東横映画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東横映畫株式會社(とうよこえいが-、1938年6月8日 設立 - 1951年3月31日 合併)は、かつて存在した日本の映画会社である。東急資本のもとに映画館経営から出発し、第二次世界大戦後に旧満洲映画協会(満映)のメンバーを中心にして、京都・太秦の「大映第二撮影所」で劇映画を製作した。東映の前身の1社となったことで知られる。
目次 |
[編集] 略歴・概要
1938年(昭和13年)6月8日、東京横浜電鉄(のちの東京急行電鉄)の子会社として設立した。社長は同電鉄の五島慶太、資本金は30万円、興行場の会社としてスタートした。設立に先立つ同年3月、渋谷に開場した「東横ニュース劇場」、同年11月に開場した「五反田東横劇場」を経営する。1943年(昭和18年)、昭和興業、新宿興業、京浜興業を合併して資本金を50万円に増資、劇場を7館に増やす。
1944年(昭和19年)3月、五島に代り浦川睦臣が社長に就任、翌1945年(昭和20年)、空襲などで全劇場を喪失する。同年8月15日の終戦を経て、同年12月、十条に映画館をオープン、明けて1946年(昭和21年)1月1日、渋谷の東横百貨店内に大映作品と松竹作品を公開する映画館3スクリーンのほかに、3つの劇場をオープンする。同年2月、東急本社の黒川渉三専務が社長を兼務した。同年内に五反田東横映画劇場を再建、新宿に映画館を開き、「多摩川園」を吸収合併し、資本金を300万円に増資した。同年11月、同社の定款に映画の製作・配給を加え、大映との提携を進めた。
1947年(昭和22年)、大映との協定を結び、「大映第二撮影所」を借りて製作する準備が始まる。同年9月、資本金を2,000万円に増資、同撮影所を「東横映画撮影所」とし、旧満映のメンバーを中心に製作を開始した。設立第1作は稲垣浩監督、上原謙・轟夕起子主演による『こころ月の如く』で、同年9月16日に大映の配給により公開された。
1949年(昭和44年)5月、資本金を5,000万円に増資、同年9月、黒川に代り比嘉良篤が社長に就任した。同年10月1日、映画配給会社「東京映画配給」を設立、従来の大映から配給を移管した。移管後の第1作は松田定次監督、片岡千恵蔵主演による『獄門島』で、同年11月20日から公開された。同年12月、比嘉に代り鈴木幸七が社長に就任した。
1951年(昭和26年)4月1日、東横映画、太泉映画、東京映画配給の3社が合併して「東映」となる。東横映画撮影所は「東映京都撮影所」に、太泉映画スタジオは「東映東京撮影所」になり、東京映画配給の配給・興行の機構は、本社および支社、直営館として東映を構成した。