イチロー
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イチロー(鈴木 一朗) Ichiro Suzuki シアトル・マリナーズ No.51 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県豊山町 |
生年月日 | 1973年10月22日(34歳) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3cm 170 lb =約77.1kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
守備位置 | 外野手(中堅手) |
プロ入り | 1991年 4位 |
初出場 | NPB / 1992年7月11日 MLB / 2001年4月2日 |
年俸 | $17,102,149[1](2008年) |
経歴 | |
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■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
イチロー(本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、1973年10月22日 - )は、シアトル・マリナーズに所属するプロ野球選手。ポジションは外野手(右翼手、2006年後半より中堅手)。
驚異的にヒットを量産することから「安打製造機」と称される。また米国においては、その巧みなバットさばきの様子から、「魔法使い」と呼ばれる。
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 日本プロ野球
1991年、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現:オリックス・バファローズ)に入団した。
入団後は2軍で首位打者を獲得しながらも、土井監督や小川亨コーチなどの一軍首脳陣から振り子打法を否定された事に対し我流を貫き続けた事に加え、足の速さを生かすようにと内野安打狙いのバッティングや山内一弘コーチ式の内角打ちを指示されるが、意見や指導が合わず、当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄投手からプロ初本塁打を放ったもののその日に2軍降格を言い渡されるなど、1軍に定着することはなかった。
2軍生活を余儀なくされていたイチローは、2年目の秋に河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で日本時代のイチローの代名詞ともなる振り子打法を作り上げた。
1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの類い稀な打撃センスを見抜くと、登録名を当初の「鈴木(SUZUKI)」から「イチロー(ICHIRO)」に変更させ(同時に佐藤和弘(SATOH)も「パンチ(PUNCH)」に改名させた。これは登録名をニックネーム等に変更することが珍しかった当時、マスコミにイチローが珍しがられるのを防ぐためと、当時知名度ではイチローよりも上だった「パンチ」に注目が行くようにした為。変更時に行われた記者会見では「『鈴木』や『佐藤』と言う苗字は多いので、ファンの人たちに覚えてもらいやすいように」と説明されていた)、1軍の2番バッターに抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。4月末ごろには1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし、パ・リーグ新記録となる打率.385(後の2000年に自らパ・リーグ記録を更新)で首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
1995年、前半戦を三冠王で折り返す。最終的に本塁打数は小久保裕紀に抜かれたものの、主に1番打者を打ちながら、首位打者・打点王・盗塁王・最多安打・最高出塁率を獲得し、「五冠王」。勝負強さやパワーも証明した。また当時のパ・リーグ記録となる18死球を残したほか、前年に自らが記録した69試合に迫る歴代2位の67試合連続出塁を記録。ちなみに本塁打王の小久保は28本塁打、イチローはリーグ3位タイの25本塁打で、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占にあと一歩であった。
1996年は開幕から前半戦まで1番打者として出場し、オールスターゲームでは初球先頭打者本塁打を放った。後半戦からは打順を変更され、3番に固定。前半戦までは打率が1度も.330を超えない状態が続いたが、3番になってからは調子を上げ、固め打ちが目立つようになった。最終的に3年連続となる首位打者を獲得し、猛打賞を26回(日本記録)、1試合4安打を8回記録(達成当時、日本新記録。現在はパ・リーグ記録)した。また9月23日の日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ2塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝本塁打を放つ。チームは阪急時代の1977年以来19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
1997年から1999年までは主に3番打者として出場。1997年6月に209打席連続無三振の日本記録を樹立、その後の対日本ハムファイターズ戦で下柳剛(現:阪神タイガース)から三振するまで216打席連続無三振をマークした。三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。
1998年、張本勲の4年連続を抜いて、日本プロ野球史上初となる5年連続首位打者獲得を達成。また同時に5年連続・通算5回目となるシーズン最多安打を記録した(連続回数、通算回数ともにパ・リーグ記録。5年連続は長嶋茂雄の6年連続に次いで歴代2位、通算5回は長嶋茂雄の10回、川上哲治の6回に次いで歴代3位)。
1999年4月20日、対日本ハムファイターズ戦で金村曉から本塁打を放ち、日本プロ野球史上最速となる757試合目で通算1000本安打を達成。7月6日の対西武ライオンズ戦では松坂大輔から通算100号本塁打を打った。同年はオールスターゲームの時点で19本塁打を記録するなど、1995年以来のペースで本塁打を量産していたが、8月24日の対日本ハムファイターズ戦において下柳から右手に死球を受け、負傷。残りのシーズンを棒に振った。これにより、1994年4月から続けていた連続試合出場が、パ・リーグ歴代4位・プロ野球歴代14位の763でストップした。
2000年は開幕から4番に指名され、同打順で毎試合スタメン出場していたが、8月27日の対千葉ロッテマリーンズ戦で3回に三塁線へファウルを打った際に右わき腹を痛め、途中交代。その後出場を果たしたのは、神戸でのオリックス本拠地最終戦である10月13日の1試合だけで、9回に守備固めとしての出場であり、打席には立たなかった。イチローがメジャーリーグに挑戦するため日本球界を去ると記者会見をしたのが前日の10月12日だったため、この試合終了後、イチローは帽子を取ってファンへお別れの挨拶をしている。
1994年から2000年まで7年連続首位打者獲得を達成。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録、7年連続首位打者は史上初。さらに1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPは他に山田久志しか達成していない快挙である。
[編集] メジャーリーグ
- 2001年
- ポスティング制度を利用してメジャーリーグの球団、シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して、本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である仰木彬監督に、「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずにチームに残ったという裏話がある[要出典]。
- 当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか疑問視する声が日米問わず多かった。「51」という背番号をつけることになったときにも、当時のマリナーズには「背番号51」はランディ・ジョンソン(1998年まで在籍)の番号というイメージがファンの間で認識されていたために、「ランディの功績を台無しにする」「ランディを侮辱している」と言う理由であまり好意的には見られてはいなかった。[要出典]しかしその後の活躍で、このことを言うファンは誰もいなくなった。
- 開幕戦からマルチヒットを放ち、その後も順調にヒットを積み重ね、MLBオールスターゲームでのファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となるなど、アメリカにおいても評価されるようになる。この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(当時歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王に輝く。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは、1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来2人目、安打試合数の135試合はロジャース・ホーンスビー、チャック・クライン、ウェイド・ボッグス、デレク・ジーターら4人と並ぶメジャータイ記録、また打率.350と打数692はアメリカンリーグ新人記録。なお、新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローの他には1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバ(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を元に、過去の打撃記録を調べなおした。結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年にジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている。
