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権藤博 - Wikipedia

権藤博

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

権藤 博
基本情報
出身地 佐賀県鳥栖市
生年月日 1938年12月2日(69歳)
身長
体重
177cm
73kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 投手
プロ入り 1961年
初出場 1961年4月9日
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

権藤 博ごんどう ひろし1938年12月2日 - )は、佐賀県鳥栖市出身のプロ野球選手投手)・プロ野球監督。引退後は中日近鉄ダイエー横浜のコーチ・監督を歴任した。現在は野球評論家として活動。鈴木孝政小松辰雄牛島和彦吉井理人阿波野秀幸村田勝喜吉田豊彦下柳剛などを育てたコーチとして知られる。

目次

[編集] 来歴・人物

鳥栖高校からブリヂストンタイヤを経て1961年に中日に入団。杉下茂の後の背番号20を受け継ぐ。同年のオープン戦で28回3分の1を投げて自責点1(防御率0.31)という驚異的な成績を残し、1年目よりエースとして大車輪の活躍。この年チーム試合数130の半分以上に当たる69試合に登板、そのうち先発登板は44試合。35勝19敗、投球回数429 1/3回、奪三振310、防御率1.70を記録。35勝は新人での最多勝プロ野球記録。連投に連投を重ねる権藤を指した「権藤、権藤、雨、権藤(雨、雨、権藤、雨、権藤と続く)」という流行語も生まれた。翌年、61試合に登板(先発登板39)、30勝17敗、投球回数362 1/3回、奪三振212、防御率2.33の成績を残し2年連続最多勝に輝いた。

しかし、3年目の1963年に10勝しかあげられず、1964年は6勝と調子を落とした。1965年から打者に転向するが芽が出ず、1968年に投手復帰するも球威が衰え30歳の若さで引退した。

引退後、アメリカマイナーリーグのコーチを経て、1973年1980年中日二軍投手コーチ、1981年1983年中日一軍投手コーチを務め、1974年1982年のリーグ優勝に貢献。1984年1987年東海テレビ野球解説者中日スポーツ評論家を経て、1988年1989年に近鉄一軍投手コーチ、1991年1993年ダイエー一軍投手コーチ、1994年1996年東海テレビ解説者を経て、1997年横浜バッテリーチーフコーチ、1998年に横浜監督に就任し、チームを38年ぶりのリーグ優勝、日本一に導いた。2000年まで務め、現在は東海ラジオ放送文化放送(ただし現在は、東海ラジオ放送制作のナゴヤドームでのジャイアンツ戦のみ)、スポーツ報知の野球評論家、古巣の東海テレビでも本数契約で出演していたが、近年は出演していない。全国ネットの読売ジャイアンツ戦の解説でも、他の解説者と違い、良い点・悪い点を含めて遠慮なく指摘することが多い。

[編集] 選手成績

[編集] 年度別投手成績

年度 チーム 登板 完投 完封 無四
勝利 敗戦 投球回 被安打 被本
塁打
与四
死球
奪三振 自責点 防御率(順位)
1961年 中日 69 32 12 8 35 19 429.1 321 20 73 310 81 1.70(1)
1962年 61 23 6 3 30 17 362.1 307 26 72 212 94 2.33(10)
1963年 45 9 0 1 10 12 220.2 205 29 83 88 94 3.83(16)
1964年 26 3 0 1 6 11 105.1 105 12 48 47 49 4.20
1968年 9 0 0 0 1 1 18.1 32 5 13 10 22 11.00
通算成績 210 67 18 13 82 60 1136.0 970 92 289 667 340 2.69
※表中の太字はリーグ最多数字

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム 試合 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四死球 三振 打率
1961年 中日 70 144 18 31 7 0 1 8 1 13 0 6 24 .215
1962年 61 117 10 25 5 0 4 13 0 8 1 4 19 .214
1963年 49 76 8 18 5 0 3 8 0 3 0 4 12 .237
1964年 29 38 3 7 2 0 1 4 0 0 0 1 5 .184
1965年 81 196 28 39 11 0 3 18 3 2 0 14 24 .199
1966年 54 179 17 32 7 1 1 7 2 4 1 14 28 .179
1967年 107 288 34 62 8 3 5 27 6 26 4 13 50 .215
1968年 12 3 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 .000
通算成績 463 1041 119 214 45 4 18 85 12 56 6 56 163 .206

[編集] タイトル・表彰

[編集] 監督としての成績

[編集] 年度別監督成績

年度 年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1998年 平成10年 横浜 1位 136 79 56 1 .585 100 .277 3.49 60歳
1999年 平成11年 3位 135 71 64 0 .526 10 140 .294 4.44 61歳
2000年 平成12年 3位 136 69 66 1 .511 9 103 .277 3.92 62歳
※1 太字は日本一
※2 1998年から2000年までは135試合制

