美空ひばり
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美空ひばり | |
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基本情報 | |
出生名 | 加藤和枝 |
出生日 | 1937年5月29日 |
学歴 | 精華学園高等部卒業 |
出身地 | 日本横浜市磯子区滝頭 |
死没日・地 | 1989年6月24日(満52歳没) |
ジャンル | 演歌 |
職業 | 歌手、女優 |
担当楽器 | 歌 |
活動期間 | 1949年~1989年 |
公式サイト | http://www.misorahibari.com/intro.html |
美空ひばり(みそらひばり、1937年(昭和12年)5月29日 - 1989年(平成元年)6月24日)は、数々のヒット曲を歌い銀幕スターとして多数の映画に出演した昭和の歌謡史を代表する日本の歌手であり、女優。
女性として初の国民栄誉賞を受賞した。横浜市磯子区滝頭出身。 愛称は御嬢(おじょう)。横浜市立滝頭小学校卒業。精華学園高等部卒業。本名は加藤和枝(かとうかずえ)。
目次 |
略歴
幼少期
- 神奈川県横浜市磯子区滝頭の魚屋「魚増」を営む父・加藤増吉、母・喜美枝の長女として生まれた。家にはレコードがあり、幼い頃より歌の好きな両親の影響を受けひばりは歌謡曲・流行歌を唄うことの楽しさを知る。
- 1943年6月、第二次世界大戦の戦時中に父・増吉が出征となり壮行会が開かれ、ひばりは父のために『九段の母』を唄った。壮行会に集まった者達がひばりの歌に感銘し、涙する姿を目の当たりとした母・喜美枝はひばりの歌唱力に人を引き付ける可能性を見出して、地元の横浜近郊からひばりの唄による慰問活動を始める。
デビュー
- 終戦間もない1945年、喜美枝がひばりを引き続き唄わせるために八方手を尽くし、私財を投じて自前の「青空楽団」を設立。近所の公民館・銭湯に舞台を作り、ひばり8歳のときに「美空」和枝(母の提案)の名で初舞台を踏む。
- 1946年、NHK「素人のど自慢」に出場し、予選で『リンゴの唄』を歌いひばり母子は合格を確信したが鐘が鳴らない。審査員は「上手いが子供らしくない。」「非教育的だ」「真っ赤なドレスもよくない」という理由で悩んだ挙句、合格にできないとつげた。1946年9月、横浜市磯子のアテネ劇場で初舞台を踏む。翌年の春、横浜で行われたのど自慢大会終了後、審査員をしていた古賀政男のもとにひばり母子は駆けつけ、「どうか娘の唄を聴いてください!」と懇願する。ひばりはアカペラで古賀の「悲しき竹笛」を歌った。古賀はその子供とは思えない才能、度胸、理解力に感心し「きみはもうのど自慢の段階じゃない。もう立派にできあがっている」、「歌手になるなら頑張りなさい」とエールをもらった。
- 1947年、横浜の杉田劇場に漫談の井口静波、俗曲の音丸の前座歌手として出演。以来、この一行と地方巡業するようになる。高知県に巡業した際、ひばり母子が乗っていたバスが前方からのトラックと激突し側転、崖に向かって落下していった。そのまま落ちれば穴内川で全員死亡だったが、運よくバンパーが一本の桜の木に引っかかりとまった。ひばりは左手首を切り、鼻血を流し気絶、瞳孔も開き仮死状態だったが、たまたま村に居合わせた医師に救命措置をしてもらい、その夜に意識を取り戻した。家に戻った後、父は母に「もう歌はやめさせろ!」とどなったが、ひばりは「歌をやめるなら死ぬ!」と言い切った。
- 1948年2月、ひばりは神戸松竹劇場に出演し、暴力団山口組三代目の田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、浪曲歌謡漫談で有名な川田義雄(のちの川田晴久)にその才能を見込まれ、川田一座に参加。(ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う)そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。純粋に「かわいい」と見る層と同時に、「子供が大人の恋愛の歌を歌うなんて」という違和感を持つ層も存在した。詩人で作詞家のサトウハチローは当時のひばりに対し「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいるようだ」と、批判的な論調の記事を書いている。(ひばり母子はこの記事を長く保存しサトウに敵愾心を持っていたと言われるが、後にサトウと和解している) 同年9月、喜劇役者・伴淳三郎の劇団・新風ショウに参加し、同一座が舞台興行を行っていた横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。横浜国際劇場の支配人だった福島通人がその才能を認め、マネージャーとなり、舞台の仕事を取り、次々とひばり映画を企画することに成功する。
