日本レコード大賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本レコード大賞(にほんレコードたいしょう)とは1959年に始まった日本で最も有名な音楽に関する賞である。略称はレコ大(レコたい)。
主催は社団法人日本作曲家協会と日本レコード大賞制定委員会、後援はTBSである。賞の種類として、最高の栄誉であるグランプリ・日本一である大賞の他、最優秀新人賞、最優秀歌唱賞、ベストアルバム賞など様々な各賞がある。かつて程ではないが、日本に於ける商業音楽の音楽賞としては最高の権威がある。なお、歌手が受賞を辞退した場合又は歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。
発表会は2004年から東京都渋谷区本町の新国立劇場・中劇場で開かれている。
[編集] 概要
- 日本の商業音楽作品の真の日本一を決定する。
- 企画にあたってはアメリカのグラミー賞をヒントにして、3人の作曲家(古賀政男、吉田正、服部良一)による話し合いから作られた。いわば、「グラミー賞」の日本版でもある。その後、韓国でも日本に刺激を受け「KBS歌謡大賞」が作られた。各受賞者にはメダルとブロンズ像が手渡される。
- それぞれの賞を受賞すると、大概の歌手が「大号泣」する。
[編集] 各賞の種類と定義
[編集] 現在贈られている賞
- 「日本レコード大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽シングルCDの中で、「作曲、編曲、作詩を通じて、芸術性、独創性、企画性が顕著な作品」、「優れた歌唱によって活かされた作品」、「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた作品」、以上3点に該当する1作品に贈る。審査対象は、「金賞」に選ばれた作品とする。
- 「最優秀歌唱賞」
- 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた歌手に贈る。審査対象は、「金賞」に選ばれた作品の歌手とする。
- 「金賞」
- 大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた作品に贈る。「ゴールド・ディスク賞」や「優秀作品賞」という名称の時期もあった。
- 「最優秀新人賞」
- 「新人賞」の中から最も優秀と認められた歌手に贈る。
- 「新人賞」
- 対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し、大衆に支持され、将来性を認められた歌手に贈る。
- 「作曲賞」「編曲賞」「作詩賞」
- 特に作曲・編曲・作詩の分野で独創的であると認められた作品・作者に贈る。
- 「企画賞」
- 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ、大衆音楽に大きな貢献をした作品(ミュージックビデオを含む)に贈る。
- 「功労賞」
- 長年に亘りレコードやCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした者に贈る。
- 「特別賞」
- 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ、注目された人、楽曲、作品、現象などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。
- 「特別功労賞」
- 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした故人に贈る。
- 「日本作曲家協会奨励賞」
- 第48回(2006年)から新設された賞。日本作曲家協会が日本の心を伝え未来のある実力ある歌手に期待を込めて贈る賞。1回目は竹川美子が、2回目はあさみちゆきが受賞した。
[編集] 過去に存在した各賞
- 「童謡賞」
- 第1回(1959年)から第15回(1973年)まで子供向けの童謡やアニメソングに与えられた賞だった。本来はレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることも想定されていた[1]が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。ザ・テンプターズの「おかあさん」がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという[1]。第16回(1974年)にヤングアイドル賞(フィンガー5の「恋のアメリカン・フットボール」が受賞)の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。
- 「歌唱賞」
- 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。第11回(1969年)からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに1977年までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった(第17回(1975年)から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。第20回(1978年)からは金賞の導入により廃止された。
- 「大衆賞」
- 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。第47回(2005年)に1度だけ復活した。
- 「特別大衆賞」
- 1980年に引退した山口百恵のそれまでの実績を称え与えられた特別賞。第29回(1987年)には中森明菜(「難破船」など)や瀬川瑛子(「命くれない」など)が受賞している。
- 「ゴールデン・アイドル賞」
- 第23回(1981年)から第25回(1983年)までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた。第26回(1984年)から廃止された。
- 「ベストアルバム賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。
- 「吉田正賞」
- 作曲家・吉田正の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。
- 「美空ひばりメモリアル選奨」
- 歌手・美空ひばりが戦後日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。
