西本聖
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西本 聖 |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県松山市 |
生年月日 | 1956年6月27日(51歳) |
身長 体重 |
176cm 81kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト外 |
初出場 | 1976年4月15日 |
経歴 | |
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西本 聖(にしもと たかし、1956年6月27日 - )は、元プロ野球選手で野球解説者。右投げ右打ち。ポジションは投手。愛媛県松山市興居島生まれ。
江川卓とともにエースとして読売ジャイアンツの一時代を築き、巨人退団後は中日ドラゴンズ、オリックス・ブルーウェーブでもプレーした。選手生活晩年に巨人へ復帰して引退。その後は阪神タイガースの一軍投手コーチを務めた。
目次 |
[編集] 来歴・人物
[編集] 巨人時代
1975年、松山商からドラフト外で、長嶋監督率いる巨人に入団。同球団は当初は内野手として考えていたという報道も見られる。
打撃投手としての登板でも全力投球したり、電車に乗る時につま先立ちをして筋力を鍛えたりするなど、野球に対する真摯な姿勢と並外れた練習量が実を結び、2年目の1976年にはイースタン・リーグで最多勝を獲得。3年目の1977年には8勝を挙げて一軍に定着し、その後は江川卓とともにエースとして巨人の一時代を支えた。
1980年から1985年まで6シーズン連続2桁勝利を記録した。特に1981年の活躍は秀逸で18勝を挙げリーグ優勝に貢献し沢村賞を受賞。この年は江川が投手五冠を成し遂げたが、西本の沢村賞の理由として、開幕ダッシュに貢献した西本と独走態勢に入ってから成績を残した江川との差が評価されたものであるとか、ピッチングフォームが沢村に似ているから、などと説明された。この選考に疑問が投げかけられ、翌年よりマスコミによる投票からプロ野球OBによる投票へと変更された。
この年はキャンプ中に留守宅の夫人が自宅のガス爆発により重傷を負っていたため、キャンプの仕上がりは不十分であり、シーズン開幕投手の予想の大勢は江川であったという。しかし、当時の藤田元司監督は西本が逆境に強い性格であることを見抜き、開幕投手に指名した。開幕戦を勝利した西本はウイニングボールを持って病院に向かい病床の夫人を見舞った。
日本シリーズでは1完封を含む2完投勝利を挙げMVPを受賞した。
1983年の日本シリーズでは第2戦、第5戦の完投勝利で敢闘賞を獲得した。日本シリーズでの成績はすばらしく、連続イニング無失点記録があるほか、シュートを武器に内野ゴロの山を築いていった西本らしく、内野ゴロ補殺数など多数がある。
同期入団でドラフト1位だった定岡正二をライバルとしていたが、後に江川がライバルとなった。藤田監督は、両者を競わせることで、好成績につなげた。江川とは8年間開幕投手を争った。その後は皆川睦雄投手コーチとの確執もあり思うような成績を残すことが出来なかった。球団は2人を和解させようとしてオフに和解ゴルフをさせたがマスコミには「茶番劇」と書かれ、2人のギクシャクした関係はとても和解したとはいい難かった。
[編集] 中日・オリックス時代
1987年にライバル江川が引退し、翌年4勝に終わると、1989年に中尾孝義とのトレードで加茂川重治と共に中日に移籍する。移籍1年目に20勝で最多勝のタイトルを斎藤雅樹と共に獲得。1991年に椎間板ヘルニアの手術を受け、1992年は1勝にとどまった。1993年に巨人時代の先輩でもあり西本の理解者だった土井正三が監督をしていたオリックス・ブルーウェーブに移籍し、先発で5勝を挙げる。
[編集] 引退試合
1994年に巨人に復帰したものの、当時投手コーチの堀内恒夫が復帰に猛反発した事が影響し、一軍登板は無く、同年引退した。当初はシーズン中の引退試合も検討されたが、チームが最終戦まで中日と優勝争いを繰り広げたために見送られ、入団以来のライバルで親友でもある定岡正二の企画の元、多摩川グラウンドで引退試合を行った。
定岡は自分の仲間を集めてサダーズを結成し西本と対戦、西本チームには彼を師匠と慕う、桑田真澄、山本昌広、中村武志、立浪和義、平井正史といった彼が所属した球団にいた選手たちが集まった。試合には当時の監督長嶋茂雄も駆けつけ、代打として登場、引退試合最後のバッターボックスに立ったが、1975年の入団時と1994年の復帰時のいずれも監督を務めていた長嶋を打ち取り、20年に渡るプロ生活を終えた。
[編集] 引退後
現在は文化放送・日刊スポーツの野球解説者として活躍している。2003年の1年間阪神の投手コーチも務め、チームがリーグ優勝した後、星野仙一監督勇退の後を追うように自分もチームを去った。
[編集] エピソード
- 1試合でたまに見せる、足を大きく上げるダイナミックな投球フォームと、切れの鋭いシュートが特徴の投手であった。守備も優れており、投手でゴールデングラブ賞8回は後輩の桑田真澄と並ぶ最多記録である。本人曰く、フォームは『巨人の星』の星飛雄馬を真似て目立とうと思ったからとのこと。
