斉藤明夫
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斉藤 明夫 横浜ベイスターズ No.77 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市伏見区 |
生年月日 | 1955年2月23日(53歳) |
身長 体重 |
184cm 83kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1976年 ドラフト1位 |
初出場 | 1977年5月8日 |
最終出場 | 1993年10月22日 |
経歴 | |
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斉藤 明夫(さいとう あきお、1955年2月23日 - )は、京都府出身の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。1981年までの登録名及び本名は斉藤 明雄(読み同じ)。
大洋・横浜大洋・横浜全ての時代で活躍した唯一の選手である。力のあるストレートと挑発的なスローカーブを武器に活躍。
目次 |
[編集] 来歴・人物
花園高等学校を経て大阪商業大学へ進学。全日本大学野球選手権大会で2度の優勝投手に輝いた逸材として、1976年秋のドラフトで大洋から1位指名を受け入団。球団は斉藤への期待を込め、秋山登や山下律夫らが付けたエースナンバーの17を与えた。
1977年は、新人ながら開幕1軍。8月30日の対巨人戦で、王貞治の本塁打世界記録(755本)達成を阻止したうえプロ初完封、一躍脚光を浴びる。このシーズンは8勝9敗で、西本聖を押し退けて新人王を獲得。翌1978年は、新築された横浜スタジアムのオープニングゲームに先発。見事に完投勝利し、同球場の公式戦勝利投手第一号となる。この頃からトレードマークの口ひげをたくわえるようになる。1981年には遠藤一彦と入れ替わりで抑え投手に転向。5勝15敗10Sをあげる。1982年登録名を「明雄」から「明夫」に改名。当時の日本記録である8連続Sとシーズン30Sを達成、リーグ最多セーブを記録する。さらに規定投球回に達し最優秀防御率のタイトルも獲得。1983年には10勝8敗22Sで最優秀救援投手のタイトルを獲得。1986年には2度目の最優秀救援投手となる。
しかし、1988年の開幕直後に右膝半月板を損傷し、先発投手に再転向。7月3日の対中日戦で、右投手では史上初、左右あわせても史上3人目の通算100勝100Sを達成する。1993年には投手兼任コーチに就任するも持病の右膝痛が悪化し(主治医には「60歳代の膝と同じ状態」と言われた)、現役引退を表明。10月20日の対ヤクルト戦で通算600試合登板を果たし、2日後の10月22日の対広島戦で現役最終登板。
引退後は1994年~1995年フジテレビの解説者、1996年~1999年横浜一軍投手コーチ、2000年~2006年フジテレビおよびニッポン放送解説者、2007年より横浜一軍投手チーフコーチに復帰する。
[編集] エピソード
- 口ヒゲをたくわえたいかつい風貌がトレードマークで、大洋ファンのみならず他球団のファンからも「ヒゲの斉藤」と呼ばれ記憶された。なお入団当初は眼鏡も装着していたが後にコンタクトレンズに切り替え、引退後は眼鏡着用に戻っている。
- プロ野球史上で唯一、100勝100セーブをマークしながら優勝経験のない投手である(ただし、Aクラス経験はある)。そのためか、1998年にコーチとして優勝の瞬間を迎えたときは、現役選手と同じくらい喜んでいた。
- 1992年に巨人に在籍していたロイド・モスビーに顔が似ていることを指摘され、かなり気にしていた。
- 現役時代から「怒らせたら恐い」ことで有名であった。それは現役を離れてからも同じである。コーチ時代、横浜の投手・五十嵐英樹が巨人の吉原孝介に危険球を与えた試合では、大乱闘に発展。その後乱闘自体は何とか静まったものの、本体とは関係無いところで巨人の井上真二に対して斉藤が激怒。今にも殴ろうとしていたため、横浜の波留敏夫、秋元宏作、井上純が3人がかりで必死で止めた。金網に押し付けるようにして止めていたが、波留が一瞬目を離した隙に再び襲い掛かろうとしたため、またもや数人で止められている。この場面は珍プレー好プレーで傑作とされ、何度も流されている。ちなみに、何故斉藤が井上真二に激怒したかは不明である。