[編集] 日本レコード大賞受賞曲一覧
回数 | 放送日 | 曲名 | 所属レコード会社 | 歌手 | 作詩 | 作曲 | 編曲 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1959年12月27日 | 黒い花びら | 東芝音楽工業 | 水原弘 | 永六輔 | 中村八大 | 中村八大 | |
第2回 | 1960年12月30日 | 誰よりも君を愛す | 日本ビクター | 松尾和子 和田弘とマヒナスターズ |
川内康範 | 吉田正 | 和田弘 | |
第3回 | 1961年12月28日 | 君恋し | 日本ビクター | フランク永井 | 時雨音羽 | 佐々紅華 | 寺岡真三 | |
第4回 | 1962年12月27日 | いつでも夢を | 日本ビクター | 橋幸夫 吉永小百合 |
佐伯孝夫 | 吉田正 | 吉田正 | |
第5回 | 1963年12月27日 | こんにちは赤ちゃん | キングレコード | 梓みちよ | 永六輔 | 中村八大 | 中村八大 | |
第6回 | 1964年12月26日 | 愛と死をみつめて | 日本コロムビア | 青山和子 | 大矢弘子 | 土田啓四郎 | 土田啓四郎 | |
第7回 | 1965年12月25日 | 柔 | 日本コロムビア | 美空ひばり | 関沢新一 | 古賀政男 | 佐伯亮 | |
第8回 | 1966年12月24日 | 霧氷 | 日本ビクター | 橋幸夫 | 宮川哲夫 | 利根一郎 | 一ノ瀬義孝 | |
第9回 | 1967年12月16日 | ブルー・シャトウ | 日本コロムビア | ジャッキー吉川とブルー・コメッツ | 橋本淳 | 井上忠夫 | 森岡賢一郎 | |
第10回 | 1968年12月21日 | 天使の誘惑 | 東芝音楽工業 | 黛ジュン | なかにし礼 | 鈴木邦彦 | 鈴木邦彦 | |
第11回 | 1969年12月31日 | いいじゃないの幸せならば | 日本ビクター | 佐良直美 | 岩谷時子 | いずみたく | いずみたく | |
第12回 | 1970年12月31日 | 今日でお別れ | ポリドール | 菅原洋一 | なかにし礼 | 宇井あきら | 森岡賢一郎 | |
第13回 | 1971年12月31日 | また逢う日まで | 日本フォノグラム | 尾崎紀世彦 | 阿久悠 | 筒美京平 | 筒美京平 | |
第14回 | 1972年12月31日 | 喝采 | 日本コロムビア | ちあきなおみ | 吉田旺 | 中村泰士 | 高田弘 | |
第15回 | 1973年12月31日 | 夜空 | 徳間音楽工業 | 五木ひろし | 山口洋子 | 平尾昌晃 | 竜崎孝路 | |
第16回 | 1974年12月31日 | 襟裳岬 | ビクター音楽産業 | 森進一 | 岡本おさみ | 吉田拓郎 | 馬飼野俊一 | |
第17回 | 1975年12月31日 | シクラメンのかほり | キングレコード | 布施明 | 小椋佳 | 小椋佳 | 萩田光雄 | |
第18回 | 1976年12月31日 | 北の宿から | 日本コロムビア | 都はるみ | 阿久悠 | 小林亜星 | 竹村次郎 | |
第19回 | 1977年12月31日 | 勝手にしやがれ | ポリドール | 沢田研二 | 阿久悠 | 大野克夫 | 船山基紀 | |
第20回 | 1978年12月31日 | UFO | ビクター音楽産業 | ピンク・レディー | 阿久悠 | 都倉俊一 | 都倉俊一 | |
第21回 | 1979年12月31日 | 魅せられて | CBSソニー | ジュディ・オング | 阿木燿子 | 筒美京平 | 筒美京平 | |
第22回 | 1980年12月31日 | 雨の慕情 | テイチク | 八代亜紀 | 阿久悠 | 浜圭介 | 竜崎孝路 | |
第23回 | 1981年12月31日 | ルビーの指環 | 東芝EMI | 寺尾聰 | 松本隆 | 寺尾聰 | 井上鑑 | |
第24回 | 1982年12月31日 | 北酒場 | 日本コロムビア | 細川たかし | なかにし礼 | 中村泰士 | 馬飼野俊一 | |
第25回 | 1983年12月31日 | 矢切の渡し | 日本コロムビア | 細川たかし | 石本美由起 | 船村徹 | 薗広昭 | |
第26回 | 1984年12月31日 | 長良川艶歌 | 徳間ジャパン | 五木ひろし | 石本美由起 | 岡千秋 | 斎藤恒夫 | |
第27回 | 1985年12月31日 | ミ・アモーレ | ワーナー・パイオニア | 中森明菜 | 康珍化 | 松岡直也 | 松岡直也 | |
第28回 | 1986年12月31日 | DESIRE -情熱- | ワーナー・パイオニア | 中森明菜 | 阿木燿子 | 鈴木キサブロー | 椎名和夫 | |
第29回 | 1987年12月31日 | 愚か者 | CBSソニー | 近藤真彦 | 伊達歩 | 井上堯之 | 戸塚修 | |
第30回 | 1988年12月31日 | パラダイス銀河 | ポニーキャニオン | 光GENJI | 飛鳥涼 | 飛鳥涼 | 佐藤準 | |
第31回 | 1989年12月31日 | 淋しい熱帯魚 | ポリスター | Wink | 及川眠子 | 尾関昌也 | 船山基紀 | |
第32回 | 1990年12月31日 | 演 | 恋唄綴り | ポリスター | 堀内孝雄 | 荒木とよひさ | 堀内孝雄 | 川村栄二 |
ポ | おどるポンポコリン | BMGビクター | B.B.クイーンズ | さくらももこ | 織田哲郎 | 織田哲郎 | ||
第33回 | 1991年12月31日 | 演 | 北の大地 | 日本クラウン | 北島三郎 | 星野哲郎 | 船村徹 | 南郷達也 |
ポ | 愛は勝つ | ポリドール | KAN | KAN | KAN | KAN 小林信吾 |
||
第34回 | 1992年12月31日 | 演 | 白い海峡 | キングレコード | 大月みやこ | 池田充男 | 伊藤雪彦 | 池多孝春 |
ポ | 君がいるだけで | ソニー・ミュージックエンタテインメント | 米米CLUB | 米米CLUB | 米米CLUB | 米米CLUB 中村哲 |
||
第35回 | 1993年12月31日 | 無言坂 | ポリドール | 香西かおり | 市川睦月 (久世光彦) |
玉置浩二 | 川村栄二 | |
第36回 | 1994年12月31日 | innocent world | トイズファクトリー | Mr.Children | 桜井和寿 | 桜井和寿 | 小林武史 Mr.Children |
|
第37回 | 1995年12月31日 | Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~ |