- そのほかにもリーグ2位の得点(127)を残し、得点圏打率(.445)、2死得点圏打率(.460)、2死得点圏出塁率(.558)、走者ありでの打率(.420)では両リーグを通じて1位を記録した。なお、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。このように記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。
- 2003年
- 5月にはメジャー通算500本安打を達成。7月には、新人から3年連続でオールスターファン投票両リーグ最多得票を獲得した。新人からという注釈を外してもケン・グリフィーJr以来2人目の快挙。
- 2004年
- 84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録と同時に打率.372を記録し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。ジョージ・シスラーの記録は年間154試合の時の記録で、イチローは160試合目での到達だったため[1]、米国内では少なからず疑問視する見方もあったものの[2]、この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、USA TODAY紙にもバリー・ボンズが700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表した。また史上8人目となるコミッショナー特別表彰を受け、アメリカ野球殿堂には特別ブースが用意された。日本からは正力松太郎賞特別賞が授与された。その際”打撃の神様”の愛称で知られる川上哲治に、「精神的にも技術的にも、野球の神様といえば彼じゃないかと思う」と賛辞を送られている。また3度目の国民栄誉賞の授与も打診(3度とも本人が辞退)され、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた(日本のニュースより)。
- この年は得点圏打率(.372)、得点圏出塁率(.484)、2死得点圏打率(.472)、2死得点圏出塁率(.600)、走者あり打率(.364)、走者あり出塁率(.439)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)でもリーグ1位を記録。またシーズン歴代最多安打で影に隠れているが、7月にシーズン2度の月間50本安打を達成、ジョー・メドウィック以来68年ぶりの快挙を成し遂げる。8月に球団記録のアレックス・ロドリゲスの月間54本安打を更新し、68年ぶりにロイ・ウェザリーの月間56本安打のタイ記録に並んだが、月間67本安打のタイ・カッブには届かなかった。ちなみに正式な記録ではないが2004年7月18日から8月17日の間にヒットを67本打っている。通算4度の月間50本安打はピート・ローズに並び(メジャー記録はジョージ・シスラーの10度)、他に2ヶ月連続50本安打とシーズン3度の月間50本安打の記録を更新した。さらに9月にビル・テリーの連続4シーズン918本安打を更新した。
- 2005年
- メジャーでは自己最多となるシーズン15本塁打を記録した。通算記録では日本人選手として初めてメジャーリーグ1000本安打に達した。これは出場696試合目での達成であり、1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ウェイナー(686試合)に次いで1900年以降3番目のスピード記録となった。
- 5年連続100得点30盗塁は6年連続のジョー・モーガン、タイ記録のリッキー・ヘンダーソンに次いで3人目。また、史上初のデビューから5年連続200本安打という記録も達成した。デビューという注釈が付かなければ、1900年以降の近代野球では3人目。連続記録では史上初だが、5度の200安打100得点30盗塁は球聖タイ・カッブ以来89年ぶりとなった。また、チャック・クラインの連続5シーズン通算1118安打を抜いたが、ジョージ・シスラーの5シーズン通算1137安打はあと一歩のところで抜けなかった(ジョージ・シスラーは目の病気で1シーズン丸々プレーしてないため連続記録ではない)。
- 2006年
- 6月、日米通算2500本安打を達成。7月26日に戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274本安打を抜いた。8月16日にロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超え、8月29日にはメジャー通算400マルチヒットを928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。9月7日に日米通算800マルチヒットも達成、9月9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本安打を超え、その一週間後の9月16日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーリーグ史上3人目となる6年連続200安打を達成した。なおイチローはこの試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、アメリカンリーグ新記録も達成。また満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を残し、盗塁成功率.957を記録した。1シーズンの連続盗塁成功は39まで伸ばしたが、ビンス・コールマンの1シーズンのメジャー記録である44連続盗塁成功には及ばなかった。この年、メジャー通算100敬遠と日米通算200敬遠も達成した。
- 2007年
- 5月3日、41連続盗塁成功を達成して、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新(従来の記録は、ティム・レインズの40)。5月16日にアメリカンリーグ記録を45まで伸ばす。5月18日の対エンゼルス戦、7回裏に先頭打者のイチローがヒットで出塁。この場面でベンチからヒットエンドランのサインが出て、イチローはヒットエンドランのタイミングでスタートを切るが、2番打者のホセ・ビドロがサインを見落として投球を見送り、ヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになりイチローのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録は「45」でストップした。ビンス・コールマンの連続盗塁成功50のメジャー記録更新はできなかった。
- 同年7月11日、7年連続で出場したオールスターゲームにおいてサンディエゴ・パドレス所属のクリス・ヤングからオールスター史上初のランニングホームランを放った。同試合ではこのランニングホームランを含めて3安打を記録し、オールスターMVPを受賞した。9月3日のニューヨーク・ヤンキース戦ではロジャー・クレメンスから本塁打を放ち、7年連続200安打(史上3人目)を達成。シーズンを終えての連続記録を「打率3割」「200安打」「100得点」「30盗塁」「オールスター選出」「ゴールドグラブ賞」について7年連続と伸ばした。このうち「100得点」「30盗塁」の同時達成という時点で史上唯一の快挙である。またシーズン途中でコンバートなくライトとセンター両方でゴールドグラブ賞を獲ったのは、アンドレ・ドーソン以来。
- 2007年シーズンは、マグリオ・オルドニェス(デトロイト・タイガース)との激しい首位打者争いに敗れはしたものの、リーグ2位の打率.351を記録(21世紀以降のアメリカンリーグで、打率.350以上で首位打者になれなかった打者はイチローが初めてである)。またリーグ9位の出塁率.396に加え、リーグ2位(125打席以上)の得点圏打率.397、リーグ1位の二死得点圏打率.431、さらに満塁では13打数8安打、打率.615という驚異的な勝負強さを発揮し、2001年以来2度目となるシルバースラッガー賞を受賞した。この年ゴールドグラブ賞とシルバースラッガー賞を同時に受賞した選手は、アメリカンリーグではイチローとプラシド・ポランコ(デトロイト・タイガース)のみ。
2007年シーズン終了時点での日米通算安打は2870となり、張本勲の持つ日本プロ野球記録の3085安打まで残り215となっている(もっとも、張本自身は「彼の記録は日米通算。参考記録でしかない。日本記録保持者はあくまで自分」などと、認める素振りを見せていない)。
[編集] 世界大会
「オリンピックは、あくまでもアマチュアのための大会。自分はプロ」という考えや[3]、国際試合では両耳にガードがあるヘルメットが義務づけられるため格好悪いとの考えでオリンピックなどへの参加を断り続けていたが、2006年に初開催されたワールド・ベースボール・クラシックには大リーグ主導によるプロの初の世界大会とあって進んで参加した。ワールド・ベースボール・クラシックでは1次リーグこそ本調子でなかったものの、2次リーグ、準決勝、決勝と試合が進むごとに調子を上げ、アメリカ戦では先頭打者本塁打を記録、決勝のキューバ戦では中押しのきっかけとなる2塁打と1点差に詰め寄られた後に突き放すタイムリーヒット、マリナーズでは考えられない感情・闘志むき出しのプレイなど、日本の中心選手として活躍し、チームの優勝へ貢献した。最終的に一次予選から決勝まで全ての試合で安打を記録し、打率.364(33打数12安打)、1本塁打、5打点、5盗塁、7得点、4四球を残して外野手部門のベストナインに選ばれた。
