福士加代子
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福士 加代子(ふくし・かよこ、1982年3月25日 - )は、日本の女子陸上競技の選手。2007年8月末の時点で、3000mと5000mの日本記録、ハーフマラソンのアジア記録、15kmの世界記録を有する。
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[編集] 基本データ
- 身長:161cm
- 体重:45kg
- 血液型:A型
- 所属:ワコール
- 通称:みちのくの爆走娘
[編集] 主な経歴
青森県北津軽郡板柳町出身(大相撲の高見盛精彦が同郷の先輩である)。青森県立五所川原工業高等学校機械科を卒業後、2000年にワコールに入社。
高校時代まではこれといった実績も無く、インターハイや国体でも決勝に辛うじて残る位であった。当時は駅伝の古豪だったワコールに入社してからは、トラックレースや駅伝などでメキメキと頭角を現し始める。
[編集] 2002年
6月の日本選手権で、5000mと10000mで共に初優勝を果たし、2種目制覇を成し遂げ、釜山アジア大会の代表に選ばれた。
10月に行われたアジア大会本番では、5000mと10000mともに銀メダル(両種目とも金メダルは中国の孫英傑)。しかし10,000mでは自己ベストを一気に50秒も縮める30分51秒81の記録でゴール、日本女子2人目となる31分突破(日本人初の31分突破は渋井陽子(三井住友海上)で30分48秒99)となる。また5000mでは自身が持つ日本記録を0秒02更新する、14分53秒19をマークした。
12月に行われた、全日本実業団対抗女子駅伝大会では3区10kmの区間で快走、沿道の観客に対して福士は時折笑顔を見せながら走っていたが、次の中継所に間もなく到着する終盤で、すぐ後ろを走っていた羽鳥智子(第一生命)と足が絡まって転倒し、左膝を強打する。その後足をひきずりながら走り続け、それでも区間賞を獲得したものの、膝の靱帯を切る大けがを負ってしまった。
[編集] 2003年
2月、福士の故郷で行われた青森冬季アジア大会で、膝のけがをおして最終聖火ランナーを務める。約半年間はけがの治療に専念していたが、6月の日本選手権女子10000mでは、終盤スパートして独走、見事復活の優勝を果たした。
8月、世界選手権初出場となったパリ大会では、5000mと10000mに出場したが、5000mは予選敗退、10000mは11位に終わった。
[編集] 2004年
6月の日本選手権、女子10000mではレース前半で福士が飛び出してから、その後独走となる。しかし終盤に入るとややペースが落ちてゆき、ゴール直前で2位の田中めぐみ(現姓:大島。しまむら)や3位の弘山晴美(資生堂)らに猛迫を受けるも、辛うじて逃げ切って優勝、初のオリンピック代表内定となった。その2日後の5000mでも優勝を果たす。
8月、五輪初出場となったアテネ五輪は、女子5000mも出場可能だったが回避し、女子10,000mの1種目のみに絞って出場となる。しかし、レース前に発生した足の故障の為に全く力を発揮できず、同じ日本代表の田中めぐみ(13位)と弘山晴美(18位)からもかなり遅れての26位でゴール(しかも福士の次に27位だった女子選手は最下位である)。ゴールタイムは33分48秒66と自己ベスト記録より3分近くも悪く、先頭からは2周も周回遅れとなる惨敗だった。いつもの福士ならレース後のインタビューでおちゃめな言動を見せるも、流石の福士もこの時は思わず悔し涙を流していた。
[編集] 2005年
ヘルシンキ世界陸上に5000mと10000mの2種目で出場。10000mでは入賞ライン(8位)にあと一歩及ばず、前回に続き11位に留まる。5000mは決勝進出を果たすものの12位、2種目共に入賞には至らなかった。
[編集] 2006年
1月15日に京都市で行われた第24回全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、京都府代表として最終の9区10kmを走り、京都府チームとしての過去最高記録で優勝を果たしている。3週間後の2月5日に香川県で行われた第60回香川丸亀ハーフマラソンでは、初のハーフマラソンにもかかわらず、日本記録をもっていた野口みずき(シスメックス)選手とトップを争い、1時間7分26秒のアジア記録で優勝した。