エイベックス・ディー・ディー | trf | 小室哲哉 | 小室哲哉 | 小室哲哉 久保こーじ |
|
第38回 | 1996年12月31日 | Don't wanna cry | エイベックス・ディー・ディー | 安室奈美恵 | 小室哲哉 前田たかひろ |
小室哲哉 | 小室哲哉 | |
第39回 | 1997年12月31日 | CAN YOU CELEBRATE? | エイベックス・ディー・ディー | 安室奈美恵 | 小室哲哉 | 小室哲哉 | 小室哲哉 | |
第40回 | 1998年12月31日 | wanna Be A Dreammaker | エイベックス | globe | MARC 小室哲哉 |
小室哲哉 | 小室哲哉 | |
第41回 | 1999年12月31日 | Winter,again | UNLIMITED RECORDS | GLAY | TAKURO | TAKURO | MASAHIDE SAKUMA GLAY |
|
第42回 | 2000年12月31日 | TSUNAMI | ビクターエンタテインメント ビクタータイシタ |
サザンオールスターズ | 桑田佳祐 | 桑田佳祐 | サザンオールスターズ | |
第43回 | 2001年12月31日 | Dearest | エイベックス | 浜崎あゆみ | 浜崎あゆみ | CREA+D・A・I | Naoto Suzuki | |
第44回 | 2002年12月31日 | Voyage | エイベックス | 浜崎あゆみ | 浜崎あゆみ | CREA+D・A・I | 島健 | |
第45回 | 2003年12月31日 | No way to say | エイベックス | 浜崎あゆみ | 浜崎あゆみ | BOUNCEBACK | HΛL | |
第46回 | 2004年12月31日 | Sign | トイズファクトリー | Mr.Children | 桜井和寿 | 桜井和寿 | 小林武史 Mr.Children |
|
第47回 | 2005年12月31日 | Butterfly | エイベックス | 倖田來未 | 倖田來未 | 渡辺未来 | 渡辺未来 | |
第48回 | 2006年12月30日 | 一剣 | コロムビアミュージックエンタテインメント | 氷川きよし | 松井由利夫 | 水森英夫 | 佐伯亮 | |
第49回 | 2007年12月30日 | 蕾 | ワーナーミュージック・ジャパン | コブクロ | 小渕健太郎 | 小渕健太郎 | コブクロ |
※1990年(32回)~1992年(34回)は歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門
[編集] 放送の歴史
発表の模様はテレビ(TBS系地上波全国28局ネット)とラジオ(JRN全国17局ネット)で生中継されている(2000年から2005年まではTBS系BSデジタル放送のBS-iでも放送されていた)。この放送は『NHK紅白歌合戦』(NHK)、『新春かくし芸大会』(フジテレビ系列)と双璧をなす年末年始恒例大型番組の一つであり、「国民的番組」としての地位を築いてきた。
[編集] 草創期
番組の放送当初は本選と発表会とに分かれていた。第10回(1968年)まで開催日は固定されておらず、主に年末の昼間にモノクロで放送された。会場も神田共立講堂など小規模の会場で行われており、賞自体の知名度も極めて低かった。水原弘は第1回のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったという。また、美空ひばりが出演しても客席がガラガラだった事もあったという。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催は大晦日ではない)が最古である。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存している。
第11回(1969年)からは出場歌手の日程調整をつけ易くするため、大晦日の「NHK紅白歌合戦」(NHK)が始まる前の19時~21時に本選を開催・生中継する様になった。会場も帝国劇場に移され、元NHKアナウンサーで人気司会者であった高橋圭三を司会進行役に起用した。また、カラーでの放送も開始された。レコード大賞授賞式が大晦日のTBSの定番プログラムとなる前は「オールスター大行進」という人気歌手・バラエティータレントが大量に出演するショー番組が恒例番組として放送されていた関係で、1969年の放送は「オールスター大行進」という副題が付されており、受賞歌手以外のタレント(美空ひばり・橋幸夫・ザ・ドリフターズ・コント55号など)も出演していた。同年には開始10周年を記念した特別番組が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存している。
第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存しており、保存状態も大変良く、今でもTBS(地上波)の番組で(第11回以降の)各年の模様が出演歌手の懐かしの映像などで紹介されている。
[編集] 黄金期
1969年から1988年にかけての20年間、テレビ歌番組の隆盛と共に番組の最盛期を迎えた。テレビ中継の最高視聴率は第19回(1977年)の50.8%で紅白と並ぶ大晦日の「国民的行事」となり、また放送時間も次第に拡大し18時台のスタートとなった。中でも第27回(1985年)には会場が日本武道館となり、授賞式の華やかさは最高潮を迎えた。
第25回(1983年)のからTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
[編集] 衰退期
1989年以降、紅白がそれまでの21時から19時20分と大幅に開始時刻を早めた事でバッティングが生じる事も多くなり、出演者の移動がままならなくなる。その余波はテレビ放送にも現れ、1988年まで30%~40%前後を維持してきた視聴率が一気に15%前後と大幅に下落した。そのため、紅白にも出場する歌手が慌しく移動する様子を生中継するのが風物詩の一つとなった(2005年まではこのスタイルが続いていた)。
アイドル歌手が連続して大賞を受賞した事などから、その打開策として第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割したが共に効果がなかったため、第35回(1993年)から再統一している。