[編集] 監督通算成績

  • 407試合 219勝186敗2分 勝率.541

[編集] 采配の特徴

  • アメリカ・マイナーリーグでのコーチ修行時代の経験から、「Don't over touch(教え過ぎない・言い過ぎない)」という采配・指導方針が基本にある。選手の感性と自主性を重んじた、この一見放任主義的なスタイルは当時、マスメディアでも話題となった。[1]
    • 夜間練習の強制は止めさせ、各選手の自主性に任せた。また、選手全員を集めるミーティングは基本的に行わず、その代わりグラウンド等で個々にコミュニケーションを取った。
    • 試合でも「俺は投手のことしか分からない」と公言、攻撃面の作戦進行はヘッドコーチの山下大輔や打撃コーチの高木由一に一任し、打者・走者へのサインも最小限に止め選手の自主性に任せるなど、特徴的な采配方針を見せた。
  • 審判は絶対である」という原則を遵守し、判定に殆ど異議を唱えることはなかった(本来、スポーツでは当然のはずなのだが)。佐々木主浩は引退した後に横浜時代を振り返って、試合中に審判の判定を巡り横浜の選手一同が激怒する事件が起きた際「抗議して下さい」と頼んでやっと腰を上げた権藤は審判に「ダメ?…やっぱりダメ?…じゃあ分かった」と緩い抗議をした後にベンチに戻ってきて「やっぱりダメだった」と言った途端、選手から「(帰って)来んな!」と大ブーイングが起きたと述べている。
  • 自身の体験から「投手の肩は消耗品」が持論である。横浜の監督となった1998年には、抑え投手佐々木主浩を不動の中心とし、リリーフ投手に『中継ぎローテーション』を確立した。ただしダイエーコーチ時代、下柳剛に関してだけは「奴はどれだけ放っても壊れない」と例外扱いし、制球力をつけさせるため毎日のように練習や試合で登板させた。
  • 横浜監督時代、「送りバントというのは、わざわざ敵にアウトを献上するという世にも馬鹿馬鹿しい作戦だ」と述べており、実際にもごく限られた場面でしかバントを用いなかった。いわゆるマネー・ボール理論で語られるものと類似しており、「投手の肩は消耗品」「中継ぎローテーション」という持論などからもメジャーリーグでみられる思想と通じるものがある。
  • 横浜監督就任時の野手陣は所謂「マシンガン打線」の絶頂期であり、投手の起用法さえしっかりしておけば、細かなサインプレーをせずとも得点を重ね勝利する力はあった。しかし前述の放任主義・審判絶対主義的スタイルは時を経るごとにチーム内での軋轢を生み、特に野手陣との亀裂が深まってゆく。その象徴的な出来事として、2000年6月18日広島12回戦で、相手の右投手ネイサン・ミンチーに対し、左打者の駒田徳広に代えて右打者の中根仁を代打に送ったことで、プライドを傷つけられた駒田が試合中にもかかわらず帰宅するという造反事件が起こる。
    • 駒田はこのシーズン終了後に現役を引退するが、一方の権藤もこの事件を機にチーム内で孤立(ただし、ロバート・ローズが引退後、「権藤は最高のボスだった」と告白している。他の多くの野手も権藤イズムにフィットし、ピークを過ごした選手も多く、実際に対立していたのは当時のチームリーダー役で、どうしても権藤とは対極の緻密な野球理論を持たざるを得ない石井琢朗[2]や駒田くらいだったとの見方もある)。当時の球団社長、大堀隆とは兄弟のように蜜月だったが、他のフロント陣との対立も相俟って同年限りで退任した。またレギュラーメンバーを固定しすぎたことで若手野手が育たず、退任以降のチームの低迷に繋がったという意見もある。

