石井一久
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石井 一久 埼玉西武ライオンズ No.61 |
|
ニューヨーク・メッツ時代 |
|
基本情報 | |
---|---|
出身地 | 千葉県千葉市 |
生年月日 | 1973年9月9日(34歳) |
身長 体重 |
183cm 85kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1991年 1位 |
初出場 | NPB / 1992年6月9日 MLB / 2002年 |
経歴 | |
|
|
■Template ■ウィキプロジェクト 野球選手 |
石井 一久(いしい かずひさ、1973年9月9日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。千葉県千葉市若葉区出身。コントロールは粗いが、非常に切れのいい速球と左打者の後ろから入ってくるような大きく割れるカーブを投げることで知られる。マネージメントは吉本興業スポーツ部。
目次 |
[編集] 略歴
- 1989年、千葉市立みつわ台中学校卒業。東京学館浦安高等学校入学。
- 1992年、高校卒業後、ドラフト1位でヤクルトに入団。
- 1997年9月2日、対横浜ベイスターズ戦(横浜スタジアム)でプロ65人目となるノーヒットノーランを達成。
- 1998年、セ・リーグ最多奪三振。シーズン三振奪取率11.047は日本新記録。
- 2000年、セ・リーグ最優秀防御率と最多奪三振の二冠に輝く。
- 2002年、ポスティングシステム(入札制度)によってメジャーリーグ、ロサンゼルス・ドジャースに移籍。開幕6連勝と好調なスタートを切ったが、9月8日のアストロズ戦で強烈なピッチャーライナーを頭部にまともに受けてしまう。病院に直行した結果「頭蓋骨の亀裂骨折」と診断され、このシーズンどころか選手生命の危機に立たされる。当たった所がボール1個分ずれていたら本当に危なかったという。
- 2005年、ジェイソン・フィリップスとのトレードでニューヨーク・メッツに移籍。3勝にとどまった。
- 2006年、盟友・古田敦也が選手兼任監督に就任したヤクルトへ復帰し、ローテーションを守り、期待通りの活躍を見せており、日本での5年ぶりの2桁勝利を挙げたほか、チームのAクラス復活に貢献した。シーズン途中にFA権を取得した。
- 2007年5月17日、対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤドーム)でプロ48人目となる日本通算1500奪三振を達成。1413投球回での達成は、江夏豊の1423投球回を抜く日本プロ野球最速の記録。
- 同年9月23日、対阪神タイガース戦で、2000年9月15日の対中日ドラゴンズ戦以来、2564日ぶりの完封勝利を達成した(通算7回目)。
- 同年11月12日、前年に取得したFA権を行使。東京ヤクルトから慰留を受けるも、新たな環境と友達を求めて移籍を決意、11月22日に西武への移籍が発表された。
- 2008年3月29日、対ソフトバンク戦で日本通算100勝を達成した。
[編集] エピソード
- 野村克也が、ヤクルト監督9年間のドラフトで石井一久と伊藤智仁を獲得できたのが最大ヒットだったと語っている。
- 野村監督が、編成部に球が速い高校生投手を要望していたところ、1人いるけど、ノーコンという報告があったが、ノーコンは矯正できるということでゴーサインを出した。
- ルーキー時代の1992年に一軍帯同し、一軍未勝利ながら日本シリーズ第3戦に先発している。入団時から背番号は16で、球団から大きな期待をされていた。
- 初勝利は1993年の阪神戦。雨天コールドで勝利だった。
- 大きいカーブが武器で、新人時代の松井秀喜とオープン戦で対戦したとき、松井が死球になると思ってしりもちをついた程であった。
- 1997年のノーヒットノーランは、4四球を含むものであったために、当時の横浜の投手コーチであった権藤博からは「あんなものはノーヒットノーランじゃない」と言われたが、横浜打撃陣からは「早くメジャーに行ってほしい」とコメントされた。