全国的人気を獲得
- 1949年1月、日劇のレビュー『ラブ・パレード』(主役・灰田勝彦)で笠置の『セコハン娘』、『東京ブギウギ』を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画『喉自慢狂時代』(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手としてB面であるが11歳で正式にレコードデビュー(7月30日)を果たす。続いて12歳で映画主演を果たした『悲しき口笛』(松竹)が大ヒット、同主題歌も45万枚売れ(当時の最高記録)国民的認知度を得る。この時の「シルクハットに燕尾服」で歌う映像は小さいときのひばりを代表するものとしてよく取り上げられる。
- 1950年、川田晴久と共に二世部隊記念碑建立基金募集公演のため渡米。帰国してすぐに二人の主演で『東京キッド』に出演。同名の主題歌もヒット。
- 1951年、松竹『あの歌超えて』で人気絶頂の鶴田浩二が扮する大学生を慕う役を演じる。実生活でも鶴田を慕い、ひばりは鶴田をお兄ちゃんと呼ぶようになった。同年5月新芸術プロダクション(新芸プロ)を設立。代表取締役社長が福島通人、役員にひばり、川田晴久、斎藤寅次郎がなる。同年、嵐寛寿郎主演の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』に杉作少年役で出演。以後これを持ち役とする。
- 1953年、『お嬢さん社長』に主演。喜美枝は、ひばりを「お嬢」と呼ぶようになり、その後、周りもそう呼ぶように。中村錦之助を歌舞伎界からスカウトして映画「ひよどり草紙」で共演。錦之助は翌年、東映時代劇の大スターになる。この後、新人男優はひばりの相手役となることで世間に認知され、大スターとなるジンクスが生まれる。市川雷蔵、東千代之介、大川橋蔵、高倉健らもそうである。
三人娘の時代
- 1954年、NHK紅白歌合戦に初出場。1955年には江利チエミ、雪村いづみとともに東宝映画『ジャンケン娘』に出演したことを契機に、「三人娘」として人気を博した。また、松竹・東映製作映画を中心に映画にも多数出演し、歌手であると同時に映画界の銀幕のスターとしての人気を得た。
- 1956年、ジャズバンド小野満とスイング・ビーバーズの小野満と婚約。その後、この婚約は破棄した。初の那覇公演を沖縄東宝で行い、1週間で5万人を動員。離島からのファンで那覇港は大混雑した。
- 1957年1月、浅草国際劇場にて、山形県出身の少女ファンに塩酸を顔にかけられ、浅草寺病院に3週間入院後、歌舞伎座公演に復帰。(奇跡的に顔に傷は残らなかった。)紅白歌合戦に3年ぶりに出場し、渡辺はま子、二葉あき子らベテラン歌手を抑えて初めて紅組トリを務めあげ、当時のひばり・20歳の青春時代には既に芸能界に置ける黄金期を迎えていた。
- 1958年4月1日、田岡一雄が正式に神戸芸能社の看板を掲げた。同年4月、美空ひばりは神戸芸能社の専属となった。同年6月、ひばりプロダクションを設立し、副社長に三代目山口組・田岡一雄組長が就任した。同年7月、東映と映画出演の専属契約を結んだ。『ひばり捕物帳』シリーズや『べらんめえ芸者』シリーズ、『ひばりの佐渡情話』(1962年)など続々ヒット映画にも恵まれた。
- 1960年、『哀愁波止場』で日本レコード大賞歌唱賞を受賞、「歌謡界の女王」の異名をとるようになった。
小林旭との短い結婚・離婚後
