渡辺芳則
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渡辺 芳則(わたなべ よしのり、1941年1月8日 - )は、ヤクザ。指定暴力団・五代目山口組組長、二代目山健組組長、健竜会初代会長。栃木県下都賀郡壬生町出身。渡辺五郎とも名乗った。通称はゴロー、ゴリラ[要出典]、ゴリ[要出典]。
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[編集] 来歴
昭和16年(1941年)1月8日、栃木県下都賀郡壬生町で生まれた。6人兄弟の次男だった。実家は農家だった。
昭和31年(1956年)3月、中学校を卒業した。栃木県で無職のまま過ごした。
昭和32年(1957年)、東京浅草の日本蕎麦屋に住み込みで働いた。
昭和33年(1958年)、飯島連合会系のテキヤを手伝うようになった。
このころ、三代目山口組山健組・山本健一組長の若衆・三輪正太郎と知り合った。三輪は、東京で芸能人相手の野球賭博を営んでいた。三輪から山健組に来るように誘われた。
昭和37年(1962年)、三輪正太郎を訪ねて、山本健一を紹介してもらった。山本健一は、渡辺芳則を、山本の舎弟・尻池実が始めていた豊中市蛍ヶ池の宅地造成地の現場に送り、飯場に住み込みさせて働かせた。
昭和38年(1963年)、渡辺芳則は、山本健一から盃をもらい、若衆となった。
昭和39年(1964年)、函館刑務所に服役した。
昭和40年(1965年)、山口組に対する第1次頂上作戦が本格化した。
詳細は第一次頂上作戦#山口組に対する第1次頂上作戦を参照
同年、山健組舎弟頭・田中達男より、山健組を破門された。
同年、山本健一より破門が解かれた。
その後、パチンコの全国遊戯業協同組合連合会の会長がスポンサーについた。
昭和42年(1967年)4月25日、山本健一は名古屋市の国鉄名古屋駅前の旅館で、大阪市港区の大森組・金尚権組長や渡辺芳則ら山健組と大森組組員総勢20数人とともに、名古屋市熱田区の元三吉一家組長・松波鉦之助と名古屋市千種区の土建業者を、11時間監禁し、土建業者に、東洋建設会社との業務提携契約違反の違約金6000万円を要求した。山本健一は、静岡市西脇町の東洋建設会社から、土建業者への取立てを依頼されており、土建業者は松波鉦之助に助けを求めていた。
このころ、ダンスホールホールやパチンコ店が入居していたビル全体の管理を任された。
昭和43年(1968年)、山口組永井組と大日本平和会系との傷害事件が発生した。山本健一は、神戸市三宮のホテルに山健組組員を集め、山健組若頭・東徳七郎が届けてきた拳銃を、山健組組員1人1人に渡し、自己防衛するように指示した。
昭和44年(1969年)10月30日、東名高速道路道路工事に絡んで、松波鉦之助と土木業者を監禁、脅迫したとして、兵庫県警に指名手配された。金尚権や渡辺芳則は逮捕された。その後、山本健一も逮捕された。
昭和45年(1970年)2月、山本健一が凶器準備集合罪で大阪府警に逮捕された。
同月、大阪府警に逮捕された山本健一は、さらに兵庫県警から、昭和43年(1968年)に山健組組員に拳銃を配っていたことを追及された。渡辺芳則が拳銃12丁を持って、大阪市の東成警察署に出頭し、山本の罪を全て被った。その後、渡辺芳則は、別件の事件で取調べを受けていたため、神戸市菊水町の神戸拘置所に服役した。渡辺は出所後、服役中の作業賞与全額を、山本健一夫婦に差し出した。
同年、健竜会を結成した。渡辺は、健竜会の会員増強に力を入れた。
昭和46年(1971年)、山本健一は、昭和43年(1968年)に山健組組員に拳銃を配っていたことを兵庫県警に追及された件で、口を割った山健組舎弟頭や舎弟、幹部クラス全員を破門にした。渡辺も、1ヶ月間予定で破門された。元柳川組の顧問弁護士が渡辺芳則の破門を、三代目山口組・田岡一雄組長の妻・田岡文子に報告した。田岡文子は、山本健一に、渡辺の破門を解かせた。
同年7月、山健組若頭に就任した。
同年9月5日、山本健一は、三代目山口組若頭に就任した。
昭和50年(1975年)7月26日深夜、大阪戦争が勃発した。
詳細は大阪戦争を参照
昭和57年(1982年)2月4日、大阪市生野区の今里胃腸病院で、山本健一は、肝硬変に腎不全を併発して死去した。
同年4月27日、山本健一の山口組組葬が、田岡邸の隣で行なわれた。施主は田岡文子、葬儀執行委員長は山口組筆頭若頭補佐・山本広、葬儀執行副委員長は、小田秀臣、中西一男、竹中正久、益田芳夫、加茂田重政、中山勝正、溝口正夫だった。葬儀出席者は900人だった。