- マウンドでは恐い斉藤であったが、ベンチに戻れば穏やかであったとされる。記者の質問に関しても、斉藤の返答が記者に分かりづらかったり、理解できないようであれば、何度でも答えてくれると言うことで、番記者には好評であった。
- 川崎時代に大洋に入団した選手の中で、横浜のユニフォームを着るまで現役を続けたのは斉藤ただ一人である。
- 600試合登板を果たした1993年10月20日、すでに引退を表明していた斉藤は試合前からユニフォーム姿で横浜公園内に現れ、若手の加藤将斗とキャッチボールをしたり、通りすがるファンからのサインや握手に応じた。
- 2001年からプロ野球マスターズリーグ・東京ドリームスに参加。2002年~2003年シーズンには同リーグのMVPに輝いている。また、マスターズリーグでは極稀にみせる背面投げ(中日の小川健太郎投手が王貞治選手を抑えるためにうみだした投法)という珍投法でファンを沸かせている。現役時代もオープン戦で一度、披露したことがある。後にトリビアの泉でも横浜スタジアムで披露し、レフト前ヒットを打たれたが、「打たれたことよりも、ストライクが入って嬉しい」とコメントした。
- 仏教系の高校出身のためか、学生時代からの仏教徒で、マウンドに上がる際に数珠を捲いて登板したこともある。
- 1982年のオールスターゲーム戦で斉藤は7回から登板し延長11回まで5イニングを投げた。これはオールスターゲームにおける連続投球回数の日本記録であるが、現在のオールスターのルールでは延長戦なし1投手3イニングまでの投球のため、現行のルールである限りこの記録が破られる事はない。
[編集] 背番号
- 17(1977年~1993年)
- 77(1996年~1999年、2007年~)
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 登板 | 完投 | 完封 | 無四 球 |
勝利 | 敗戦 | セーブ | 投球回 | 被安打 | 被本 塁打 |
与四 死球 |
奪三振 | 自責点 | 防御率(順位) |
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1977年 | 大洋 | 38 | 3 | 1 | 0 | 8 | 9 | 0 | 141.1 | 156 | 17 | 64 | 87 | 69 | 4.40(18) |
1978年 | 47 | 12 | 2 | 3 | 16 | 15 | 4 | 241.0 | 234 | 24 | 73 | 162 | 84 | 3.14(3) | |
1979年 | 37 | 10 | 2 | 1 | 11 | 6 | 0 | 196.1 | 198 | 25 | 59 | 138 | 88 | 4.04(15) | |
1980年 | 35 | 17 | 1 | 2 | 14 | 17 | 1 | 247.1 | 245 | 24 | 75 | 165 | 104 | 3.79(13) | |
1981年 | 47 | 3 | 0 | 0 | 5 | 15 | 10 | 169.1 | 195 | 18 | 65 | 100 | 81 | 4.31(18) | |
1982年 | 56 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 30 | 134.2 | 109 | 12 | 36 | 80 | 31 | 2.07(1) | |
1983年 | 54 | 0 | 0 | 0 | 10 | 8 | 22 | 116.0 | 113 | 14 | 47 | 67 | 46 | 3.57 | |
1984年 | 43 | 1 | 1 | 0 | 11 | 6 | 10 | 94.0 | 115 | 10 | 33 | 53 | 51 | 4.88 | |
1985年 | 55 | 0 | 0 | 0 | 9 | 5 | 18 | 109.2 | 93 | 9 | 22 | 72 | 26 | 2.13 | |
1986年 | 44 | 0 | 0 | 0 | 5 | 6 | 23 | 78.0 | 62 | 10 | 13 | 49 | 16 | 1.85 | |
1987年 | 39 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 15 | 70.2 | 57 | 6 | 16 | 36 | 17 | 2.17 | |
1988年 | 24 | 2 | 0 | 1 | 5 | 4 | 0 | 105.2 | 114 | 4 | 29 | 38 | 41 | 3.49 | |
