高橋尚子
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オリンピック | ||
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陸上競技 | ||
金 | 2000年 | 女子 マラソン |
高橋 尚子(たかはし なおこ、1972年5月6日 - )は、マラソン走者。女子マラソンオリンピック記録保持者(2時間23分14秒)。爽やかな笑顔と前向きな生き方から多くのファンを生み出し、社会人時代初期から引き継いでいるQちゃんの愛称で親しまれている。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 学生時代
中学から陸上競技を始め、藍川東中学・県立岐阜商業高校・大阪学院大学商学部を卒業。
高校時代は800m選手で県予選岐阜県1位であったが全国インターハイでは予選で敗退となった。
大学時代は日本インカレで1500m2位 3000m3位。
大学在学中、教師になるために母校県立岐阜商業高校で教育実習を受けていた。 だが、実業団数社から勧誘がきており、大学卒業後の自分の進路について教師になるか実業団で陸上を続けるか悩む事になる。陸上を続けるなら勧誘されていた企業ではなかったが小出義雄監督率いるリクルートが一番との高校時代の恩師の助言もあり、リクルートに入社する事になる。
[編集] リクルート時代
1995年に小出義雄が陸上部監督を務めるリクルートに入社。しかしスカウトされての入社ではなく、自ら売り込んでの入社であったとのことである。この事から小出からは「有森裕子二世」と期待されるようになった。
当初はトラックランナーであった。1997年の世界陸上競技選手権アテネ大会の女子5,000mに出場。予選レースを通過するも、決勝レースの順位は13位だった。1998年5月のIAAF国際グランプリシリーズ大阪大会(長居スタジアム)の女子5,000mで優勝している。
なお、アテネ世界選手権、高橋が練習パートナーを務めていた先輩の鈴木博美が女子マラソン優勝した。 これを沿道で応援していた高橋は先輩の鈴木の優勝を喜ぶと同時に、私ももしかしたら3番か4番にはなれたかもしれないと思い、次第にマラソンへの思いが強くなっていった。そこに師匠の小出の強い勧めもあり、高橋はマラソンランナーへと転向していく事になる。
1997年1月26日に大阪国際女子マラソンを初マラソンの舞台とする。この時、小出は各種メディアにイチオシの選手として紹介していた。しかし初マラソンは中間点を過ぎた後、先頭争いから脱落してペースダウンとなり、優勝したカトリン・ドーレ( ドイツ)には遠く及ばず、7位に終わる。1997年4月、小出がリクルートを離れ積水化学へ移籍すると、高橋も小出の後を追って積水化学へ移籍となった。
[編集] 積水化学へ移籍
積水化学へ移籍した翌年の1998年3月8日の名古屋国際女子マラソンでは、30km地点まではスローペースの先頭集団に目立たない位置でついていた。その後30Kmを過ぎてから、小出の「ここからいけ!」の号令に、高橋は猛烈なスパートを開始、間もなくして高橋の独走となる。レース後半の驚異の追い上げを見せて、ゴールタイムは2時間25分48秒という日本最高記録(当時)をマークしてマラソン初優勝を果たした。
同年12月6日のバンコクアジア大会女子マラソンは、最高気温30度を超す高温多湿のレースとなったが、スタート直後から独り飛び出した高橋は、5kmラップが16分台のスプリットを刻むハイペースで突っ走り、30kmまでは世界最高記録を更新するペースで進んでいた。さすがに30km以降は17分台のスプリットに落ち込んだものの、ゴールタイムは2時間21分47秒のアジア最高記録(当時)で優勝。自身の持つ日本最高記録を4分以上更新して世界最高記録(当時)まで1分と言うところまで縮めた。