9月のワールドカップ陸上アテネ大会にアジア代表として出場。3000mで5位、5000mでは銅メダルを獲得。12月のドーハアジア大会女子10000mでは、31分29秒38の記録で優勝(3位はトヨタ車体所属の大南博美)。1998年バンコクアジア大会の川上優子(沖電気宮崎)以来、2大会ぶりの金メダルをもたらした。
[編集] 2007年
6月29日の日本選手権女子10000mでは、7000m辺りからスパートして独走、この種目で2002年からの6連覇を達成。同年8月開催の大阪世界陸上の女子長距離種目内定を決めた。その2日後の7月1日に行われた女子5000mでは、スタート直後に転倒するアクシデントにも全く動じず、その後笑顔を振りまく余裕も見せ、10000m同様に後半独走となる圧勝だった。
その後、世界陸上に向けて、合宿場所をエチオピアに移した。この時、この種目のスーパースター、ハイレ・ゲブレセラシェとも出会いアドバイスも受けている。
地元開催となった世界陸上の本番では、開幕日の8月25日、女子10000mでは中盤靴が脱げ履き直すハプニングが発生、その後先頭に立つ場面もあったが入賞ラインに届かず10位に甘んじた。9月1日の女子5000m決勝ではスタートから果敢に先頭に立つも、3000m地点で後続に飲み込まれてしまい、その後は離され14位に終わった。
[編集] マラソン挑戦への決意
マラソンファンの間では「福士はいつフルマラソンを走るのか」と興味津々であったが、本人は当初「マラソンは絶対に走らない。2時間有るなら走り続けるより映画を見たい」と、マラソン転向へは積極的ではなかった。その理由としては、過去に怪我をしたことで、長距離を走ることに対する身体面での不安があったからだと言われている。
しかし、大阪世界陸上を目前にした8月23日に突如、マラソンに転向して、翌2008年の北京五輪を狙う可能性があることを発表。一部の報道では、長距離トラック競技(5000&10000m)で五輪内定した場合でも、内定を蹴ってマラソンで五輪代表を狙う、ともいわれていた。
女子マラソンでは、親友・渋井のチームメイトでもある土佐礼子が大阪世界陸上で銅メダルを獲得し、五輪代表の内定を得たため、残る枠は2つとなったが、この年の東京国際女子マラソンにおいて、“ディフェンディングチャンピオン”野口みずきが大会新記録で圧勝したことで、ほぼ内定とも言われており、事実上残る枠は1つになった。この1つを、高橋尚子ら多くの有力選手と争うことになるため、福士には慎重な判断が求められていた。そのため本人も、マラソン転向については断定を避けていた。
12月18日、陸連を通して翌年1月27日開催予定の大阪国際女子マラソンに、一般参加選手として初マラソンに挑戦することを表明した。福士本人は「まだ本格的な練習をしていないので期待と不安が有りますが、期待に応えられるよう頑張ります」と文書でコメントした。
[編集] 2008年
記念すべき福士の初マラソンとなった大阪国際女子マラソンは1月27日に行われたが、2日前の1月25日、有力選手らとは別に、福士ひとりだけの記者会見が開かれた。これは福士が一般選手として参加するためであった(通常は招待選手のみ会見)。
その大阪国際女子マラソン本番では、スタートの長居陸上競技場を飛び出してから大阪城公園を出る30Km付近まで、福士ひとりだけがハイペースで突っ走り、完全に福士の独走状態が続いていた。しかし練習でマラソン距離を継続して走ったことが無かったのが災いしてか、福士は30kmを過ぎてから急激にペースダウン。その後34Km過ぎでは優勝したマーラ・ヤマウチ(イギリス)や2位の森本友(天満屋)らに抜かれると、35Km以降から殆どジョギング状態が続いて十数人の選手に次々と追い抜かれていく。それから福士はフラフラの状況で走り続ける中、さらに40Kmを過ぎた長居陸上競技場へ入る手前の、ゴールまで残り570m付近では足がもつれて1度転倒、そして競技場へ入ってからは3度も転倒しながらも、2時間40分54秒のタイムでようやくゴール。注目された福士の初マラソンは19位と惨敗に終わるも、最後はあまりにも壮絶なレースとなった。
[編集] 今後
初マラソンが結果的に“無謀な挑戦”に終わってしまったことから、マラソンでの北京五輪出場の道は事実上閉ざされた。今後は本職であるトラック競技で五輪切符を目指すこととなるが、今後のマラソン挑戦についてはまだ態度を表明していない。
