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横浜スタジアム - Wikipedia

横浜スタジアム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

横浜スタジアム
Yokohama Stadium
横浜スタジアム
施設データ
所在地 神奈川県横浜市中区
横浜公園無番地
起工 1977年4月
開場 1978年4月4日
所有者 横浜市
管理・運用者 株式会社横浜スタジアム
グラウンド 内外野 - ロングパイル人工芝
照明 照明灯 - 6基
照度 - バッテリー間:2500ルクス
     内野:2000ルクス
     外野:1650ルクス
建設費 約48億円
設計者 創和設計
建設者 清水建設大成建設など
11社による共同企業体
使用チーム • 開催試合
横浜ベイスターズ(1978年~現在)
収容能力
30,000人(内野:24,000席、外野:6,000席)[1]
グラウンドデータ
球場規模 両翼 - 94 m(約308.4 ft)
中堅 - 118 m(約387.1 ft)
グラウンド面積 - 13,000m²
フェンス 5 m (約16.4 ft)

横浜スタジアム(よこはまスタジアム)は、日本神奈川県横浜市中区横浜公園内にある野球場日本プロ野球横浜ベイスターズの本拠地(専用球場)として使用されている。

目次

[編集] 概要

1978年3月、老朽化した横浜公園平和野球場(よこはまこうえん・へいわやきゅうじょう、通称「平和球場」)の跡地に竣工。同年より、川崎球場から移転した横浜大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)の本拠地となったほか、神奈川大学野球連盟のリーグ戦や、全国高校野球選手権の神奈川大会等、アマチュア野球の会場としても用いられる他に、アメリカンフットボールの会場としてもしばしば利用されている。高校野球夏の大会では、開会式のほか1回戦から使用され、準々決勝以降は保土ヶ谷球場にかわりメインスタジアムとなる。

施設は横浜市が所有し、市などの出資による第三セクター・株式会社横浜スタジアムが運営管理を行っている。どんぶりを傾けたような外観と、横浜のイニシャル“Y”を模した、逆三角形の6基の照明塔が印象的。2003年から新型人工芝「フィールド・ターフ」を、日本の屋外球場では初めて[2]採用した。

よく使用される通称は「ハマスタ」であるが、地元では「スタジアム」あるいは「ヨコスタ」と呼ぶ場合が多い。「ヨコスタ」については、湘南シーレックス(ベイスターズの2軍)の本拠地である横須賀スタジアムと重複する可能性があるため[3]、この呼び方を好まない人もいる。

[編集] 特徴

株式会社横浜スタジアム
Yokohama Stadium Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 231-0022
神奈川県横浜市中区横浜公園
電話番号 045-661-1251
設立 1977年(昭和52年)2月
業種 サービス業
事業内容 プロ野球興行
催し物開催のための施設の運営及び賃貸
物品の賃貸
広告及び放映放送契約
場内売店等の経営
入場券、キャラクターグッズ等の販売
代表者 鶴岡 博(代表取締役社長)
資本金 34億8,000万円
売上高 連結:37億9,606万4千円
単独:37億4,326万0千円
2008年1月期)
総資産 連結:149億6,225万6千円
単独:145億5,285万2千円
(2008年1月期)
従業員数 連結:46名 単独:43人
(2008年1月31日現在)
決算期 1月31日
主要株主 (株)テレビ朝日 5.74%
(株)横浜ベイスターズ 5.74%
(株)東京放送 5.74%
(株)フジテレビジョン 5.74%
横浜市 5.74%
主要子会社 横浜球場商事(株) 100%
スタジアム・エンタープライズ(株) 100%
外部リンク www.yokohama-stadium.co.jp
  
横浜スタジアム・公式戦の様子
横浜スタジアム・公式戦の様子
横浜公園の中にある横浜スタジアム
横浜公園の中にある横浜スタジアム
ベイスターズファンで盛り上がるライトスタンドの様子
ベイスターズファンで盛り上がるライトスタンドの様子
一塁側内野席より
一塁側内野席より

