伊豆健児
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伊豆 健児(いず けんじ、1923年 - 1993年3月15日)は、ヤクザ。指定暴力団・五代目山口組顧問、伊豆組初代組長。
[編集] 来歴
大正12年(1923年)、福岡県糟屋郡古賀町(後の古賀市)のクリスチャンの家庭に生まれた。
昭和16年(1941年)、海軍の少年兵(少年軍属)に志願した。
昭和19年(1944年)、戦況悪化のため外地から帰還した。
その後、梅津会初代梅津高則の舎弟となった。
昭和29年(1954年)頃、別府市の石井一郎(本名は山川一郎。通称は別府のジャギ。後の三代目山口組直参)と知り合い、兄弟分となった。
昭和36年(1961年)、山口組・田岡一雄組長から盃を貰い、山口組直参となった。
昭和37年(1962年)1月16日、夜桜銀次事件が勃発した。
詳細は夜桜銀次事件を参照
昭和56年(1981年)7月23日、田岡一雄は、急性心不全により死去した。
昭和57年(1982年)2月4日、山本健一は、持病の肝臓疾患のため死去した。
同年6月、山本広は、組長代行に就任した。その後、山口組五代目に、若頭の竹中正久を支持した。
昭和59年(1984年)6月5日、山口組若頭・竹中正久が、山口組直系組長会で、山口組四代目組長就任の挨拶をした。伊豆健児は、舎弟頭補佐に就いた。
昭和61年(1986年)12月、山道抗争が勃発した。
詳細は山道抗争を参照
平成元年(1989年)4月27日、山口組若頭・渡辺芳則が五代目山口組を継承した。伊豆健児は、顧問となった。
平成4年(1993年)3月15日、伊豆健児は、心不全により死去した。
[編集] 参考文献
- 『山口組50の謎を追う』洋泉社2004年 ISBN 4-89691-796-0
- 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第4巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5811-0
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第5巻』竹書房、2004年、ISBN 4-8124-5905-2
- 溝口敦・笠井和弘・ももなり高『荒らぶる獅子 第6巻』竹書房、2005年、ISBN 4-8124-6086-7
[編集] 人物・エピソード
- 覚せい剤など薬物を嫌い、薬物の販売を行ったものは破門とするなど、厳しかった。
- 救世軍の共同墓地に眠っている。
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