第36回(1994年)から第45回(2003年)までは、会場を東京・赤坂のTBS放送センター(ビッグハット)に移した。第46回(2004年)以降は渋谷のNHK放送センターから比較的近い距離にある新国立劇場に変更されたが、これは「NHK紅白歌合戦」(NHKホールが会場)や「年忘れにっぽんの歌」(テレビ東京、新宿コマ劇場が会場)と掛け持ちするアーティストや演歌歌手の移動に配慮した事が理由である。
平成に入ると、音楽に対する考えの変化から賞取りレースに左右されない音楽活動をしたい事などを理由に受賞そのものを辞退する一部有力J-POPアーティストが増えるようになり、権威は大きく低下した。また、一部の大手レコード会社や有力事務所などによる寡占状態が高まったのもこの頃からである。大賞のMr.Childrenが授賞式に出席しないという異例の事態となった第36回(1994年)以降、授賞式に出席しないアーティストを受賞させない傾向が高まった。テレビ放送での生中継をメインにしている関係上、ミュージック・ビデオばかりを流す訳にもいかないというTBS側の意向が強く反映していると言われる。また、受賞アーティストがエイベックスばかりに偏る様になり、辞退するアーティストはさらに増加した。
第47回(2005年)になると常連だったスポンサーの多くが降板。さらに他番組のスポンサー枠の確保でスポンサー枠が縮小された。それらの事情で第41回(1999年)以降、テレビ放送の視聴率は低落を続け第47回(2005年)まで低迷、先述、受賞アーティストがエイベックスばかりに偏るようになったことも影響して、その回では過去最低の10.0%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録する事態にまでなってしまった(問題点も参照)。
[編集] 放送日変更
第48回(2006年)、放送日を大晦日から12月30日に変更した。放送時間は前年より30分拡大した18:30~21:54となった。この変更は視聴率の長期低落傾向の打破が主な理由だが、大晦日の紅白歌合戦出場やライブを行うアーティストの出演辞退を食い止める事、紅白出場歌手とのダブルブッキングを避けること、格闘技番組「Dynamite!!」の放送時間拡大を望む声などもあった。会場は前年同様に新国立劇場。また、歴代の受賞曲VTRも前年より長めに放送された。視聴率は17.0%と前年を7%上回り、長年続いた視聴率低迷に歯止めをかけた。17%越えしたのは第40回(1998年)以来実に8年振りだった。因みにその翌日の大晦日に拡大放送された「Dynamite!!」も高視聴率(最高視聴率は第2部の19.9%、第1部と第3部も2桁をキープ)を記録し、「レコ大」30日放送、「Dynamite!!」大晦日長時間放送が成功を収めることになった。
第49回(2007年)は前回と比べほぼ横ばいの16.8%と安定。また、一方の関西地区(MBS)は20.0%(19:00~)と関東より高かった。視聴者に30日開催が定着したことをうかがわせ、放送日変更の成功を印象付けた。
2005年までの大晦日は渋谷区神南(原宿)のNHKホール(「NHK紅白歌合戦」)、渋谷区初台の新国立劇場(TBSの日本レコード大賞)、新宿区歌舞伎町の新宿コマ劇場(テレビ東京の年忘れにっぽんの歌)相互の大移動を短時間でこなす出場者のスケジュールの余裕のなさがあったが、2006年以降はレコード大賞を1日ずらしたことでそれがある程度緩和された。
[編集] 歴代授賞式司会者と視聴率
司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋圭三(故人)が長く務めていたが、その後は幾度か司会者が変更され、第38回(1996年)からは堺正章が務めている。アシスタントにはその年に最も輝いているタレントや女優、キャスター、その当時のTBSの最も人気のあるアナウンサーなどが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する(1982年~1988年の生島ヒロシアナや1995年の鈴木史朗アナなどがこれにあたる)。
1969年の浅丘と1970年の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタント役的な役割を番組内では務めた。また、1970年の堺・加藤、1971年と1972年の沢田雅美、1982年の松宮一彦アナ、1977年の小島一慶アナについては観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。
1977年以降より、高橋圭三は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、総合司会者の高橋の下に更に総合司会の下に「司会」としてもう一人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形となっていた(1977年・1978年:黒柳徹子・久米宏アナ、1980年:渡辺謙太郎アナ・中田喜子、1981年:渡辺アナ・竹下景子、1982年:児玉清・竹下)。なお、それ以外の年(1979年・1983年)についてもMC席は高橋1人が常在し、女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで授賞式が進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会スタイルとは異なる形となっていた。
TBSラジオでは別に中継実況アナウンサーがいる。第40回(1998年)までは松宮一彦が、翌第41回(1999年)からは小島一慶が務めている。
回数 | 年 | 男性 | 女性 | 補助 | 視聴率 (関東地区) |
---|---|---|---|---|---|
第1回 | 1959年 | 芥川隆行 | |||
第2回 | 1960年 | ||||
第3回 | 1961年 | ||||
第4回 | 1962年 | 10.8% | |||
第5回 | 1963年 | 20.7% | |||
第6回 | 1964年 | 14.6% | |||
第7回 | 1965年 | 三木鮎郎 | 14.2% | ||
第8回 | 1966年 | 13.5% | |||
第9回 | 1967年 | 12.5% | |||
第10回 | 1968年 | 10.3% | |||
第11回 | 1969年 | 高橋圭三 | (浅丘ルリ子) | 30.9% | |
第12回 | 1970年 | (佐良直美) | (堺正章) (加藤茶) |
36.7% | |
第13回 | 1971年 | 山本陽子 | (沢田雅美) | 36.3% | |
第14回 | 1972年 | 森光子 | (沢田雅美) | 46.5% | |
第15回 | 1973年 | 玉置宏 | 44.1% | ||
第16回 | 1974年 | 小川哲哉 | 45.7% | ||