[編集] 日本初の多目的スタジアム

内野スタンドの前段は可動式。野球場としての使用時にはVの字になってるが、一、三塁側前列を移動させて平行にすることができる。この可動式スタンドや昇降式マウンドは、いずれもプロ野球以外の興行への使用を前提に設置された。このため、横浜スタジアムは日本で初めて設計段階から多目的スタジアムとして造られた建築物といってよく、その後のドーム球場を含めたプロ用野球場の設計に与えた影響は少なくない。また、プロ用野球場としては日本で初めて、建設時から全面人工芝グラウンドを採用している。

横浜スタジアム建設前の横浜市内には大型の競技場やコンサートホールなどがなく、スポーツや興行の分野では魅力の薄い街であったが、スタジアムの完成がこれらの分野の発展にも大いに寄与した。長年にわたり横浜国際女子駅伝の発着会場となった[4]ほか、Jリーグ草創期にはグラウンドに天然芝のマットを敷いてプレシーズンマッチを行ったこともある。

また、コンサート会場としても数多く利用され、国内外の多数の有名アーティストが過去に大規模コンサートを行なってきた。しかし屋根がない横浜スタジアムは、天候によってイベント開催の可否が左右されやすく近隣への騒音問題もあり、また3万人収容という施設に応じた集客が難しいことから、横浜アリーナ横浜国際総合競技場(現・日産スタジアム)が完成した1990年代以降、野球以外でスタンドが満員になるような大きなイベントにはそれ以前ほど使用されなくなっている。だが、TUBEは20年以上にもわたり毎年8月で横浜スタジアムでコンサートを実施しており、夏の風物詩となっている。また、近年では毎年夏頃に1回程度、国内の有名アーティスト1組が野外コンサートを開催している。

[編集] 建ぺい率の問題

建物の立体的な外観は、他の野球場に見られるような垂直的なそれではなく、スタンドの上辺が広く下辺が狭い逆円錐形をしている。これは都市公園法施行令第6条1項1号で定められている、都市公園内運動施設の建ぺい率規制によるもので、スタンドの下辺をもって建ぺい率を計算する[5]ためのいわば苦肉の策である。兎にも角にも面積上の問題をクリアするためにかなり無理のある設計を行っている。また、近年に建設されたいわゆる「国際規格」の野球場に比べ、収容観客数の少なさやグラウンド面積の狭さが指摘されて久しいが、法規上の限界[6]の中で設計されていることから、スタンドの増築を伴う観客席増設や、スタンドの構造変更を伴うグラウンド面積の拡張なども、法令の改正がなされない限り事実上不可能である。

また、これも設計限界によるものだが、ダッグアウト裏やグラウンド内に場所が確保できなかったため、ブルペンは外野スタンドの下に存在する。従って、横浜スタジアムの外野フェンスは高さがドーム球場並みに5mもあり、グラウンド内でバウンドした打球がフェンスを越えてエンタイトルツーベースに至ることはほとんどあり得ず、フェンスによじ登ってのフライ捕球もまず不可能である。ちなみに、ブルペンは目隠し用のテントと侵入防止用の鉄柵を隔てただけで横浜公園に面しているので、球場外からリリーフ投手の投球を受ける捕球音やブルペン捕手の掛け声を聞く事が出来る。

また、フェンスが高いためホームランの出にくい球場ではあるが、外野スタンドが狭いため、パワーヒッターであれば場外ホームランを打つ事も可能である[7]

ダッグアウトとブルペンの間は連絡路がなく隔絶されているため、プロ・アマ問わずリリーフ投手は試合前からブルペンで待機するか、試合中の攻守交替時にグラウンドを歩いてブルペンに向かわなければならない。また、ブルペンからマウンドまでが遠いので、プロの試合における投手交代時は通常、リリーフカーを使用する。球場誕生時は日産自動車ブルーバード910型のオープンカーを使い、その後は同社のBe-1エスカルゴを経て、現在のリリーフカーはトヨタ自動車のスポーツカー・MR-Sを改造したものを使用している。

[編集] 短所と長所

上記で述べた通り、法規制クリアのため設計上の無理が少なからずあり、以下のようなしわ寄せが来ている。観客の立場から見て不都合な点も多く、必ずしも快適に観戦できる球場とは言い難い。