[編集] 選手としての特徴
[編集] 打撃
広角に打ち分ける類稀なバッティング技術(イチローは基本的には、変化球を打ちにいき、直球を”つまりながら”内野と外野に落とすというバッティング)を持っていることに加え、左打者でスイングから走り出すまでの一連の動作も早い分一塁への到達時間が短い。これは、イチローのバッティングフォームが「打った後に、すでに右足が一塁を向いている」ためである。そのため、他の選手ならばアウトになる内野ゴロが安打になることが多い(2001年の内野安打数は61本でメジャー歴代1位)。また、このような内野安打は「狙って打っている」(NHKイチロースペシャル)。以上のことから、毎年高打率を記録している。現役プロ野球選手としては小柄な方で、本塁打数も歴代シルバースラッガー賞受賞者の中でも最も少ない部類に入る。ただ本塁打に関しては、前マリナーズ監督のボブ・メルビンがESPNに『(試合前の)彼の打撃練習を見てみなよ。いつも山ほど(ホームランを)打っているよ』と語っているように、ウェイド・ボッグスと同じくあえて試合では単打狙いに徹していると言われる[4]。また木本大志は、イチローが内野安打を打った時と本塁打を打った時では軸の位置に違いがあることを、コラム内にて言及している[5]。イチロー自身もニューヨーク・タイムズ紙に『僕にとって、フライを打ってから”あぁ、多分ホームランになるな”と思うシチュエーションになった事は一度もない』と語っていることから、本塁打は意図的に打っている事が汲み取れる[6]。実際、それは記録上にも現れており、日本時代の1000本安打目を始め節目の安打は本塁打が多く、メジャーでの通算本塁打のうち3分の1以上が初回先頭打者本塁打である。また、2007年のオールスター後のインタビューでは「(打率が)2割2分でいいなら、40本(打てる)と言っておきましょう」と冗談混じりながら語っている[7]。
四球を選ばず[8]積極的に打ちにいく(四球をもらうことを考えるとそれが隙になってヒットを打つ意識が薄れて打てなくなってしまうからとNHKスペシャルで発言)タイプで、三振・四球とも極めて少ない。2005年は年間最多安打記録を更新した翌年だけに打率4割を期待する声が強かったが、ニューヨーク・タイムズ紙はイチローのバッティングスタイルを考慮し、4割の大台達成よりもむしろジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録を塗り替える方が現実的との見解を示した[9]。ただし敬遠の数はとても多く、年10回以上されることが多々ある。通算でも2008年現在で200個を超えている。日本人で200個以上の敬遠を受けたのは、王と張本、長嶋だけである。
打席に入ると背筋を伸ばし、やや後傾気味に重心を取り、右手でバットを垂直に揃え、左手を右上腕部に添える動作を、1996年シーズンから必ず行うようになった。これは眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する動体視力を一時的に上げる効果があるとも言われている(NANDA!?より)。この特徴的な動作と、バットコントロールの巧みさからイチローのバットはメジャーで「Magic Wand(魔法の杖)」と称される[10]。メジャーリーグ移籍直後は日本より数段速いと言われるメジャーの直球に対応するため、ハイキックをやめてオープンスタンスを採用するなど、止めどなく変化を続けるバッティングフォームであるが、2004年シーズン中である6月24日の夜に行ったフォーム改造で、『小さい頃に野球をやっていた時に感じたのと、近い感覚が戻ってきた』と語っている[11]。ちなみにこのシーズン、メジャー記録となる262安打を放っている。
2001年のメジャーデビュー当初、元マリナーズのチームメイトだったジョン・オルルッドはイチローの打撃について5通りの打ち方をすると評した。1つ目はランニング・ワン・ハンダー(半分走りながら片手で打つ)、2つ目はザ・リーナー(ボールに寄りかかりながら打つ)、3つ目はフィストカフ・スイング(なぐりつけるように流し打つ)、4つ目はチップ・スイング(ゴルフのチップショットのように打つ)、5つ目はパワースイング(力で引っ張るバッティング)[12]。
[編集] 守備
2006年に選手が選ぶ強肩な外野選手で48%の得票(米スポーツ専門誌『スポーツ・イラストレイテッド』webサイト9月13日付)を占める強肩に加え、レーザービームと称されるコントロールのいいスローイングのため、他球団からは最もタッチアップしにくい外野手に挙げられている。そのコントロールの良さは、マリナーズのCMのメイキング映像で、外野からキャッチャーミット目掛け、指定したコースにカーブを投げ見事ストライクになっている事からも窺える。また記録には出ないファインプレーも魅力のひとつになっている。この守備はメジャーでも高い評価を受け、ゴールドグラブ賞を2001年~2007年の7年連続で受賞している。広範囲な守備と強肩のため、イチローの守備範囲におさまる打球は三塁打が二塁打になったり、犠牲フライが外野フライになったりする。この事からイチローの守備する右翼はその背番号と超常現象がよく確認されるというネバダ州の米軍秘密地区にちなみエリア51と呼ばれていた。
なお、前述の『レーザービーム』は2001年4月13日のオークランド・アスレチックス戦で、ライトヒットで三進を試みた一塁走者のテレンス・ロングを、正確且つ力強い送球で三塁補殺した際、実況アナウンサーであったリック・リズが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。尚、日本では『レーザービーム』と言う表現が定着しているが、アメリカにおいては特段そのように呼ばれる事はない。インパクトのある送球を全般的に"the Throw"と表現することが多く、この時の送球もそう表現されている[13]。
2005年5月2日のロサンゼルス・エンゼルス戦の7回表で、ギャレット・アンダーソンが打ったホームラン性の球を、フェンスをよじ登ってキャッチした。スパイダーマンのように壁を駆け上がって取ったとアメリカメディアが報道したため[14]、「スパイダーマンキャッチ」と称された。
高校時代は投手をしていたが、登板のない時などは外野手も守っていた。夏の甲子園に出場した際には左翼手を守っている。プロ入り後、210安打を放った1994年からは本西厚博(後に谷佳知)、田口壮と共に当時日本一といわれたオリックス外野陣の一翼を担った。日本時代は主に右翼手を務めたものの、中堅手を任されることも多々あり、ひとつのポジションに定着することはなかった(1998年は左翼手で20試合以上スタメン出場している。またオールスターゲームや日米野球戦でも左翼を守ることがあった)が、1999年シーズン以降は右翼手に固定された。メジャー移籍後もほとんどの試合で右翼手を守っており、休養時などはDHとして出場することもある。2006年シーズン途中から中堅手にコンバートされ、2007年は中堅手でもゴールドグラブ賞を受賞している。
[編集] 走塁
1995年と2001年に最多盗塁のタイトルを獲得し、メジャーでは毎年30盗塁以上を記録している。盗塁は成功率を重視し、盗塁数を増やすことはそれほど重視していないとコメントしており、特に2006年頃からはクイックモーションや警戒の不充分な相手投手を選んで盗塁するスタイルをとっている。またマリナーズ首脳陣からは、自分の判断で自由に盗塁できる権利(いわゆる『グリーンライト』)を与えられている[15]。
怪我のリスクを最小限にする目的から、ヘッドスライディングは全くしない。一塁へのヘッドスライディングは最も嫌っており、これを行ったソフトバンクホークスの川崎宗則に対して苦言を呈し、話題になった。[16][17]。盗塁や進塁の際、送球の方が速く間に合わないと判断した時には、トップスピードでのスライディングから急停止して野手のタッチのタイミングを外す高度なフェイントを見せることがある。2005年5月15日のボストン・レッドソックスとの試合では、本塁突入の際ホームベース前で急停止した後、外野からの返球を受けブロックの体制に入っていた捕手のダグ・ミラベリの背中を飛び越そうとするプレーを見せた。
[編集] 評価
アメリカの野球専門誌「ベースボール・アメリカ」に掲載された大リーグ30球団の監督による『Best Tools』投票で、イチローは2003年にベスト・ヒッター、ベスト・バンター、ベスト・ベースランナー、最速ベースランナー、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手、最もエキサイティングな選手の7部門でトップに輝いた[18]。2006年の投票では、最もエキサイティングな選手、最もバントが上手い選手で1位、最高の打者、最高の走者で2位、最も俊足のベースランナーで3位に選出された[19]。更に2007年の投票でも、ベスト・ヒッター、ベスト・バンター、ベスト・ベースランナー、最もエキサイティングな選手、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手で1位に、最速ベースランナーで2位に選ばれるなど、メジャーリーグの監督から高い評価を受けている[20]。2008年のメジャーリーグスカウトによる投票でも、ベスト・ヒッター、ベスト・バットコントロール、守備部門ベスト外野手、ベスト強肩外野手、ベスト・ベースランナーの5部門で1位に、ベスト・バンター、最速ランナー、ベストスティーラーにも2位に選ばれるなど高評価を受けている[21]。 「スポーツ・イラストレイテッド」誌では「イチローを首位打者候補に予想しないのは、タイガー・ウッズを優勝候補から外すのと同じ」と評した。