- 1962年、日活の人気スターであった俳優・小林旭と結婚し、一時的に仕事をセーブするようになる。しかし、実母にしてマネージャーである加藤喜美枝や周辺関係者が二人の間に絶え間なく介入し、結婚生活はままならず、またひばり自身も歌に対する未練を残したままだった為、仕事を少しずつ再開し小林が求めた家庭の妻として傍に居て欲しい願いは叶わず、(また小林も勝手に借金をするなどトラブルを起こしていた)別居後1964年、わずか2年あまりで小林と離婚した。田岡が間に入り、ひばり母子の意思を小林に告げ、離婚会見を開かせた。その場で「理解離婚」とした上で、「未練はいっぱいある。みんなの前で泣きたいくらいだ」と語った。その後別に開いた会見でひばりは「私が芸を捨てきれないことに対する無理解です」「芸を捨て、母を捨てることはできなかった」と語り、今後は舞台を主に頑張ると語った。尚、小林旭の著書によれば、実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であった。(小林は入籍を希望していたが、母が不動産処分の問題があるからと断り続けたとの事)
- 離婚直後に発表した『柔』は翌1965年にかけて大ヒット、180万枚というひばりとしては最大のヒット曲となる。この曲で1965年、日本レコード大賞を受賞。1966年には『悲しい酒』(元々はひばりのために書かれた曲ではなく、1960年に男性演歌歌手の北見沢淳が歌った曲であった)、1967年には『芸道一代』、グループサウンズジャッキー吉川とブルーコメッツとの共演で話題となった『真赤な太陽』と、彼女の代表作となる作品が次々と発表され、健在ぶりを示した。
母・喜美枝との二人三脚時代
- 1964年、新宿コマ劇場で初の座長公演を行い、演技者としての活動の場を次第に映画から舞台に移し(初の座長公演は『ひばりのすべて』、『女の花道』)、同劇場のほか、名古屋の御園座、大阪の梅田コマ劇場にて長年にわたり座長を張り続けた。離婚後のひばりを常に影となり支え続けたのが、最大の理解者であり、ひばりを誰よりも一番上手くプロデュースする存在となっていた母・喜美枝だった。ひばりは傍らに喜美枝を従えて日本全国のコンサート会場・テレビ出演なども精力的に活動した。当時のマスコミからはステージママの域を越えた存在として、「一卵性親子」なるニックネームを付けられる程の仲のよい親子と言うより、強い絆で結ばれた「同志」であった。
- 1970年、NHK紅白歌合戦の紅組司会を担当した(紅白史上初めて、大トリと司会者を兼任した。このときの歌唱曲は弟・かとう哲也作曲の『人生将棋』)。暴力団山口組三代目組長田岡一雄はひばりを庇護し、ひばりは1981年、父親代わりだった山口組組長・田岡一雄の葬儀にも出席している。この暴力団との関係が後の「ひばり・スキャンダル」に繋がることになる。
兄弟とひばりの苦悩
- 1973年、実弟のかとう哲也が起こした不祥事により、(哲也は、1957年、小野透の芸名でひばりの全盛期には歌手デビューし、多くの東映映画に出演、主演を務めたこともあったが1962年に引退。もともとひばりの弟という売り込みでひばり関連の興行などで役者や間つなぎの歌手もこなしていたが、三代目山口組益田(佳)組(組長は益田佳於)の舎弟頭となっていた。翌1963年には賭博幇助容疑、賭博開帳図利等、1964年には拳銃不法所持、1966年には傷害、暴行、拳銃密輸、1972年には暴行で逮捕)、しかも「公然の秘密」であったはずのひばり一家と暴力団山口組および田岡との関係も問題とされ、全国の公会堂、市民ホールから「暴力団組員の弟を出演させるなら出させない」と使用拒否されるなど、パッシングが起こりマスコミも大きく取り上げた。しかし、ひばり母子は家族の絆は大事だとし、哲也をはずさなかった。
- この結果、1973年末、17回出場し1963年から10年連続で紅組のトリを務めていた紅白歌合戦への出場を辞退した(事実上は落選。この頃NHKには「ひばりを出すな」という苦情も多く来ており、また数年ヒット曲に乏しかったこともあって理事会ではほぼ満場一致で決まったという)。そのためこの年から数年間、大晦日は日本教育テレビ(現在のテレビ朝日)の取り計らいで、同局の番組に出演。以後、NHKからオファーが来ても断り続けた。1977年、当時の同局の人気番組であった『ビッグ・ショー』で4年ぶりにNHK番組に出演し、関係を修復。しかし紅白に正式な出場歌手として復帰することはなかった。(但し、1979年の第30回には、紅白30年の歴史を代表する歌手として藤山一郎と特別出演、『リンゴ追分』等3曲をメドレー形式で歌った)