  • 両翼ポール際付近はスタンドのどの位置からも死角になりやすく、例えば一塁側内野席やライト側外野席に座ると、ライト線に打球が行った場合フェアかファウルかが判りづらい。またフェアであっても外野手の打球処理が見えない。ただし、この種の不具合はその後建設されたドーム球場でも似たような傾向が見られる。
  • 外野スタンドは傾斜が急なのに加えて、スコアボードが最後列よりも大分前に設置されているため、見づらい所や全く見えない所が存在する[8]
  • 2007年に改修されたベイブルーシートエリアを除くと、内外野とも前後の座席間隔が狭いため試合中の離席が困難。
  • コンコースが狭いため売店やトイレが少なく、試合終了時に通路やゲートがとても混雑する。また、スタジアムが全席禁煙化されてからは、コンコース内やスタジアム外周に張り出して設置された喫煙場所を利用する喫煙者で、コンコース中が混雑している。
  • オープン当初はスコアボード後方の通路で左右の外野スタンドを連絡していたが、トラブル防止のために通路は閉鎖され、完全に分断されたため、ライト側観客席からレフト側観客席、あるいはその逆の移動はできない。

しかしその一方で、以下の点は他球場と比較して有利とされる。

  • ファウルゾーンが狭く内野スタンドのネットも撤去された事から、観客とプレーする選手との距離が近く感じられ、臨場感が大きい。また試合の前後に、内野スタンドから直に選手と握手したりサインを求めたりする事ができる[9]
  • 鉄道路線が三つ(横浜市営地下鉄・みなとみらい線・JR根岸線)も通り、いずれも球場から徒歩5分以内の所に駅があるため、都心や横浜市内からのアクセスがよく、延長戦でも比較的安心して観戦できる。
  • 球場周辺に、横浜中華街山下公園など試合の前後に立ち寄れるような観光スポットが多くある。
  • 伊勢佐木町などの繁華街が近く、球場周辺にナイター終了後も営業している飲食店が多くある。

[編集] ゲーリッグとルースのレリーフ

横浜スタジアムには、外野レフトスタンドのポール際にベーブ・ルースのレリーフが、ライトスタンドのポール際にルー・ゲーリッグのレリーフがそれぞれ設置されている。これは、後述の通りルースやゲーリッグというメジャーリーグベースボールの歴史に名を残すスターがこの地でプレーした事を記念するものである。

[編集] 名球会入り選手のプレート設置

2006年からは、名球会入りしたホエールズ、ベイスターズの選手の名前を入れたボール模様のプレートをライト外野スタンドに設置し、その功績を称えている。配置は右中間からライトポール際に向かって、以下の通り。

[編集] 売店

売店は内野スタンド2階通路と外野スタンド1階に設置されている。高校野球の時は外野席の売店は営業しない(内野席が満席の場合、外野席が開放される。この時内野席から外野席へは移動できるが外野席から内野席への移動はできない)。内野スタンド一塁側にはマクドナルドが、三塁側にはケンタッキーフライドチキンがある。一時期ミスタードーナツもあったが今は撤退。場内で販売されている牛丼は以前は吉野家だったが2001年頃からはなか卯となっている。

また、スタジアム内で売られている「みかん氷」が名物となっている。かき氷の上に缶詰みかんが乗り、その上に缶詰みかんのシロップをかけたもので、一杯300円。大久保博元も推薦している。特に真夏のデーゲームで行われる高校野球神奈川大会の時には、購入までに長時間待たされることもある。但し、1,3塁側の内野売店(2004年までは3塁側のみ)での販売。2007年からは1塁側のみだが、みかんの代わりに缶詰パイナップルとシロップを使った「パイナップル氷」が発売された。一杯350円。

崎陽軒シウマイ弁当の掛紙は横浜スタジアムオリジナルの物が使われている。

内野席中程の3階には2005年に既存のレストランを改修した「カフェ・ビクトリーコート」が有り、店内にはベイスターズ(ホエールズ)の歴代のユニフォームや優勝ペナント等が飾られている。

[編集] その他

  • 上記のような球場の特色は、観客の応援スタイルにも影響を及ぼしている。ジェット風船を使った応援は、横浜市のポイ捨て・喫煙禁止条例抵触と試合進行妨害近隣を走る根岸線への影響[10]を理由に禁止している。また、東京ヤクルトスワローズ応援団による「ビニール傘応援」は、座席間隔が狭いため危険として一時期禁止されていた。
  • バックスクリーンが肌色と相対色である青色であるため、投手のリリースポイントが見やすい。そのため当球場での試合は乱打戦になる傾向がある。
  • 横浜の選手に本塁打が出ると"Good-bye Baseball!"のアナウンスと共に汽笛が鳴り響く。
  • かつてグラウンドにカラスが入り込んで試合が中断したことがある。また、雨が降ったときに外野グラウンドにが入り込んできたこともあった。

