野口みずき
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オリンピック | ||
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陸上競技 | ||
金 | 2004 | 女子マラソン |
世界陸上選手権 | ||
銀 | 2003 パリ | 女子マラソン |
野口 みずき(のぐち みずき、1978年7月3日 - )は、日本の女性マラソン選手である。三重県伊勢市出身(ただし出生地は神奈川県)。オリンピック・マラソン競技金メダリスト。女子マラソンの日本記録、アジア記録保持者。血液型はO型。身長150cm、体重40kg、左利き。小柄ながらも、強い筋力を生かしたストライド走法の走りが持ち味である。現在の所属はシスメックス株式会社。
目次 |
[編集] 陸上選手歴
中学1年から陸上を始めた。宇治山田商業高校時代には3,000mでインターハイに出場、駅伝でも活躍した。
1997年にワコールに入社したが翌年10月、会社と対立した藤田信之監督が、真木和ら少数の選手を連れて辞任すると、野口もこれに従った。一時は失業給付を受けながら現役を続行した。
1999年2月、監督らとともにグローバリーに入社。この年の犬山ハーフマラソンに優勝したのをきっかけに、ハーフマラソンを中心に取り組むようになる。1999年の世界選手権では2位、2001年全日本実業団で優勝するなどその活躍はめざましく、「ハーフの女王」として知られた。2008年5月の仙台国際ハーフマラソンの優勝まで、ハーフマラソンでは31戦20勝である。
2001年6月、将来フルマラソンを走る為のスピード強化の一環として、日本選手権の女子10,000mにエントリー。自己記録を更新して3位に入り、同年8月に行われる世界選手権エドモントン大会の代表に選出。その世界陸上女子10,000mでは13位に終わったが、この成績から世界一を狙うならマラソンしかないとの確信を持ち、2002年のマラソン初挑戦へと繋がった。
[編集] マラソン歴(初マラソン~アテネ五輪)
2002年3月、初のフルマラソンとなった名古屋国際女子マラソンでは、中盤の25Km過ぎで2位の大南博美、3位の田中(現.大島)めぐみらを引き離して独走、初優勝を飾る。しかし気温が20度近くと高かった為、記録は2時間25分台に留まり、当時渋井陽子の持つ初マラソン世界最高記録(2時間23分11秒)には届かなかった。
翌2003年1月には大阪国際女子マラソンへ2回目のフルマラソンに出走。途中給水を2回取り損ねる失敗が有りながらも快走し、当時日本歴代2位の2時間21分18秒で優勝。2位の千葉真子、3位の坂本直子とともに、上位3人が2時間21分台と国内最高記録をマークした。
同年8月の世界選手権パリ大会では、中盤までハム・ボンシル(北朝鮮)にピッタリとマークされ、何度も手足がぶつかるアクシデントに見舞われた。レース後半30Km過ぎにキャサリン・ヌデレバ(ケニア)がスパートすると、野口ほか日本選手達は全くついていけず、徐々に引き離された。ゴール直前では野口が少しずつ追い上げたが届かずヌデレバが優勝。しかし野口が日本女子トップの2位に入り銀メダルを獲得したため、翌2004年のアテネ五輪の代表に内定した。千葉は3位に入り銅メダル獲得、坂本は4位入賞。奇しくも同年1月の大阪国際女子マラソンの上位3選手が、そのまま2・3・4位となった。
2004年8月22日(日本時間23日)、アテネオリンピックの女子マラソンは、気温30度を超える酷暑の中でのレースとなった。25Km付近で野口がロングスパートを仕掛けると、優勝候補の世界記録保持者ポーラ・ラドクリフ(イギリス)やヌデレバらの強豪選手達が遅れ始めた。28Km過ぎではただ一人ついていたエルフェネッシュ・アレム(エチオピア)もついていけずに後退し、野口の独走となった。後半の32Km辺りからゴールまで約10Km続く下り坂に入ると、一旦遅れたヌデレバが追い上げて2位に上がり、ゴールに向け野口との距離を詰めるが、12秒の差で野口が逃げ切って優勝。シドニーオリンピックの高橋尚子に続き、日本に2大会連続のオリンピック女子マラソン金メダルをもたらした。記録は2時間26分20秒。(土佐礼子は5位、坂本直子も7位で、日本勢は3選手とも入賞を果たした。)