[編集] エピソード

  • 同じ九州出身の大投手・稲尾和久を尊敬しており、投球フォームから普段の歩き方まで稲尾を模写するという私淑ぶりだった。
  • 投手時代の酷使体験は本人のみならず球界にも波及し、現役時代に投手コーチを務めていた近藤貞雄は「投手分業制」を発案するなど、現代のプロ野球に多大な影響を与えた。
  • もとより身体能力は抜群で、他分野からも高い評価を受けていた。織田幹雄が「何とかコイツを東京オリンピックに出せないものか。出れば金メダルは確実」とため息をついたという[3]。東京オリンピックに向けて陸上競技400mハードルの選手に転向してほしいという要請があったという、嘘のような逸話がある。
  • 権藤は「ドラフト指名された選手達は才能があるから指名されたのであって、全員にプロとしての素質と可能性がある」と考える一方で、「コーチがどれだけ教えても、全員が同じ200勝、300勝を挙げられるような名投手になれる訳ではない」として、名投手と呼ばれた人達が監督やコーチとして選手達の素質や適性を考慮せずに現役時代の自分と同じ指導法を押し付ける風潮があることを強く懸念していた。コーチ時代、「先発投手は完投が基本」であると考える元投手で名球会会員の某野球解説者が権藤の指導法を「手ぬるい」と批判した。すると、権藤はその解説者に対して「全てのピッチャーがあなたと同じ(200勝投手)になれる訳ではない」と言い返したという。
  • 「投球フォームはその投手の主張」が持論で、フォームにはほとんど口を出さなかった。コーチとしてフォーム矯正を施したのは都裕次郎だけだという。
  • 指導者としては直言居士で、たとえ上司であっても、間違いだと思う意見にはトコトン喧嘩を挑むタイプであり、近鉄コーチ時代には仰木彬監督と、ダイエーコーチ時代には田淵幸一監督との不仲説も噂されたほどであった。
  • 一方で恥ずかしがり屋の一面も持ち、横浜監督時代は自らを「監督」ではなく「権藤さん」と呼ぶように指示していた。これは肩書きを捨てることで部下との垣根を無くすことも目的だった。このルールは選手・スタッフ一同だけでなく、取材陣も対象とされ、違反した場合は罰金1,000円を支払うことになっていた。実際に谷繁元信は権藤に「監督!」と呼び掛け、権藤が聞こえていないフリをし、それに気付かず再び「監督!」と呼んだところで権藤に「ハイお前、罰金2,000円な!」と言われた。
  • 同様に試合後のインタビューもあまり愛想よく応じず、リーグ優勝を果たして胴上げ直後の勝利監督インタビューも一言二言だけで終わらせ、その後の個別インタビューも「主役は選手だから」と出演を控えた。
  • 監督としての権藤は、前述の通り「何よりも野球は選手がやるもの。監督は、選手個々の考え方や才能を自由に発揮出来る環境を作るだけ」という哲学を貫いた。これに対し、同時期にヤクルト阪神の監督であり「野球は監督の采配如何で勝敗が決する」という持論を展開する野村克也は、権藤の采配スタイルやマシンガン打線を「勝手無礼な行儀の悪い野球」と評し、権藤や横浜選手の人格に至るような部分まで公然と批判を展開した。1998年、優勝マジック3の横浜は10月3日10月6日と地元・横浜スタジアムでヤクルトとの4連戦を迎えた。この連戦以前の横浜は上記の因縁から権藤が「ID野球なんてクソくらえ」と選手にハッパをかけていたこともあり、ヤクルト戦では特に闘志をむき出しにして戦い、大きく勝ち越していた。地元胴上げの期待は最高潮に達していたが、野村は「1年目の権藤に簡単に優勝させるわけにはいかない」と闘争心を露にし、当時好調だった川崎憲次郎石井一久伊藤智仁らをぶつけて3連勝し、自身の目の前での胴上げだけは阻止した。
  • 権藤は野村による一連の批判が相当不快であったようで、オフのトークショーで観客から「野村監督は好きですか?」と質問され、「どちらかと言えば大嫌いです」と返し、後年には「私の在任期間中、ノムさん(が指揮したチーム)に負け越したことは一度もなかった」と豪語、野村の理論よりも自論が正しかったことを(リップサービスとしての要素も多分に含むが)強調している。同様に、1998年のリーグ制覇に抑えとして大きく貢献した佐々木主浩も、自伝「大魔神伝」で、「僕にとって、ID野球とは、やらされる野球そのものだった。ヤクルトの選手もかわいそうだと思う。僕らはそんなことしなくても日本一になれた」などと記し、当時のヤクルト野球を強烈に批判している。
  • ダッグアウトで采配を取る時、ベンチに座らず立ち上がったままアゴもしくは頬に掌を当てる姿がしばしば中継カメラに映された。このスタイルは権藤のトレードマークとなり、当時のスポーツ新聞週刊誌風刺漫画ではよくネタにされていた。
  • 実はラグビーに大変造詣が深く、親交のある森重隆とテレビで対談した時には該博な知識を見せた。

[編集] 現在の出演番組

[編集] 脚注

  1. ^ "私の野球観" 日本プロ野球トレーナー協会. 2008年3月2日閲覧.
  2. ^ 『勝つ管理 私の流儀』永谷脩著、小学館
  3. ^ 『スポーツ20世紀』ベースボールマガジン社、2000年7月、p126

[編集] 関連項目

先代:
堀本律雄
セ・リーグ新人王
1961年
次代:
城之内邦雄
先代:
堀本律雄
沢村賞
1961年
次代:
小山正明
先代:
堀本律雄
セ・リーグ最多勝投手
1961年62年
次代:
金田正一
先代:
秋山登
セ・リーグ最優秀防御率
1961年
次代:
村山実
先代:
金田正一
セ・リーグ最多奪三振
1961年
次代:
小山正明
先代:
杉下茂1949年1960年
中日ドラゴンズ背番号20番投手
1961年1968年
次代:
渡部司1970年
先代:
大矢明彦
1996年1997年
横浜ベイスターズ
監督
1998年2000年
次代:
森祇晶
2001年2002年途中)
※カッコ内は監督在任期間。


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