益田佳於
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益田 佳於(ますだ よしお、1930年10月22日 - 1997年5月26日)は、日本のヤクザ。指定暴力団・五代目山口組顧問、益田組初代組長。 一時期、益田芳夫とも名乗っていた。
[編集] 来歴
益田佳於は、小学校卒業後に大阪市に移住した。その後、大阪港で沖仲士の仕事に従事した。
同年、益田佳於は、新開地・稲荷市場ある元・魚屋「蛸文」だった下宿屋に住んだ。この下宿屋の主は、田岡一雄の舎弟・中坂文八だった。山本健一(後の三代目山口組若頭)、前田豪、従兄弟の尾崎彰春(後の六代目山口組顧問)、兄の益田啓助(後の五代目山口組舎弟頭)、大平一雄(本名は松浦一雄。後の三代目山口組若頭補佐)が、中坂文八の下宿屋に下宿していた。
昭和27年(1952年)、益田佳於は、尾崎彰春を通して三代目山口組・田岡一雄組長の若衆となった。
昭和28年(1953年)1月6日午後7時、山本健一、清水光重、益田芳夫、尾崎彰春とともに鶴田浩二襲撃事件を引き起こした。
詳細は鶴田浩二襲撃事件を参照
昭和32年(1957年)11月17日、山口組は小松島抗争に介入した。
詳細は小松島抗争#山口組の介入を参照
昭和37年(1962年)6月、神奈川県横浜市で、「山三食品」を開店した
昭和38年(1963年)3月、グランドパレス事件が勃発した。
詳細はグランドパレス事件を参照
その後、美空ひばりの実弟の加藤益夫(芸名は小野透・後のかとう哲也、加藤和也の実父)を若衆とした。
昭和47年(1972年)、若頭補佐に任命された。
同年10月24日、田岡一雄の自宅で、山口組若頭・山本健一と稲川会・石井唯博理事長の兄弟盃が交わされた。さらに、益田佳於と稲川会・趙春樹専務理事の兄弟盃も交わされた。
昭和51年(1976年)2月初め、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、京都市の山崎組・山崎正組長、西宮市の桜井組・桜井隆之組長らが、葬式の帰りに山口組本部に寄り、チンチロリン賭博を行なった。
同年3月初旬、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。細田が胴元を務め、テラ銭1500万円を得た。このうち、450万円が大平一雄に渡り、そのうちの225万円が山本健一に渡った。
同月3月20日、山本健一、大平一雄、竹中正久、小西音松、益田佳於、細田利明、加茂田重政、山崎正、桜井隆之らが再び山口組本部で、本引き賭博を行なった。竹中が胴元を務めた。加茂田の負けが通算3500万円になった。田岡は、山口組本部で賭博が行なわれていることを知り、山本健一、竹中正久、大平一雄、小西音松を関西労災病院に呼び、厳重注意した。
同年4月、山本健一、小田秀臣、小西音松ら山口組幹部8人は資本金6千万でビル管理を主業務とする「東洋信用実業」を設立し、役員となった。東洋信用実業は、「山口組会館」(後の四代目山口組本部)を建設した。また、それまで山口組幹部が田岡一雄の名代として使う慶弔の費用は、田岡から出ていたが、上納金(山口組会費)から出すようにした[1]。また、山口組若頭補佐が山口組幹部名で出す慶弔の費用も、上納金から出すようにした。
同月、田岡一雄は、菅谷政雄の謹慎を解くことを、山本健一に指示した。菅谷政雄は、若頭補佐を解任され、筆頭若衆に降格となった。
昭和52年(1977年)1月24日、菅谷政雄は、川内弘を破門とした。これを切っ掛けに、三国事件が勃発した。
詳細は三国事件を参照
同年4月15日、三国事件を受け、山口組本部[2]は、菅谷政雄を絶縁とした。
昭和53年(1978年)11月22日、兵庫県警は、昭和51年(1978年)の山口組本部での賭博で、山本健一、竹中正久、大平一雄や細田利明ら14人を指名手配または逮捕した。竹中正久は、神戸刑務所から灘警察署に移管されて取り調べられた。山口組本部長だった大平一雄が、全ての責任を引き受けた。大平は執行猶予付きの懲役刑となり、他の者は罰金刑となった。
昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
同年10月25日、神戸市灘区篠原本町の田岡邸で、山口組組葬が行なわれた。喪主は、妻の田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川会・稲川聖城会長だった。服役中の山本健一が、副葬儀委員長だった。
山口組の運営は、山本健一の出所まで、山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝口正夫と、田岡文子で行なわれることになった。
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変に腎不全を併発して死去した。
同年6月5日、山本広は、組長代行に就任した。
同年6月15日午後1時、田岡邸で山口組臨時幹部会が開かれた。山本広、小田秀臣、中西一男、竹中正久、中山勝正、溝口正夫が主席し、竹中正久の若頭就任が了承された。
同年9月、尾崎彰春、益田佳於、大平一雄が、山口組四代目選考に関して、竹中正久支持に回った。この段階で、山本広支持の直系組長は25人、竹中正久支持の直系組長は40人。残り25人の直系組長が中立だった。
同月、旧田岡邸で、中山勝正の呼びかけで、竹中正久、中山勝正、益田佳於、尾崎彰春、矢嶋長次、岸本才三、宅見勝、渡辺芳則ら10数名の竹中支持派が集まり、会合を持った。
昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木道雄、溝橋正夫、北山悟、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三を据えた。渡辺芳則、宅見勝、嘉陽宗輝、桂木正夫、木村茂夫を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。益田佳於は、舎弟頭となった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
詳細は山一抗争を参照
昭和63年(1988年)、山口組若頭補佐・宅見勝、山口組本部長・岸本才三、二代目吉川組・野上哲男組長らが、山口組五代目に、渡辺芳則擁立に動き始めた。さらに、徳島市の心腹会・尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、益田佳於、尼崎市の大平組・中村憲人組長、尼崎市の古川組・古川雅章組長、伊丹市の松野組・松野順一組長、長野市の近松組・近松博好組長、名古屋市の弘道会・司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中武は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。
このころ、宅見勝らは、益田佳於、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。
平成元年(1989年)2月、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。
同年3月27日山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた。
同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。
同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲夫は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長、後見人は稲川会・稲川聖城総裁、取持人は稲川会・石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会・中村益也会長、四代目今西組・辻野嘉兵衛組長、三代目森会・平井龍夫会長、二代目大日本平和会・平田勝義会長、侠道会・森田幸吉会長、工藤連合草野一家・工藤玄治総裁、四代目小桜一家・神宮司文夫総裁、住吉連合会・堀政夫総裁。見届人は、導友会、愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組、諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組・谷口政雄組長、東亜友愛事業組合・沖田守弘理事長、双愛会・石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[3]。
平成9年(1997年)5月26日、益田佳於は、死去した。享年66。
[編集] 脚注
- ^ 田岡一雄と山口組若頭は、上納金(山口組会費)を免除されていた
- ^ 絶縁状の差出人は、「田岡一雄」ではなく「三代目山口組幹部一同」となっていた。しかし、田岡一雄は、山本健一から菅谷組による川内弘射殺を聞き、山本に絶縁を示唆していた
- ^ 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
[編集] 参考文献
- 飯干晃一 『山口組三代目 1.野望篇』徳間書店<文庫>、1982年、ISBN 4-146421-8
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社、2000年、ISBN 4-06-256445-9
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『血と抗争! 菱の男たち 2』竹書房、2003年、ISBN 4-8124-5764-5
- 溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2
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