同年5月1日、山健組を継承した。
同日、山口組直参となった。
同年9月、山健組若頭補佐・桑田兼吉(後の五代目山口組若頭補佐)を、二代目健竜会会長に据えた。
昭和58年(1983年)9月、旧田岡一雄邸で、豪友会・中山勝正会長の呼びかけで、竹中組・竹中正久組長、中山勝正、益田組・益田佳於組長、心腹会・尾崎彰春会長、森川組・矢嶋長次組長、岸本組・岸本才三組長、宅見組・宅見勝組長、渡辺芳則ら10数名の直系組長が集まり、会合を持った。集まった10数名は、山口組四代目に、竹中正久を推すグループだった。
昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会事務所で、山本広、加茂田重政、佐々木道雄、溝橋正夫、北山悟、松本勝美、小田秀臣ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組・宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市の弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、竹中正久は若頭に中山勝正、舎弟頭に中西一男、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本才三を据えた。渡辺芳則、宅見勝、嘉陽宗輝、桂木正夫、木村茂夫を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。
詳細は山一抗争を参照
昭和63年(1988年)6月、熊本市の大門会・大関大会長に盃を与えて、舎弟とした。
このころ、山口組山健組の組員数は、3000人に達した。山健組若頭・桑田兼吉の二代目健竜会組員数は、300人になった。
このころ、山口組若頭補佐・宅見勝、山口組本部長・岸本才三、二代目吉川組・野上哲男組長らが、山口組五代目に、渡辺芳則擁立に動き始めた。さらに、徳島市の心腹会・尾崎彰春会長、名古屋市の益田(啓)組・益田啓助組長、横浜市の益田(佳)組・益田佳於組長、尼崎市の大平組・中村憲人組長、尼崎市の古川組・古川雅章組長、伊丹市の松野組・松野順一組長、長野市の近松組・近松博好組長、名古屋市の弘道会・司忍会長が、山口組五代目に、渡辺芳則を推した。竹中武は、山口組執行部に「誰が山口組五代目になっても、組内の調整には協力するが、五代目と盃をするかどうかは、別物である」と宣言していた。
同年暮れ、野上哲男は、渡辺芳則から「渡辺芳則が五代目山口組組長となった場合、組長としての発言をしない」という言質を引き出した。
同年12月29日、渡辺芳則は、姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね、竹中武と会談した。渡辺芳則は、竹中武に、山口組執行部の増員を相談し、了解を得た。また、渡辺は、竹中に、中西一男が山本広と接触して山本広引退工作を進めていることを話し、中西の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は、中西一男説得を引き受けた。竹中武は、渡辺芳則に、「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合い、親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は、提案に賛成した。その後、竹中武は、中西一男にも「竹中正久の五回忌に、竹中正久の実家で、山口組幹部一同が落ち合い、親睦を深める」ことを提案し、了解を得た。
このころ、宅見勝らは、益田(佳)組・益田佳於組長、小西一家・小西音松総長、伊豆組・伊豆健児組長らを説得し、渡辺芳則の五代目山口組組長就任を了承してもらった。
平成元年(1989年)1月27日、山口組本家で、直系組長会が開かれた。宅見勝らは五代目山口組組長決定の緊急動議を出そうとしたが、中西一男を五代目山口組組長に推す人らに、山一抗争が完全終結していないことを理由に反対されて、緊急動議を出せなかった。
同日、姫路市御着の竹中正久の実家に、中西一男、岸本才三ら山口組幹部が集まり、法要が営まれた。しかし、渡辺芳則や宅見勝らは、法要に欠席した。
同年2月11日、神戸市の料亭「いけす」で、近松博好の呼びかけにより、渡辺芳則と竹中武の会談が行なわれた。近松と岸本才三が同席した。近松と岸本は、五代目山口組組長に渡辺芳則、同組若頭に竹中武を望んでいた。