- 1970年代以降、ヒット曲には恵まれなかったが、この時代に入ると演歌や歌謡曲のほかにも軽快なポップスやリズム歌謡、ジャズのスタンダードやオペラのアリアに至るまで自らのスタイルで数多くのテレビ番組やレコードなどで発表し、歌手としての再評価を受けることとなる。来生たかお(『笑ってよムーンライト』<1983年>)、小椋佳(『愛燦燦』<1986年>)、イルカ(『夢ひとり』<1984年>)等、当代の話題のアーティスト/クリエイター等とのコラボレートもしばしば行われた。また、新曲のキャンペーン活動にもこの時代には活発に参加するようになり、1980年に発表した『おまえに惚れた』はこのキャンペーン活動が功を奏す形で久々のヒットとなった。
- 他方、1980年代に入り、実母の喜美枝、2人の実弟だった哲也と香山武彦、親友であった江利チエミらが次々と死去という悲運が続く。悲しみ・寂しさを癒すために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増し、徐々に体を蝕んでいった。
病魔との闘い
- 1987年4月、公演先の福岡で倒れ緊急入院、慢性肝炎及び両側大腿骨骨頭壊死と診断され、8月まで福岡市中央区内の病院にて療養。同年8月3日に退院し、10月に行われた新曲『みだれ髪』のレコーディングより仕事に復帰した。
- 1988年4月11日、開場間もない東京ドームにて「不死鳥コンサート」を実施。脚の痛みに耐えながら計39曲を熱唱し、完全復帰であることをファンにアピールした。
- 1989年初頭、人気作詞家・秋元康が作詞、見岳章が作曲した『川の流れのように』を発表する。しかしこの時の美空ひばりの肺は病に冒されていた。同年2月、福岡県北九州市での公演(これが生涯最後のステージになった)後に検査入院。一旦は退院し、同年3月には、ニッポン放送での10時間の特集番組へ生出演した。しかし結果的に歌以外では、このラジオ出演が美空ひばりにとって生涯最後のマスメディアの仕事となった。
- そのラジオ生放送終了直後、体調が急変したために順天堂大学医学部附属順天堂医院に再入院する。このため、同年4月に予定されていた、横浜アリーナでのこけら落としコンサートや、その他の全国ツアーも全て中止となった。そして、復帰の夢を果たすことなく、同年6月24日、間質性肺炎による呼吸不全のため、死去、52歳没。関係者によると手術室で全身麻酔をかけられたまま逝ったという。
- 同年7月22日に青山葬儀所で行われた葬儀では4万2千人が訪れた。葬儀では王貞治が弔辞を読み上げ、北島三郎、森昌子などひばりを慕った歌手仲間が『川の流れのように』を歌い、美空ひばりの霊前に捧げた。戒名は慈唱院美空日和清大姉。墓所は横浜市港南区の横浜市営日野公園墓地にある。
- 美空ひばりの通算レコーディング曲数は1500曲、オリジナル楽曲は517曲であった。
昭和の代表する歌手として
ひばり亡き後も続くエピソード
- 1988年、福島県いわき市塩屋崎を舞台に作詞されたのが縁で、「みだれ髪」の(結果的にこれが最後のレコーディング曲となった)歌碑が建立された。ひばりの死後ここを訪れるファンが増え続け、1990年に新たなひばり遺影碑が立てられ、周辺の道路420m区間もいわき市が整備を行い「ひばり街道」として1998年に完成した。さらに2002年には幼少期のひばり主演映画「悲しき口笛」のひばりをモデルにした銅像も建立になった。現在は毎年約30万人のファン・観光客が、ひばりを偲んで訪れる。
- 1993年、京都市の嵐山に「美空ひばり館」が開館、愛用品のコレクションなどが展示され、ファンや観光客が訪れていた。しかし来館者数の減少により、2006年11月30日に惜しまれつつ一旦閉館となったが、運営主体を「ひばりプロダクションに変更し、2008年4月26日に京都嵐山美空ひばり座と改名のうえリニューアルオープンした。
- 2005年公開の映画『オペレッタ狸御殿』(鈴木清順監督)では、デジタル技術でスクリーンに甦りオダギリジョーやチャン・ツィイーと共演した。
- 死後10数年を経た現在も尚、日本を代表する伝説的ボーカリストとして多くのアーティストやタレントに影響を及ぼし、企画盤や未発表曲が定期的に発表、ビデオ上映コンサートも開催されるなど、永遠の歌姫として根強い人気を獲得している。レコードの累計売上は8000万枚に達する[1]。
ひばりの作詞