[編集] マラソン歴(アテネ五輪後~北京五輪)
2005年9月25日、ベルリンマラソンで2時間19分12秒の大会新記録を出して優勝すると同時に、孫英傑(中国)が持っていたアジア記録、渋井陽子が2004年のベルリンマラソンで出していた日本記録をともに更新した(ラドクリフ、ヌデレバの記録に次ぐ世界第三位)。この記録は「走った距離は裏切らない」という言葉を胸に、毎日約40kmのランニング練習をこなしている成果である。
所属するグローバリーの不祥事により陸上部が廃部されたため、2005年12月にシスメックスに移籍した。移籍後初の大会となった2006年2月5日の第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、自己の日本記録を上回るタイムを出しながらも、福士加代子に敗れて2位。同年7月9日の札幌国際ハーフマラソンでは、中盤まで大南博美とデッドヒートを繰り広げたが、その後引き離して終盤は独走、大会新記録で優勝を果たしている。
2006年9月24日のベルリンマラソンへ出場を予定していたが、練習中に左足首の故障が発生した為に断念。その後故障は一旦回復し、11月26日の上海国際ハーフマラソンでは大会新記録で優勝、翌2007年1月6日の宮崎女子ロードレースのハーフマラソンの部も制している。しかし、好記録が期待された同年4月のロンドンマラソンに出走予定も、左足首(アキレス腱)の故障が再発、又もフルマラソンを回避する事となる。
2007年5月13日、4か月ぶりのレースとなった仙台国際ハーフマラソンでは、1時間8分台で優勝。競う相手がいなかった点を考慮すれば,上々の復活レースであった。同年7月の札幌国際ハーフマラソンも制し、2連覇を達成。
翌2008年北京オリンピックの女子マラソン代表選考レースである、2007年11月18日開催の東京国際女子マラソンにエントリー、2年2か月ぶりのフルマラソン出走となった。野口と同期生で前日本記録保持者の渋井陽子との一騎打ちが予想されたが、レース後半の30Km手前で渋井を引き離し、35Kmから40Kmまで続く5Kmの急な上り坂を過去最速となる初の16分台のラップタイムで通過するなど、圧倒的な強さでこの難コースを完璧に攻略。東京国際女子マラソンとしても大会新記録・大会初優勝を飾った。またこの優勝により、日本選手として史上初めて東京・大阪・名古屋の国内三大女子マラソンを完全制覇する大快挙を達成した(海外選手では先にドイツのカトリン・ドーレが制覇している)。
2008年3月10日、北京五輪女子マラソンへ正式に代表入りを果たし、2大会連続の五輪出場を決めた(他代表選手は土佐礼子、中村友梨香)。前回アテネ五輪のディフェンディングチャンピオンとして、女子マラソンで史上初めて五輪2連覇なるかどうかが注目を集めることになる。
2008年1月13日の全国都道府県対抗女子駅伝(三重県代表・9区アンカー10Km)以来の公式戦(原因不明の発疹により2レースを欠場していた)となった、同年5月11日の仙台国際ハーフマラソンは、昨年の大会の自己記録を29秒上回るタイムで2連覇を達成。
[編集] 主なレースデータ
年月 | 大会 | 順位 | 記録 | 備考 |
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1999年10月 | 世界ハーフマラソン選手権 | 2位 | 1時間9分12秒 | . |
2001年3月 | 全日本実業団ハーフマラソン | 3位 | 1時間8分45秒 | . |
2001年6月 | 日本陸上選手権 (10000m) | 3位 | 31分51秒13 | 当時自己最高記録 |
2001年8月 | 世界選手権 エドモントン大会 (10000m) | 13位 | 32分19秒94 | . |
