多村仁
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多村 仁 福岡ソフトバンクホークス No.6 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県厚木市 |
生年月日 | 1977年3月28日(31歳) |
身長 体重 |
180cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1994年 4位 |
初出場 | 1997年4月4日 |
年俸 | 1億2000万円(推定) |
経歴 | |
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多村 仁(たむら ひとし、1977年3月28日 - )は福岡ソフトバンクホークスに所属するプロ野球選手(外野手)である。
目次 |
[編集] プレースタイル・特筆
強くてやわらかいリストを活かして広角に打ち分ける本塁打が最大の魅力の長距離ヒッターである。故障は多いが、プロ野球界でもきっての身体能力の高さを誇り、広い守備範囲と強肩にも定評がある。故障を気にしてか果敢な走塁は見られないものの、50mを5.6秒で走る俊足の持ち主である。
[編集] 来歴・人物
[編集] 高校まで
神奈川県愛甲郡清川村、厚木市出身。高校は横浜高校へ進学。高校時代の同期に矢野英司(元楽天)、斉藤宜之(東京ヤクルト)、紀田彰一(元西武)、ゆずの北川悠仁(歌手)がいる。
横浜高時代は斉藤宜之、紀田彰一とクリーンアップを組み3年生の春夏連続(1994年)で甲子園に出場。ちなみに夏の県大会決勝戦で勝ちを決めた直後、センターからベンチに駆け戻る途中で足がつってしまい、結局校歌を歌えなかったという逸話がある。
[編集] 横浜ベイスターズ時代
1995年、高校通算14本塁打の長打力を買われ、ドラフト4位で横浜ベイスターズに入団。もっとも打力より守備や走力が期待されていたという話もある。
1997年、このシーズンの開幕ゲームとなる、4月4日の対中日戦で公式戦初出場。この試合はナゴヤドーム初の公式戦で、多村は7回表に横浜の開幕投手・盛田幸妃の代打として登場。山本昌と対戦したプロ初打席は外野フライに終わった。4日後の4月8日には、対阪神戦で田村勤投手から初安打を放った。オフに1年目から痛めていた右肩を手術。
1998年、右肩リハビリのため1年を棒に振る。一・二軍とも試合出場なし。翌年も二軍のみ出場。
2000年、主に代打、途中出場で一軍定着、84試合出場で打率.257、7本塁打。
2003年、91試合の出場で打率.293、18本塁打、46打点と開花の兆しが見えだす。
2004年、初めて開幕レギュラーの座をつかむと、一気に開眼。強靭なリストを生かした打撃でホームランを量産し、8月15日に横浜・大洋通じて日本人打者として田代富雄以来23年ぶりとなる30本塁打を達成。10月6日には日本人打者として球団初の40本塁打を達成した。3割・40本・100打点は球団初の記録。
2005年、打率、本塁打共にリーグトップにたっていたが6月22日に腰痛で登録抹消。登録抹消期間の10日間で一軍復帰する筈だったが、6月29日、自ら愛車の黄色いポルシェを運転してベイスターズ総合練習場での二軍練習に向かう際、横浜横須賀道路の朝比奈IC付近でスリップして防音壁に激突するという事故(単独)を起こし、車は大破して多村も検査入院した。シーズンを通しては好成績を収めるも、交通事故による欠場への懲戒的措置として現状維持での契約更改を余儀なくされた。
2006年、ワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出され、好守や特大本塁打で初代世界一に大きく貢献した。3本塁打、9打点はチーム本塁打王・打点王だった。公式戦に入っても4月4日の中日戦(横浜スタジアム)で9回裏に岩瀬仁紀から起死回生の同点2ランを放つなど活躍していたが、4月20日から左肋軟骨挫傷のため一月ほど戦線離脱。そして復帰して半月ほど経った6月7日の楽天戦(フルキャストスタジアム宮城)にて本塁突撃時のクロスプレーの際に肋骨を4本折る重傷で長期離脱。シーズンの大半を棒に振ってしまった。オフには持病の腰のヘルニアにブロック注射を打ち再起を誓うも、シーズン終了後、一部の新聞で多村がトレード要員だと報道され、その真否から具体的なトレード先に至るまでいくつかの憶測報道が飛び交った。12月5日にソフトバンク・寺原隼人と1対1の交換トレードが成立し、正式に発表された。12月12日の入団発表会見で、背番号は横浜時代と同じ6と発表された。