第17回 | 1975年 | 43.0% | |||
第18回 | 1976年 | 41.9% | |||
第19回 | 1977年 | 高橋圭三 久米宏 |
黒柳徹子 | (小島一慶) | 50.8% |
第20回 | 1978年 | 42.9% | |||
第21回 | 1979年 | 高橋圭三 | 檀ふみ | 43.3% | |
第22回 | 1980年 | 高橋圭三 渡辺謙太郎 |
中田喜子 | 34.3% | |
第23回 | 1981年 | 竹下景子 | 35.3% | ||
第24回 | 1982年 | 高橋圭三 児玉清 |
(松宮一彦) | 31.3% | |
第25回 | 1983年 | 高橋圭三 | 松宮一彦 | 32.7% | |
第26回 | 1984年 | 森本毅郎 | 30.4% | ||
第27回 | 1985年 | 倍賞美津子 | 31.4% | ||
第28回 | 1986年 | 竹下景子 | 29.8% | ||
第29回 | 1987年 | 関口宏 | 三雲孝江 | 29.4% | |
第30回 | 1988年 | 27.7% | |||
第31回 | 1989年 | 板東英二 | 楠田枝里子 | 14.0% | |
第32回 | 1990年 | 和田アキ子 | 12.5% | ||
第33回 | 1991年 | 布施明 石田純一 |
黒柳徹子 | 山本文郎 | 14.7% |
第34回 | 1992年 | 神田正輝 | 黒柳徹子 | 15.1% | |
第35回 | 1993年 | 宮本亜門 | 牧瀬里穂 | 13.3% | |
第36回 | 1994年 | 15.3% | |||
第37回 | 1995年 | 西田敏行 中山秀征 |
渡辺真理 | 17.2% | |
第38回 | 1996年 | 堺正章 | 飯島直子 | 雨宮塔子 | 16.6% |
第39回 | 1997年 | 草野満代 | 16.5% | ||
第40回 | 1998年 | 江角マキコ | 18.5% | ||
第41回 | 1999年 | 黒木瞳 | 進藤晶子 | 14.1% | |
第42回 | 2000年 | 14.0% | |||
第43回 | 2001年 | 米倉涼子 | 安住紳一郎 小倉弘子 |
14.0% | |
第44回 | 2002年 | 菊川怜 | 13.3% | ||
第45回 | 2003年 | なし | 12.7% | ||
第46回 | 2004年 | 伊東美咲 | 安住紳一郎 小林麻耶 |
10.4% | |
第47回 | 2005年 | 綾瀬はるか | 10.0% | ||
第48回 | 2006年 | 蛯原友里 押切もえ |
17.0% | ||
第49回 | 2007年 | 16.8% |
- 視聴率はビデオリサーチ調べ。赤数字は最高視聴率で、青数字は最低視聴率。
- 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが、1987年と1988年の三雲孝江アナについては進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。
[編集] 放送スタッフ
- 第49回・2007年
- 構成:樋口弘樹、あべ
- 舞台監督:岡本伸吾、田辺和弘
- プロデューサー:片山剛、服部英司
- 演出:石橋孝之、木田将也(新国立劇場外中継)、吉田裕二、西川永哲(OAサブ)
- 総合演出:平賀歩
- チーフプロデューサー:利根川展
- 制作協力:BMC
- 制作:TBSテレビ
- 製作著作:TBS
[編集] ネット局
放送番組名は「輝く!日本レコード大賞」。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある。
[編集] テレビ
JNN系列で2005年まで12月31日にネットして来た番組であるが以前はクロスネット局が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30~21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00~21:30(その後19:30~21:00)の枠、土曜日の19:30~22:00枠、日曜日の19:00~21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
今分かっている事は放送日が金曜日だった1971年に静岡放送が番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした事である。また南海放送が木曜日にJNNを同時ネットしていたので、その年だけは番組をネットしたりしていた。TVネットワーク腸捻転時代(1974年まで)はABCにてネット。
[編集] スポンサーについて
スポンサーセールスは1990年代初期まで大晦日が該当する曜日の19時・20時台のレギュラースポンサー(例えば月曜日が大晦日に当たった場合19時台前半はライオン・YKK、19時台後半はブラザー→雪印乳業、20時台は松下電器・松下電工が提供。水曜日が大晦日に当たった場合20時台は水曜夜8時枠連続刑事ドラマ→「わくわく動物ランド」に提供していたスポンサー各社(=江崎グリコ・牛乳石鹸共進社・大正製薬・メナード化粧品・積水ハウス他1社)の提供)だったが、1995年頃以降は特定の企業がスポンサーでCMを流すケースが増えている(主に外資系レコード会社やエイベックストラックスグループ・ソニーミュージックなど)一部電機メーカーや食品メーカーが年末年始の特別編成による休止振り替えでスポンサーにつくことが多い(1995年~1997年はスポンサーの中に牛乳石鹸共進社、2002年・04年は大正製薬、2003年~2005年はライオン、2005年はメナード化粧品も提供していた))。
2007年のスポンサーでは「さんまのSUPERからくりTV」から花王、伊藤園(以上60")、マツダ、生涯学習のユーキャン、クリナップ、小林製薬(以上30")、武田薬品(通常だと60"だがこのときは30")、「どうぶつ奇想天外!」から日産自動車(60")、サンスター、AEON、味の素、NTT東日本・NTT西日本、ロッテ(以上30")、「日曜劇場」から花王(90")といった通常番組の筆頭スポンサーがほぼ丸々入った。そのうちスポンサーでは昨年のスポンサーだった(例・グッドイヤー、KDDI(主にau中心)、キリンビール、キリンビバレッジ、日清食品など)のが数社あった。
[編集] ラジオ