またニューヨーク・ヤンキースの捕手・ホルヘ・ポサダはイチローをメジャーリーグでもトップ5に入る選手だと語り、同チームの王建民は試合開始前にイチローのサインを3つもお願いしている。同僚のジャロッド・ワッシュバーンは『(イチローは)何でも出来るから、もう何をやっても驚かない』『けど(手の内を)全部見たと思っても、また違う何かをやってみせる』と寸評している[6]。
[編集] 人物・エピソード
- 妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。
- 名前は一朗だが長男ではなく次男である。
- 愛犬は、柴犬の一弓(「いっきゅう」と読む。自身の一朗の一と妻の弓子の弓を一文字ずつ取って名付けたそうである)。
- 偏食家として有名である。独身時代は牛タンを好物とし、神戸市内の牛タン専門店の常連となっていた[要出典]。
- 大リーグに行ってからの7年間、シアトルにいる際の昼食はほとんど弓子夫人手作りのカレー(2008年1月2日NHK放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」より)。
- 若手時代は今と違い、むしろマスコミに対して好意的でバラエティ番組にもよく出演し、明るく喋っていたが、永谷脩が事実無根の文章を書いて発表したことによって急変した[要出典]。
- オリックスで同僚となった柳沢裕一や、二軍時代イチローと共に苦労していた同い年の林孝哉(当時・福岡ダイエー)とは大変仲が良いことでも知られる[要出典]。
- 普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、糸井重里との対談で、「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々の事を考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。また「オフになってからは『イチローは何を考えているのだろう?』という質問に答えることにしています」との言葉通り、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応えている。 同対談では「一時的な注目ではなく、何年も僕に興味を持ってくれる人達とは、もう一生の付き合いだと思っているんです」とも語っている。
- 野球とは違う分野で刺激を受けている3人として、田村正和、矢沢永吉、桜井和寿(Mr.Children)の名を挙げている(週刊プレイボーイ内コラムにて発言)。
- シンガーソングライターの椎名林檎は、自らが作詞した『スーパースター』という楽曲について、イチローをイメージして制作したと発言している(「ICHIRO MONDOW」や「僕らの音楽-OUR MUSIC-」の番組内にて)。
- 1996年から2004年まで、神戸総合運動公園野球場にイチロー・シートを毎年20席(約140万円分)設置し、神戸の野球少年を招待していた。
- 1998年には出身地の愛知県に社会福祉のために1000万円、兵庫県には震災復興のため1000万円を寄付。2000年には豪雨によって被害を受けた愛知県にトレーナー、パーカーを合計1000枚、Tシャツ500枚(計1300万円相当)を贈るなど慈善活動にも熱心である[22]。
- デレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、アルバート・プホルス、NBA選手のブレント・バリーなどといった名立たる一流スターとの交流があり、それぞれプライベートで食事をする仲である。
- ICHIRO-VERSUS(2008年3月19日放送)の”憧れ”という問いに「ドラゴンズのユニフォームを着た全ての選手」と答えていることから中日ドラゴンズに対しての幼い頃からの憧憬を今も尚、持ち続けていると思われる(子供の頃の好きな野球選手に田尾安志を挙げている)。しかし、2007年に「週刊プレイボーイ」のインタビューで、「もし日本の球界に復帰するなら読売ジャイアンツ以外はありえない」という発言もしている。これは「常時優勝争いの出来る球団に在籍したい」という気持ちからである。
- 一方でイチローはプロ入り以来「一番会いたいのは前田さん」と話していた。1994年にオールスターゲームに出場した際、広島東洋カープの前田智徳との初対面を果たし、握手を交わしたイチローは満面の笑みを浮かべていた。
- 高校時代に怪我が原因で投手から野手に転向した。この事からか投手というポジションへの強い憧れを公言しており、『週刊ベースボール』で組まれた松井秀喜との対談の席で松井から「今でもピッチャーに未練はあるんですか?」と尋ねられた際には「それはもう、むちゃくちゃある」と答えている。
- 上記の対談で明らかになった事だが、高校時代から両者には接点があり、両者共に一軍メンバーとして対戦している(イチローが一学年上にあたる)。これは愛工大名電高校と星陵高校両校の野球部には長年交流があり、年に数回合宿も兼ねた練習試合を行っていたため。なおこの時、イチローは当時一年生にして四番を任されていた松井に「すごく飛ばすらしいじゃない。もう(ホームランを)何本打ってるの?」と尋ねたところ、松井に「10本くらいですかね」とさらりと返答され「すごい奴もいるもんだな」と内心驚いたという。一方松井は上記のエピソードは憶えていなかったようだが、星陵高校の先輩部員が「あいつ(イチロー)すごいな。絶対プロになるよ」と驚嘆していた事は鮮明に憶えていると語っている。
[編集] オリックス時代
- 1992年のジュニアオールスターでは同点の8回に代打決勝ホームランを放ち、MVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付した。2軍選手でこのことをしたのは日本プロ野球史上初である。
- ルーキー時代の1992年に.366の高打率でウエスタン・リーグの首位打者を獲得している。そのため、1993年をのぞいて日本球界に所属していた全ての年に首位打者を獲得していることになる。1993年はウエスタン・リーグで打率.371を残したが、1軍半であったため、規定打席に少し足りず、規定打席に達していれば首位打者になる可能性があった(1993年のウエスタン・リーグ首位打者の打率は.346)。
- 1993年のオフにハワイ・ウィンターリーグでヒロ・スターズと言うチームで優勝し、リーグ初のMVPに選ばれた。カウアイのヴィディンハ・フィールドで推定飛距離500フィート(152メートル)の本塁打を打った。地元では「新幹線ホーマー」と呼ばれている[23]。
- 1996年のオールスター戦の9回2アウト、打者松井秀喜(当時巨人)のところで、パ・リーグの仰木彬監督は、スピードガンコンテストで146kmをマークしたことのあるイチローをピッチャー起用。イチロー対松井の夢の対決を期待したファンが大歓声を送った。ところが、セ・リーグの野村克也監督が松井に「どうだ?」と聞いたところ、松井が「勘弁してください」と答えたため、代打高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を送り、結果はショートゴロだった。これはオールスターをファンにとっての最大のエンターテイメントと考える仰木監督と、選手にとっての栄誉ある舞台とみる野村監督との考え方の食い違いによるもので、野村監督は野手をピッチャーとして送り込むのは、対戦する打者にとって最大の侮辱ととらえていた。後日これに関して野村監督は(イチローのピッチャー起用について)「ふざけている」とコメントした。
- このエピソードを反映してか、翌年にナムコ(現・バンダイナムコゲームス)から発売された「ファミスタ64」において、オールスターモードでイチローをピッチャーとして登板させるという裏技が搭載された(同時期にピッチャー・バッターの二刀流として話題になった嘉勢敏弘も同様の裏技が搭載された)。
- 上記の事例に関してイチロー本人は長年沈黙を守っていたが、比較的近年になって「松井とマウンド上で対戦できるしびれる場面に水を差されて、一気に白けた」と当時の胸の内を明かしている。
- 1999年のシーズン前に星野伸之、戎信行と一緒にシアトル・マリナーズの春季キャンプに参加した[24] 。そのときに食べたスペアリブのせいで、体調を崩して結果が思うように出せなかった。それからは口に入れるものは疑うようにしている[25]。
- 2000年5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。
- 2000年8月、故障により打率.3873の状態で戦線離脱し、そのままシーズンを終えたが、もしあと1打席に立って1本安打を放っていたら、打率.3888となり、1986年のランディ・バースが持つシーズン歴代最高打率(.3885)を超えていた。
- 現在オリックスでは背番号51は誰もつけていない。また、その後のイチローの功績から考えると、現役選手を引退した場合、51番が永久欠番になるのは確実と見られている。
[編集] マリナーズ時代
- 2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。
- 2006年のWBCでは、疑惑の判定で敗れたアメリカ戦後に決起集会を開いてチームを鼓舞した[26]。
- 2006年4月28日に日本で発売された、フランスの最高級ファッション誌『ロフィシェル』日本版6月号に、モデルとして出演した。
- 2007年にESPNが行った「マリナーズの顔は誰?」というアンケートで投票総数3万4166票中、96%の票を集め1位に選ばれた[27]。
- 2007年11月27日、写真入りの広告を無断で使用されたとして、台湾の広告代理店に損害賠償を求めていた訴訟の控訴審判決が、台湾高等法院であり、同院は「台湾ではヤンキースの王建民投手(台湾出身)の知名度に及ばない」などとして、500万台湾ドル(約1700万円)の支払いを命じた1審判決を大幅に減額し、100万台湾ドル(約340万円)の支払いを言い渡した[28]。