[編集] 福岡ソフトバンクホークス時代
2007年、開幕戦に3番で出場し2本塁打を放つなど3安打猛打賞で最高のスタートときった。シーズンを通して大きな怪我をすることは無くても、試合中に痛めたときや疲労での途中交代が多かった。しかし初めてシーズン1度も2軍に落ちることなく、自己最高の132試合に出場したが、7月3日から9月6日まで本塁打が出ないなど、打率.271・13本塁打・68打点と打撃に関しては思うような結果が得られなかった。また、北京オリンピック野球代表最終候補に残り、背番号1が与えられていたが、腰痛のためオーストラリアとの強化試合に出られず、そのままメンバーから外された。
2008年は開幕から3番センターでスタメン出場していたが、腰痛のため4月18日から4試合欠場。4月23日から復帰したものの、4月25日のロッテ戦で3回表の守備中に大塚明の左中間への打球を追ってレフトの長谷川勇也と交錯し右足腓骨を骨折。前半戦の出場は絶望的となった。
[編集] 年度別成績
年 | 所属 | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 刺 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 |
打 率 |
失 策 |
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1995 | 横浜 | 52 | ─ | |||||||||||||||||||
1996 | ─ | |||||||||||||||||||||
1997 | 18 | 27 | 26 | 2 | 7 | 1 | 0 | 1 | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 0 | .269 | 0 | ||
1998 | ─ | |||||||||||||||||||||
1999 | ─ | |||||||||||||||||||||
2000 | 55 | 84 | 245 | 226 | 21 | 58 | 6 | 1 | 7 | 87 | 29 | 2 | 0 | 0 | 2 | 13 | 4 | 64 | 3 | .257 | 1 | |
2001 | 33 | 54 | 43 | 8 | 7 | 2 | 0 | 1 | 12 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 2 | 15 | 1 | .163 | 0 | ||
2002 | 81 | 196 | 183 | 23 | 43 | 8 | 0 | 5 | 66 | 16 | 3 | 1 | 2 | 0 | 9 | 2 | 54 | 1 | .235 | 1 | ||
2003 | 91 | 260 | 242 | 29 | 71 | 12 | 0 | 18 | 137 | 46 | 14 | 7 | 1 | 0 | 12 | 5 | 65 | 7 | .293 | 2 | ||
2004 | 6 | 123 | 492 | 449 | 80 | 137 | 26 | 2 | 40 | 280 | 100 | 10 | 7 | 1 | 1 | 39 | 2 | 126 | 8 | .305 | 3 | |
2005 | 117 | 499 | 450 | 71 | 137 | 26 | 2 | 31 | 260 | 79 | 2 | 4 | 0 | 1 | 43 | 4 | 108 | 6 | .304 | 3 | ||
2006 | 39 | 145 | 127 | 24 | 35 | 3 | 0 | 8 | 62 | 20 | 5 | 1 | 0 | 1 | 14 | 3 | 29 | 5 | .276 | 1 | ||
2007 | SH | 132 | 553 | 509 | 61 | 138 | 28 | 3 | 13 | 211 | 68 | 3 | 2 | 2 | 1 | 38 | 3 | 117 | 8 | .271 | 2 | |
通算 | 718 | 2471 | 2255 | 319 | 633 | 105 | 8 | 124 | 1126 | 364 | 39 | 22 | 6 | 7 | 176 | 25 | 587 | 39 | .281 | 13 |
年 | 位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | 外 | 7 | 5 | 1 | 0 | 0 | 1.000 |