2002年3月 | 名古屋国際女子マラソン | 優勝 | 2時間25分35秒 | 初マラソン |
2003年1月 | 大阪国際女子マラソン | 優勝 | 2時間21分18秒 | 大会記録、日本国内最高記録 |
2003年3月 | 全日本実業団ハーフマラソン | 3位 | 1時間8分29秒 | . |
2003年8月 | 世界選手権 パリ大会 | 2位 | 2時間24分14秒 | アテネ五輪内定 |
2004年2月 | 青梅マラソン(30km) | 優勝 | 1時間39分09秒 | 日本最高記録 |
2004年4月 | 兵庫リレーカーニバル大会 (10000m) | 4位 | 31分21秒03 | 自己最高記録、日本歴代7位 |
2004年8月 | アテネオリンピック | 優勝 | 2時間26分20秒 | 日本女子選手二人目の五輪優勝 |
2005年9月 | ベルリンマラソン | 優勝 | 2時間19分12秒 | 日本最高記録、アジア最高記録 |
2006年2月 | 香川丸亀ハーフマラソン | 2位 | 1時間7分43秒 | 自己最高記録、日本歴代2位 |
2006年3月 | 全日本実業団ハーフマラソン | 3位 | 1時間8分49秒 | . |
2006年7月 | 札幌国際ハーフマラソン | 優勝 | 1時間8分14秒 | . |
2006年11月 | 上海国際ハーフマラソン | 優勝 | 1時間9分03秒 | . |
2007年1月 | 宮崎女子ロードレースハーフマラソン | 優勝 | 1時間8分30秒 | . |
2007年5月 | 仙台国際ハーフマラソン | 優勝 | 1時間8分54秒 | . |
2007年7月 | 札幌国際ハーフマラソン | 優勝 | 1時間8分22秒 | . |
2007年11月 | 東京国際女子マラソン | 優勝 | 2時間21分37秒 | 大会記録 |
2008年5月 | 仙台国際ハーフマラソン | 優勝 | 1時間8分25秒 | . |
[編集] その他
- バルセロナオリンピックとアトランタオリンピックの代表選手だった真木和(現姓:山岡)に憧れてワコールに入社。現在の真木は現役引退後、結婚して一児の母となったが、時折野口の出走するレースの応援に駆けつける事がある。
- 名前の由来は落葉高木のハナミズキから。
- 2004年アテネオリンピックの優勝直後、野口は軽い熱中症と嘔吐症状により、医務室へ運ばれた。その後回復してからの優勝インタビューでは、前回シドニー五輪金メダリストの高橋尚子は「凄く楽しい42キロでした」と笑顔で語ったが、野口は対照的に時折声を詰まらせながら「もう…幸せです…有り難う御座います…」と、嬉し涙を流していた。
- 2004年年末恒例のの第55回NHK紅白歌合戦では特別審査員として出演。(一青窈が「ハナミズキ」を歌う際、紅組司会の小野文惠アナウンサーは曲紹介で、野口の名前の由来である事については一言も述べなかったが、間奏部分では画面に野口のアップが映された。)
- 大のマグロ好きとして知られる(三重県伊勢市のマグロ業者より1年分のマグロをプレゼントされた)。
- 座右の銘 「走った距離は裏切らない」
- 野口を記念して命名された場所
- 2008年4月26日に長野市で行われた、日本における北京オリンピック聖火リレーの最終走者をつとめた。
[編集] 受賞
- 2004年度JOCスポーツ賞最優秀賞
[編集] 脚注
- ^ 野口みずき選手クロカンコース記念碑除幕式 - 上田市ホームページ
- ^ 京都三条会商店街 - 朝日新聞
[編集] 外部リンク
- シスメックス女子陸上競技部オフィシャルサイト - 野口みずき所属
- 日本オリンピック委員会 - 野口みずき
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1984: ジョーン・ベノイト • 1988: ロザ・モタ • 1992: ワレンティナ・エゴロワ • 1996: ファツマ・ロバ • 2000: 高橋尚子 • 2004: 野口みずき |