また、女子マラソンがアジア大会で初めの開催種目だったので、その後の日本選手の士気を高めて金メダルを量産する原動力となった(当大会で男子100mの日本記録を更新した伊東浩司はそのように取材で述べていた)。そして高橋は、一躍シドニーオリンピック女子マラソンの金メダル最有力候補として、世界から注目を集めることとなる。
1999年8月29日のセビリア世界陸上の女子マラソン代表に選ばれていたが、レース直前に左膝を痛めたため、無念の欠場となる。その後も高橋は左腕を骨折したり、食あたりによる腹痛を起こすなどアクシデントが続いた。2000年3月12日、五輪最終選考会となった名古屋国際女子マラソンに出場。高橋の体調は万全では無かったが、2年前の同大会と同様の驚異的なネガティブスプリットを見せて、大会新記録で優勝。これにより、シドニー五輪代表の切符を獲得となった。
[編集] 五輪優勝・世界記録達成
同年9月24日のシドニー五輪女子マラソンでは、18Km付近で高橋自ら先頭集団を抜け出しスパート、一気に集団がばらける。その後26Km辺りからリディア・シモン( ルーマニア)と激しくデッドヒートを演じるが、高橋は34km過ぎでかけていたサングラスを沿道の父親に投げ飛ばしたと同時に、ロングスパートをかけてシモンを突き放した。スタジアムのトラックでシモンに追い上げを受けるも、そのまま逃げ切り日本陸上界悲願の優勝ゴールテープをきった。五輪での高橋の常にレースを引っ張る堂々たる走りは、ゴール後のさわやかな笑顔とともに、世界のマラソンファンに強い印象を与えた。
高橋の五輪での金メダル獲得は、日本陸上界64年ぶり戦後初の快挙であるとともに、日本女子陸上界においては史上初の快挙だった。またゴールタイムの2時間23分14秒は、ジョーン・ベノイト( アメリカ合衆国)がロサンゼルス五輪でマークしたタイムを16年ぶりに更新する五輪最高記録である(この記録は今もなお破られていない)。これらの功績により国民栄誉賞を受賞(2008年現在、高橋は最後の国民栄誉賞受賞者である)。
2001年9月30日のベルリンマラソンでは、女子初の2時間20分突破となる2時間19分46秒の世界最高記録(当時)で優勝。前世界記録保持者はテグラ・ロルーペ( ケニア)の2時間20分43秒で、1分近くの更新であった。この高橋の世界最高記録樹立での優勝は、女性初のサブ20の歴史的快挙とともに日本女子マラソンがついに世界最高記録を更新した瞬間でもあった。(2008年現在、女子マラソン世界最高記録更新した、ただ一人の日本人選手である)
高橋は翌2002年9月29日のベルリンマラソンにも出場。1ヶ月半後の東京国際女子マラソン出場も睨みながらの出場であったが、ベルリンマラソン2年連続優勝を果たし、フルマラソン6連覇を達成した。その後翌2003年8月31日のパリ世界陸上の女子マラソン代表選出を目指して、2002年11月17日の東京国際女子マラソンへ出走を予定していたが、胸の激痛が引かない為に診断した結果、肋骨の疲労骨折を起こしている事が判明し東京は欠場を表明、パリ世界陸上も断念となった。
[編集] 積水化学退社後
その後高橋は2003年2月に積水化学を退社、同年6月にはスカイネットアジア航空とスポンサー契約を結び(2005年5月迄)、前年12月に同じく同社を退社した小出監督の指導を引き続き受けることとなる。
2003年11月16日の東京国際女子マラソンで、翌2004年のアテネオリンピック代表選出を目指して出走。しかし、中間点を過ぎてから独走となるも、30km手前からスタミナ切れを起こして急激に失速してしまう。39km地点でエルフェネッシュ・アレム( エチオピア)に抜かれて、まさかの2位と敗北。結局選考レースで優勝出来なかった事とゴールタイムも悪かった事などの理由で、高橋のアテネ五輪代表の切符獲得はならず、五輪連覇への挑戦は潰える事となった。