- のんびり屋な性格のせいか投球内容も安定感がなく、エースクラスの投手ながらあっさり打たれてしまうことが多いが、大事な試合(開幕戦、シーズン終盤の優勝の関係する試合、日本シリーズなど)では滅法強い。
- 彩子夫人との結婚を発表した記者会見の席上、妻の得意料理を質問され「生野菜ですかね」と答え報道陣に大爆笑されたが、肝心の彩子夫人からは相当怒られた。
- ドジャース入団会見では「僕の妻はカリフォルニア人」と話し、会場の爆笑を誘う。
- 2001年リーグ優勝の時には真っ先にベンチを飛び出し、胴上げ投手である高津臣吾に捕手の古田よりも早く抱きつく。さらに、同年の日本シリーズでは最後の打者、藤井彰人の打球がファールグラウンドに上がったキャッチャーフライであったのをいいことに、ベンチからカニ歩きで出てきて、捕球の瞬間に走り、抱き合った。
- 2001年のリーグ優勝時の若松勉監督の胴上げで、同僚の石井弘寿と共謀し、小柄である若松監督の足を高々と上に突き上げ、回転させるという危ないいたずらをした。古田の証言によると胴上げの時、若松監督の足を肩に御輿を担ぐように乗せてやる気満々だったらしい。
- 2001年に1度だけ夫婦揃ってフジテレビのCMをやった事がある。なお内容は、スワローズのマスコットキャラのつば九郎が、妹のつばみに対して「結婚しよう」と言った際に「兄弟だろ」と言うCMで、珍プレー好プレー2001のメイキング映像では何度も「兄弟だろ」という所でNGを出していたが、結局は「兄弟だろ」と言った部分が、つば九郎に言う部分が自分の気持ちに変わっていたが、本人は知らなかった。
- 2002年ドジャース時代の1年目、チームメイトの野茂英雄と与四球数において、メジャー全体で1-2位を記録した(野茂は101個)。
- 早期の引退をほのめかす発言も多く、引退後はテレビ局での仕事を求め、アシスタント・ディレクターになりたいとの発言もあった。
- 古田、高津とは私生活でも家族ぐるみの交流があり、シーズンオフには自主トレも兼ねた海外ゴルフを行う。
- フジテレビの番組企画の罰ゲームで「一日ヤクルトレディ」を経験し、実際に企業へ営業に行ったこともある。
- 通算で3本塁打を放っている。
- 「15」という数字が嫌いで、「15勝するなら14勝のほうがいい」と冗談ともつかないことを言ったことがある。2007年終了時、シーズン勝利数は14勝が最高。
- 2005年シーズンの自身の登板の際の入場曲に、松平健の大ヒット曲マツケンサンバIIを選ぶことを、毎年恒例の年1回の石井一久のオールナイトニッポンで決めた。2006年にはニッポン放送の石井一久のプロ野球バンザイのパーソナリティーをしながら、野球をするというスケジュールをこなした。
- 2008年1月6日、テレビ東京のメガスポ!において、当日のゲストであった楽天イーグルスの野村監督が、同リーグとなった石井との対戦についての感想を求められ、「(石井獲得に)楽天が行けばよかったねぇ。」、「うっかりしてたなぁ。(獲得に)手を上げたら良かったよなぁ。そしたら、もう一回再生できたのに。」とコメントした。
- 石井がパーソナリティーを務める『松本ひでおのショウアップナイターネクスト』によると、石井は家電マニアであり、電化製品のカタログを見るのが趣味と語る。2008年の春季キャンプにはDVDの観賞用に大型の液晶テレビを買い宿舎に持ち込んでいる。
[編集] 投球スタイル
若い頃は、最速154km/hのストレートと左腕独特の切れ味鋭い大きなスライダーで三振の山を築いてきた速球派投手であったが、近年は変化球や投球術に長けた技巧派左腕にスタイルが変わった。開幕戦、日本シリーズ等重要な試合に強く、負けた事が殆ど無いのも特徴である。
2006年ヤクルトに復帰した際には、2種類のカットボールとチェンジアップ、ツーシームを身に付けており、これまでの持ち球スライダー、カーブ(スラーブという説もある)フォークから大幅に球種がふえている。その反面、直球のスピードは平均140km/h程度に落ちているが、奪三振率は未だに高く、本人も「三振の取り方は分かっている」と発言している。