その後、渡辺芳則は、山口組組長代行補佐グループから、「自分が五代目山口組組長になった場合、顧問とする。自分との盃はなしとする」という条件で、渡辺支持を取り付けた。その後、山口組舎弟グループからも、渡辺支持を取り付けた。
このころ、山口組各直系組長宛に、「任侠道新聞」1号、2号が送られた。1号では、「渡辺芳則の五代目山口組取りは失敗する」「宅見勝が嘘をつき、渡辺の五代目山口組組長就任を画策している」と書かれていた。2号では「山口組に謀反を企む者に、渡辺芳則、宅見勝、岸本才三の他、野上哲男がいた」と書き、「現山口組執行部の解体と山口組五代目問題の棚上げ」を要求していた。
同年2月27日、山口組定例総会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された。
同年3月27日午前、古参組長数人が、山口組執行部会への出席を申し入れた[1]。
同日、山口組執行部会で、中西一男と渡辺芳則の五代目山口組組長への立候補が決められた。
同年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決まった。山口組舎弟会には、山口組二代目森川組・矢嶋長次組長も出席していた。
同年4月20日、山口組緊急幹部会が開かれ、山口組五代目の人選が議論された。竹中武は、態度を保留した。渡辺芳則と中西一男が話し合い、中西一男が五代目山口組組長立候補を取り下げた。渡辺芳則の山口組五代目擁立が決まった。
同年4月27日、山口組直系組長会で、中西一男が、五代目山口組組長立候補取り下げの経緯を説明した。渡辺芳則の五代目山口組組長就任が決定した。
同年4月下旬、神戸市花隈の山健組事務所で、渡辺芳則と岸本才三と近松博好が、竹中武を山口組に留め置くことを確認し、竹中武の連れ戻しを協議した。しかし、宅見勝は、竹中武の連れ戻しに反対だった。宅見は、尾崎彰春に依頼して、岸本に、竹中武連れ戻しを断念させた。渡辺も宅見の考えに同調し、竹中武の連れ戻しは白紙になった。
同年5月10日、山口組緊急執行部会で、宅見勝の山口組若頭就任が内定した。竹中武は、緊急執行部会を欠席した。
同年、渡辺芳則は、山健組を、同組若頭・桑田兼吉に譲った。
同年5月18日、山口組本家で、舎弟24人、若衆45人と盃直しを行なった。尾崎彰春の実子・尾崎勝彦ら4人が新たに直参になった。竹中武、矢嶋長次、牛尾組・牛尾洋二組長、森唯組・森田唯友紀組長は欠席した。
同年5月27日、山口組最高顧問を新設し、中西一男を最高顧問に据えた。英組・英五郎組長、倉本組・倉本広文組長、黒誠会・前田和男会長、弘道会・司忍会長、芳菱会・滝澤孝総裁を、若頭補佐に据えた。益田啓助を舎弟頭に据えた。章友会・石田章六会長、大石組・大石誉夫組長、西脇組・西脇和美組長を舎弟頭補佐に据えた。嘉陽宗輝、桂木政夫(後に舎弟頭補佐)、木村茂夫は舎弟となった。岸本才三は舎弟となり、山口組総本部長となった。野上哲夫は、山口組総本部副本部長となった。益田佳於、小西音松、伊豆健児は、顧問に就任した。新人事には、宅見勝の意向が強く反映された。
同年5月31日、昭和59年(1984年)11月に「神有カントリー倶楽部」で起こした傷害事件[2]で、神戸地方裁判所から、懲役10ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受けた。
同年6月4日、岸本才三、西脇和美、神戸市の佐藤組・佐藤邦彦組長が、竹中武を訪ね、「竹中正久の位牌と仏壇を受け取ってもらいたい」と頼んだ。竹中武は竹中正久の位牌と仏壇を受け取った[3]。
同年6月5日、山口組定例会で、竹中武、矢嶋長次、牛尾洋二、森田唯友紀の山口組脱退が発表された。
同年6月25日、竹中武は、中西一男、石田章六、倉本広文、前田和男の訪問を受け、山口組の守り刀の譲り渡しを了承した。ただし、守り刀は文化庁に登録されていたため、新たに渡辺芳則の名前で登録しなければ、銃砲刀剣類所持等取締法第14条違反となった。竹中武は、渡辺芳則に、山口組代紋の山菱が施された純金製三つ重ねの金杯を送った。
同日、「五代目山口組幹部一同」の名前で、他団体に向けて「竹中武、矢嶋長次、森田唯友紀、牛尾洋二は、今後五代目山口組とは何ら関係なし」とする文書を送付した。
同年7月3日夜、岡山市新京橋の竹中組事務所の窓ガラスが、走行中の車から2発銃撃された。
同年7月4日、姫路市の病院の玄関ロビーで、治療を受けた牛尾組組員が、2人組の男から、銃撃され、同行の少年とともに負傷した。