JNN(TV)とJRN(ラジオ)との兼営局(一部のNRNとのクロスネット局除く)では、一部の放送局でTVとラジオで同時放送している。なお、RABラジオではかつて"JRNナイター"を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。*RNCラジオでは1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。こちらもRAB同様JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。MBSでは1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。
[編集] 問題点
現在の日本レコード大賞は15人の審査委員の審査により賞が決定される。この審査基準の長所としては売り上げだけでなく楽曲の内容、詞の奥深さなどを加味し、総合的にその年の最優秀楽曲を決定できるという点にある。しかし審査基準は明確ではなく、特定の審査委員と特定の芸能事務所やレコード会社との癒着疑惑、世間が支持する「その年を代表する曲」との乖離など多くの問題点がある。そのため「出来レース」と非難されることが多い。また賞の対象は楽曲であるにも関わらずテレビ中継の演出が年々過剰になって来たため、楽曲よりも歌手のみが注目される傾向にある。
近年は音楽そのものに対する考えの変化から、賞取りレースに左右されない音楽活動をするアーティストが増えた事により出演やノミネートそのものを辞退するアーティストが増えている。1990年代後半以降になると、低迷に追い討ちを掛ける様に大物アーティストの大晦日から元旦に掛けてのカウントダウンライブや各種格闘技イベントなどが隆盛し、賞の注目度そのものが低下している。とりわけ、浜崎あゆみの受賞以降は総合的な音楽業界への貢献度(全体のセールス)やTBSでのタイアップの高さなどが評価された「歌手」に授与される傾向となっており、楽曲に授与するというレコード大賞の本来の目的から外れている状況である。国民的に支持される楽曲が生まれにくい現状も、こういう事態に招いていると考えられている。
「レコード」大賞というタイトル自体が時代遅れとする指摘もある。しかし、時代の主力音盤の媒体が変わる毎に名前を変えると、これまでの伝統が失われるという理由で今後もこのタイトルで行われる(「レコード」のもう一つの意味合いとして「記録」にもかけているとされる)。また業界内では記録媒体の総称をレコードとするため、特に気にする向きも無いようである。
[編集] 癒着疑惑・事件・騒動・秘話など
[編集] 第6回(1964年)
この年は村田英雄の「王将」が同名の映画の主題歌として大ヒットし、翌1965年に掛けて150万枚を越える大ヒットを記録したが、大賞受賞曲は売り上げでは「王将」に遥かに及ばない青山和子の「愛と死をみつめて」であった。これは、映画「愛と死をみつめて」の主演・吉永小百合がレコード大賞創設に大きく貢献した作曲家・吉田正の弟子であったためと言われている。
[編集] 第8回(1966年)
この年は加山雄三の「君といつまでも」が自身が主演した映画の挿入歌として300万枚を越える大ヒットを記録し、その中の歌詞「幸せだなあ」が流行語になるほどの大ヒットを記録した。当時のマスコミもこの年の大賞は「加山で決まり」と評していた。しかし、売り上げも少なくヒット曲とは言えない橋幸夫の「霧氷」が受賞した。橋も吉田正の弟子である。
[編集] 第14回(1972年)
この年は上半期の大ヒット曲である小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」が大賞の最有力候補だったが、9月に発売され年末にかけてヒットチャートを急上昇したちあきなおみの「喝采」が大賞候補に急浮上。2曲がデッドヒートを繰り広げ、大逆転で「喝采」が受賞。年末から翌年にかけて大ヒットを記録した。最優秀歌唱賞は「あの鐘を鳴らすのはあなた」で和田アキ子が受賞。ヒット曲ではなかったこともあり物議を醸す。また、最優秀新人賞は激戦となり、日本歌謡大賞の放送音楽新人賞の森昌子、三善英史に加えて人気の高かった郷ひろみの争いになると予想されていたが、決選投票の末にセールス面で一歩リードしていた麻丘めぐみが逆転受賞した。
[編集] 第21回(1979年)~第24回(1982年)
ジュディ・オングの「魅せられて」、細川たかしの「北酒場」が各々初の受賞を果した第21回(1979年)と第24回(1982年)には共に日本歌謡大賞の大賞を受賞して有力であった西城秀樹の「YOUNG MAN」(1979年)、岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」(1982年の日本テレビ「火曜サスペンス劇場」テーマ曲)が外国人の作曲であることを理由にノミネートを見送られたというエピソードがある。西城は「勇気があれば」という別の楽曲でのノミネートになり事実上大賞レースから外れ、さらに岩崎はこの年ノミネートさえされない事態になり、様々な論議を呼んだ。
[編集] 第27回(1985年)~第28回(1986年)
中森明菜が第27回(1985年)に「ミ・アモーレ」で、第28回(1986年)に「DESIRE -情熱-」で2年連続の大賞を受賞し、史上初の女性歌手の2年連続大賞を受賞した。なお、1986年のオリコン年間売り上げ第1位になった石井明美の「CHA-CHA-CHA」は外国人の作曲だったが、石井が新人賞にノミネート[2](最優秀新人賞は逃している)されると同時に、特別賞として外国音楽賞が授与された。これまでとは異なり、外国人の作曲に一時的ではあるが門戸が開かれたケースである。なおこの楽曲は、TBSで放送された大ヒットドラマ「男女7人夏物語」の主題歌だった。
[編集] 第29回(1987年)~第30回(1988年)
第29回は近藤真彦が「愚か者」で念願の大賞を受賞した。「命くれない」が1987年の年間レコードセールス1位になり、2つの有線大賞を受賞した瀬川瑛子、「難破船」で史上初の3連覇を狙った中森明菜は急遽新設された特別大衆賞で配慮された。近藤の授賞式直前に近藤の母親の遺骨が盗難され、「レコード大賞を辞退しろ」などと書かれた脅迫状がレコード会社に送り付けられるという事件が起こった。翌年の第30回(1988年)も光GENJIが「パラダイス銀河」で大賞を受賞し、ジャニーズ事務所所属の歌手が2年連続の受賞となった。しかしながら、男性アイドルの大賞受賞は第30回を最後に現在まで生まれていない。
[編集] 第31回(1989年)
