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野崎 泰一(のざき ひろかず、1923年7月2日 - )は、プロ野球選手(投手)・監督・コーチ。最終学歴は専修大学卒業。
[編集] 来歴・人物
広島県呉市出身。呉港中学(現呉武田学園呉港高等学校)時代の1939年、藤村隆男・柚木進の控え投手として春選抜大会出場(試合出場はなし)。専修大学を経て戦後プロ野球が再開された1946年、阪神タイガースに入団。戦後すぐの選手不足で投手専任は野崎、ただ一人だった。ドロップを武器に主力投手として1948年と1950年に二桁勝利(48年・12勝、50年10勝)を挙げた。しかし肩を痛め1951年東急フライヤーズ、1952年地元球団の広島カープに移籍、活躍は出来なかった。1953年に現役引退。引退後は広島投手コーチ、代理監督、二軍監督、球団常務、球団代表など1991年まで、途中空白期を挟みながら広島発展に尽力した。球団創成期から在籍する選手出身者としては、備前喜夫らと共に、最も長く広島に関わった人物の一人である。
[編集] エピソード
- 広島黄金期の形成に多大な役割を果たした木庭教が、スカウトとして球団に採用される切っ掛けとなったのは、木庭自らが「これからは選手を育てていかなければいけない時代。こういう有望な選手を獲ってはいかがか」という選手のリストを綴った手紙を自ら広島カープ球団に送ったのが発端。この手紙を読んだ野崎が「世間にゃこんなに詳しい人がおるんですな。一度呼んでみちゃどうでしょう」とスカウトだった西野襄に見せてから。プロ野球選手としての経験がない素人だった木庭は、この手紙を切っ掛けに採用された。(参考 「裏方 物言わぬ主役たち プロ野球職人伝説」木村公一・著)
- 広島が初優勝した1975年、開幕から僅か15試合で辞任したジョー・ルーツ監督の後、昇格した古葉竹識の前に、2日間だけ代理監督となったのが野崎である。
[編集] 通算成績
[編集] 背番号
[編集] 関連項目
- ※1 カッコ内は監督在任期間。
- ※2 1975年は5月1日から5月3日まで指揮。