同年7月5日、渡辺芳則の山口組守り刀相続の書類が整った。竹中武の使いが、守り刀を、桑田兼吉に届けた。
同年7月18日、山口組の山菱の代紋を降ろし、新しい代紋を掲げた。
同年7月28日、竹中組総会が開かれた。竹中武は、副組長に青木恵一郎、若頭に大西康雄、総本部長に笹部静男、組織委員長に貝崎忠美を据えた。牛尾洋二が竹中組舎弟頭補佐に就任した。竹中武は、舎弟頭補佐・杉本明政を除籍とし、若頭補佐・生島仁吉、同・宮本郷弘を破門した。杉本明政、生島仁吉、宮本郷弘は、竹中組の山口組からの離脱に激しく反対していた。
同年7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長、後見人は稲川会・稲川聖城総裁、取持人は稲川会・石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会・中村益也会長、四代目今西組・辻野嘉兵衛組長、三代目森会・平井龍夫会長、二代目大日本平和会・平田勝義会長、侠道会・森田幸吉会長、工藤連合草野一家・工藤玄治総裁、四代目小桜一家・神宮司文夫総裁、住吉連合会・堀政夫総裁。見届人は、導友会、愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組、諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組・谷口政雄組長、東亜友愛事業組合・沖田守弘理事長、双愛会・石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[4]。
同年7月29日、山口組臨時直系組長会で、「竹中組組員でも、希望するならば、自分の組で拾っても良い」と通達した[5]。
同年8月1日、杉本明政と宮本郷弘は、宅見勝の盃を受け、舎弟となった。杉本明政は、宅見組組長代行に就任した。
その後、大垣市の中谷組・中谷利明組長が、竹中武に同調する発言をしたため、宅見勝よりヤクザから引退させられた。
同年8月、森田唯友紀はヤクザから引退した。
同年8月、矢嶋長次はヤクザから引退し、山田忠利が二代目矢嶋組を継いだ。山田忠利は、山口組に復帰した。
同年8月3日、姫路市の竹中組事務所の窓ガラスが、銃撃された。
同年8月23日、竹中組組員が自発的に集まり、今後の対策を協議したが、結論は出なかった。
同日午後8時、竹中組大西組(組長は竹中組若頭・大西康雄)事務所に銃弾が撃ち込まれた。
同日、竹中組笹部組(組長は笹部静男)事務所に銃弾が撃ち込まれた。
同年8月24日、竹中組牛尾組(組長は牛尾洋二)仮説事務所に銃弾が撃ち込まれた。その後、牛尾洋二は、ヤクザから引退した。
同年8月25日、竹中組山本組・山本浩司組長宅に銃弾が撃ち込まれた。
同年8月26日、山口組三代目山健組疋田組組員が、8トントラックに乗って、竹中正宅の隣に突っ込んだ。
同日、山口組山健組村正会組員が、竹中組林田組・林田誠一組長宅に銃弾を撃ち込んだ。
同年8月27日、高松市の竹中組二代目西岡組事務所に銃弾が撃ち込まれた。
同年8月28日、神戸市灘区の竹中組一志会事務所に銃弾が撃ち込まれた。
同年8月31日、山口組若頭補佐・倉本広文、同・司忍、同・前田和男が、竹中武を訪問し、竹中組の解散と竹中武のヤクザからの引退を迫った。竹中武は拒絶した。
同年9月4日、岡山市の竹中組貝崎組事務所、姫路市の竹中正宅に銃弾が撃ち込まれた。
同年9月6日、岡山市の竹中組宮本興業に銃弾が撃ち込まれた。
同年9月27日、山口組誠友会(会長は石間春夫。通称は北海のライオン)と稲川会越路一家との抗争が勃発した。お互いが、相手傘下組織の事務所に銃弾を撃ち込んだ。
同年10月5日、山口組直系組長会で、稲川会など他団体との抗争を厳禁をした。
同年11月5日、山口組本家で、竹中正久の組葬が営まれた。喪主は、中山きみよと発表されたが、中山きよみは列席しなかった。その後、山口組は、香典として3000万円を中山きよみに贈ったが、中山に突き返された。
平成2年(1990年)1月4日午後4時すぎ、札幌事件が勃発した。
詳細は札幌事件を参照
同年1月23日、竹中正の自宅前路上が火炎瓶で焼かれた。
同年1月24日、竹中組組員が、山口県柳井市の元一和会幹部宅に侵入し、元幹部の家族から山本広の所在を聞き出そうとした。
同年2月5日、姫路市北条に建設中だった竹中正の家が放火された。火は、鉄骨2階建て延べ約810平方メートルのうち、1階の床など約60平方メートルを焼いた。