[編集] エピソード
- ワコールに入社して間もない頃は、頭のてっぺん部分の髪の毛をヒモで括り付ける所謂「ちょんまげ」姿のレース出走でも話題となった。その後このスタイルは長らく彼女のトレードマークとなった。
- 福士の最大のライバルと言える渋井陽子とは公私共に大変仲が良いそうで、よく二人でお互いにふざけ合う光景をTVで時たま目にする事が有る。
- 釜山アジア大会5000m決勝後のインタビューで「(記録更新は)大きいですよー。乳首3つ分くらいですかねえ」と評した。
- 2007年日本選手権5000mでの優勝インタビューでは「アレ(スタート直後の転倒)ねえ!面白かったー。でも逆にそれで終始落ち着いて走れたから、コケてしまって大正解です」と福士らしいコメントを残している。
- インタビューでは豪快な発言が売りの福士ではあるが、最近は女性らしさにも目覚め始めている。
- 通常は一般的なランニングパンツを着用してレースに臨むが、ヘルシンキ世界陸上女子5000m決勝でブルマ状のランニングショーツを着用し、陸上ファンを驚かせた。これについて福士は当時「海外の選手の衣装を意識した」と語っている。
- 大阪世界陸上では、全出場レースでブルマ状のランニングショーツを着用して出場した。発言も以前のような過激なものは鳴りを潜めた。
- 2007年12月の日体大記録会にて姿を見せたものの、報道陣が多いとの理由により、出場をドタキャンする。これについては様々な憶測が飛び散っているが、その真意は不明である。
- 初マラソンだった大阪国際女子マラソンのレース終盤、40Km地点を過ぎた長居陸上競技場の周回道路では、明らかに意識朦朧で足を動かすのが精一杯の福士に対し、ワコールの永山忠幸監督が「もうやめてもいいよ」と叫びながら併走を続けていたが、それでも福士は「ゴールさせて下さい」と監督の制止を振り切るようにゆっくり走り続けた。しかしその後、福士はゴール直前で合計4回も転んでしまい、その場面がTV中継でもハッキリと映し出された。競技場のスタンドで観戦していた、福士の実母・ちぎ子は「もう止めさせて!」と泣きながら絶叫、実父・正幸は福士の懸命の完走に「よく頑張った。でも見ているのが辛かった」と福士の状態を心配そうに語った。一方、ゴール後の福士自身は「大阪城公園の下り坂付近で、急に目の前が真っ暗になった。競技場が見えてからは頭の中が真っ白になり、記憶が無くなった。でも初マラソンは面白かったかな」というコメントを発表している。
- その後、数日経ってからのインタビューでは、福士自身曰く「とても良い経験をさせてもらいました。マラソンに挑戦した事に後悔はありません。ゴール後のタオルが欲しかったので、何時間掛かっても何回転んでも完走するつもりでした。もし途中で辞めていたら、名古屋(国際女子マラソン)を目指していたかも知れません」と時折苦笑混じりに、初マラソンの感想を笑顔で語っていた。
[編集] 主な記録
世界記録
距離 | タイム | 日付 | 大会名 |
---|---|---|---|
15km | 46分55秒 | 2006年2月5日 | 丸亀ハーフマラソン(途中計時) |
日本記録
距離 | タイム | 日付 | 大会名 |
---|---|---|---|
3000m | 8分44秒40 | 2002年7月5日 | パリゴールデンリーグ |
5000m | 14分53秒22 | 2005年7月8日 | ゴールデンガラ |
15km | 46分55秒 | 2006年2月5日 | 丸亀ハーフマラソン(途中計時) |
20km | 1時間03分41秒 | 2006年2月5日 | 丸亀ハーフマラソン(途中計時) |
ハーフマラソン | 1時間07分26秒 | 2006年2月5日 | 丸亀ハーフマラソン |
3000m(Jr記録) | 8分52秒3 | 2001年10月13日 | YONDEN長距離記録会 |
5000m(Jr記録) | 15分10秒23 | 2001年7月14日 | ナイトオブアスレチックス |
主な自己記録
距離 | タイム | 日付 | 大会名 |
---|---|---|---|
10000m(日本歴代2位) | 30分51秒81 | 2002年10月8日 | アジア大会釜山大会 |
10000m(Jr日本歴代2位) | 31分42秒05 | 2001年9月29日 | 全日本実業団選手権 |