- 彼女が作詞し、生前に曲がついたものは22曲ある。そのうち18曲は自ら歌い、『木場の女』『ロマンチックなキューピット』『真珠の涙』などの作品はシングル発売された。
- 1966年に『夢見る乙女』を作詞し、弘田三枝子へ提供した。ペンネームで「加藤和枝」の名前を使用した。その際ひばりは敢えてシングルB面での発売を要請したという。また、『十五夜』『片瀬月』『ランプの宿で』の3曲は島倉千代子に提供された。
- 夢ひとり(生前にひばりが書き残した詩)を元にイルカが作曲し、リリースしている。
- 草原の人(生前にひばりが書き残した詩)を元につんくが作曲し松浦亜弥が歌った。またこの表題の松浦主演ミュージカルも(2003年2月7日-2月23日)演じられた(DVD化)。さらに派生してこの表題の美空ひばり評伝本(ISBN 4-795839522)も出版された。
息子・和也
- 息子となった加藤和也の経過については『加藤和也』を参照。
- 1980年代、少年期の加藤和也がビートたけしの大ファンだったため、テレビでたけしと共演した際「息子が会いたがってるのよ」と強引に自宅へ連れ帰ったことがある。その一部始終もテレビで放送された。もっとも強引に連れ帰ったのもテレビ番組の段取りだったと見る意見もある。
- 同様に和也がとんねるずの大ファンだった事から、和也の誕生会にひばりがとんねるずの二人を呼んだというエピソードがある。更に『とんねるずのオールナイトニッポン』の生放送中にも急遽出演し、石橋が「お嬢」とひばり本人を目の前にして呼び合える程の友人となった。
- 2006年現在、ひばりプロダクションの代表取締役社長を加藤和也が勤める。
ひばりの歌唱力、エピソード
- ボーカリストとして、あらゆる点におき天性の稀有な才能を持ち合わせている。もちろん誰かの音楽的師事を受けてもいない。
- 難しい音程も難なく正確に歌いこなし、歌っているときに苦しいそぶりを見せず、笑顔で歌い飛ばしてしまう。男役などの芝居をしながらでもきちんと歌いこなしている。
- リズムが難解なジャズなども若い頃から多く歌っており、ジャンルを問わず歌いこなせた。
- 美空は生涯、楽譜が読めなかったそうだが、レコーディングなどで一度音を弾いてもらえば、それを完全に歌いこなせるようになったといい、作曲者を驚かせた。
- 声変わりは「りんご追分」のころであり、この曲の声はやや細くなっている。この頃を境にして、子供の高い声から、低音の安定した声に変わっている。
- 11歳でデビューした時点で、歌い方は完成していた。サトウハチローはデビュー時の彼女の声を「ゲテモノ」と揶揄し、対立の要因となった。
- 「悲しい酒」では毎度滝のような涙をこぼした。
- 美空をリスペクトするシンガーも、演歌界のみならずジャンルを超えて多い。松山千春や桑田佳祐もそうである。
- 「川の流れのように」の頃には病気以前の3分の1程度の声量しか出なかったそうだが、あれだけのパフォーマンスを見せている。
ひばり役を演じた女優
- 岸本加世子
- TBS系列特別ドラマ「美空ひばり物語」(1990年)・・・原作は上前淳一郎の著作「イカロスの翼」。ひばりの死去の時点で、生前にドラマ化を唯一許可した作品である。
- 浅茅陽子
- 舞台「不死鳥ふたたび・美空ひばり物語」(1999年)・・・不死鳥コンサートの場面において、本人と錯覚するほどの名演が話題となった。
- 上戸彩
- TBS系列特別ドラマ「美空ひばり物語-おでことおでこがぶつかって」(2005年5月29日(日)21時~)・・・ひばり17回忌に放映された。石井ふく子プロデュース・宮川一郎脚本のオリジナル作品で、喜美枝(泉ピン子)との親子愛がテーマとなっている。
- 剣幸
- 舞台「テネシー・ワルツ ~江利チエミ物語~」(2006年)
主な代表的作品
下記に主な代表作を記述する。詳細は公式サイトの全映画出演作・ディスコグラフティーリストを参照。
ひばり代表曲・シングル売上
- 柔(1964年) - 180万枚
- 川の流れのように(1989年) - 150万枚
- 悲しい酒(1966年) - 145万枚
- 真赤な太陽(1967年) - 140万枚
- リンゴ追分(1952年) - 130万枚
- みだれ髪(1987年)
- 港町十三番地(1957年)
- 波止場だよ、お父つぁん(1956年)
- 東京キッド(1950年)
