谷繁元信
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谷繁 元信 中日ドラゴンズ No.27 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県庄原市 |
生年月日 | 1970年12月21日(37歳) |
身長 体重 |
177cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1988年 1位 |
初出場 | 1989年4月11日 |
経歴 | |
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谷繁 元信(たにしげ もとのぶ、1970年12月21日 - )は、中日ドラゴンズに所属するプロ野球選手。ポジションは捕手。
目次 |
[編集] 来歴
中国山地の奥深い広島県比婆郡東城町(現・庄原市)の出身。島根県江津市の江の川高等学校に進学する。元々ピッチャーで進学するも練習試合でよく打たれ、監督にキャッチャー転向を命じられる。谷繁曰く「監督が怖くて逆らえなかった」(テレビ朝日「NANDA!?」より)。
夏の甲子園に2度出場。特に1988年夏には島根県予選で、5試合全てで本塁打の計7本を放ち甲子園大会でもベスト8に進出。強打の捕手として高校通算本塁打42本の記録をマークし、1学年上の江藤智(当時捕手)とともに「東の江藤、西の谷繁」と呼ばれた。
[編集] プロ入り後
[編集] 横浜時代
1989年ドラフト1位で横浜大洋ホエールズに入団。期待の意味を込めて山下大輔の後の背番号1が与えられる。捕手での背番号1は珍しかった。
古葉竹識監督のもと、プロ1年目より一軍に抜擢され出場。下関球場で行われたオープン戦で巨人・斎藤雅樹から本塁打を放つなど打撃を買われ、高卒捕手としては記録的な開幕一軍入りを果たし、公式戦初打席で初安打を放つなど期待されたが、出場80試合、打率.175(154打数27安打)、3本塁打という成績に終わった。1990年須藤豊が監督に就任すると、西武から獲得した秋元宏作と併用されることで第1捕手として辛抱強く使われた。しかし、リードにも打撃にも目立った向上がなかったため、1992年須藤が休養し江尻亮ヘッドコーチが監督に昇格すると、一時出場機会を剥奪されている。
1993年、横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに球団名が変わると、かねてから背番号1ではプロテクターの背中のストラップで背番号が見えにくいという指摘も多く、また新球団名になったということで心機一転の意味を込めて、背番号を1から8に変更。近藤昭仁が監督に、大矢明彦がバッテリーコーチに就任すると、大矢の指導でリードを含めた守備が向上し、それに伴って本来の強打を取り戻し、徐々に正捕手の座を固めていった。大矢が監督に昇格した1996年・1997年は、2年連続で盛田幸妃と開幕戦先発バッテリーを組む(1997年は後に自身のホームグラウンドとなるナゴヤドーム初の公式戦であった。1回裏立浪和義が球団史上初の開幕戦初回先頭打者本塁打。同球場で初めて被本塁打を記録したバッテリーとなる)。横浜が日本一に輝いた1998年には、マシンガン打線の一翼を担い、攻守の要としての地位を確立。強肩と攻撃的なリードで強力投手陣を引っ張ったことが評価され、ゴールデングラブ賞を受賞している。
2001年には自己最多のシーズン20本塁打を打ち、その年のオフにFA宣言を行う。当初はアメリカメジャーリーグ指向だったが、条件面等で折り合うことができず、中日ドラゴンズへ移籍することになった(背番号7)。これにより自身と同じく高卒でドラフト1位指名され入団し、長年正捕手としてチームを支えてきた中日の中村武志が出場機会を求めトレードを直訴。谷繁入団直後の12月28日に金銭トレードで横浜に移籍し、結果的に両チームの正捕手が入れ替わる形となった。
[編集] 中日時代
2004年、落合博満監督が就任。正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22という落合監督の持論により、背番号を27に変更する。リーグ優勝に貢献。日本シリーズ第3戦で満塁ホームランを放つ。その次の打席、再度満塁で打席に立つが、捕手の前に転がり止まる捕ゴロ。悪い流れが続き、その後西武のカブレラに満塁ホームラン返しを被弾。1試合2本の満塁本塁打は日本シリーズ初である。