2000 | 外 | 72 | 130 | 5 | 1 | 1 | .993 |
2001 | 外 | 27 | 27 | 2 | 0 | 0 | 1.000 |
2002 | 外 | 69 | 84 | 3 | 1 | 1 | .989 |
2003 | 外 | 85 | 122 | 2 | 2 | 1 | .984 |
2004 | 外 | 119 | 243 | 6 | 3 | 2 | .988 |
2005 | 外 | 115 | 240 | 5 | 3 | 1 | .988 |
2006 | 外 | 34 | 58 | 0 | 1 | 0 | .983 |
2007 | 外 | 126 | 223 | 2 | 2 | 1 | .991 |
[編集] 記録
- 初出場:1997年4月4日対中日ドラゴンズ1回戦(ナゴヤドーム)、7回表に代打として出場
- 初安打:1997年4月8日対阪神タイガース1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に田村勤から
- 初本塁打:1997年4月25日対中日ドラゴンズ4回戦(横浜スタジアム)、5回裏に前田幸長から
- 100本塁打:2005年9月17日対読売ジャイアンツ19回戦(横浜スタジアム)、8回裏に酒井順也から
- 初打点:1997年4月10日対阪神タイガース3回戦(横浜スタジアム)、8回裏に古溝克之から
- 初盗塁:2000年9月15日対読売ジャイアンツ25回戦(東京ドーム)、9回表に二盗
- 3打席連続本塁打
- 4試合連続本塁打
[編集] 高校時代の戦績・記録
- 1994年 - 全国高等学校野球選手権大会
- 2回戦、対那覇商高戦、2対4で敗戦。(2打数 0安打 0打点 1三振 0四死球 0本塁打)
[編集] 表彰
- 優秀JCB・MEP賞 - 2005年
- 厚木市民功労賞 - 2006年(WBC優勝貢献を称えて)
[編集] エピソード・家族
- 既婚。愛娘が二人いる。現在、妻と娘は横浜に在住で多村は単身赴任中となる。
- 入団当初より走攻守三拍子揃った選手と注目されていたものの、肝心なときに怪我をすることが多く、飛躍のきっかけを掴めなかった。それでも2003年に頭角を現し、2004年には40本塁打を放ちブレイクを果たした。この活躍は、「多少痛くても『痛い』と言わないこと」を覚えたのが最大の要因といわれる。その後横浜では中堅手、クリーンアップ(主に5番)として活躍。
- 横浜時代もホークス移籍後もチームでトップクラスの人気を誇るが、オールスターゲーム出場経験は無い。
- 出身地を「神奈川県厚木市」とされることが多いが、生まれてから幼少期までを過ごした場所は県のなかでも唯一の村である清川村である。山の中の自然に囲まれた環境で育ったが宮ヶ瀬ダム建設に伴い厚木市に引っ越している。生まれ育った生家は今もダムの底にある。
- 子供の頃から地元神奈川の球団、大洋ホエールズのファンであり、憧れていた野球選手はカルロス・ポンセであった。身内や親族も大洋ファンであったため、ドラフトで横浜から指名がかかったときは家族中で大喜びした。
- 横浜高校時代はとてもやんちゃで、練習中に小倉清一郎野球部長と衝突したり、渡辺元智監督が怒るとすぐに帰ってしまうこともあった。また「普通の高校生になりたい」と学校にすら来なくなってしまったことがあったが、多村の野球の才能を買っていた兄や同じ野球部の友人たちの励ましもあり、3年間野球を全うしていた。後に渡辺監督は多村のことを「純粋なところもあるが長続きせず、調教してるようだった」と語っている。
- 本人は外野守備・ファッションにこだわりがあり、彼の公式サイト名になっていて、用具にも刻まれている「6TOOLS(6ツール)」は、メジャーリーグでよく言われる5TOOLS(5ツール=打率、本塁打、足、守備、肩)に多村自身が自負するファッションセンスを加えたもの。(当初は"S"が無く、「6TOOL」だった。)
- 身体能力が高く、高いレベルの成績を残しているが、故障の多さもありまだタイトルには恵まれていない。
- 彼の怪我は野球の試合や練習中にとどまらず、ポスター撮影中にジャンプして右足関節を捻挫したり、プロ野球再編問題に伴うストライキの際に握手会で左掌の炎症を起こしたりしている。あまりの故障の多さから体質が弱いのではないかと一部のファンの間から思われている。
- 横浜時代の背番号6の前任者中根仁は多村より10歳上で、「多村が一人前になったら引退する」と公言していた。