- 兄明和も元プロ野球選手であった(広島東洋カープ・1966年ドラフト1位)。西本の野球に対するストイックな姿勢は、ドラフト1位でプロ入りしながら挫折した兄からのプロ意識に対する教えが影響しているといわれる。広島時代の同期である三村敏之は明和について「長年たくさんの野球選手を見て来たが、これほど熱心に練習に取り組んだ選手はいなかった」と評している。
- 江川とは犬猿の仲と言われたこともあったが、実際にはこの2人は仲が良く、オフには「伊東会」のメンバーとして共にゴルフに行ったり、引退後は2人並んでテレビ出演したりしている。
- 1987年4月10日に後楽園球場で行われた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手として先発し、この年にロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から移籍してきた中日の4番落合博満との対戦で、西本は落合に対し全打席全球すべてシュートを投げた。その結果、1本だけはセンター前にヒットを打たれたものの4打数1安打と封じ込め、自身も完封勝利を収めた。パ・リーグで三冠王だといってもここはセ・リーグなんだ、パ・リーグとは違うんだ、というセ・リーグの投手としてのプライドがあったからだといわれている。また『全球シュート』は研究に研究を重ねてたどり着いたのではなく、当日のマウンドで落合と向かい合ったときにひらめいたらしい。結局この全球シュート勝負・内角攻めの影響なのか、落合はこの年無冠に終わっている。これは他チームが開幕戦での西本の攻め方を参考にしたからだと思われる(これには西本は「もし江川卓投手が開幕投手だったら江川さんは僕みたいに偏ったピッチングはしないので他チームの投手は江川さんの攻め方を参考にしたはず。僕の攻め方があったからこそ落合さんは無冠に終わったんでしょうね。」と語っている)。また、このときに中日の監督だった星野仙一は『あいつはいい度胸しとる。オレが監督をやっている間に必ずあいつをウチ(中日)に入れさせる』と言わしめた(実際2年後にそれが実現する)。
- 2005年コーチを退団後、2005年の阪神のことをインタビューされて、「藤川を中継ぎで使っているから阪神はダメ。彼はポカをするからリリーフ向きではない」とTVで非難したが、その後の藤川はリリーフとして(2008年現在まで)活躍している。
[編集] 球歴・入団経緯
- 球歴・入団経緯:松山商高 - 巨人(1975年 - 1988年) - 中日(1989年 - 1992年) - オリックス(1993年) - 巨人(1994年) - 文化放送野球解説 - 阪神コーチ(2003年) - 文化放送野球解説
[編集] 背番号
- 58 1975年~1976年
- 26 1977年~1988年
- 25 1989年
- 24 1990年~1992年
- 52 1993年
- 90 1994年
- 71 2003年
[編集] 年度別投手成績
年度 | チーム | 背 番 号 |
登 板 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セーブ | 勝 率 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1975年 | 巨 人 | 58 | 一軍登板なし | |||||||||||||||||
1976年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | 1.0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 27.00 | ||
1977年 | 26 | 47 | 2 | 1 | 0 | 8 | 5 | 4 | .615 | 118.0 | 115 | 10 | 31 | 5 | 54 | 1 | 44 | 35 | 2.67 | |
1978年 | 56 | 2 | 0 | 0 | 4 | 3 | 2 | .571 | 129.1 | 136 | 9 | 42 | 2 | 64 | 8 | 58 | 54 | 3.77 | ||
1979年 | 44 | 5 | 1 | 2 | 8 | 4 | 6 | .667 | 153.0 | 143 | 13 | 38 | 6 | 85 | 4 | 54 | 47 | 2.76 | ||
1980年 | 36 | 15 | 2 | 2 | 14 | 14 | 2 | .500 | 222.0 | 223 | 20 | 40 | 2 | 118 | 0 | 74 | 64 | 2.59 | ||
1981年 | 34 | 14 | 3 | 3 | 18 | 12 | 0 | .600 | 257.2 | 232 | 23 | 55 | 3 | 126 | 0 | 84 | 74 | 2.58 | ||
1982年 | 37 | 14 | 0 | 0 | 15 | 10 | 1 | .600 | 262.0 | 252 | 22 | 64 | 6 | 124 | 0 | 93 | 75 | 2.58 | ||
1983年 | 32 | 13 | 2 | 5 | 15 | 10 | 0 | .600 | 239.1 | 265 | 29 | 45 | 4 | 122 | 0 | 116 | 102 | 3.84 | ||