- バットやグローブを『道具ではない。自分の一部。自分の体の一部』だと語るほど、使う野球用品を非常に大切に扱っている[13]。また、他の選手の野球用具は絶対に触らない。チームメイトの城島健司いわく『質感や重さが、手に残ることが嫌』ということだ。
- 車好きとしても有名で、日本ではCMに出演していた日産自動車のインフィニティQ45やシーマ、1000万円以上かけてチューンしたマーチなどに乗っていた[29]。アメリカでは同じく日産のインフィニティやポルシェ・カレラGT、オールスターMVPの副賞として贈呈されたシボレー・タホ・ハイブリッドなどを所有している。
- オリックスに在籍していたこともあってか吉本新喜劇のファンで、シーズンオフにはNGKに観覧に行っている。川畑泰史が座長に就任した時は番組の中でコメントを寄せた。2007年のオフには川崎宗則と一緒に舞台を観覧した。
- 吉本新喜劇のファンであることは上記にあるが、試合前によく「ダウンタウンのごっつええ感じ」のDVDを観てリラックスしているのだという。これは親友である義田貴士がジャンクスポーツに出演した際、同番組の司会者でもあるダウンタウンの浜田雅功に明かしたエピソードである。
- ユンケル専用ケースを特注で作り、遠征時に必ず持って行く(2008年1月2日NHK放送「プロフェッショナル 仕事の流儀」より)。
- 米国のスポーツ専門誌「スポーツ・イラストレーテッド」が発表した『スポーツ選手長者番付』によると、2006年度の年収は2250万ドル、2007年度の年収は2400万ドルである[30]。
[編集] 記録など
- 日本時代のオールスターでは、初出場の1994年第1戦から2000年第3戦まで連続フルイニング出場しており、1996年の第2戦以外、すべての試合で安打を記録している。また1995年は前半戦を十冠王(安打、本塁打、打点、盗塁、塁打、得点、死球、得点圏打率、出塁率、長打率)で折り返した。このことを同年のオールスター第1戦で実況が話題に出し、これを聞いた解説の江川卓は笑っていた。
- 日本での通算打率は.353を誇っているが、4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには381打数足りない。しかし将来日本に復帰した場合、381打数で3安打すれば通算打率は.3203(4000打数1281安打)となり、通算打率1位のレロン・リー(.3200)を上回る計算になる。
- 得点圏に強く、日本時代の通算得点圏打率.374は歴代1位。日本では通算118本の本塁打を記録しているが、このうち満塁本塁打は8本あり、14.7本に1本の割合は通算満塁本塁打が7本以上の選手の中では歴代1位。メジャーでは通算得点圏打率.351、通算2死得点圏打率.366、通算満塁打率.473、通算満塁長打率.703と、それぞれ現役1位の記録を残している。また左打者ながら左投手を得意にしており、メジャーでの対左投手通算打率は.354を記録している(いずれも2007年シーズン終了時点)。
- 5月になると打撃の調子が上がる傾向にあり、メジャーでの5月通算打率は.370。これは300打席以上のメジャー現役選手中、トップの記録である(2007年シーズン終了時点)。
- 日米通算のため参考記録ながら、2004年5月に30歳212日で2000本安打を達成している。これは榎本喜八の31歳229日を抜いて日本人最年少記録であり、1465試合での到達は川上哲治の1646試合を抜いて日本人最速記録である。
[編集] ドラマ出演
- 『古畑任三郎 ファイナル』第2話(2006年)
- 主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した。それまでの古畑作品で、犯人役を本人が演じたのはSMAPのみであった。イチロー本人も古畑任三郎シリーズの大ファンと公言しており、プロデューサーと思惑が一致したため、出演に至ったとされている(出演ギャラは古畑任三郎DVD-BOXであった)。
- シリーズの脚本家である三谷幸喜はエッセイや2008年の再放送時のコメント映像中で、出演が決定しイチロー本人と対面した際に、殺人犯役でそのまま「イチロー」の名前を使うのはためらわれるので「ハチロー」のような役名や別の職業にしてはどうかと提案したが、イチロー本人が「自分を演じたい」と熱望したため、そのまま「シアトル・マリナーズのイチロー」にした、と語っている(ただしあくまでフィクションである事を示すため、レギュラーキャラのひとりの義弟であるという設定にされている)。キャラクターについても「嘘はつかない」「フェアプレーを好む」「残虐な殺し方はしない」などイチロー本人の要望やイメージが反映されており、私利私欲でなく恐喝に苦しむ義兄を救うために殺人を犯す一方で、アリバイ工作や偽証を拒んで古畑に不敵に頭脳戦を挑むという役どころとなっている。撮影に当たっては台詞を完璧に覚えてNGはほとんど無かったと言われており、主演の田村正和は「役者の鑑」と評した。視聴率は27%で、12年続いたシリーズの中では7番目に高いものとなった。
- イチローがチームのオフィシャル雑誌Marinersに語ったところによると、2004年に最多安打の記録を達成したオフシーズンに初めて野球以外で何かしてもいい気になったという。2005年の春季キャンプを迎える直前の2月に神戸ホテルで初めて脚本に目を通し、本人の話では冗談まじりにみすぼらしい演技で関係者に引き取ってもらい、面白い話が来た程度で終わらせようと考えたそうであるが、いざゴーサインが出た時は番組のレベルを考えてかなり緊張したと語っている。シーズン終了後の10月に東京ドームの駐車場で撮影が開始。今までやったことのない世界で、その世界の一流の出演者と共演し、本当に自分が番組のレベルにあった演技ができるのかどうか考えてとにかく怖かったと語っている。また、後日インタビューで、守備に就いている時に台詞の練習をしていたことや(グラブで口を隠して練習していた)、2005年シーズンの成績が他の年に比べて下がったことを引き合いに出して、「台詞の練習をしていたせい」だと冗談交じりに語っている。
- イチローは以前にも「走れ!イチロー」(2001年・監督大森一樹)で本人役として映画出演を果たしているが台詞は無かったため、台詞をしゃべるのは本作が初めてだった。
[編集] 略歴
- 1990年 全国高等学校野球選手権大会に左翼手として出場。一回戦敗退(対天理戦)。
- 1991年 選抜高等学校野球大会に投手として出場。一回戦敗退(対松商学園戦)。
- 1992年 愛知工業大学名電高等学校(愛工大名電)からドラフト4位でオリックスブルーウェーブに入団。
- 1992年 ジュニアオールスターゲームで最優秀選手賞(100万円)を獲得。
- 1994年 登録名を「イチロー」に変更。日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成。最終的に210安打を記録。
- 1994年 - 2000年 パ・リーグの首位打者を獲得。7年連続は日本記録。
- 2000年 ポスティングシステムを利用しメジャーリーグのシアトル・マリナーズへ移籍。
- 2001年 ア・リーグ首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞・新人王、MVP獲得(新人王以外全て日本人初)。シアトル・マリナーズのシーズン116勝(メジャータイ記録)での地区優勝に貢献する。また、日本文学振興会により、菊池寛賞を受賞。
- 2004年5月21日(現地時間)日米通算2000本安打達成。
- 2004年8月26日(現地時間)メジャー史上初の入団初年度からの4年連続200本安打達成。
- 2004年9月2日(現地時間)日本人野手史上初となるア・リーグ月間MVP野手部門に選出。
- 2004年10月1日(現地時間)ジョージ・シスラーのメジャーリーグ年間最多安打記録(257安打)を84年ぶりに更新する258安打を達成。国内だけでなくCNN・Yahoo!・USAtodayなど多数のニュースのトップスポーツ記事に。
- 2004年10月3日(現地時間)メジャー史上最高記録の年間262安打で2004年のシーズン終了。
- 2004年 打率.372で3年ぶり2度目のア・リーグ首位打者を獲得。他には2度目のリーグ最多敬遠、史上8人目となるCommissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)など多数の高い評価を得る。しかし、まだ現役であるという理由で国民栄誉賞は辞退した。
- 2005年6月14日(現地時間)1900年以降3番目の速さでMLB通算1000本安打達成。
- 2005年11月 5年連続ゴールドグラブ獲得。
- 2006年6月7日(現地時間)日米通算2500本安打達成。
- 2006年11月 6年連続ゴールドグラブ獲得。
- 2007年7月11日オールスター史上初のランニングホームランを含む3打数3安打2打点の活躍で、オールスターMVPを受賞。
- 2007年7月29日(現地時間)アル・シモンズ(1040試合)、ジョージ・シスラー(1048試合)に次ぐ1900年代以降3番目の速さ(1060試合)でMLB通算1500本安打達成。
- 2007年9月3日(現地時間)7年連続200安打達成。
- 2007年 7年連続ゴールドグラブ、2度目のシルバースラッガー賞受賞。
- 2008年6月13日(現地時間)日米通算500盗塁達成。
- 2008年6月16日(現地時間)8年連続30盗塁達成。
[編集] 年度別打撃成績
年 度 |
チ 丨 ム |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992 | Orix | 40 | 99 | 95 | 9 | 24 | 5 | 0 | 0 | 29 | 5 | 3 | 2 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 11 | 0 | .253 | .284 | .305 | .589 |
