦と生活社刊 ISBN 4391131757
- 「ボビー流」 マガジンハウス刊 ISBN 4838716192
- 「ボビー・バレンタイン 魂の言葉」 毎日新聞社刊 ISBN 4620317489
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。
監督 |
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2ボビー・バレンタイン |
コーチ |
78西村徳文(ヘッド兼外野守備走塁兼3塁ベースコーチ)|79井上祐二(投手)|87高橋慶彦(打撃)|85袴田英利(バッテリー)|77吉鶴憲治(バッテリー)|81成本年秀(ブルペン)|83ランペン(打撃兼内野守備兼ベンチコーチ)|73諸積兼司(バント兼1塁ベースコーチ)|90立花龍司(ヘッドコンディショニング)|86佐野嘉幸(巡回) |
二軍監督・コーチ |
80レン・サカタ(監督)|71古賀英彦(ヘッド)|88荘勝雄(投手)|75高沢秀昭(打撃兼外野守備走塁)|94定詰雅彦(バッテリー)|72上川誠二(内野守備走塁)|82イエーツ(投手兼コンディショニング担当) |
投手 |
0荻野忠寛|1大嶺祐太|11神田義英|12川崎雄介|13浅間敬太|14小宮山悟|15柳田将利|16久保康友|17成瀬善久|18清水直行|19唐川侑己|20服部泰卓|21内竜也|24下敷領悠太|27古谷拓哉|28根本朋久|29小野晋吾|30伊藤義弘|31渡辺俊介|35三島輝史|36黒滝将人|37林啓介|38中郷大樹|41小林宏之|43アブレイユ|45松本幸大|46呉偲佑|47手嶌智|48高木晃次|49シコースキー|51植松優友|53相原勝幸|56木興拓哉|60阿部和成|66末永仁志|69江口亮輔|99田中良平 |
捕手 |
22里崎智也|33橋本将|39田中雅彦|62金澤岳|63青松敬鎔|67新里賢 |
内野手 |
4オーティズ|5堀幸一|7西岡剛|8今江敏晃|9福浦和也|32根元俊一|40渡辺正人|42ズレータ|52塀内久雄|58青野毅|59細谷圭|68早坂圭介|70定岡卓摩 |
外野手 |
00代田建紀|3サブロー|10大松尚逸|23大塚明|25竹原直隆|44早川大輔|50ベニー|55神戸拓光|57佐藤賢治|61角中勝也|65南竜介 |
育成選手 |
121池田健|122宮本裕司|123小林憲幸|124白川大輔|125大谷龍次|126田村領平 |