2006年にはWBC日本代表に選ばれ、2次リーグの米国戦ではスタメンマスクを被った。7月26日の対阪神戦で捕手としては史上4人目の通算2000試合出場を達成。また、自身1500試合出場の時も勝利で飾っているが、川上憲伸がノーヒットノーランを達成した日でもある。FA制度導入以降、最短で3度取得している唯一の選手である。捕手という負担の大きいポジションでのこの記録は快挙といえる。しかし、打率、安打数、塁打数、盗塁数では規定打席に達している選手の中でリーグ最少を記録した。2006年シーズン終了時点で、通算三振数が1332となり、王貞治の持つ1301を抜いて歴代10位になった。
2007年8月8日対広島戦に於いて通算300二塁打達成。プロ野球47人目。同年8月10日対巨人戦にて、更新中だった捕手の連続守備機会無失策のプロ野球記録は1708で止まった。しかし、打率、得点、安打数、三塁打、塁打数、盗塁数では規定打席に達している中でリーグ最少を記録した。(打率、安打数、塁打数、盗塁数は二年連続でリーグ最少)
[編集] 人物
- 中日移籍以降、打率が低下傾向にあり、2002年、2005年、2006年、2007年の計4回もセ・リーグ規定打席到達者の中での最低打率を記録している。しかし出塁率は上がっており、ボールを遠くに飛ばすパワーも健在。毎年コンスタントに2桁本塁打を記録している。また、満塁時や大舞台には以前と変わらず高い成績を残しており、ここ一番での勝負強さは変わらない。
- 打順は基本的に7番もしくは8番であるが、中日に移籍してからは主力打者の離脱等でチーム全体の打撃力が低下した時期に5番や6番で起用される試合も増えた。2004年や2006年に福留が離脱すると、高い出塁率と得点圏打率を見込まれ、3番で起用されたこともあった。
- 捕手としての能力、特にキャッチングとスローイングに定評があり、守備面で打撃面をカバーする選手とされている。相手打者の弱点を徹底的に突く攻撃的なリードが特徴である。
[編集] エピソード
- みずしな孝之の漫画、「ササキ様に願いを」で4以上の数が覚えられず、すべて平仮名でしゃべるキャラクターとなっているのは、横浜大洋ホエールズの遠藤一彦投手(当時)が「谷繁君はリードの覚えが悪い」と言っていたことを、みずしなが誇張して描いたためである(初期を除く)。
- 大洋入団当初はリードの覚えが悪く、いつまでもオムツの赤ちゃんという意味で「パンパース」というあだ名を付けられていた。
- 所属した球団で最初に付けた背番号(横浜大洋=1・中日=7)を、いずれも監督交代時に新たに就任した監督(横浜=近藤昭仁・中日=落合博満)から「捕手のイメージに合わない」という理由で剥奪されている。ちなみに、就任時の近藤監督は現役時代に1番を付けており、彼の指名により進藤達哉内野手に与えられた(一説によると1番だと防具で背番号が隠れてしまうから8番に変更したとも言われている)。この時は、近藤の後1番を付けていた山下大輔も守備走塁コーチに就任していた。また、中日でも巨人から移籍したやはり内野手の川相昌弘が付けている(落合監督は捕手が1桁の背番号を付けることに否定的だった)。このため、球団名が「横浜ベイスターズ」になってからの1番のユニフォームは、1992年秋の球団名発表後の秋季練習でしか着用しなかった(鴻野淳基の8番・宮川一彦の25番・進藤達哉の36番・畠山準の49番・石井琢朗の66番もこの時及び同じく新球団名発表後に行われた1992年セ・リーグオールスター東西対抗のみの着用だった)。
- ノーヒットノーラン達成には、現役通算で2度立ち会っている。2002年8月1日の読売ジャイアンツ20回戦(東京ドーム)で川上憲伸、2006年9月16日には阪神タイガースとの首位攻防戦となった同18回戦(ナゴヤドーム)で山本昌をリードして記録達成をアシストした。日本プロ野球史上、複数回ノーヒットノーランを達成した捕手は21人いるが、2008年現在の現役選手では谷繁の他、矢野輝弘(阪神)の2人(いずれも2度達成)。また谷繁は日本選手権シリーズでもノーヒットノーランを演出した経験がある。2007年、北海道日本ハムファイターズを相手に中日の3勝1敗で迎えた11月1日の第5戦(ナゴヤドーム)で、先発の山井大介が8回、抑えの岩瀬仁紀が1回を投げて継投による完全試合を達成し(継投による完全試合は公式戦・ポストシーズンを通じて日本プロ野球史上初。また日本シリーズでの無安打無得点も史上初)、53年ぶりの日本一を飾った。