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 背番 号 |
登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 勝率 | 投球 回 |
被安 打 |
被本 塁打 |
与四 球 |
与死 球 |
奪三 振 |
失点 | 自責 点 |
防御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | ヤクルト | 16 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 28.0 | 24 | 4 | 17 | 2 | 22 | 13 | 13 | 4.18 |
1993年 | 19 | 1 | 0 | 3 | 1 | 0 | .750 | 59.1 | 48 | 8 | 38 | 2 | 66 | 32 | 31 | 4.70 | ||
1994年 | 54 | 2 | 2 | 7 | 5 | 0 | .583 | 108.0 | 92 | 11 | 77 | 6 | 98 | 56 | 49 | 4.08 | ||
1995年 | 26 | 3 | 0 | 13 | 4 | 1 | .765 | 153.0 | 112 | 14 | 77 | 8 | 159 | 49 | 47 | 2.76 | ||
1996年 | 8 | 0 | 0 | 1 | 5 | 0 | .167 | 31.0 | 28 | 6 | 22 | 2 | 26 | 19 | 18 | 5.23 | ||
1997年 | 18 | 2 | 2 | 10 | 4 | 0 | .714 | 117.2 | 73 | 5 | 50 | 4 | 120 | 28 | 25 | 1.91 | ||
1998年 | 28 | 6 | 0 | 14 | 6 | 0 | .700 | 196.1 | 149 | 12 | 105 | 8 | 241 | 78 | 72 | 3.30 | ||
1999年 | 23 | 2 | 1 | 8 | 6 | 0 | .571 | 133.0 | 123 | 16 | 71 | 6 | 162 | 75 | 71 | 4.80 | ||
2000年 | 29 | 3 | 1 | 10 | 9 | 0 | .526 | 183.0 | 137 | 15 | 73 | 6 | 210 | 54 | 53 | 2.61 | ||
2001年 | 27 | 0 | 0 | 12 | 6 | 0 | .667 | 175.0 | 135 | 18 | 82 | 5 | 173 | 74 | 66 | 3.39 | ||
2002年 | LAD | 17 | 28 | 0 | 0 | 14 | 10 | 0 | .583 | 154.0 | 137 | 20 | 106 | 4 | 143 | 82 | 73 | 4.27 |
2003年 | 27 | 0 | 0 | 9 | 7 | 0 | .563 | 147.0 | 129 | 16 | 101 | 6 | 140 | 72 | 63 | 3.86 | ||
2004年 | 31 | 2 | 2 | 13 | 8 | 0 | .619 | 172.0 | 155 | 21 | 98 | 4 | 99 | 97 | 90 | 4.71 | ||
2005年 | NYM | 23 | 19 | 0 | 0 | 3 | 9 | 0 | .250 | 91.0 | 87 | 13 | 49 | 3 | 53 | 59 | 52 | 5.14 |
2006年 | ヤクルト | 16 | 28 | 0 | 0 | 11 | 7 | 0 | .611 | 177.2 | 177 | 16 | 59 | 5 | 170 | 82 | 68 | 3.44 |
2007年 | 28 | 2 | 1 | 9 | 10 | 0 | .474 | 166.2 | 156 | 21 | 49 | 13 | 163 | 90 | 77 | 4.16 | ||