同年の日本有線大賞の大賞を受賞し、2曲がオリコンの年間1位と2位を占めて最有力だったプリンセス・プリンセス、工藤静香、長渕剛などの辞退で、賞の形骸化が顕著となった。その中で同年死去した美空ひばりの「川の流れのように』、前年からの2連覇を狙った光GENJIの「太陽がいっぱい』、年間ベスト10に3曲を送り込むなど一大ブームとなったWinkの「淋しい熱帯魚」が3つ巴になり混戦した。そんな中美空ひばり有力視されたが、土壇場になってレコード大賞をテレビ中継するJNN系列の各テレビ局が持つ票がWinkに流れ投票されWinkが大賞を受賞した。第27回の中森明菜以降、5年連続でのアイドル歌手の大賞受賞であり、演歌界や演歌ファンの不満が増大することになった。そのため、翌第32回(1990年)から演歌界の枠として「歌謡曲・演歌部門」が創設されることになった。
[編集] 第32回(1990年)~第34回(1992年)
第32回に設けられた「歌謡曲・演歌部門」大賞は堀内孝雄の「恋唄綴り」が受賞、第33回(1991年)に長らく無冠の帝王であった北島三郎が悲願の大賞を受賞した。また翌第34回(1992年)も「大物」大月みやこが受賞した。日本レコード大賞から離れてしまった演歌ファンの心を引き戻すために創設された「歌謡曲・演歌部門」ではあったが、大物が容易に大賞を獲得できる弊害を早々に露呈してしまい、視聴者に明確な存在意義を示せないまま、創設後3年で廃止されることになった。
[編集] 第35回(1993年)
前年まで続いた「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」を再統一し、その年の最優秀楽曲1曲に大賞を贈るスタイルに戻した。この年はヒット曲が多く、CHAGE and ASKAの「YAH YAH YAH」やTHE 虎舞竜の「ロード」や井上陽水の「Make-up Shadow」などの名曲が多く世に出た。しかし、これらの曲を歌っていたアーティストの辞退などがあって、結局オリコン年間101位だった香西かおりの「無言坂」(市川睦月作詩・玉置浩二作曲)が大賞受賞曲となり、「歌謡曲・演歌部門」が3年で廃止された翌年に歌謡曲が受賞することになった。
[編集] 第36回(1994年)
この年は審査・授賞式共に空転したが、Mr.Childrenの代表曲でこの年の年間シングル売り上げ1位だった「innocent world」が受賞した。表面上は問題がないように思えるこの曲の受賞は、「審査委員が審査をストライキする」という異常事態によるものであった。これは前年の「香西受賞」で危機感を抱いたある大手芸能事務所がある歌手を受賞させるよう審査委員に圧力をかけ続けたため、これに嫌気が差した審査委員がこぞってMr.Childrenに投票したのである。さらにMr.Childrenがミュージック・ビデオ撮影を理由に授賞式を欠席したために生演奏が行われず、TBSの音楽番組「COUNT DOWN TV」の収録で同バンドが演奏した際の映像を流すのみという形となった。Mr.Childrenは、「自分達の楽曲が正当に評価された訳ではない」と受賞後も不信感を抱くことになる。その後、審査制度とノミネート方法は大きく変貌を遂げた。
[編集] 第37回(1995年)~第45回(2003年)
大手レコード会社・エイベックスに所属する歌手が第41回(1999年)と第42回(2000年)を除いて大賞を受賞する状況になったため「エイベックスの出来レース」という声も出たことから、選考過程が不透明だという批判も一部にあった。しかし、当時ブームだった小室ファミリーやエイベックス所属の歌手が積極的に参加したことで凋落の一途だったレコ大が息を吹き返したことは事実である。
第37回(1995年)の美山純子の最優秀新人賞受賞は売上的にも知名度も圧倒的だった華原朋美を抑えての受賞だった。美山は1988年に竹下順子という名でレコードデビュー。何度か改名して歌手活動していたので実質新人ではなかった上、オリコンに100位以内にも入ってなかったという。
そのような状況の中で美山が最優秀新人賞を受賞した背景には、もし華原が受賞すると、大賞がTRFとなっていたので、小室ファミリー独占となり批判が出る状態が回避できないということと、某審査員が美山受賞をごり押ししたことがあったと言われている。
この疑惑の受賞にかかわらず、美山はその後一曲しかオリコンで100位に入ることが出来ず、結局鳴かず飛ばずの傾向が続いたことから、最終的に数年後に引退した模様。
その一方、華原は翌年ミリオン連発で一層飛躍したり、その後善かれ悪しかれマスコミなどにも話題になったりしたため、まるっきり皮肉な結果となった。
第40回(1998年)のglobeの受賞は、売上枚数を見る限り最有力と見られたEvery Little ThingやL'Arc〜en〜Ciel、GLAY、SPEED(当時、レコード会社はトイズファクトリー・現在はエイベックス)を抑えての受賞だっただけに波紋を呼んだ。この年から、楽曲に授与という本来の目的より歌手に授与という傾向が強くなった。
第43回(2001年)から第45回(2003年)までは浜崎あゆみが史上初の3連覇を達成する一方で、浜崎以外の有力歌手が軒並み辞退するという事態に陥った。特に第45回(2003年)はSMAPの「世界に一つだけの花」が記録的な売り上げを残して大賞確実と囁かれていた。しかし、日本レコード大賞審査会でのノミネート直前に受賞を辞退した。「ナンバーワンよりオンリーワン。どの歌が優れているということはない」とのコメントはあったが、とりわけ平成に入ってから軒並み賞レースを辞退している、彼らが所属しているジャニーズ事務所の方針に従ったとの見方が強い。
[編集] 第46回(2004年)
視聴者・業界双方からの浜崎3連覇やエイベックス寡占状態への批判が高まっていた中、8月に発生したエイベックスのお家騒動に責任を感じていたという浜崎がノミネートを事前に辞退した。なお、浜崎の辞退に関しては主催者側が辞退した話を全く聞いておらずノミネート曲があったものの落選したとしたため、双方の「ノミネート」の認識に食い違いが起きる異例の事態となった。また、年間1位のヒットシングルであり、TBSも制作に関わっていた映画「世界の中心で、愛をさけぶ」の主題歌平井堅の「瞳をとじて」が最有力と見られたが辞退した。結局、シングル2曲が年間2位と5位に入り、売り上げ的に平井と遜色がなかったMr.Childrenが「Sign」(オリコン年間2位)で10年ぶりの大賞を受賞、今度は実際に出演した。出演の背景には、この曲がこの年TBSが放送した連続ドラマ「オレンジデイズ」の主題歌だったこと、主催者が10年前に起こった「内紛」をMr.Children側に謝罪したこと、主催者が桜井が所属する非営利組織「ap bank」を支持すること、さらに桜井が要求していた「受賞は今回限り」という条件を受け入れる約束をしたことなどが挙げられる。
[編集] 第47回(2005年)
TBSの昼ドラマ「愛の劇場・コスメの魔法2」の主題歌だった倖田來未の「Butterfly」(オリコン年間売上85位)が受賞した。なお、この曲の売り上げ枚数は少なかったもののアルバムの高セールスや年間を通しての音楽業界への貢献度が高かったこと、TBSでのタイアップが評価されたことなどが大賞受賞理由と思われる。