1993 | 43 | 67 | 64 | 4 | 12 | 2 | 0 | 1 | 17 | 3 | 0 | 2 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 2 | .188 | .212 | .266 | .478 | |
1994 | 130 | 616 | 546 | 111 | 210 | 41 | 5 | 13 | 300 | 54 | 29 | 7 | 7 | 2 | 51 | 8 | 10 | 53 | 3 | .385 | .445 | .518 | .963 | |
1995 | 130 | 613 | 524 | 104 | 179 | 23 | 4 | 25 | 285 | 80 | 49 | 9 | 0 | 3 | 68 | 17 | 18 | 52 | 7 | .342 | .432 | .544 | .976 | |
1996 | 130 | 611 | 542 | 104 | 193 | 24 | 4 | 16 | 273 | 84 | 35 | 3 | 0 | 4 | 56 | 13 | 9 | 57 | 8 | .356 | .422 | .504 | .926 | |
1997 | 135 | 607 | 536 | 94 | 185 | 31 | 4 | 17 | 275 | 91 | 39 | 4 | 0 | 5 | 62 | 14 | 4 | 36 | 10 | .345 | .414 | .519 | .933 | |
1998 | 135 | 558 | 506 | 79 | 181 | 36 | 3 | 13 | 262 | 71 | 11 | 4 | 0 | 2 | 43 | 15 | 7 | 35 | 21 | .358 | .414 | .518 | .932 | |
1999 | 103 | 468 | 411 | 80 | 141 | 27 | 2 | 21 | 235 | 68 | 12 | 1 | 0 | 5 | 45 | 15 | 7 | 46 | 5 | .343 | .412 | .572 | .984 | |
2000 | 105 | 459 | 395 | 73 | 153 | 22 | 1 | 12 | 213 | 73 | 21 | 1 | 0 | 6 | 54 | 16 | 4 | 36 | 3 | .387 | .460 | .539 | .999 | |
NPB通算 | 951 | 4098 | 3619 | 658 | 1278 | 211 | 23 | 118 | 1889 | 529 | 199 | 33 | 9 | 27 | 384 | 98 | 59 | 333 | 59 | .353 | .421 | .522 | .943 | |
2001 | SEA | 157 | 738 | 692 | 127 | 242 | 34 | 8 | 8 | 316 | 69 | 56 | 14 | 4 | 4 | 30 | 10 | 8 | 53 | 3 | .350 | .381 | .457 | .838 |
2002 | 157 | 728 | 647 | 111 | 208 | 27 | 8 | 8 | 275 | 51 | 31 | 15 | 3 | 5 | 68 | 27 | 5 | 62 | 8 | .321 | .388 | .425 | .813 | |
2003 | 159 | 725 | 679 | 111 | 212 | 29 | 8 | 13 | 296 | 62 | 34 | 8 | 3 | 1 | 36 | 7 | 6 | 69 | 3 | .312 | .352 | .436 | .788 | |
2004 | 161 | 762 | 704 | 101 | 262 | 24 | 5 | 8 | 320 | 60 | 36 | 11 | 2 | 3 | 49 | 19 | 4 | 63 | 6 | .372 | .414 | .455 | .869 | |
2005 | 162 | 739 | 679 | 111 | 206 | 21 | 12 | 15 | 296 | 68 | 33 | 8 | 2 | 6 | 48 | 23 | 4 | 66 | 5 | .303 | .350 | .436 | .786 | |
2006 | 161 | 752 | 695 | 110 | 224 | 20 | 9 | 9 | 289 | 49 | 45 | 2 | 1 | 2 | 49 | 16 | 5 | 71 | 2 | .322 | .370 | .416 | .786 | |
2007 | 161 | 736 | 678 | 111 | 238 | 22 | 7 | 6 | 292 | 68 | 37 | 8 | 4 | 2 | 49 | 13 | 3 | 77 | 7 | .351 | .396 | .431 | .827 | |
MLB通算 | 1118 | 5180 | 4774 | 782 | 1592 | 177 | 57 | 67 | 2084 | 427 | 272 | 66 | 19 | 23 | 329 | 115 | 35 | 461 | 34 | .333 | .379 | .437 | .816 | |
日米通算 | 2069 | 9278 | 8393 | 1440 | 2870 | 388 | 80 | 185 | 3973 | 956 | 471 | 99 | 28 | 50 | 713 | 213 | 94 | 794 | 93 | .342 | .398 | .473 | .872 |
[編集] 年度別守備成績
年 度 |
チ 丨 ム |
守 備 位 置 |
試 合 |
先 発 出 場 |
守 備 回 |
守 備 機 会 |
刺 殺 |
補 殺 |
失 策 |
併 殺 |
守 備 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | SEA | RF | 152 | 148 | 1314.2 | 344 | 335 | 8 | 1 | 2 | .997 |
2002 | CF RF |
3 150 |
3 146 |
24.0 1284.1 |
8 336 |
8 325 |
0 8 |
0 3 |
0 0 |
1.000 .991 |
|
2003 | RF | 159 | 156 | 1367.0 | 351 | 337 | 12 | 2 | 4 | .994 | |
2004 | 158 | 158 | 1405.1 | 387 | 372 | 12 | 3 | 2 | .992 | ||
2005 | 158 | 158 | 1388.1 | 393 | 381 | 10 | 2 | 2 | .995 | ||
2006 | CF RF |
39 121 |
38 120 |
338.0 1062.2 |
116 260 |
114 250 |
1 8 |
1 2 |
0 3 |
.991 .992 |
|
2007 | CF | 155 | 155 | 1339.1 | 433 | 424 | 8 | 1 | 3 | .998 | |
MLB通算 | CF RF OF |
197 898 1095 |
196 886 1082 |
1701.1 7820.1 9521.2 |
557 2071 2628 |
546 2000 2546 |
9 58 67 |
2 13 15 |
3 13 16 |
.996 .994 .994 |
- 太字はリーグトップ。赤太字はリーグ記録[31]。
[編集] タイトル・表彰・記録
[編集] タイトル・表彰
NPB
- シーズンタイトル
- MVP:3回(1994年 - 1996年)
- 正力松太郎賞:3回(1994年 - 1995年、2004年)※2004年は特別賞
- 首位打者:7回(1994年 - 2000年)
- 打点王:1回(1995年)
- 盗塁王:1回(1995年)※打点王と盗塁王の同時獲得はNPB史上初
- 最多安打:5回(1994年 - 1998年)
- 最高出塁率:5回(1994年 - 1996年、1999年 - 2000年)
- ベストナイン:7回(1994年 - 2000年)
- ゴールデングラブ賞:7回(1994年 - 2000年)
- 日本シリーズ優秀選手賞:1回(1996年)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:3回(1995年 - 1997年)
- 月間タイトル
- パ・リーグ月間MVP:10回(1994年6月・8月、1995年6月、1996年8月、1997年6月、1998年6月・7月、1999年5月・7月、2000年7月)
MLB
- シーズンタイトル
- 月間・週間タイトル/その他
- アメリカンリーグ月間新人MVP:4回(2001年4月・5月・8月・9月)
- アメリカンリーグ月間MVP:1回(2004年8月)
- アメリカンリーグ週間MVP:2回(2004年8月2日 - 8月8日、2005年5月29日 - 6月4日)
- オールスターMVP:1回(2007年)
- コミッショナー特別表彰(2004年)
その他
- 菊池寛賞(2001年)
- WBC
- 2006年WBCベストナイン(外野手)
- 紫綬褒章(2006年WBC日本代表としてチームで受賞)
[編集] 特筆記録
NPB
- NPB記録
- シーズン歴代最多安打:210(1994年)
- シーズン猛打賞:26回(1996年)
- シーズン打率.370以上:2回(1994年、2000年)※.360以上ではタイ記録
- シーズン打率.350以上:4回(1994年、1996年、1998年、2000年)
- シーズン打率.340以上:7回(1994年 - 2000年)
- 連続出塁試合:69(1994年5月21日 - 8月26日)