[編集] 球場の歴史

[編集] 横浜公園球場

現在の横浜スタジアムになる前にも、この地には2つの球技場が存在した。1つ目は、1874年に完成した「彼我公園(ひがこうえん)」。これは在日外国人のクリケットグラウンドとして整備され、1896年には地元外国人チームと旧制第一高校との国際野球試合が開催された。

2つ目は、1929年関東大震災復興記念事業の一環として整備された「横浜公園球場」である。この球場では1934年に、ルー・ゲーリッグやベーブ・ルースらを擁するアメリカ大リーグ選抜軍と、沢村栄治苅田久徳らを擁する日本代表チームとの間で現在の日米野球の前身となる親善試合も開かれた。

[編集] 太平洋戦争と捕虜収容所時代

第二次世界大戦太平洋戦争)が激化した1942年9月には球場の使用が停止される。スタンドは「東京捕虜収容所第3分所」となり、日本軍が占領地で捕虜にした連合軍兵士を収容した。同収容所は1944年5月に閉鎖されるが、翌1945年8月に日本が敗戦、9月に球場は連合軍の接収を受けた。

[編集] 「ルー・ゲーリック・スタジアム」と日本初のナイトゲーム

横浜市内の競技施設でほぼ同時期に連合軍に接収された横濱競馬場は、本来とは違う使用目的(住宅施設等)に供されたが、横浜公園球場は接収下でも野球場として利用され、球場名も、この地でプレーし日米開戦の直前に世を去ったゲーリッグにちなんで、「ルー・ゲーリック・スタジアム[11]」と改称された。接収中の1948年8月17日、この「ルー・ゲーリック・スタジアム」で、日本初の職業野球公式戦のナイトゲーム開催が実施された。対戦カードは読売ジャイアンツ中日ドラゴンズ戦で、3-2で中日が記念すべき日本のナイトゲーム初勝利を飾った。試合開始は20時過ぎだった。この8月17日は現在でも「プロ野球ナイター記念日」とされている。

[編集] 「平和球場」への改称、そして老朽化

1952年に連合軍の接収解除に伴い横浜市に返還され、1955年に「横浜公園平和野球場」と再度改称される。しかし、市民の間には正式名称よりも略称である「平和球場」という呼び方のほうが定着した。本稿でも以下は平和球場の略称を用いる。

返還された平和球場はプロ野球の試合こそほとんど行われなかったものの、高校野球神奈川大会や社会人野球などアマチュア野球の会場として大いに活躍した。しかし、築40年を超えて建物の老朽化は深刻になり、1970年には、躯体のコンクリートが酸化して観客の重量を支えきれなくなったという理由から、スタンドの上半分が閉鎖された。これによってもともと15,000人程度であった観客収容数が半減してアマチュア野球の大会にも使用できなくなり[12]、野球好きの市民の間に建て替えとプロ球団誘致を求める署名活動などが行われるようになった。

一方、この頃の大洋球団は、巨人戦以外は全く集客の伸びない川崎球場に限界を感じており、同じ県内でもより知名度が高く人口も多い横浜へ本拠地を移転する構想を持っていた。しかし、老朽化で倒壊の危険性があり10,000人の収容すら出来なくなった平和球場は、プロ野球興行の専用球場としては到底使用できない状況であった。そこで大洋球団は1972年11月22日、横浜市に対し「横浜平和球場が改築した折には、本拠地を川崎から移転したい」と申し入れを行い、当時横浜市長だった飛鳥田一雄の同意を得て覚書を取り交わした。