1989年 | 18 | 5 | 2 | 1 | 8 | 6 | 0 | 117.1 | 127 | 12 | 36 | 49 | 42 | 3.22 | |
1990年 | 24 | 6 | 1 | 2 | 10 | 7 | 0 | 150.1 | 144 | 15 | 41 | 98 | 68 | 4.07(19) | |
1991年 | 17 | 1 | 1 | 0 | 4 | 6 | 0 | 99.2 | 103 | 10 | 28 | 57 | 40 | 3.61 | |
1992年 | 17 | 4 | 0 | 2 | 3 | 8 | 0 | 91.1 | 92 | 12 | 15 | 66 | 37 | 3.65 | |
1993年 | 横浜 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10.2 | 20 | 3 | 3 | 4 | 9 | 7.59 |
通算成績 | 601 | 64 | 11 | 12 | 128 | 125 | 133 | 2173.1 | 2177 | 225 | 655 | 1321 | 850 | 3.52 |
- 表中の太字はリーグ最高
[編集] タイトル・表彰・記録
- 最優秀新人(1977年)
- 最優秀防御率:1回(1982年)
- 最優秀救援投手:2回(1983年、1986年)
- 最多奪三振:1回(1978年)
- オールスターゲーム出場:2回(1978年、1981年~1983年、1985年、1987年)
- オールスターゲーム最多連続投球回数:5回(1982年)
[編集] 関連項目
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監督 |
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85大矢明彦 |
コーチ |
72弘田澄男(ヘッド兼打撃)|71波留敏夫(打撃)|77斉藤明夫(投手チーフ)|75野村弘樹(投手)| 79水谷新太郎(内野守備)|73青山道雄(外野守備)|82高橋雅裕(走塁)|86中村武志(バッテリー)| 98片平保彦(バッテリー補佐)|87塚原賢治(ストレングス&コンディショニング)|70ジョン・ターニー(S&C) |
湘南シーレックス |
76田代富雄(監督)|78高木由一(チーフ)|80中根仁(打撃)|74吉田篤史(投手)| 83武藤潤一郎(投手)|81万永貴司(内野守備走塁)|90井上純(外野守備走塁)|84秋元宏作(バッテリー)| 93三浦正行(バッテリー)|89谷川哲也(S&Cチーフ)|95平野元章(S&C)|96杉村繁(育成総合) |
投手 |
10ウッド|11山口俊|12吉川輝昭|13那須野巧|14小林太志|15高宮和也|16川村丈夫|17加藤武治| 18三浦大輔|19染田賢作|20木塚敦志|21吉見祐治|22高崎健太郎|24寺原隼人|27山北茂利| 28秦裕二|30土肥義弘|32松家卓弘|34三橋直樹|35牛田成樹|36入来祐作|37岡本直也| 38桑原謙太朗|41小山田保裕|42ヒューズ|43北篤|44石井裕也|45吉原道臣|46田中健二朗|47工藤公康| 48ウィリアムス|54橋本太郎|57真田裕貴|58阿斗里|60佐藤祥万|64マットホワイト|99横山道哉 |
捕手 |
8相川亮二|29新沼慎二|49斉藤俊雄|59黒羽根利規|61武山真吾|62高森勇気 |
内野手 |
3ジェイジェイ|4北川利之|5石井琢朗|7仁志敏久|23藤田一也|25村田修一| 26佐伯貴弘|52石川雄洋|53野中信吾|55呉本成徳|56斉藤秀光|63梶谷隆幸 |
外野手 |
00河野友軌|0小関竜也|1金城龍彦|2内川聖一|6ビグビー|9下窪陽介|31吉村裕基| 33大西宏明|39内藤雄太|40桑原義行|50下園辰哉|51鈴木尚典|65西崎伸洋|67坂本大空也 |
育成選手 |
111関口雄大(外野手)|112杉本昌都(捕手) |
大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ) 1976年ドラフト指名選手 |
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1位:斉藤明雄 / 2位:丸谷富美幸 / 3位:山村陽一 / 4位:坂本照彦 / 5位:安田尚弘 / 6位:西連寺隆 |