- 2006年10月26日1勝3敗で迎えた日本シリーズ第5戦、1-4で3点ビハインドの8回裏の守備時、日本プロ野球において最後の打席となり涙を流しながら打席に立つ新庄剛志に対し「泣くな。全部ストレートでいくぞ」と声を掛けた(新庄談)。実際、この打席は中日ドラゴンズの投手中里篤史が全球ストレートを投げ、新庄は涙にくれながら3球ともフルスイングし、豪快な空振り三振に終わった。この谷繁の行動には、3点差なのに勝負を捨てたとして、非難する声もある。
- 佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録樹立時にマスクを被り、また岩瀬仁紀がその記録を更新した際にもマスクを被っている。
- 2007年11月1日、北海道日本ハムを4勝1敗で破り日本一となった未明、生中継のすぽるとで岩瀬、川上、小笠原らがインタビュー受けている際、カメラ席後ろから乱入。アナウンサーから「少し休みがありますが?」との問いに、「ゴルフをしたい」と言い放った。
- 2006、2007年度と二年連続でゴールデングラブ賞を受賞。同僚の川上憲伸も二年連続で受賞しており、同一チームの同一バッテリーによる二年連続受賞はセ・リーグ初の快挙である。
[編集] 年度別打撃成績
年度 | 球 団 |
背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
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1989年 | 大洋 | 1 | 80 | 171 | 154 | 9 | 27 | 2 | 2 | 3 | 42 | 10 | 0 | 0 | 1 | 1 | 13 | 2 | 43 | 4 | .175 |
1990年 | 75 | 182 | 154 | 8 | 27 | 7 | 0 | 3 | 43 | 16 | 2 | 0 | 8 | 1 | 17 | 2 | 36 | 4 | .175 | ||
1991年 | 82 | 221 | 186 | 24 | 44 | 9 | 3 | 5 | 74 | 24 | 5 | 1 | 8 | 2 | 20 | 5 | 39 | 8 | .237 | ||
1992年 | 74 | 186 | 162 | 16 | 31 | 9 | 0 | 2 | 46 | 9 | 0 | 0 | 4 | 0 | 18 | 2 | 34 | 2 | .191 | ||
1993年 | 横浜 | 8 | 114 | 343 | 290 | 22 | 68 | 10 | 2 | 4 | 94 | 26 | 3 | 0 | 7 | 0 | 40 | 6 | 74 | 6 | .234 |
1994年 | 129 | 415 | 359 | 29 | 82 | 19 | 2 | 5 | 120 | 36 | 0 | 1 | 8 | 1 | 42 | 5 | 94 | 8 | .228 | ||
1995年 | 93 | 203 | 181 | 16 | 45 | 7 | 1 | 6 | 72 | 21 | 1 | 0 | 5 | 0 | 17 | 0 | 39 | 2 | .249 | ||
1996年 | 127 | 456 | 380 | 36 | 114 | 25 | 3 | 8 | 169 | 54 | 2 | 3 | 14 | 3 | 53 | 6 | 70 | 10 | .300 | ||
1997年 | 128 | 489 | 397 | 42 | 92 | 19 | 2 | 13 | 154 | 46 | 2 | 1 | 25 | 3 | 61 | 3 | 71 | 14 | .232 | ||
1998年 | 134 | 538 | 461 | 50 | 117 | 23 | 1 | 14 | 184 | 55 | 1 | 2 | 6 | 4 | 62 | 5 | 83 | 13 | .254 | ||
1999年 | 122 | 491 | 427 | 55 | 126 | 23 | 0 | 11 | 182 | 51 | 0 | 1 | 7 | 5 | 46 | 6 | 45 | 16 | .295 | ||
2000年 | 122 | 493 | 446 | 35 | 112 | 21 | 0 | 9 | 160 | 44 | 0 | 0 | 3 | 1 | 41 | 2 | 91 | 20 | .251 | ||
2001年 | 137 | 532 | 447 | 54 | 117 | 19 | 2 | 20 | 200 | 70 | 4 | 2 | 9 | 1 | 65 | 10 | 107 | 6 | .262 | ||