[編集] 新球場建設へのハードル

飛鳥田市長は、大洋の移転意思もあって球場建設にはやぶさかでなかったが、日本経済は折からの第一次オイルショックにより停滞。当然横浜市の財政もよいわけがなく、市が単独で建設の予算を捻出することなど到底不可能な状況だった。また、当時はみなとみらい21地区の造成もまだ構想段階であった上、市内には随所に返還の目処が立たない米軍接収地が点在していたため、横浜公園以外で同等の交通アクセスを確保できるような土地はなかった。従って、球場の建設イコール平和球場の建て替え、という図式へ必然的に流れていったが、平和球場を解体してプロ野球も開催可能な規模の球場を建設するには、公園内建築物の建ぺい率制限や、所管官庁である建設省との折衝、さらに神奈川県立武道館等、球場建設によって移転を迫られる横浜公園内施設の代替地問題など、資金面以外にもさまざまなハードルがあった。中でも、横浜公園内の米軍横浜チャペルセンターの立ち退きに際しては、日本政府のほかに米軍当局との調整も必要であった。

[編集] 着工へ

建設中の横浜スタジアム。横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影)。国土画像情報(カラー空中写真)(国土交通省)を元に作成。
建設中の横浜スタジアム。横浜公園内には解体前の県立武道館・米軍チャペルセンター・野外音楽堂がまだ存在している(1977年撮影)。国土画像情報(カラー空中写真)国土交通省)を元に作成。

しかし、飛鳥田市長の斡旋により国土計画(現プリンスホテル)総帥・堤義明が球団株の一部保有と建設資金3億円の融資を表明すると、建て替えの機運は急加速をはじめる。やがて飛鳥田らの奔走により資金以外の問題は順次クリアされ、堤による支援のほか市民からの株主も募り[13]1977年ついに第三セクター法人の運営会社「株式会社横浜スタジアム」が設立される。そして1977年4月1日、市の建替え計画に対し大蔵省の許可が下り、球場の建設が開始された。

通常、この規模の建築物であれば2年前後の工期がかかるが、横浜スタジアムは翌年のプロ野球開幕に間に合わせるため、平和球場の解体を含めて1年程度の非常に短い工期が組まれることとなる。このため着工当初は7社程度のゼネコンによる共同企業体であったが、工期の関係上最終的には11社に及ぶゼネコンが結集し、超突貫体制で建築作業が行われた。法律上、公有地に企業が運営する施設を設置することができないため、建設は横浜スタジアム社が行った上で、一旦横浜市に施設を無償譲渡する形を執り、運営を横浜スタジアム社が行うという形が取られた。なお平和球場解体の際、スコアボードは藤沢市八部野球場に移設され、その後10年ほど使われていた。

この間、大洋球団は6月15日、横浜移転を前提として検討を進めている旨を発表。そして8月20日、翌1978年から横浜スタジアムを専用球場とすることを川崎市に正式に通達した。しかし、大洋側がそれまで川崎市側に対して配慮を行わず、突然一方的に移転を伝えられたことで川崎市は激怒。市内の19団体が「エントツだけのまちにしないで。」とキャッチフレーズを銘打って移転反対を唱えるキャンペーンを行い、当時の市の人口の約半分に当たる54万人分の署名を集めるなど、一時猛反発を呼ぶ事態となった。

[編集] 落成

幸い工事は工期どおり無事に終了し、1978年3月、晴れて横浜スタジアムは完成。同年4月4日に杮落としとなる横浜大洋ホエールズ(移転により改称)-読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、前年新人王の斉藤明雄の力投により地元大洋が4-1で勝利して花を添えた。この試合の始球式は、前市長として建設に尽力した飛鳥田一雄(この時の地位は日本社会党委員長)が行っている。

[編集] ロッテ共用問題

横浜スタジアムの着工が正式に決定した頃、ロッテオリオンズは大洋球団に対し、「横浜スタジアムをロッテも本拠地として共用し、年間40試合前後の公式戦を開催したい」と申し入れを行った。

1972年に本拠地の東京スタジアムを失ったロッテは、この頃は宮城県仙台市の県営宮城球場を一応の専用球場としていたが、東北新幹線は未開通、航空機も今ほど気軽に利用できる交通手段ではなかった時代であり、6球団中4球団が西日本に本拠を置き、さらに各球団とも現在とは比べ物にならないほど観客動員数の低かった当時のパ・リーグでは、カード毎の長距離移動はロッテ球団・相手球団ともに選手の肉体面や経費の面で非常に負担が大きかった[14]。それゆえ、世間では首都圏に球場が確保できればいずれロッテは仙台を捨ててそこへ戻るだろうと考えられており、事実、横浜スタジアムの建設はロッテ球団にとって願ってもない好都合な出来事であった。