- 連続打席無三振:216(1997年4月16日 - 6月24日)
- 20試合以上連続安打:4回(1994年2回、1999年、2000年)
- 1試合4二塁打(1994年9月11日)※タイ記録
- 6年連続満塁本塁打(1995年 - 2000年)※タイ記録
- 5年連続単打数リーグ1位(1994年 - 1998年)
- 通算1000本安打史上最速達成:757試合目(1999年4月20日)
- 通算盗塁成功率:.858(199盗塁33盗塁死)
- 月間MVP:10回
- 全イニング出場首位打者(1995年)※1969年の王貞治に次ぐ史上2人目
- 5年連続全試合出場首位打者(1994年 - 1998年)
- 7年連続打率.340以上首位打者(1994年 - 2000年)
- 7年連続首位打者(1994年 - 2000年)※通算7回受賞はタイ記録
- 3年連続シーズンMVP(1994年 - 1996年)※タイ記録
- 3年連続IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞(1995年 - 1997年)※タイ記録
- 2年連続正力松太郎賞(1994年 - 1995年)
- オールスター通算打率:.394(71打数28安打)※50打数以上対象
- オールスター連続試合安打:11(1996年第3戦 - 2000年第3戦)
- オールスター連続試合フルイニング出場:17(1994年第1戦 - 2000年第3戦)
- NPBパ・リーグ記録
- シーズン最高打率:.387(2000年)
- シーズン最多単打:151(1994年)
- シーズン1試合4安打:8回(1996年)
- シーズン安打数リーグ1位:5回(1994年 - 1998年)
- 7年連続出塁率4割以上(1994年 - 2000年)
- 6年連続最多敬遠(1995年 - 2000年)
- 5年連続安打数リーグ1位(1994年 - 1998年)
- 3年連続100得点以上(1994年 - 1996年)※タイ記録
- その他
- オールスター出場:7回(1994年 - 2000年)
- 6年連続オールスター最多得票(1995年 - 2000年)
- 3年連続得点圏打率リーグ1位(1996年 - 1998年)
MLB
- MLB記録
- シーズン歴代最多安打:262(2004年)
- シーズン歴代最多単打:225(2004年)
- シーズン230安打以上:3回(2001年、2004年、2007年)
- シーズン5安打試合:4回(2004年)※タイ記録
- シーズン月間50安打:3回(2004年5月・7月・8月)
- シーズン安打試合数最多:135(2001年)※タイ記録
- シーズン複数安打試合数最多:80(2004年)
- シーズン内野安打:61(2001年)
- ロードゲームシーズン最多安打:145(2004年)
- 2ヶ月連続月間50安打(2004年7月 - 8月)
- デビュー以来7年連続200安打(2001年 - 2007年)
- 7年連続200安打(2001年 - 2007年)※タイ記録(ウィリー・キーラーの8年連続は参考記録)
- 7年連続単打数リーグ1位(2001年 - 2007年)
- 7年連続100得点30盗塁(2001年 - 2007年)
- 連続5シーズン安打1100本以上:3回(2001年 - 2005年、2002年 - 2006年、2003年 - 2007年)
- 連続7シーズン最多安打:1592(2001年 - 2007年)
- 連続6シーズン最多安打:1354(2001年 - 2006年)
- 連続5シーズン最多安打:1142(2003年 - 2007年)
- 連続4シーズン最多安打:930(2004年 - 2007年)
- MLBアメリカンリーグ記録
- 外野手通算守備率:.994(2001年 - 2007年)
- シーズン打席:762(2004年)
- シーズン連続盗塁成功:39(2006年)
- 連続盗塁成功:45(2006年4月29日 - 2007年5月16日)
- MLB新人記録
- シーズン新人最多安打及び1年目選手最多安打:242(2001年)
- シーズン新人最多打数:692(2001年)
- アメリカンリーグ新人最高打率:.350(2001年)
- 球団記録(シアトル・マリナーズ)
- 通算打率:.333(2001年 - 2007年)
- 通算三塁打:57(2001年 - 2007年)
- 通算初回先頭打者本塁打:25(2001年 - 2007年)
- シーズン打率:.372(2004年)
- シーズン打数:704(2004年)
- シーズン打席:762(2004年)
- シーズン安打:262(2004年)
- シーズン単打:225(2004年)
- シーズン三塁打:12(2005年)
- シーズン出塁:315(2004年)
- シーズン敬遠四球:27(2002年)
- シーズン複数安打試合数:80(2004年)
- 1番打者シーズン打点:68(2005年、2007年)
- 外野手シーズン守備率:.998(2007年)
- 外野手1試合刺殺:11(2007年6月27日)※タイ記録
- 月間6月打率:.427(2007年6月)
- 月間最多安打:56(2004年8月)
- 連続安打試合:25(2007年5月7日 - 6月1日)
- 連続2試合安打数:9(2004年9月21日 - 9月22日)※タイ記録
- 新人最多得点:127(2001年)
- 新人最多塁打:316(2001年)
- 新人最多盗塁:56(2001年)
- 新人連続安打試合:23(2001年4月22日 - 5月18日)
- その他
[編集] CM
- 日産自動車「ステージア」「スカイライン」
- 「幕開け・イチロー篇」(2006年11月21日 - )
- 「雨篇」(イチロー篇)(2007年1月1日 - )
- 「001 Skyline talk篇」(2007年4月12日 - )
- 「002 Skyline talk篇」(2007年4月12日 - )
- 「003 Skyline talk篇」(2007年4月12日 - )
- 「004 Skyline talk篇」(2007年4月24日 - )
- 「SKYLINE「50周年」篇」(2007年4月24日 - )
- 「005 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- 「006 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- 「007 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- 「008 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- 「009 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- 「010 Skyline talk篇」(2007年5月5日 - )
- ペプシコーラ
- 「FEVER篇/BOOM篇」(2002年2月15日 - )
- 「イチローシズル篇」(2002年3月21日 - )
- 「イチローDIET篇」(2002年4月1日 - )
- アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」
- サトウ製薬「ユンケル」
- NTT西日本
- 日興コーディアル証券
- 新日本石油 「エネオス」
- NTTグループ
- ハウス食品「とんがりコーン」「バーモントカレー」
- アサヒビール(WBC期間限定)
- 住友林業
- ミズノ
- 2006 ワールド・ベースボール・クラシック - 2006年2月5日に放送されたスーパーボウル中継の中で、WBCのCMが放映され、アメリカ代表のロジャー・クレメンス,デレク・ジーター、ドミニカ代表のアルバート・プホルス、イタリア代表のマイク・ピアッツァらと共に、日本代表からイチローが出演した[33]。
[編集] 出演番組
- ICHIRO MONDOW(読売テレビ。2006年4月1日 - 2007年3月末)
- ICHIRO-VERSUS(読売テレビ。2007年4月7日より。上述番組の続編)
- 僕らの音楽-OUR MUSIC-(フジテレビ系。2007年2月23日放送回。椎名林檎との対談)
- イチ流(年末年始恒例番組)
- 日本人メジャーリーガーの群像(年末年始恒例番組)
- プロフェッショナル 仕事の流儀(2008年1月2日、1月22日)
- BSデジタルの対談番組(ビートたけし、糸井重里、矢沢永吉との対談は書籍化されている)
[編集] 書籍
- 「イチロー・オン・イチロー―Interview Special Edition」
- 「イチロー、聖地へ」
- 「キャッチボール ICHIRO meets you」
- 「イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫」
- 「イチローイズム―僕が考えたこと、感じたこと、信じること」
- 「イチロー 勝利の方程式~常に進化し続ける男の考え方~」
- 「イチロー262のメッセージ」 - プロゴルファー宮里藍の愛読書として話題になり[34]20万部突破のベストセラーに。
他多数
[編集] 関連項目
- トニー・アタナシオ - イチローのメジャー契約に携わるスポーツエージェント
- イチロー杯争奪学童軟式野球大会
- アイ・ファイン - イチロー記念館
[編集] 脚注
- ^ “Ichiro breaks Sisler's all-time hits record”, MSNBC, 2004年10月1日.
- ^ “Captain America Stirs Up Ryder Cup”, ウォールストリート・ジャーナル, 2004年9月16日.
- ^ “北京五輪野球:イチロー「五輪はアマのための大会」”, 朝鮮日報, 2007年1月2日.
- ^ “Patience has its reward for Ichiro”, ESPN, 2003年5月28日.