2005年5月9日、リクルート時代から約10年に及ぶ小出との師弟関係を解消する事を発表。高橋と小出が二人揃っての記者会見を行った。
[編集] チームQ以後
2005年6月、ファイテンと2009年5月までの4年間の所属契約を結んだ。なお同社陸上部とは別に「チームQ」として活動。
2005年11月20日、東京国際女子マラソンに出場。左足のふくらはぎに軽い肉離れのケガを抱えている事を、レース前日に表明するなど体調は万全ではなかったが、終盤の35Km過ぎに高橋自らスパートしてからは独走となり2時間24分39秒でゴール、2年ぶりのマラソン復帰レースを優勝で飾る。2006年11月1日には、1年間の期限付きで母校・大阪学院大学の特任教授に就任。
2006年11月19日、2年連続で東京国際女子マラソンに出場したが、右足ふくらはぎに抱えた怪我があったことなどにより(ゴール後の記者会見で高橋自ら表明)、土佐礼子・尾崎朱美に敗れて3位という不本意なフィニッシュとなった。本来なら調整ミスのため不参加の決断が適切だったと思われたが、スポンサーとの関係などのため強行出場だった。
しかし重要な大会を前に毎回何かしらの故障を起こす現状に、チームQ、ひいては本人の自己管理の甘さを指摘する声が陸上界で挙がった。翌2007年の大阪国際及び名古屋国際へは欠場したため、同年9月2日に開催される世界陸上大阪大会女子マラソンの出場を断念する。
2008年北京オリンピックの女子マラソン代表入りは、その後の国内選考レースで挑戦する事となったが、東京国際と大阪国際はそれぞれ回避、2008年3月9日の最終選考会である名古屋国際女子マラソンに出場を決めた。しかしその名古屋の本番レースでは、序盤の9Km手前で早々スローペースの先頭集団についていけなくなり、ズルズルと遅れ出す。明らかに体調不良の状態での出走となり、高橋自身一番苦しいマラソンとなった。終盤の37Km過ぎには途中トイレに立ち寄って約40秒の時間をロスするアクシデントも有り、なんとか完走はしたものの結果は27位と惨敗、ゴールタイムも自己ワーストの記録となってしまった。
名古屋のレース終了後の記者会見では、昨2007年8月1日にアメリカのボルダーで、右膝関節の半月板を半分切除する内視鏡手術を受けていた事を告白。引退が囁かれる中、その後高橋自ら「私にはまだやるべきことがある。まだまだ走り続けたい」と現役続行を表明したものの、2012年ロンドンオリンピックへの挑戦については「4年後はまだ何も考えられないが、もしかしたら有るかも知れないですし無いかも知れないです」と明言を避けていた。
2008年3月24日、都内の記者発表会での席で、同年11月の東京国際(同30回大会で終了予定)・2009年1月の大阪国際・同年3月の名古屋国際と、国内3大女子マラソンへ3レース連続で出場する事を表明。しかし日本陸連はこの高橋の挑戦に難色を示しており、今後の動向が注目される。
[編集] エピソード
- 高橋は2001年秋のベルリンマラソンで世界記録を出したが、なんとその次の週のシカゴマラソンにも出場を決意していたという。しかし、2週連続フルマラソン出場という無謀な挑戦プランを聴いた日本陸連が、高橋にストップを掛けるという一幕もあった。
- 出身高校である県立岐阜商業高校の同級生にはプロ野球選手の和田一浩(中日)がいる。ただ、高橋と和田は高校時代は互いに面識こそあったものの会話をしたことは一度もなかったという。同校では高橋と和田一浩、さらに同校の先輩に当たる高木守道の3人をまとめて“ビッグ3”と呼ばれている。2004年11月23日、地元の岐阜メモリアルセンターでこの3人のトークショーが行われ、このイベントは大盛況のうちに終わった。“ビッグ3”と言われながらもこの3人が顔を合わすことは滅多になく、3人がトークをするシーンが斬新だったと言う人が多かった。
[編集] 戦績
年月 | 大会 | 順位 | 記録 | 備考 |