「ベストヒット歌謡祭」演歌歌謡曲部門グランプリと「日本有線大賞」の2冠の演歌歌手・氷川きよしの「初恋列車」(オリコン年間40位)、コブクロなど有力候補を抑えた。 しかしながら、最優秀新人賞を倖田の後輩であるAAAが受賞し、倖田の大賞受賞を含めると、エイベックス寡占状態をこの年も食い止めることができなかった。
さらに、授賞式直前に審査委員長の阿子島たけしが審査委員長をやめろ等と怪文書を流されたあげくに謎の死を遂げる事件が起こったため、賞の透明性が改めて問われることになった。これが視聴率史上最低の10.0%となる一因になったと言われている。
ちなみに、プレゼンターとして小池百合子環境相(大賞を発表)やライブドアの堀江貴文社長(最優秀新人賞を発表)といった話題の人物が登場した。
[編集] 第48回(2006年)
長年大賞候補と言われていた氷川きよしが「一剣」で受賞した。金賞受賞曲の中で氷川(オリコン76位)よりも売り上げが多かった大塚愛(「恋愛写真」・75位)、倖田來未(「夢のうた」・26位)を押しのけての受賞。エイベックスによる寡占状態に一定の歯止めが掛かることになった。
第41回(1999年)から視聴率が10%台前半と低迷が続き、1ケタへの転落は時間の問題、存続の危機とさえいわれていた。復活の起死回生策としてこの年(2006年)から放送日を31日の大晦日から30日に移動させた。結果は17.0%で大成功に終わった。だが、出演歌手への注目というよりも、過去のレコード大賞の大量のVTRで幅広い年代層の視聴者を引き寄せた結果だと思われる。ただ、この成功により、レコード大賞の存続の危機もひとまず脱した。
[編集] 第49回(2007年)
コブクロが「蕾」で念願の初の大賞を受賞した。男性デュオとしては史上初。またTBS以外のドラマ主題歌が受賞したのは1997年第39回の安室奈美恵「CAN YOU CELEBRATE?」以来10年ぶり。最優秀歌唱賞にはEXILEが選ばれたが、グループからは史上初。
なお、最優秀新人賞には℃-uteが選ばれたものの、テレビ局での18歳未満の21時以降出演自主規制、さらに児童福祉法や労働基準法の規定があるため[3]、受賞シーンには出演できず(2007年12月30日当時の彼女たちのメンバー全員の平均年齢は13.5歳)、代理として師匠でプロデューサーのつんくが賞を受け取るという異例の形を取った(しかし、本人たちは仕事を終えて楽屋に待機していたところに小林麻耶アナが駆けつけ、驚嘆と感動の涙を見せる一幕もあった。また、つんくはシャ乱Qとして「ズルい女」を披露)。
この年のシングル売上第1位だった秋川雅史の『千の風になって』が大賞候補となる金賞ではなく、特別賞を受賞した。このようになった背景には、発売がレコード大賞審査対象期間外の2006年5月で、発売から1年半も経っており、審査対象年度の楽曲にならなかったことと第24回(1982年)の岩崎宏美『聖母たちのララバイ』などと同様に原詩が日本語でなかったことなどがあると言われている[4]。
放送が22時近くまであることから、先述・℃-uteのような18歳未満の歌手・アーティストが受賞した場合の対応も、今後の課題に。
視聴率は16.8%と、前回より0.2ポイント下がったものの、前回並みを獲得したことで、50回目を迎える2008年も12月30日開催となる予定。
[編集] 阿子島たけし焼死事件
2005年12月13日、同年の大賞審査委員長で音楽評論家の阿子島たけしに向けて「業界関係者との金銭授受があった」「阿子島はレコ大委員長を辞めろ」などという怪文書が出回るようになる。
阿子島は怪文書について、「全く根も葉もないこととまで言わないが、事実関係を捻じ曲げている」「出した人間は分かっている。詳しいことは後日話す」とコメントしていた。しかし、2005年12月13日早朝、神奈川県横浜市の自宅が全焼。当初遺体が見つからず行方不明扱いとなっていたが3日後、突如自宅敷地内から遺体となって発見された。14、15日とさほど広くもない自宅敷地内を多数の警官が捜索していたにも関わらず突如16日に遺体が発見されたことについて警察は「16日に初めて屋外を捜索し始めた」としている。阿子島夫妻は頻繁に連絡を取り合っていたというが25日には実家滞在中の妻に連絡はなかった。警察は出火原因は放火ではなく失火と断定。死因は焼死と判定された。司法解剖では煙を吸い込んでいない、つまり火事が発生する前に死亡したと思われるが、警察は事件性はなしと判断した[5][6]。
「業界関係者との金銭授受があった」「阿子島は委員長を辞めろ」などという阿子島への怪文書が出回っていた事で、大賞の審査過程と事件の関連性が注目された。審査委員長が死亡したため三木たかし実行委員長を審査委員長代行として審査が行われ、TBS以外のJNN系列基幹4局(MBS・CBC・HBC・RKB)の代表が審査委員として加わった。授賞式の放送の最後に追悼のメッセージが放映された。また、音声はモノラルに切り替えた。
[編集] 脚注
- ^ a b 長田暁二『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、1985年。ISBN 4324001243
- ^ 「日本レコード大賞」という賞は歌手ではなく楽曲に贈られる賞であるが、「最優秀新人賞」等は楽曲ではなく歌手に贈られる賞なので、外国曲でも問題なかったとも考えられる。
- ^ このケースはSPEED(1996年8月~2000年3月)が『NHK紅白歌合戦』に出演した時にも見られた。
- ^ 「CD売り上げ1位秋川雅史なぜレコ大を受賞できない?」『週刊朝日』2007年12月7日号。
- ^ 失踪レコ大委員長告発文書「金品を要求した」と非難 12日から連絡なし翌日には自宅が全焼 ZAKZAK 2005年12月15日
- ^ 焼死体発見、レコ大委員長か…自宅焼け跡から逃げ遅れ?2階から転落か ZAKZAK 2005年12月16日
[編集] 外部リンク
[編集] 関連番組
タイトル:「全部見せます!レコード大賞の裏側」
概要:2004年1月11日に放送された番組で、レコード大賞本番当日の、キャストやスタッフの動きをドキュメントをしたもの。紅白との行来に忙しないアーティストたちのドタバタや、普段みることのでききないリハーサル風景等の合間に、レコード大賞の概要も盛り込んだ90分の特番。
リポーター:笹田道子(SOプロ)
プロデューサー:落合芳行(TBSテレビ)畠山幹男(PEC・現TBSトライメディア) 総合演出:千葉隆寿郎(PEC) ディレクター:森一文/膳亀由香(PEC) 制作:PEC(現・TBSトライメディア) 製作:TBSテレビ