同年2月15日、八王子事件が勃発した。
詳細は八王子事件を参照
同年2月27日、竹中正の配下組員が、犬の散歩中に、白い乗用車から銃撃された。組員は近くのタクシー会社に逃げ込んだ。全治1ヶ月の重傷だった。
同年3月3日昼、黒のジャンパー姿の男が、ヤクザから引退した牛尾洋二が経営する不動産会社に入り、拳銃で3発を発砲した。従業員2人が被弾して、重傷を負った。
同年3月4日午後6時すぎ、山口組組員が、姫路市延末の中山きよみ宅の電動式門扉が鉄棒で壊して侵入し、玄関の木戸と表札に5発の銃弾を撃ち込んだ。怪我人はいなかった。
同日夜、姫路の山口組神田組幹部が、中山きよみ宅を訪れ、徹夜で警備した。
同年3月5日、兵庫県警は姫路警察署で緊急対策会議を開いた。兵庫県警本部刑事部参事官・箱崎逸夫は「山口組は、先代組長の内妻を襲撃するなど、統制を欠いた状態にある」と発表した。
同日夜、岡山市十日市東町で、竹中組組員・熊原健裕が、車で自宅に戻ったところを、待ち伏せしていた者に、首や胸などを銃撃され死亡した。
同年3月6日午前4時ごろ、岡山市並木町の飲食店経営者が、自宅に帰る途中、竹中組組員と間違われて、腰を銃撃されて全治1ヶ月半の重傷を負った。飲食店経営者は、竹中組組員が住むビルで、店を開いていた。
同日、岡山県警は、拳銃3丁の所持容疑で、竹中組幹部3人を逮捕した。
同年3月12日夜、鳥取県倉吉市で、竹中組幹部・八栗拓一が、道路を歩行中に、胸や腹を銃撃されて死亡した。
平成8年(1996年)7月10日、京都事件が勃発した。
詳細は京都事件を参照
平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、宅見若頭射殺事件が発生した。
詳細は宅見若頭射殺事件を参照
平成16年(2004年)11月、傘下組織組員が起こした不法行為に対する使用者責任を認定した最高裁判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲した。
平成17年(2005年)、体調不良により引退した。
[編集] 脚注
- ^ 普段は組長代行補佐でも、山口組執行部会には出席しない
- ^ 事件の経緯は次の通り。
昭和59年(1984年)11月、神戸市の「神有カントリー倶楽部」で、渡辺芳則とクラブ所属のアシスタントプロと渡辺の知り会いの会社社長の3人は、プレーをした。
後続のパーティーは、二代目山健組系の組長3人で、渡辺のボディガードだった。
渡辺はアウトの4番と6番で、前のパーティーにボールを打ち込んだ。
前のパーティーの人が、渡辺のマナー違反を注意した。
渡辺は後続のボディガードに、自分を注意した人を教え、暴行を指示した。
渡辺のボディーガードは、渡辺を注意した人に、暴行を加え、全治45日の重傷を負わせた - ^ 通常、先代の位牌と仏壇は、当代が管理する
- ^ 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
- ^ 本来、他団体で絶縁・破門・除籍された者を拾うことは、ヤクザ社会では、ご法度だった
[編集] 参考文献
- 溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4
- 実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5
[編集] 人物。エピソード
- 基本的に、暴力団抗争を否定し、対警察関係においては警察との摩擦が起きないようにして、合理化を推し進めた。また、圧倒的な組員数を持つことが、他団体を威圧し、結果的に暴力団世界に平和がもたらされると考えていた。
- 平成7年(1995年)、阪神・淡路大震災では、近隣住民への防災用品や緊急食料の配布を本部事務所にて行った。その模様はイタリアのマスメディアにて「マフィアが救援活動」と報じられ、被災者からも感謝の声があった一方、必ずしも善意に基づくボランティア活動ではなく、むしろ山口組による組織防衛の一環であるという意見が支配的である。
[編集] 演じた俳優
- 中井貴一 - 映画「激動の1750日」(東映、1990年。監督・中島貞夫) - 役名「若竹正則」
- 渡辺裕之 - 映画「修羅の群れ 第三部」、2002年 - 役名「渡会芳樹」
- 清水宏次朗 - 映画「史上最大の抗争」、2002年 - 役名「天堂忠臣」
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