日本通算 | 300 | 21 | 7 | 98 | 63 | 1 | .609 | 1528.2 | 1253 | 146 | 720 | 67 | 1610 | 650 | 590 | 3.47 | ||
MLB通算 | 105 | 2 | 2 | 39 | 34 | 0 | .534 | 564.0 | 508 | 70 | 354 | 17 | 435 | 310 | 278 | 4.44 | ||
日米通算 | 405 | 23 | 9 | 137 | 97 | 1 | .585 | 2092.2 | 1761 | 216 | 1074 | 84 | 2045 | 960 | 868 | 3.73 |
- 表中の太字はリーグ最高
- 2007年シーズン終了時点
[編集] タイトル
- 最多奪三振2回(1998年、2000年)
- 最優秀防御率1回(2000年)
- 最高勝率1回(1995年)
- 月間MVP2回(1995年8月、1997年9月)
- 月間最優秀新人(2002年4月、メジャーリーグ)
[編集] 記録
- 通算1500奪三振達成スピード歴代1位
- シーズン奪三振率(規定投球回以上)歴代1位 11.05:1998年
- 日本通算100勝:2008年3月29日、対福岡ソフトバンクホークス2回戦(西武ドーム) プロ野球125人目(日米通算では139勝目)
[編集] 野手記録
通算本塁打数2本(ヤクルトスワローズ時代1997年のソロホームランと1999年の3ラン、どちらも対横浜戦)
[編集] 出演
など
- 映画
[編集] 関連項目
- 千葉県出身の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 埼玉西武ライオンズの選手一覧
- 石岡康三 - 入団時の投手コーチであり、遠戚に当たる。
- 古田敦也 - ヤクルトでのチームメイト、監督。私生活でも家族ぐるみの付き合い。
- 高津臣吾 - 古田共々家族ぐるみの付き合い。石井のメジャー移籍が高津のメジャー移籍を後押し。
- 日本人メジャーリーガーが獲得したタイトル・表彰一覧
[編集] 外部リンク
- @Kaz(公式サイト)
|
|
|
|
監督 |
---|
99渡辺久信 |
コーチ |
81黒江透修(ヘッド)|80小野和義(投手)|86潮崎哲也(投手)|96大久保博元(打撃)|78熊澤とおる(打撃補佐)|82岡村隆則(守備走塁)|85清家政和(守備走塁)|88相馬勝也(バッテリー)|98大迫幸一(トレーニング) |
二軍監督・コーチ |
72片平晋作(監督)|77石井丈裕(投手兼トレーニング)|97石井貴(投手)|89森博幸(打撃)|76田辺徳雄(打撃)|70河田雄祐(守備走塁)|91大井久士(バッテリー)|92坂元忍(トレーニング) |
投手 |
11岸孝之|12岡本真也|13西口文也|14小野寺力|15大沼幸二|16涌井秀章|17山崎敏|19平野将光|20山本淳|23許銘傑|24松永浩典|25正津英志|26星野智樹|28藤原良平|29三井浩二|30岡本篤志|34長田秀一郎|35岩崎哲也|36山岸穣|38西川純司|40キニー|41木村文和|47帆足和幸|48武隈祥太|50田沢由哉|54グラマン|57田中靖洋|59山本歩|61石井一久|62朱大衛|63藤原虹気|66東和政|69谷中真二| |
捕手 |
22野田浩輔|27細川亨|31吉見太一|37銀仁朗|49上本達之|64中田祥多|68田原晃司 |
内野手 |
2種田仁|3中島裕之|4高木浩之|5石井義人|6後藤武敏|7片岡易之|8平尾博嗣|33江藤智|42ブラゼル|43原拓也|45水田圭介|52星秀和|56黒瀬春樹|60中村剛也|65梅田尚通 |
外野手 |
0大崎雄太朗|1栗山巧|9赤田将吾|10佐藤友亮|39貝塚政秀|44高山久|46G.G.佐藤|51大島裕行|53三浦貴|55ボカチカ|58松坂健太|67斉藤彰吾 |
ヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ) 1991年ドラフト指名選手 |
---|
1位:石井一久 / 2位:西岡洋 / 3位:増田政行 / 4位:津川力 / 5位:高梨利洋 / 6位:鮫島秀旗 |