しかし、横浜スタジアムの単独使用を既定路線として進めていた大洋球団は、共用によって日程上の制約を受ける事を嫌いロッテ球団の申し入れを拒否した。このとき大洋球団は既に川崎市に対し正式な移転通告をしていたため、プロ野球興行がもたらす経済効果を得たい横浜市と、それを喪失したくない川崎市、全国2位の人口を誇る大都市横浜で集客を伸ばしたい大洋球団とロッテ球団、以上4者の思惑が交錯し、マスコミ等世間も注目する中[15]で竣工間近まで交渉が続いた。

だが、横浜スタジアムの使用順位については、すでに神奈川県における地域保護権を持つ大洋球団の優位を覆すことはできず、また当時のロッテの選手や首脳陣が人工芝球場を好んでいなかったともいわれ、結局当初の予定通り横浜スタジアムは大洋の専用となり、ロッテは川崎球場に落ち着くこととなった。

本拠地問題が収束した後も、大洋球団が横浜移転発表前後に配慮を行わず紛糾を呼んだ経緯などから、川崎市と大洋球団は半ば絶縁状態となり、大洋(横浜)球団の川崎球場での公式戦開催は横浜移転後の1978年から1992年までなかった。1993年には16年ぶりに阪神タイガース戦が1試合のみ日程が組まれたものの雨天中止となり、代替試合は横浜スタジアムで開催された。このため、同球場のスタンドが撤去される2000年まで、大洋・横浜の公式戦はついに一試合も行われることはなかった[16]

[編集] 建設後の主な改修

デーゲーム・スコアボード
デーゲーム・スコアボード
ナイトゲーム・スコアボード
ナイトゲーム・スコアボード
ライトスタンド側・照明塔
ライトスタンド側・照明塔

横浜スタジアムは、完成後現在に至るまでの間に幾度も改装を受けている。

  • 1978年 シーズン途中、ダッグアウト前にフェンスを設置
  • 1989年 スコアボード大規模改修。選手名・得点表示部は、選手名・回数ごとに分割して表示部が設けられていたが、全面連結表示になり、光源も白熱球からLED(発光ダイオード)となった。また、映像表示部は動画も橙単色で写していたが、フルカラー式のものに改められた
  • 1998年 内野人工芝張替え
  • 1999年 スコアボード改修(東芝ライテック製:スーパーカラービジョン)。選手名・得点表示部分を橙単色LEDから3色(赤・緑・橙)LEDに変更。映像表示部も解像度の高い画面に交換。外野席をベンチシートから背もたれ付コンパートメントシートに換装。全席禁煙化。また、開場以来のメインスポンサーであった日産自動車が経営不振により撤退し、トヨタ自動車が日産に替わってその座に着いた。その影響で、スコアボード上端の広告が日産の「LIFE TOGETHER」からトヨタの「クルマが未来になっていく。」に改められている。2008年現在では「Drive Your Dreams.」
  • 2001年 外野人工芝張替え。リリーフカーも10年ぶりに代わり、開場以来の日産車(最後は日産・エスカルゴの改造車)からトヨタMR-Sの改造車に変更。
  • 2003年 内外野人工芝を、アメリカのメジャーリーグやサッカーの競技場の天然芝球場風の着色が施され、限りなく天然芝に近い感触とされる「フィールド・ターフ」に張替え、国内で野外の野球場では千葉マリンスタジアムと同時に初めて導入した。
  • 2004年 球場内ミニFM放送「FMハマスタ」用の放送ブースを、バックネット裏最上段に設置。
  • 2005年 内野スタンドから、バックネット以外のフェンスを撤去。また、開設時からライトスタンド中段に設置されたエレクトーンブース[17]も撤去。これによりライトスタンドの席数が若干増えた。そのほか、レストランやトイレ等、コンコース内の施設を改修した。
  • 2006年 外野フェンスラバークッションの高さをフェンス上端までかさ上げし、クッション厚も変更。ブルペンのマウンド数を一塁側・三塁側とも2箇所から3箇所へ増設。バックネットに広告表示用のLED画面(ファンケル化粧品協賛の広告を掲示)を設置
  • 2007年 バックネット裏[18]の座席を従来のオレンジ色のシートからベイスターズのチームカラーでもあるブルーのシートに変更。シートも跳ね上げ式になり、座席幅・間隔も10cm近く拡張される。その分座席数は2,000ほど削減されることになった。削減分は内野席最上段に立ち見スペースを設けることで、30,000人の収容能力を維持している。また、従来はスコアボード下のみにあったスピーカー設備を内野照明灯(4カ所8個)下にも設置した。

