三村敏之
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三村 敏之 Toshiyuki Mimura |
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基本情報 | |
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出身地 | 広島県安芸郡海田町 |
生年月日 | 1948年9月19日(59歳) |
身長 体重 |
173cm 71kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1966年 第一次ドラフト2位 |
初出場 | 1967年5月7日 |
経歴 | |
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三村 敏之(みむら としゆき、1948年9月19日 - )は、広島県出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球監督、野球解説者。現東北楽天ゴールデンイーグルスチーム統括本部編成部部長。
目次 |
[編集] 来歴・人物
1966年、広島商業高校三年時、遊撃手として夏の甲子園に出場(この時のチームメイトには山本和行がいる)。同年、ドラフト2位で広島カープに入団した。プロ入り後しばらくは芽が出ず、一度は戦力外リストに入るも、関根潤三・広岡達朗両コーチによる熱血指導により奮起し、1970年から今津光男に代わってショートのレギュラーポジションに定着。1972年にはリーグ2位の打率も記録した。
山本浩二や衣笠祥雄のような派手さはなかったが、その地味ながらもセンス溢れるプレーは巨人の川上哲治監督も舌を巻くほどだった。バントやヒットエンドランを確実に決める堅実なプレーで1975年のチーム初優勝にも大きく貢献し、翌1976年には27本塁打を放ってクリーンナップの一翼を担った。1977年からの2年間は不振にあえいだが、1979年に復活しカムバック賞を獲得、同年・1980年の日本シリーズ2連覇の原動力となった。走攻守と三拍子揃ったまさに名手で、ベストナインにも3度選ばれている。また、左足を大きく踏み込んで打つ打法をしていたため死球が多く、二度ほど死球王にもなっている。
1983年に現役引退。1984年から二軍守備走塁コーチに就任し、1986年一軍昇格。1991年から二軍監督。1994年、一軍監督に昇格。監督としては、すでに若き主軸となっていた伸び盛りの前田智徳、江藤智、野村謙二郎に加え、二軍監督時代から手塩にかけていた緒方孝市、金本知憲、浅井樹ら、長きに渡り広島を支えることになる名選手を一本立ちさせた。「トータルベースボール」(総合野球)を掲げ、伸び盛りの若手にルイス・ロペスを加えた強力打線を前面に押し出し、優勝争いに加わった。この打線を自ら「ビッグレッドマシン」と命名するなど、報道陣へのリップサービスも豊富で人気を集めていた。
1996年には夏場まで首位を独走しながらも秋口に失速、巨人のメークドラマを許した。ロビンソン・チェコの増長や、前田のアキレス腱断裂(1995年)といった不運に見舞われ、主力選手と控え選手の実力の格差が、浮き彫りになったシーズンであった。リリーフ陣を筆頭に投手陣の人材不足解決の目処が立たず、若手投手の酷使に繋がった。1998年、1993年以来5年ぶりのBクラス転落を機に、選手・コーチ・監督として32年間に渡って務めた現場から勇退した。1999年~2003年は中国放送・スポーツニッポンの野球解説者。その後2004年ヘッドコーチとして6年ぶりに古巣に復帰したが、2005年チームの成績不振から山本監督と共に辞任した。
現役時代から読書家として知られており、著書も出版している。2006年から再び中国放送の野球解説者。そのかたわら福山大学の客員教授に就任、「実践コーチ論とプレーヤー」と題した講座で一年間教鞭を取っている。スポーツニッポン紙上でも、福山大学客員教授の肩書で野球評論をすることがある。
2007年12月1日、東北楽天ゴールデンイーグルスチーム統括本部編成部部長に就任。
[編集] 指導者歴
- 広島2軍守備走塁コーチ(1984年 - 1985年)
- 広島守備走塁コーチ(1986年 - 1990年)
- 広島2軍監督(1991年 - 1993年)
- 広島監督(1994年 - 1998年)
- 広島ヘッドコーチ(2004年 - 2005年)
[編集] 背番号
[編集] タイトル・記録
- ベストナイン:3回(1972年、1975年、1976年)
- オールスターゲーム出場:4回(1970年、1972年、1974年、1979年)
- 日本シリーズ出場2回(1979年、1980年)
- カムバック賞1回(1979年)
[編集] 年度別打撃成績
- 表中の太字はリーグ最多数字
年度 | チーム | 背 番 号 |
試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁 打 |
三塁 打 |
本塁 打 |
塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四死 球 |
三振 | 打率(順位) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1967年 | 広島 | 48 | 42 | 99 | 7 | 18 | 3 | 0 | 2 | 27 | 7 | 0 | 1 | 0 | 6 | 24 | .182 |
1968年 | 63 | 119 | 7 | 25 | 1 | 1 | 3 | 37 | 8 | 1 | 1 | 0 | 8 | 27 | .210 | ||
1969年 | 63 | 140 | 18 | 28 | 3 | 1 | 4 | 45 | 10 | 4 | 1 | 0 | 19 | 44 | .200 | ||
1970年 | 30 | 111 | 368 | 45 | 96 | 9 | 1 | 9 | 134 | 27 | 16 | 3 | 1 | 33 | 70 | .261(14) | |
1971年 | 9 | 126 | 463 | 51 | 100 | 14 | 1 | 15 | 161 | 45 | 6 | 17 | 5 | 50 | 73 | .216(26) | |