2002年 | 中日 | 7 | 130 | 515 | 446 | 53 | 96 | 21 | 0 | 24 | 189 | 78 | 4 | 0 | 10 | 2 | 49 | 8 | 116 | 8 | .215 |
2003年 | 112 | 426 | 367 | 48 | 97 | 20 | 1 | 18 | 173 | 69 | 3 | 2 | 8 | 4 | 42 | 5 | 90 | 11 | .264 | ||
2004年 | 27 | 121 | 472 | 408 | 47 | 106 | 11 | 0 | 18 | 171 | 68 | 1 | 0 | 11 | 6 | 42 | 5 | 92 | 10 | .260 | |
2005年 | 141 | 537 | 449 | 58 | 105 | 22 | 0 | 14 | 169 | 65 | 3 | 2 | 8 | 6 | 69 | 5 | 106 | 10 | .234 | ||
2006年 | 141 | 520 | 428 | 48 | 100 | 22 | 1 | 9 | 151 | 38 | 0 | 0 | 13 | 3 | 71 | 5 | 102 | 12 | .234 | ||
2007年 | 134 | 474 | 382 | 33 | 90 | 15 | 0 | 6 | 123 | 44 | 0 | 1 | 19 | 5 | 62 | 6 | 85 | 10 | .236 | ||
通算成績 | 2196 | 7664 | 6524 | 683 | 1596 | 304 | 20 | 192 | 2516 | 824 | 31 | 16 | 174 | 48 | 830 | 88 | 1417 | 174 | .245 |
[編集] タイトル・表彰
[編集] 背番号
- 1(1989年 - 1992年)
- 8(1993年 - 2001年)
- 7(2002年 - 2003年)
- 27(2004年 - )
[編集] 関連項目
監督 |
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66落合博満 |
二軍監督 |
85辻発彦 |
コーチ |
81高代延博(野手総合チーフ)|80森繁和(バッテリーチーフ)|89高橋三千丈(投手)|78小林聖始(投手)|76近藤真市(投手)|72田村藤夫(捕手)|86古久保健二(捕手)|79長谷部裕(捕手)|88高柳秀樹(打撃)|77宇野勝(打撃)|75石嶺和彦(打撃)|71川相昌弘(内野守備走塁)|74風岡尚幸(内野守備走塁)|82奈良原浩(内野守備走塁)|73笘篠誠治(外野守備走塁)|83音重鎮(外野守備走塁)|90三木安司(トレーニング)|93宮前岳巳(トレーニング)|91塚本洋(トレーニング)|92勝崎耕世(コンディショニング)|94住田ワタリ(コンディショニング)|84早川和夫(育成) |
投手 |
0金剛弘樹|11川上憲伸|13岩瀬仁紀|14朝倉健太|16佐藤充|17川井進|18中里篤史|19吉見一起|20中田賢一|21チェン|23鈴木義広|26山内壮馬|29山井大介|33平井正史|34山本昌|38斉藤信介|41浅尾拓也|42R・クルス|43小笠原孝|47菊地正法|49M・ネルソン|50佐藤亮太|54赤坂和幸|58樋口賢|60高江洲拓哉|61久本祐一|64清水昭信|67高橋聡文|68長峰昌司|69小林正人 |
捕手 |
00前田章宏|22田中大輔|27谷繁元信|28小田幸平|37小山良男|39清水将海|59小川将俊 |
内野手 |
1堂上直倫|2荒木雅博|3立浪和義(打撃コーチ兼任)|6井端弘和|25新井良太|31森野将彦|32中川裕貴|36谷哲也|40西川明|44T・ウッズ|45森岡良介|46岩崎達郎|48澤井道久|53柳田殖生|55福田永将|57デラロサ|99中村紀洋 |
外野手 |
4藤井淳志|5和田一浩|7李炳圭|8平田良介|9井上一樹|24英智|30小池正晃|35上田佳範|51中村一生|56中村公治|62普久原淳一|63堂上剛裕 |
横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ) 1988年ドラフト指名選手 |
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1位:谷繁元信 / 2位:宮里太 / 3位:井上純 / 4位:堀江賢治 / 5位:石田文樹 / 6位:佐野貴英 |