[編集] スコアボードの改修

スコアボードは白熱球を使用していた時代(1988年まで)は1回-延長10回までのスコアを表示し、11回からは改めて表示をクリアして1回のところから表示し直す方式だった。

1989年の改修で橙単色LEDが使用された時代は延長戦の場合はそれが行われるイニング分左にスライドしていく形(例えば延長10回が行われる場合、1回のスコアが消去され2回~10回のスコアが表示される)だった。

1999年の改修でカラー化されてからは再び10回まで表示され、11回以後は改めて表示をクリアし、対戦チームの横に10回までのスコア、そしてその右隣に11回~18回のスコアを表示できるようにしている。

[編集] 過去に起きた新球場建設の動き

近年は横浜スタジアムに替わる新球場建設の動きも見られた。[19]

[編集] 新鶴見操車場跡地の利用

1990年代の初めには近郊の新鶴見操車場跡に新球場を建設することを目指し入札手続の準備を進めたが、入札に参加しなかったためそれが頓挫したこともあったといわれている。

[編集] 横浜ドーム構想

横浜ベイスターズ(横浜大洋ホエールズ)が、この球場を本拠地としてから初めて本格的な優勝争いに加わった1997年から優勝した1998年にかけて、多くのファンが大挙して横浜スタジアムへ集うようになった。特に1998年はゴールデンウィーク以降、どの対戦カードも公式発表で2万人を超える入場があり、当日チケット発売なしの試合も決して珍しくなかった。このため、チケットを買いそびれたファンからは横浜スタジアムの収容観客数の少なさが叫ばれ[20]、入場できたファンからも施設の狭さに対する不満が続出した。これに乗じた高秀秀信横浜市長(当時)は、みなとみらい21地区に多目的ドームを前提とした新球場建設を提案し[21]、横浜商工会議所等の地元経済団体も呼応する動きが見られた。

しかし当初から、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)など他都市で多目的ドームの経営失敗例が生じたことや、横浜アリーナ等の既存施設と完成後の使用目的が一部競合することなどから、ベイスターズファンであるなしを問わず、多くの横浜市民が多目的ドームの必要性・採算性に疑問を持っていた[22]。それに加え、2000年代に入るとベイスターズの成績がふたたび低迷し観客数も減少。さらに2002年、主唱者であった高秀が市長選に敗れて退陣し(その直後に死去)、新市長に就任した中田宏によって横浜市が不要不急な公共事業を凍結する政策に転換した[23]こともあり、新球場構想はたちまち頓挫した[24]

その後、高秀の構想によって新球場建設予定地と目されていた西区高島1丁目の広大な空き地は、日産自動車との定期借地によりJリーグ横浜F・マリノスの練習場・クラブハウス(マリノスタウン)、ならびに横浜市の横浜みなとみらいスポーツパーク(管理・運営は(財)横浜市スポーツ振興事業団)となった[25]