- 悲しき口笛(1949年)
(シングル売上は再発盤を含む、日本コロムビア調べによる)
主な出演映画
- 悲しき口笛(1949年、松竹)
- 鞍馬天狗 角兵衛獅子(1951年、松竹)
- リンゴ園の少女(1952年、松竹)
- ジャンケン娘(1955年、東宝)
- ロマンス娘(1956年、東宝)
- 大当り三色娘(1957年、東宝)
- べらんめえ芸者(1959年、東映)
- 女ざむらい只今参上(1958年、東映)
- 忠臣蔵(1959年、東映)
- 天竜母恋い笠(1960年、東映)
- ひばり・チエミ・いづみ 三人よれば(1964年、東宝)
- ひばりのすべて(1971年、東宝、日本コロムビア)
など多数。
主なシングル作品
- 河童ブギウギ(1949年)
- 悲しき口笛(1949年)
- 東京キッド(1950年)
- 越後獅子の唄(1950年)
- 私は街の子(1950年)
- あの丘越えて(1951年)
- お祭りマンボ(1952年)
- 津軽のふるさと(1952年)
- リンゴ追分(1952年)
- ひばりのマドロスさん(1954年)
- 伊豆の踊り子(1954年)
- 波止場だよ お父つぁん(1956年)
- 港町十三番地(1957年)
- 車屋さん(1958年)
- 哀愁波止場(1960年)
- ひばりの佐渡情話(1962年)
- 哀愁出船(1963年)
- 柔(1964年)
- 悲しい酒(1966年)
- 真赤な太陽(1967年)
- 芸道一代(1967年)
- むらさきの夜明け(1968年)
- 熱濤(いのり)(1968年)
- 人生一路(1970年)
- ある女の詩(1972年)
- 一本の鉛筆(1974年)
- さくらの唄(1976年)
- 雑草の歌(1976年)
- おまえに惚れた(1980年)
- 裏町酒場(1982年)
- 笑ってよムーンライト(1983年)
- 残侠子守唄(1983年)
- しのぶ(1985年)
- 愛燦燦(1986年)
- みだれ髪(1987年)
- 川の流れのように(1989年)
など多数。
ドキュメンタリー
- 映画『ひばりのすべて』 - 監督:井上梅次 芸能生活25周年を記念して製作されたドキュメンタリー。ステージの模様を中心に、彼女の華やかな舞台裏の日常の姿を赤裸々に描く。
- NHKスペシャル『最期のひばり~日記が明かす空白の4か月~』(2003.10.19放映)-ディレクター:山登義明。最期の時を克明に記録した未公開日記が紹介された。
関連項目
- 加藤和也
- 小林旭
- 古賀政男
- 御空ひばり-大都映画の女優。1937年に松竹歌劇団団員となる。一時期「美空ひばり」の芸名を使用して芸能活動を行い3本の映画(『大陸は微笑む』『時代の狼火』『大閤への使者』)に主演した後、1943年に引退。歌手・女優の美空ひばりとは別人であり、何の関連もない。旧芸名、御空ひばり。
その他
2006年9月に、「CRぱちんこ華王美空ひばり」(京楽産業)として登場。 ブロマイドは浅草の斉藤甲子郎写真館が専属で制作した。
参考文献
- 竹中労『完本 美空ひばり』筑摩書房発行(文庫版) ISBN 4480420886
- 飯干晃一『山口組三代目 1 野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-19-597344-9
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<講談社+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
脚注
外部リンク
- 美空ひばり公式ウェブサイト 美空ひばりの全映画出演作・ディスコグラフティーリストはこちらを参照。
- 京都嵐山美空ひばり座 2006年11月30日に閉館した美空ひばり館がリニューアル。
- 福島県いわき市の美空ひばり「みだれ髪」歌碑、遺影碑、施設の紹介
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山下泰裕 - 衣笠祥雄 - 美空ひばり - 千代の富士貢 |
藤山一郎 - 長谷川町子 - 服部良一 - 渥美清 |
吉田正 - 黒澤明 - 高橋尚子 |
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