1984年 | 31 | 17 | 2 | 3 | 15 | 11 | 0 | .577 | 224.2 | 218 | 24 | 55 | 2 | 91 | 0 | 91 | 78 | 3.12 | ||
1985年 | 33 | 8 | 2 | 1 | 10 | 8 | 2 | .556 | 169.2 | 184 | 26 | 44 | 1 | 66 | 0 | 91 | 76 | 4.03 | ||
1986年 | 22 | 3 | 1 | 2 | 7 | 8 | 0 | .467 | 104.0 | 114 | 9 | 24 | 2 | 33 | 1 | 50 | 45 | 3.89 | ||
1987年 | 26 | 3 | 2 | 0 | 8 | 8 | 0 | .500 | 130.0 | 131 | 19 | 22 | 7 | 67 | 1 | 64 | 53 | 3.67 | ||
1988年 | 15 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | .571 | 64.2 | 60 | 3 | 12 | 2 | 35 | 0 | 30 | 28 | 3.90 | ||
1989年 | 中 日 | 25 | 30 | 15 | 5 | 2 | 20 | 6 | 0 | .769 | 246.2 | 231 | 22 | 39 | 12 | 96 | 1 | 73 | 67 | 2.44 |
1990年 | 24 | 25 | 6 | 2 | 2 | 11 | 9 | 0 | .550 | 174.1 | 193 | 12 | 22 | 6 | 71 | 2 | 80 | 63 | 3.25 | |
1991年 | 6 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | .667 | 39.2 | 37 | 2 | 8 | 0 | 23 | 1 | 16 | 14 | 3.18 | ||
1992年 | 16 | 2 | 0 | 0 | 1 | 11 | 0 | .083 | 75.2 | 104 | 15 | 13 | 2 | 25 | 0 | 45 | 41 | 4.88 | ||
1993年 | オリックス | 52 | 13 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | .500 | 65.1 | 83 | 2 | 14 | 2 | 39 | 0 | 39 | 32 | 4.41 |
1994年 | 巨 人 | 90 | 一軍登板なし | |||||||||||||||||
通算成績 | 504 | 122 | 23 | 22 | 165 | 128 | 17 | .563 | 2677.0 | 2724 | 261 | 569 | 64 | 1239 | 19 | 1105 | 951 | 3.12 |
[編集] タイトル・表彰
- 沢村賞1回(1981年)
- 最多勝1回(1989年)
- 勝率1位1回(1989年)
- ゴールデングラブ賞8回(1979年~1985年、1989年)
- 最優秀JCB・MEP賞1回(1989年)
- オールスター選出8回(1980年~1984年、1986年、1989年、1990年)
[編集] 歌
- 愛あるかぎり
[編集] 西本のシュート
西本のシュートは球速より、変化量と切れ味を重視したシュートで、カミソリシュートと呼ばれた平松とは対照的である。
好調時のシュートは、アウトコースからインコースぎりぎりに曲がるので、打者の大きな脅威となった。
他チームの指導者は右打者に対し、「西本が真ん中から中寄りに投げてきたら絶対に振るな」と指導していた。
初期の頃は、シュートと直球と稀にカーブを投げる投球スタイルだったが、球威の衰えた後年は、シュートとシンカーを駆使して徹底的にゴロを打たせるというスタイルに変更している。
1983年の日本シリーズ第5戦で稀代のホームランバッターの田淵幸一は野球人生で初めてバットを短く持ってホームランを打った。試合後に田淵は、あのシュートを攻略するためにプライドを捨てたと発言している。後に西本は野球評論家となった梨田昌孝のインタビューに、「忘れられない1球」としてこの田淵のホームランを挙げている。
上記の日本シリーズで、西武は第1戦で江川の攻略に成功し、「このシリーズはもらった」と思った選手が多かったらしい。しかし、第2戦で西本のシュートに封じ込められた西武打線は、即座に西本マークに切り換え、宿舎でミーティングを重ねた。それが功を奏し、降雨で1日順延となった第7戦、中1日で先発(シーズン中、当時の巨人は中5日のローテーションが確立されており、また本シリーズでは第6戦のリリーフ登板があった)・好投を続けていた7回裏、疲労からかシュートの切れが若干鈍った西本をとうとう攻略し、満塁からテリーの走者一掃の二塁打で逆転に成功し、そのまま日本一に輝いた。しかし当時の西武主力打者陣はのちに、「西本が中2日(の休養)で第7戦に先発してきていたら、危うかった」と振りかえっている。このシリーズでの西本のシュートの切れが、後に語り継がれる日本シリーズの名勝負を産んだ、とも言える。
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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