[編集] 交通機関

[編集] 脚注

  1. ^ 消防法上の定員は30,730人となっている。
  2. ^ ドームも含めた野球場での初採用例は、2002年の東京ドーム。屋外球場では横浜スタジアムと同時に千葉マリンスタジアムも採用。
  3. ^ もっとも、横須賀スタジアムは「スカスタ」と呼ばれることが大抵である。
  4. ^ 現在の発着場所は横浜赤レンガ倉庫
  5. ^ スタンドのいわゆる「軒下」にあたる部分やグラウンドは、法令上の「建築物」とは見做されず、建ぺい率の計算対象から除外される。
  6. ^ 建ぺい率10%以下でなくてはならない。
  7. ^ 実際に、何人かの選手が過去にしばしば場外ホームランを放っており、その中には投手のバルビーノ・ガルベスも名を連ねている。また、松井秀喜タイロン・ウッズは、一人で複数回打っている。
  8. ^ バックネット裏のスタンド最上段に一応サブスコアボードは存在するが、これに表示されるのは得点経過とSBOカウントだけであり、打順表、球速表示、動画スクリーン等は見ることができない。
  9. ^ ただし、ビジターチームの選手は横浜ファンに配慮してあまりスタンドに近づかず、内野席からのサインの要求にも応じない傾向にあるが、最近は横浜ファンが一塁側に集まるようになったため、オープン戦や平日の試合などではサインを求めたりすることができる場合もある。
  10. ^ 風に流された風船が架線に付着し、列車がストップする恐れがある。
  11. ^ 当時の日本では「ゲーリッ」と発音していた。
  12. ^ このため、高校野球神奈川大会の開会式、閉会式、決勝戦を保土ヶ谷球場で行うようになった。
  13. ^ オーナーズ・クラブをつくり、内野席年間シートを45年間与えるというプレミアムつけ、募集一口250万円の市民株主を800口募集し20億円の資金を得る。(有隣堂『有鄰』第398号 2001年1月1日発行)
  14. ^ いわゆるジプシー・ロッテと呼ばれていた問題である。
  15. ^ 一部では両球団の合併報道や、横浜スタジアムや大洋球団に国土計画が出資していたことから「西武が大洋を買収」という報道もあった。
  16. ^ 但し、オープン戦は1994年と2000年に開催されている。1995年にもオープン戦の日程が組まれたが、雨天中止となった。
  17. ^ このエレクトーンブースはスタジアム名物だったものの、マルハからTBSにベイスターズの筆頭株主が交代した2002年から使用されなくなっていた。ちなみに、開設当初はレフト側に設置されていた。
  18. ^ 9・11・13・15・17ゲート周辺、可動席部分を除く。
  19. ^ 横浜スタジアム建設の際に募集した800口の市民株主によるオーナーズ・クラブの存在により、新規に建設される球場は(株)横浜スタジアムの運営、及び横浜ベイスターズの新球場への移転が前提とされる。また、このオーナーズ・クラブの存在によって、2023年まで横浜ベイスターズは専用球場を(株)横浜スタジアムの運営する球場以外の場所に設置できないと規定されている。
  20. ^ 当時、特に外野自由席は私設応援団やその関係者による座席の大量占拠によって立ち見を余儀なくされる一般入場客が多く、問題化していた。これは、1999年の外野座席のコンパートメントシート化や外野指定席の導入によって多少は改善したが、絶対的な座席数にはほとんど変化が見られなかった。
  21. ^建設省出身で土木・建築業界を支持基盤としていた高秀は、1998年の市長選で、ベイスターズの優勝を条件にドーム球場建設を公約している。
  22. ^ この当時、ベイスターズの公式戦が行われる日に横浜公園内で「横浜ドームを実現する会」という団体が連日署名運動を行っていた。この署名活動にはかつてベイスターズ(大洋ホエールズ)に所属していた選手も多数署名したという。「実現する会」の実体は、横浜商工会議所の青年部や建設関連業者など、主に新球場建設の利権に絡む人々であった。2002年には「TBSがプロデュース、横浜ドーム」という記事がスポーツ新聞のトップに出た。そこには、横浜ドームは世界の何処のドームを参考に建設されれば良いかなどの比較写真なども掲載されていた。一方で、熱狂的ベイスターズファンは試合中にライトスタンドから「ハマドーム、イラン」や「横浜ドームはいらない」と書かれた横断幕を掲げたりした。前掲の新聞記事には、反対派からの抗議もあったほか、以前から続いていた「実現する会」のホームページに設置されていた掲示板の荒らしが一層酷くなるなどの被害があった。
  23. ^ 中田市長はラジオ番組に出演した際「横浜ドームは不要。横浜スタジアムの可動式スタンドを使えなくしてでも天然芝にするか、東京ドームで今年(2002年)から導入されたフィールドターフを導入すればよい」と発言していた。
  24. ^ 「実現する会」のホームページは閉鎖され現存せず、今日では横浜ドーム建設構想があったことすらも感じさせない風潮である。
  25. ^ 横浜高速鉄道みなとみらい21線新高島駅構内の柱や改札口などに「マリノスタウン」と書かれている。

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前本拠地:
川崎球場
1955 - 1977
横浜ベイスターズの本拠地
1978 - 現在
次本拠地:
n/a
-


 

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