1972年 | 127 | 468 | 62 | 144 | 22 | 3 | 12 | 208 | 39 | 7 | 18 | 2 | 80 | 69 | .308(2) | ||
1973年 | 121 | 449 | 56 | 121 | 14 | 2 | 12 | 175 | 32 | 7 | 7 | 0 | 65 | 59 | .269(11) | ||
1974年 | 96 | 331 | 36 | 86 | 14 | 0 | 14 | 142 | 40 | 0 | 8 | 2 | 26 | 37 | .260 | ||
1975年 | 122 | 442 | 67 | 124 | 21 | 3 | 10 | 181 | 42 | 3 | 10 | 2 | 48 | 47 | .281(12) | ||
1976年 | 130 | 487 | 76 | 131 | 19 | 3 | 27 | 237 | 69 | 1 | 13 | 3 | 36 | 67 | .269(26) | ||
1977年 | 104 | 347 | 27 | 83 | 14 | 1 | 8 | 123 | 40 | 2 | 5 | 2 | 22 | 54 | .239 | ||
1978年 | 95 | 261 | 48 | 65 | 11 | 0 | 11 | 109 | 23 | 0 | 6 | 2 | 33 | 35 | .249 | ||
1979年 | 116 | 389 | 46 | 112 | 17 | 0 | 12 | 165 | 60 | 1 | 14 | 3 | 43 | 46 | .288(16) | ||
1980年 | 89 | 199 | 18 | 42 | 5 | 0 | 3 | 56 | 13 | 0 | 9 | 0 | 27 | 33 | .211 | ||
1981年 | 96 | 247 | 19 | 56 | 11 | 0 | 7 | 88 | 26 | 1 | 7 | 2 | 19 | 37 | .227 | ||
1982年 | 57 | 74 | 3 | 14 | 5 | 0 | 0 | 19 | 9 | 0 | 2 | 2 | 13 | 14 | .189 | ||
1983年 | 9 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | .000 | ||
通算成績 | 1567 | 4890 | 586 | 1245 | 183 | 16 | 149 | 1907 | 490 | 49 | 123 | 26 | 528 | 738 | .255 |
[編集] 監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 |
1994年 | 広 島 | 3位 | 130 | 66 | 64 | 0 | .508 |
1995年 | 広 島 | 2位 | 131 | 74 | 56 | 1 | .569 |
1996年 | 広 島 | 3位 | 130 | 71 | 59 | 0 | .546 |
1997年 | 広 島 | 3位 | 135 | 66 | 69 | 0 | .489 |
1998年 | 広 島 | 5位 | 135 | 60 | 75 | 0 | .444 |
通 算 | 661 | 337 | 323 | 1 | .511 |
- ※1 1994年から1996年までは130試合制
- ※2 1997年から2000年までは135試合制
[編集] エピソード
- 広島に生まれ、高校野球の強豪・広島商業で活躍、プロでは広島東洋カープ以外の球団に所属したことがないという、まさに広島一筋の野球人生を送っている人物であるが、実は少年時代は阪神タイガースのファンで、郷土出身の大スター・藤村富美男に憧れて野球を始めたという。
- 1975年のシーズン、その年移籍してきた大下剛史と打順1、2番を形成した(1番大下、2番三村)。三村と大下は広島商業の同窓であるだけでなく、同じ広島県安芸郡海田町の出身でもある。チームメイトが同郷もしくは同出身校というのは珍しく無いが、同郷で出身校も同じ、更に生まれた町まで同じというのは、かなり珍しいケースと思われる。
- アクの強い広島出身者及び広島選手の中では珍しく紳士的でスマートな雰囲気で女性ファンの人気が高かったが、そんな三村が現役時代1度だけその怒りを露にしたことがある。1975年9月10日の中日戦、本塁上でのタッチプレーの際の相手捕手新宅洋志のブロックに激怒、これを境に両軍だけでなくファンもグラウンドに入り乱れての大乱闘となり、翌日の試合は中止という異常事態へと発展した。この事件は、初優勝に邁進するチームを一つにまとめるきっかけになった出来事として、現在でもしばしばファンの間で語られている。
- 1996年に放送されていた東海テレビ制作の昼ドラマ『真夏の薔薇』にはまっていた事があり、優勝争いの中、記者に「いよいよ盛り上がってきたね、真夏の薔薇!」と語っていたことがある。
- 1997年の巨人戦に負けた試合後に記者から敗因を聞かれた際「敗因は8回の広沢のショートゴロをセーフにしたジャイアンツのユニフォームを着たあの審判。あの審判をお立ち台に上げてやれ」と発言。後日、コミッショナーから20万円の罰金を命じられた。
- 監督時代に、「ミスター」長嶋茂雄(巨人監督)、「ムッシュ」吉田義男(阪神監督)に対抗するためかマスコミに「セニョールと呼んでよ」と頼んだが、全くと言っていいほど話題にならなかった。(ドミニカにカープアカデミーがある点からスペイン語を選択していた。)
- 大変な読書家で、特に漢籍に関する造詣が深い。監督時代蜂に刺された時、記者団に対し「宋襄の仁(余計な情けをかけた為に後から手痛い目に遭う意)をかけたため刺された」と語った事もある。
[編集] 著書
- 『超二流のススメ』(2001年、株式会社アスリート)
[編集] 現在の出演番組
[編集] 関連項目
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- ※カッコ内は監督在任期間。
広島カープ 1966年ドラフト指名選手 |
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第1次(9月) − 1位:須山成二 / 2位:三村敏之 / 3位:小野一茂 / 4位:古角哲士 |
第2次(11月) − 1位:西本明和 / 2位:矢沢正 / 3位:東山親雄 / 4位:佐藤直信 |