- 2003年、甲子園球場にて、当時阪神タイガースが16連勝中だった横浜戦で敗戦した際、9回裏2アウトからレフトへのファウルフライを打ち上げた際、一部の阪神ファンが捕球した多村に向けてメガホンを投げつける暴挙にでた。後に多村は「本当に危ない。怪我するかと思った」と発言している。
- 2005年の交通事故の際、スリップした瞬間に諦めてハンドルから手を離そうとしたが、家族の顔が頭に浮かんだため、最後まで手を離すことはなかった、と述べている。
- 2005年12月5日、NTVスポーツうるぐす「2005アンラッキー王決定戦」の収録に西口文也、普天王とともに参加。釣り対決を行ったものの、釣れたのは魚の「ウロコ」のみ(しかし、西口は1匹も釣れなかったため、普天王1匹・多村ウロコ1枚・西口0匹で、ウロコの差で西口に勝利した)。最後に神社でお祓いしてもらったものの、おみくじで「凶」を引いてしまった。その影響かどうかは不明だが、実際に2006年シーズンが始まると怪我に苦しむことになってしまった。
- 松中信彦がインタビューなどで多村の話題が出ると必ず「彼は怪我が多いので」と話していた。本人も移籍を機に意識改革を行ったとインタビューで語っている(それまではそれ程でもなかった走り込みを徹底して行い、下半身強化に努めたなど)。
- ソフトバンクでは神奈川県出身の斉藤秀光、高橋徹、福田秀平やチームスタッフらと「神奈川県人会」を結成している。
- 低音でダンディズムを感じさせる声の持ち主。2007年2月末のジャンクSPORTS初出演の際には、浜田雅功からその声を「多村はえぇ声やなあ」と絶賛された。
- 北京五輪野球日本代表に選ばれるも、2007年11月22日に腰痛を訴えたところ、23日に代表選出取り消しの通告を星野監督より直に告げられた。マスコミ各紙は「辞退」と報道、多村はそのことに自身のHPで、不思議でならないと書いた。[1]
[編集] 関連項目
- 神奈川県出身の人物一覧
- 横浜ベイスターズの選手一覧
- 福岡ソフトバンクホークスの選手一覧
- あぶさん - この漫画の中で多村は「ハマのあぶさん」と紹介された。
- ライブドア - かつてマネジメント契約を交わしていた。
- スペランカー - その故障の多さから、キャラクターがすぐに死ぬ本作の名前をニックネームにされることが多い。
[編集] 外部リンク
監督 |
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89王貞治 |
コーチ |
80秋山幸二(チーフ)|88森脇浩司(内野守備走塁)|87井出竜也(外野守備走塁)|81新井宏昌(打撃) 85杉本正(投手)|82高山郁夫(投手)|84大石友好(バッテリー)|92山川周一(コンディショニング) |
二軍監督・コーチ |
76石渡茂(監督)|71鳥越裕介(内野守備走塁)|79五十嵐章人(外野守備走塁)|75山村善則(打撃) 77藤田学(投手)|74岩木哲(バッテリー)|94田之上慶三郎(コンディショニング補佐)|95川村隆史(コンディショニング) |
投手 |
00ホールトン|11小椋真介|13高橋秀聡|14馬原孝浩|16篠原貴行|17大場翔太|18新垣渚|19森福允彦 20スタンドリッジ|21和田毅|24高橋徹|28大隣憲司|31佐藤誠|33星野順治|34山田秋親|35ニコースキー 38神内靖|39久米勇紀|40藤岡好明|41岩嵜翔|43ガトームソン|44水田章雄|47杉内俊哉|48甲藤啓介 49パウエル|54川頭秀人|56柳瀬明宏|57三瀬幸司|59大西正樹|61山村路直|63大田原隆太|64西山道隆 66斉藤和巳|68竹岡和宏|91陽耀勲 |
捕手 |
12高谷裕亮|22荒川雄太|25的山哲也|26的場直樹|29加藤領健|62山崎勝己|70田上秀則 |
内野手 |
0仲澤忠厚|3松中信彦|5松田宣浩|9小久保裕紀|10本間満|32森本学|36明石健志|37福田秀平 45李杜軒|46本多雄一|50吉本亮|52川崎宗則|53金子圭輔|65藤井翼 |
外野手 |
1柴原洋|6多村仁|7大村直之|8江川智晃|23城所龍磨|27中西健太|30長谷川勇也 42レストビッチ|51荒金久雄|55小斉祐輔|58辻武史|60中村晃|69井手正太郎 |
育成選手 |
121山田大樹(投手)|122吉川元浩(内野手) |
横浜ベイスターズ 1994年ドラフト指名選手 |
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1位:紀田彰一 / 2位:米正秀 / 3位:福盛和男 / 4位:多村仁 / 5位:相川亮二 / 6位:加藤謙如 |