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1997年1月 | 大阪国際女子マラソン | 7位 | 2時間31分32秒 | 初マラソン |
1998年3月 | 名古屋国際女子マラソン | 優勝 | 2時間25分48秒 | 当時の日本最高記録 |
1998年12月 | バンコク・アジア大会 | 優勝 | 2時間21分47秒 | 当時の日本最高記録 |
2000年3月 | 名古屋国際女子マラソン | 優勝 | 2時間22分19秒 | 大会記録 |
2000年9月 | シドニーオリンピック | 優勝 | 2時間23分14秒 | 金メダル獲得・五輪記録 |
2001年2月 | 青梅マラソン(30km) | 優勝 | 1時間41分57秒 | 当時の日本最高記録 |
2001年9月 | ベルリンマラソン | 優勝 | 2時間19分46秒 | 当時の世界最高記録 |
2002年9月 | ベルリンマラソン | 優勝 | 2時間21分49秒 | マラソン6連覇 |
2003年11月 | 東京国際女子マラソン | 2位 | 2時間27分21秒 | . |
2005年11月 | 東京国際女子マラソン | 優勝 | 2時間24分39秒 | . |
2006年11月 | 東京国際女子マラソン | 3位 | 2時間31分22秒 | . |
2008年3月 | 名古屋国際女子マラソン | 27位 | 2時間44分18秒 | . |
[編集] 座右の銘
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く。」
[編集] その他
- 2000年4月28日 - 鹿児島県徳之島の周回道路が「尚子ロード」と名付けられる。
- 2001年6月3日 - 岐阜県岐阜市長良川右岸に、ランニングコース「高橋尚子ロード」完成。
- シドニー五輪女子マラソン優勝後のインタビューでは、満面の笑顔を交えながら「すごく楽しい、42キロでした」と語っていた。
- 愛称の「Qちゃん」は、リクルート陸上部の新入部員歓迎会においてアルミホイルを使ったボディコン風の衣装を着て『オバケのQ太郎』の歌を歌い盛り上がったことに由来するものである。また、このパーティーの際に、オバケのQ太郎の仮装をしていたという話もある。
- ベルリンマラソンなどで海外でも有名になった頃に海外メディアに『スシ・ターボ』なる奇妙な愛称を付けられたこともあった。
- 母のはとこにノーベル化学賞を受賞した白川英樹がいる。
- 元モーニング娘。の吉澤ひとみとは「遠い親戚」とされるがあまりにも遠いため特に関係はない。
- 吉澤ひとみの祖父の弟の妻の弟の妻のいとこの娘が高橋尚子である。
[編集] 口癖
- 「玉手箱を開けるような気分」(マラソン出走前の記者会見でこの言葉を口にしている)
- 「やはり…。」
- ワクワクドキドキ
[編集] 受賞
その他、各種受賞多数
[編集] 関連項目
- hitomi(練習中に聞いていた「LOVE 2000」を歌う)
- 平山あや(小出の原作をドラマ化した「君ならできる」で高橋を演じる)
- 和田一浩(プロ野球選手、岐阜県立岐阜商業高等学校時代の同期)
- 白川英樹
- 佐倉市(元在住)
- 千葉市(現在住)
[編集] 外部リンク
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1984: ジョーン・ベノイト • 1988: ロザ・モタ • 1992: ワレンティナ・エゴロワ • 1996: ファツマ・ロバ • 2000: 高橋尚子 • 2004: 野口みずき |
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王貞治 - 古賀政男 - 長谷川一夫 - 植村直己 |
山下泰裕 - 衣笠祥雄 - 美空ひばり - 千代の富士貢 |
藤山一郎 - 長谷川町子 - 服部良一 - 渥美清 |
吉田正 - 黒澤明 - 高橋尚子 |