- ^ 木本大志 「『ICHIRO STYLE』 VOL.8 Ques Tec System 1/500秒に隠されたイチローの秘密 (1/2)」 『スポーツナビ』,2005年6月27日.
- ^ a b “Walking or Swinging, Suzuki Is a Force on Offense”, ニューヨーク・タイムズ, 2007年9月5日.
- ^ “オールスターゲーム、イチロー貫禄のMVP”, OhmyNews, 2007年7月12日.
- ^ “イチロー打率のための四球選ばず”, 夕刊フジ, 2007年9月7日.
- ^ “Why Suzuki's Magic Number Is Really 56, Not .406”, ニューヨーク・タイムズ, 2005年5月1日.
- ^ “Drese and Ichiro forever linked”, MLB公式, 2004年10月2日.
- ^ “For Suzuki, Hits Keep On Coming”, ニューヨーク・タイムズ, 2005年4月26日.
- ^ “New wind in their sails”, USA today, 2001年5月30日.
- ^ a b “Being Ichiro”, ニューヨーク・タイムズ, 2001年9月18日.
- ^ “Mariners shut out by Angels”, メジャーリーグ・ベースボール, 2005年5月3日.
- ^ “McLaren wants Ichiro to run this season”, メジャーリーグ・ベースボール, 2008年2月25日.
- ^ “イチローが川崎に激怒!一塁にヘッド「かっこ悪い」”, スポーツ報知, 2007年12月27日.
- ^ “イ川崎をイチ喝!! あわや福岡へ“強制送還””, 西日本スポーツ, 2007年12月27日.
- ^ 渡辺史敏. “『GODZILLA MEDIA WATCHING』 VOL.25 MLBベスト3に松井の名前は?”, スポーツナビ.
- ^ ICHIROは、最もエキサイティングな選手(スポーツナビプラス)
- ^ "American League Best Tools (英語)" baseballamerica.com. 2008年1月13日閲覧.
- ^ "Major League Scouts Select the Best" 2008年3月13日閲覧.
- ^ “イチロー 米でも「がんばろう神戸”, スポーツニッポン(インターネット・アーカイブ, 2001年1月17日.
- ^ "about HWB" ハワイ・ウィンターリーグ. 2008年2月17日閲覧.
- ^ "苦難を糧に進化する「安打製造機」" MSNスポーツ. 2008年2月18日閲覧.
- ^ イチローの流儀のP112を参照。
- ^ “連勝しかない!イチローが決起集会”, スポーツニッポン, 2006年3月15日.
- ^ "who is the face of the Seattle Mariners? (英語)" ESPN. 2008年1月13日閲覧.
- ^ “イチロー広告訴訟:知名度不足と賠償金を大幅減額 台湾”, 毎日新聞, 2007年11月28日.
- ^ “イチローの愛車はなんと『マーチ』!! しかも星野一義チューン!!”, FOCUS, 2000年11月29日号.
- ^ “2007年度スポーツ選手長者番付発表、国際部門には日本人選手も。”, narinari.com, 2007年6月5日.
- ^ "Outfielder Fielding Average Records (英語)" Baseball Almanac. 2008年1月13日閲覧.
- ^ "現役通算打率ランキング (英語)" baseball-reference. 2008年1月13日閲覧.
- ^ “イチローがWBCを全世界にPR”, スポーツニッポン, 2006年2月5日.
- ^ “藍、イチロー効果で今季初V…“名言本”がサポート”, 夕刊フジ(インターネット・アーカイブ), 2005年5月16日.
[編集] 外部リンク
- ICHIRO 51
- イチロー選手の多面的なテーブルデータ (日本語)
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube
獲得タイトル・記録(日本) | ||||||||||||||||||||||||||||||
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獲得タイトル・記録(大リーグ) | ||||||||||||||||||
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投手 | 43 ミゲル・バティスタ / 45 エリック・ベダード / 48 ロイ・コーコラン / 41 R.A.ディッキー / 31 ライアン・フィラーベンド / 65 アンダーソン・ガルシア / 54 ショーン・グリーン / 34 フェリックス・ヘルナンデス / 38 ジョン・フーバー / 62 シーザー・ヒメネス / 57 マーク・ロウ / 35 ブランドン・モロー / 59 エリック・オフラハティ / 20 J.J.プッツ / 53 アーサー・ローズ / 18 ライアン・ローランドスミス / 52 カルロス・シルバ / -- トレーシー・ソープ / 56 ジャロッド・ウォッシュバーン / -- ジャレッド・ウェルズ / 46 ショーン・ホワイト / 60 ジョセフ・ウォアマン |
捕手 | 15 ジェイミー・バーク / 2 城島健司 / 32 ロブ・ジョンソン |
内野手 | 29 エイドリアン・ベルトレ / 5 ユニエスキー・ベタンコート / 13 ミゲル・カイロ / 17 陳鏞基 / 39 ブライアン・ラヘアー / 4 ホセ・ロペス / 12 マイク・モース / 44 リッチー・セクソン |
外野手 | 50 ウラディミール・バレンティン / 16 ウィリー・ブルームクイスト / 28 ラウル・イバニェス / 8 ジェレミー・リード / 51 イチロー |
指名打者 | 9 ジェフ・クレメント / 3 ホセ・ビドロ |
監督・コーチ | 47 ジム・リグルマン(監督) / -- ホセ・カストロ(打撃コーチ) / 37 ノーム・チャールトン(ブルペンコーチ) / 22 サム・パラーゾ(三塁コーチ)/ 55 リー・エリア(ベンチコーチ) / 1 エディ・ロドリゲス(一塁コーチ) / 30 メル・ストットルマイヤー(投手コーチ) |
公式サイト(英語)より 40人ロースター 監督・コーチ一覧 2008年6月19日更新 |
オリックス・ブルーウェーブ(現・オリックス・バファローズ) 1991年ドラフト指名選手 |
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1位:田口壮 / 2位:萩原淳 / 3位:本東洋 / 4位:鈴木一朗 / 5位:北川晋 / 6位:西芳弘 / 7位:山本大貴 |
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選 手 | マーク・マグワイア | サミー・ソーサ | ロジャー・クレメンス | カル・リプケンJr | バリー・ボンズ | トニー・グウィン リッキー・ヘンダーソン | イチロー | ロベルト・クレメンテ |
選手以外の人物 | レイチェル・ロビンソン(故ジャッキー・ロビンソンの夫人) |
チ ー ム | シアトル・マリナーズ |
投手(通算200勝以上) |
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金田正一 - 小山正明 - 米田哲也 - 鈴木啓示 - 堀内恒夫 - 山田久志 - 平松政次 - 東尾修 - 村田兆治 - 北別府学 - 工藤公康 |
投手(通算250セーブ以上) |
佐々木主浩 - 高津臣吾 |
野手(通算2000本安打以上) |
山内一弘 - 野村克也 - 長嶋茂雄 - 広瀬叔功 - 張本勲 - 王貞治 - 土井正博 - 高木守道 - 松原誠 - 柴田勲 - 藤田平 - 衣笠祥雄 - 福本豊 - 山崎裕之 - 山本浩二 - 有藤通世 - 若松勉 - 谷沢健一 - 加藤英司 - 門田博光 - 大島康徳 - 新井宏昌 - 秋山幸二 - 駒田徳広 - 立浪和義 - 鈴木一朗(イチロー) - 清原和博 - 古田敦也 - 野村謙二郎 - 石井琢朗 - 松井秀喜 - 田中幸雄 - 前田智徳 - 金本知憲 |
故人 |
投手/稲尾和久 - 梶本隆夫 - 皆川睦雄 - 村山実 野手/江藤慎一 - 大杉勝男 |
名誉会員(マスターズリーグとの通算で資格基準を満たした選手) |
松永浩美 |
有資格者(退会もしくは参加を辞退・保留している選手) |
榎本喜八 - 江夏豊 - 落合博満 - 野茂英雄 |
その他の成績条件達成選手(昭和以前生まれ) |
ヴィクトル・スタルヒン - 若林忠志 - 野口二郎 - 別所毅彦 - 中尾碩志 - 藤本英雄 - 川上哲治 - 杉下茂 |